高級時計
千円の腕時計も、一千万円の腕時計も、一分一秒の重みなんて変わらない。それなのに、人はなぜ高い腕時計なんか欲しがるんだろう。
人並み以上の年収を稼ぐシンガーソングライターの絅は、タクシーのシートにもたれながら高級ブランド店が並ぶ通りを眺めていた。お金に反比例し、時間は無くなる。一年ぶりの休日は、買い物にしようと都心まで来た。
「ここでいいです」
目深に帽子を被った絅は、綺麗な声でそう告げる。運転手は車を端に寄せ止めた。
料金をカードで支払い、後部座席から足を出す。バレなくてよかった。
タクシーを見送り、絅は人の多い道を避け、裏道を歩く。排気ガスは多いが、気持ちのいい平日の午後。時間の事を考えたら、買い物なんて馬鹿らしくなってしまった。ただ歩くだけでいい。お金を使うより贅沢だ。
小さな工場や、小料理店が並びつつも、人通りはない。帽子を取り、肩までの髪を揺らす。
すると、目の端に時計店が見えた。そのまま通りすぎようとしたが、ちらりと見えたものに驚いて目を凝らし、黄ばんだショーウインドを覗く。汚らしい店には似つかわしくない値札がついていた。
商品はすべて同じ時計だった。黒いベルトに大きめの文字版という、ありきたりなもの。それなのに、一つ一つ値段が違う。左から、百万円、五百万円……そして一億円まで、十ほどの時計が並んでいる。
「変なの」
じっと見ていると、その時計に吸い込まれそうになる。離れられない魅力があった。誘われるように店内に入る。
汚れた無人の店内。まさか一億円の時計があるとは思えない。
「いらっしゃい」
驚いて悲鳴をあげそうになる。最初からそこにいたかのように、にっこりと微笑む男性がカウンターの向こうに座っていた。年頃は絅と同じ二十歳前後か。黒いスーツを着ているが、中性的な顔だし、声も高めだから、もしかしたら男装の麗人かもしれない。
「当店の時計は、値段に比例して時間の重みが変わります。時間を有益に長期間使いたければ、より高いものを」
性別不明の店員が言う。
まさか、さっき考えていたことが現実に? 絅は震えた。
「どういうこと?」
「人にとっての一秒が、あなただけ一分、一時間にもなるのです。腕時計をつけている間だけ」
絶対嘘に決まっている。そんな非科学的な事。
「私は今年還暦になります」
そう言うと、腕時計をはずした。すると、みるみる皮膚はたるみ、シミが増え、髪は半分程白くなった。あまりの変わりように喉の奥が鳴る。店員は時計をハメ直す。姿は元に戻った。
「どうですか。信じて頂けました?」
微笑みながら言う。絅は唖然としたまま頷いた。夢じゃないなら事実だ。
「もっとも、これほど効力のあるものはもうありませんが。あなたも選ばれた人間だから、この店を見付けられたのです。時間、欲しいのでは?」
店員は目を細くして絅に尋ねる。
絅はしばし沈黙した。無音の店内に、通りからの喧騒が微かに届く。
「いりません」
静かに首を振り、よく通る声で告げた。店員は表情を崩さない。
「私、時間だけは誰にでも平等に訪れるものだと思っています。だからこそ大切なんです。せっかくのお誘いですが、それを覆すのは嫌です」
店員の顔はずっと、美しい微笑みのまま。しかし大切な何かを得られなかったように、瞳は虚ろだった。この姿で何を見てきたのだろう。表情とは反対の、少し悲しそうな声を出した。
「それがきっと、正しいのでしょうね」
了