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心は君に  「黒い聖母」

作者: 逢坂桜

 私立白鳳女子学院。

主に良家の子女を対象とし、学生は全寮制で初等部・中等部・高等部まで、大学・大学院と一貫したシステムを誇る学校である。

 初等部の面会室で、藤永真一はソファに浅く腰掛けたまま、苦悩の色を隠せなかった。

30になったばかりの彼は、年齢とは不釣合いな穏やかな微笑を常としていたが、いまは、そんな顔はできなかった。

あれから7年近い歳月を経て、なぜこんな形で再び顔を合わせなければならないのか。

よりにもよって、自分が。

 廊下側はガラス越しになっていて、年齢はまちまちだが、女性職員の往来が見える。

見るともなしに視線をやりながら、少しでも気分を変えようと努める。

そして、最初に応対に出た女性と一緒に、ちょこまかと小さな女の子が歩いてくるのが見えた。

 「お待たせしました。一条梓さんです」

 濃紺のセーラー服の肩を押されて、小柄な女の子はぺこっとお辞儀した。

真一は立ち上がり、女性に向かって会釈した。

 「今日はこの後は?」

 「通夜と、明日に葬式があるので、明後日こちらに送り届けます。申し訳ありませんが、急いでいるので、手続きは後にさせてもらいたいのですが」

 「それでしたら不要です。お身内のご不幸ですから、後ほど学院側に関係書類の提出時に、ご一緒にお願いしますので。今日の早退届は、私が代理で提出しておきます」

 「わかりました」

 「それでは、失礼いたします」

 真一はソファに腰をおろして、少女を見た。

それでも少女のほうが幾分低い。

 「座りなさい」

 少女は真向かいのソファに行儀よく座った。

おかっぱに切りそろえたつややかな黒髪に、ふと胸騒ぎを感じた。

 「君の父親が、昨日、亡くなった。通夜と葬式に出席しなきゃならん。明後日までここには帰ってこない。なにか寮から取ってくるものはあるか?あぁ、着替えや喪服はこっちで用意する」

 まっすぐ自分を見つめる少女に、やはりなにかひっかかるものを感じて、つい視線をそらした。

 「お父さんて、だれ?おじさんはだれ?」

 驚いて少女を見るが、冗談を言っている風ではない。

そうだ、彼女は生まれてから家の誰とも顔を合わせずこの学校に入れられて、今日まで、8歳になったいまも、なにも知らずに生きてきた。

 「・・・君の父親は藤永功二。私の弟だ。私は叔父、藤永真一だ」

 「お母さんは?」

 「後で会わせる」

 紋切り型で切り上げ、真一は立ち上がった。

 「時間がない。要るものは買えばいい。行くぞ」

 まだ聞き足りないようだったが、梓はおとなしく真一の後を追った。

真一は待たせていた車に乗り込み、生まれて初めて梓は、学校の行事以外で外に出た。


 運転手との間には仕切りがあるから、声がもれることはないが、真一は会話をするつもりはなかった。

だが梓は、時折ちらちらと真一を見上げる。

視界の隅にそれを認めるたび、針でつつかれてるような気分になる。

 意地になったように真正面を見すえたままだったが、真一はとうとう話しかけた。

 「用があるなら言いなさい」

 「どこに行くの?」

 「自宅だ」

 「だれの?」

 なんと言えばいいのか、一瞬、考えた。

藤永家は、少女から見たら父親の自宅になるが、もちろん少女の自宅でもある。

 「私と功二、君もだ」

 「でもあそこ、ずっとあたしだけだった」

 真一はまじまじと梓を見た。

 「来てないはず―あ、あぁ。住んでいたマンションのことか。あれは家じゃない。家は別にある」

 なぜだか、少女は笑った。

 「あたしにも家があったんだ。うれしいな」

 胸をつかれた。

この少女は、自分にも言えがあったことを喜んでいるのだ。

あんな家なのに。

 「お母さんもそこにいるの?」

 あんな母親なのに。

 「・・・疲れてるんだ。静かにしてくれ」

 「はい」

 今朝、功二が死んだこと、通夜と葬式の話しをした時、妻が言ったことはただひとつ。

梓を迎えに行って、それだけだった。

 「そうか・・・」

 少女を見るたびに感じたものの正体、あれは妻だった。

初めて会った頃は、ちょうどこんな少女だった。

ひときわ小さく華奢で、黒いおかっぱが日本人形のようで、かわいらしかった。

 いまとなっては、思い出すことすらない。


 藤永の家は三棟に別れており、玄関から正面が母屋、両隣をそれぞれ東の対、西の対、と呼び、それが石塀で囲われている。

 玄関前で車を降りて、真一はまず母屋の居間に向かった。

初めて来た場所のわりに、梓はきょろきょろすることもなく、おとなしく着いてくる。

 「いま帰った」

 妻はすでに喪服姿で、ソファから立ち上がった。

 「お通夜もお葬式も身内だけ、藤永と一条だけです。夕方から始めますから、それまではご自由に。佳菜子さんと準備がありますので、しばらく厨房におります」

 真一は梓の背を軽く押した。

 「君の母親だ」

 見上げる梓は、一条結実には存在すらないかのようだ。

 「喪服はお部屋に出してあります。夕方までにはお召しかえください。それでは後ほど」

 そのまま、結実は居間を出て行った。

後姿の結実とそれを見つめる梓の二人が、真一の位置から見えた。

 女はこうも変わるものか。

それとも、結実だけがあんな女なのか。

疲れたようにソファに座り込んだ。

 「君も座りなさい。なにか飲むかね?」

 「いいえ」

 向かいに座った梓に、落胆の様子は見えなかった。

真一はそばにある屋内専用電話を取った。

 「コーヒーとジュースを居間へ」

 ―畏まりました。

 「あの人がお母さん?」

 「あぁ。君を生んだのはあの人だ。その後、私と結婚した。一条という君の苗字は彼女の旧姓だ」

 「きゅうせい?」

 「結婚前の苗字だ。一条結実。彼女の名前だ」

 メイドは静かに居間に入ってきた。

 「コーヒーとジュースをお持ちしました」

 テーブルに、手早くポットからコーヒーを注ぎ、ミルク・砂糖のセットを置き、コースターを敷いてグラスを置き、ストローを並べる。

 「失礼いたします」

 一礼して出て行った。

 「飲みなさい」

 ソーサーごと持ち上げて、いつもと変わらぬコーヒーの香りにほっとした。

 「いただきます」

 小さな手でストローをグラスに差して、一口吸う。

8歳だが、もっと幼く見える割に、落ち着いたところがある。

家庭で育っていないせいだろうか。

 「あたしのお父さんが死んで、お母さんは違う人と結婚してる。これでいいの?」

 「そうだ」

 「じゃあ、おじさんはお父さんなの?」

 「・・・いや、違う。君の父親は私の弟だ。君の母親は―」

 話していいものか、どうか。

まだほんの子供なのに、理解できるのか。

 「君の母親は一条結実。私は君の叔父だ」

 二人の結婚は、いわゆる事実婚だ。

梓は結実の実子として戸籍があり、功二は認知していない。

そして、入籍していないから、梓は絶対に真一の娘にはならない。

これは双方の両親すら知らない。

 理解できたのかできないのか、梓はなにも言わずにジュースを飲んでいる。

手持ち無沙汰になって掛時計を見ると、まだ午後2時半である。

自分は部屋で電話とパソコンがあれば仕事になるが、この子をほったらかすわけにもいかない。

不意に梓は顔を上げた。

 「おうちの中、見てもいいの?」

 「じゃあ・・・好きにしなさい。邪魔になるところへは行くなよ」

 「はい。ごちそうさま」

 飲み干したグラスを持って、メイドが行った方向へ歩き出した。


 2階の書斎に行き、椅子に腰掛けると、ネクタイを緩めた。

大きく息をつく。

リクライニングを調節して、真一は眼を閉じた。


 藤永と一条は、曽祖父母の頃に姻戚関係があり、嫡子の年齢がつりあったことから、再びそれを行った。

それが、藤永の長男、藤永真一と一条の長女、一条結実だった。

 あぁ・・・それが正式に決まったから、子供同士でも顔を合わせたんだ。

結実が小学校に入学した年だ。

初めて会った時、裏庭の桜の下で、学校と同じ花だと言った。

俺は小学2年か3年、功二はまだ幼稚園だった・・・

 婚約者同士と言っても子供だから、学校の長い休みのたびに行き来して、一緒に遊ぶくらいなものだった。

遠縁には違いないが、遠くに住んでめったに会えない親戚だと思っていた。

 春は裏庭で遊び、夏は旧軽井沢にある別荘でよく会った。

冬は、家だったりどこかのホテルでほんの一時だけ、年始に顔を合わせたりした。

結実が婚約者だと知ったのは、どこだっただろう・・・あぁ、そうだ。

東京のどっかのホテルで、父親同士が話をしているのを立ち聞きしたときだ。

高校に入った頃だったか・・・特に反感を持ったわけじゃないが、冷めた気持ちで聴いた記憶がある。

 その後、特に接し方を変えた覚えはない。

所詮先のこと、と高をくくっていた。

 進学率を売りにした高校で、授業はやたらと詰め込みをされた。

教科書もある程度必要だが、赤本を片っ端から覚えたほうがテストの点は良かった。

まわりの連中は、授業だけ聞いて後は適当に遊んでいた。

だから、酒も飲んだし煙草も吸った。

クスリもあったがそれには手を出さず、適当に女とも遊んだ。

 功二は次男だったから、俺ほど学業中心と言うわけじゃなかったが、それでもそこそこな期待はされていた。

一般的な人付き合いがヘタで、友達と遊びまわる、ということはなかった。

だが、あいつは本当はおしゃべりな毒舌家で、自分が認めた人間以外は誰がなにやろうとくたばっても関係ない、というわかりやすい人間だった。

それでも数人、友達はいた。

 あれ以来、功二はひどく無口になった。

こんなことは口が裂けてもいえないが、俺は家族が好きだった。

 父は多分に気分屋で、時には挨拶ひとつにも面倒な人間だが、本質を見抜くことに掛けては、俺など足元にも及ばない鋭さがあった。

平気な顔して家庭に仕事を持ち込み、事情の見えない母の眼を白黒させていたが、同時に懐の深さを感じることも多かった。

 女中が数人いる家だったが、母が家事の一切を仕切っていることに変わりはなかった。

といって、女同士でいさかいなどなく、言葉少なく細やかな気配りを持って、男ばかりの家庭に尽くしていた。

大声を出すことも手上げることもなかったが、見てみぬフリをしたこともなかった。

 弟は、なんといってもおもしろく、かわいかった

俺が反抗期を気持ちの上だけで過ごしたのに対し、弟は男っぽく貫いた。

ひそかに俺が求めていた男と言う部分が、いつも弟の中にあった。

両親はできすぎた優等生の俺に比べると落第に近い弟を許していたが、あいつは甘ったれではなかった。

 俺は家族が好きだった、あの時まで。

いや、俺はいまでも弟は好きだし、父の企業人としてのプライドには頭が下がり、母の作り出す和やかな雰囲気も時に懐かしい。

距離をとってぼやけてみる、好きだった俺の家族だ。


 結実との婚約は、両家の間で水面下に進行していた。

俺も結実もそれを知っていたが、意識したことも、恋愛感情もなかった。

妥当な結婚、それが互いの本心だった。

それは功二も知っていた。


 結実が大学に入学したのを機に、時折母が呼んで、花嫁修業の真似事を始めた。

知らない仲でなし、いずれこうなることは決まっているのだから、と軽く考えて適当にあわせたりした。

 結実がお嬢様大学として有名な4年制大学在学中、2年の夏休みだった。

功二は高校3年、学校と予備校の往復のような毎日だった。

 俺はその時大学4年、卒業後すぐにうちの企業に就職するつもりはなく、名前の効力の及ばない、一から社会を学べる会社を物色していた、と思う。

どうも記憶がはっきりしない。

結実や功二のことは細部まで覚えているのだが、自分のことになると、誰と会っていたのか、毎日どこに出かけていたのか、多分こうだったはず、と想像しかできない。

 夏の昼間、母は結実に厨房を任せて、出かけていた。

俺は一日出ているはずだったが、なにか忘れ物をして、家に帰った。

 功二の部屋の前を通ると、はっきりと声がした。

ドアを開けた。

ベッドの上、汗で光る背中を見せる男は、功二だった。

その体の下に横たわり、愛おしそうに頭を抱き寄せる白い手は、結実だった。

 「・・・功二・・・」

 艶を含んだ結実の声。

その声に応えるように一層、功二は激しさを増した。

 「やめろ!」


 急に記憶がはっきりするのは、その直後だ。

俺達は子供だったが、なにもなかったことにするには、大人だった。

双方の両親は腫れ物に触るように俺達を扱い、とりあえず俺の部屋で話をした。

 俺は椅子に座り、結実はベッドに腰掛け、功二は床に胡坐をかいていた。

 「4月だった。帰ってきたら、結実さんは母さんに頼まれて、俺の部屋のシーツを変えていた。俺は・・・床に押し倒した」

 「そんなことは言わなくていい」

 「結実さんは悪くないんだ。俺が全部悪い。そのときだけじゃない。いままで・・・今日もだ。今日も、俺が無理やり結実さんに―」

 「昔のことはいい。これからの話をするんだろう」

 功二は俺の言葉など耳に入らず、いままで堰き止めていた謝罪の念が、一気にあふれたようだった。

 「結実には何度も謝ったけど、許してもらえると思ってない。兄さんもだ。気が済むまで殴ってくれ」

 「・・・おまえを殴りたいわけじゃない」

 俺が殴りたいのは結実だ。

 「力づくで彼女を犯したんだ。彼女は悪くない。俺のせいなんだ」

 ぽつりと結実が言った。

 「子供がいるの」

 体中の血液が逆流するようだった。

 「もう4ヶ月に入るところよ。堕ろせないの。殺人罪になるわ」

 「産んでもらう。子供は俺が育てる」

 二人の間では、すでに交わされた会話なのだろう。

だが、そんなことが問題ではなかった。

俺は結実を憎んだ。

 「真一さん。子供を産んだら、結婚してね」

 「俺からも頼む。兄貴、彼女は被害者だ。優しく、守ってくれ」

 功二が頭を深々と下げている。

 「おい・・・なに言ってんだ。功二。おまえはそれいいのか?」

 気分が悪いなんて程度じゃない。

俺はあの瞬間、間違いなくこの世の誰より結実を憎んだ。

 「それが、子供を産んでもらう条件なんだ。たとえ犯されて子供を産んでも、幸せになれるから。兄さんと結婚できるから」

 功二は、俺に向かって土下座した。

 「・・・俺は傷つけることしかできなかった。兄さん、守ってあげてくれ。幸せに・・・頼む」

 土下座している功二からは、結実が見えなかっただろう。

あの女は俺を見て、微笑んでいた。

功二を盾に、俺を脅迫していた。

 この場に功二がいなかったら、俺は結実を殺していただろう。

功二が目の前にいたから、土下座までしていたから、俺にはできなかった。

だが、功二が土下座した原因を作ったのも、結実だったのに。

 あの女は、自分が望むものすべて、手に入れたのだ。


 「わかった。結婚は予定通りだ。ただし、生まれた子供は功二に渡さない」

 「どういうこと?」

 「育てる。贅沢させられないけど、俺の子供だ。ちゃんと育ててみせる」

 「簡単に言うな。子供はペットじゃない」

 「じゃあ・・・どうするつもりなの?」

 「考えてない。だけど、功二だけそんなことさせられるか」

 「兄さん!」

 立ち上がりざま、功二は俺の胸倉をつかんだ。

 「おまえはまだ未成年だ。未成年の子供の親権はお前の親にあるんだ。好き勝手させない。いいな?結実」

 「兄さん!」

 「だったら私の戸籍に入れる。もちろん認知はしなくていいわ」

 「それじゃあ兄さんの子供になる俺の子なんだ!」

 確かに。

結婚する以上、子供を認知する方向へ話が向かうのは当然だろう。

 俺と結実の視線が交差した。

 「・・・真一さん。私達が結婚しても、入籍しなければいいのよ。そうすればこの子は私だけの子供になる。これでどう?」

 「いいだろう」

 「ちょっと待てよ!どうして俺を無視するんだ。俺が子供の父親なんだ。結実、兄さんと結婚できれば、後は好きにしていいと言ったじゃないか!どうしてこんなことに・・・」

 功二の手から力が抜けた。

 「私じゃないわ。真一さんが言い出したことを解決するために、やむを得ないのよ」

 「どうして俺に責任を取らせてくれないんだ。未成年だからっていうなら、俺が成人したら子供を引き取る。これならいいだろう?」

 「駄目だ」

 「なんでだよ!」

 「・・・駄目なものは駄目だ。俺が決めた。子供は結実の戸籍に実子として入れて、俺は認知しない。これが結婚の条件だ」

 「子供はどうなるんだよ。半年もしないうちに生れてくるんだ。誰が育てるっていうんだ。俺が父親なのに・・・頼むよ、兄さん。俺が育てるのが一番いいんだ」

 「施設に預ける。いいな?結実」

 「えぇ。私は産むだけだもの」

 俺は結実だけは許さない。


 その夜、俺達は親の前でもう一度、話しをした。

互いの両親は押し黙ったまま、じっと耳を傾けていた。

 「僕と結実さんの結婚は予定通りです。このまま進めてさい。子供は功二が育てますが、まだ未成年なので、当分は施設に預けます。功二の意思に任せますが、僕としては大学に行ってほしい。どうですか?」

 「子供の戸籍はどうするつもりだ」

 冷静と威厳を取り繕う父の声が、うとましかった。

 「功二が成人するまでは、藤永家に入れます。結実さんの出産や入籍の手続きは、一切僕がやります。弟のしたことの、せめてもの償いです」

 反吐の出る思いで、一条の両親に芝居がかった礼をした。

あちらも慌てたように、結実も一緒に頭を下げた。

 「真一さんがそこまでしてくださるなんて・・・」

 一条の母親が、手を口元に当てて、語尾を震わせた。

功二も結実も神妙としていて、なにも言わなかった。

 「そう決めたのね?」

 「はい。僕と功二と結実さん、納得しました。後腐れありません」

 母の白かった頬に、安心したような血の気が差した。

殴りつけて大声でわめいてやりたかった。

 「話がまとまってよかった。では、失礼します」

 一条の父親の尊大な声は、思い出すたび心が冷えた。


 深夜、俺は眠れるはずもなく、椅子に座っていた。

特になにを考えていたわけではない。

頭にあるのは、結実を殺したいほどの憎悪、それだけだった。

 「兄貴」

 ノックもなしに、功二は部屋に入ってきた。

 「さっきのなんだよ。決めたことと違うじゃないか。どういうつもりだよ」

 「嘘も方便だ。安心しろ。あれは建前だ。やるのは俺だ。決めたとおりにやるよ」

 功二の頬に赤みが差した。

 「なんだよそれ!いい加減なこと言いやがって・・・俺を馬鹿にしてるのか。結実を犯した俺が、そこまで憎いのかよ!」

 「俺のほうこそうんざりしてるんだよ。もういい、功二。今日はもう寝て、頭を冷やせ。明日になれば、少しは冷静な眼で見れるだろう」

 俺はいらだっていた。

殺してやりたいほど結実を憎み、なんとか格好のつくよう話に決着をつけ、互いの両親の前で茶番劇を演じる。

だがそれが、功二に通じるはずもなかった。

 「兄貴を見損なった。子供は施設に入れない。俺の手で育てる。こんな家で育てられるのは御免だ」

 「そのことだけどな。いずれ引き取るというのも方便だ。子供には施設で適当な養父母を見つけてもらう。そのほうが幸せだろう」

 こんなことまで言うつもりはなかった。

つい、口が滑った。

案の定、功二は顔色を変えた。

 「どうしてだよ!親に捨てられた子供がどうして幸せなんだよ!いつからそんなこと言うようになっちまったんだ。金輪際、兄でも弟でもない!」

 「落ち着け、功二」

 「そんな情けないヤツだと思わなかった。俺は、子供をこんな人間に育てない。この家を出て、全うな人間に育てるんだ」

 頭に血がのぼった。

どうして俺達がこんな諍いをしなきゃならないんだ。

 「落ち着け!」

 「離せよ!もう兄でも弟でもない!」

 「おまえは結実にはめられたんだ!」

 唐突に、功二の顔から血の気が引いた。

 「なに・・・言ってんだよ・・・結実さんは兄貴に済まないって・・・済まないって言い続けて・・・ずっと泣いてたのに・・・なに言ってんだよ、兄貴・・・」

 「あ・・・」

 結実は功二に抱かれた後、いつも泣いていたのだろう。

力に押し切られて関係を重ねる自分を、責め続けていたのだろう。

あいつはそんな女だ。

そうでもしなきゃ、功二がこんなにまで俺に開き直って、結実に肩入れするはずない。

 「俺だってわかってるよ。間違ってるのは俺だよ。兄貴の婚約者を好きになって、無理やり犯した。2度や3度じゃないさ。だけど、結実は・・・結実は・・・」

 なにをどう言おうか考えていると、弟はすでに俺を見ていなかった。

 「結実は・・・ずっと兄貴だけ見て・・・兄貴じゃなかったら・・・兄貴だったから・・・俺は・・・」

 功二には言うまいと思っていた。

が、頭に血が上って言ってしまった。

 弟は呼吸を整えて、俺を見た。

 「もういい。結実との約束は守ってくれ。必ず結婚して、幸せにしてやってくれ。俺が望むのはそれだけだ。二言はないな?」

 うなずくだけだった。

 決して言うまいと誓っていたことを言ってしまった俺自身の動揺のほうが上だった。

部屋を出る功二の背を見ながら、弁解せずに済んだと胸をなでおろした。

 それが、弟と話をした最後だった。


 両親を向こうにまわし、結実を求めても振り向いてもらえず、功二の信じられる人間は俺だけだった。

だが、俺は、俺さえも、功二を裏切った。

 その日から功二は無口になり、誰にも心を開かなかった。

あんなに熱心だった子供のことさえ、俺の言いなりだった。

約5ヵ月後、結実は出産した。

女の子で、結実は梓と名づけ、出生届を提出した。

功二は、大学に入学した途端、留学試験に合格して、アメリカに行ってしまった。

 あの日は春、桜の季節だった。

家の裏庭の桜の下、梓を抱いた結実の後姿を見た。

 彼女は、白のワンピースに白いストールを羽織って、長い黒髪を揺らしていた。

すべてを手に入れた孤高の女、冷ややかに見ている自分に気づいた。

  「結実」

 振り向いた彼女は、微笑んでいた。


 「黒い聖母・・・」

 リクライニングを調節して、背を起こした。

真一はいままですっかり忘れていた自分の感想を思い出して、苦笑した。

聖母の黒い後姿、振り向いた理解できない笑顔。

あれから、7年が経ったのだ。

 施設に入った梓に、里親は現れなかった。

金を使えば済む話だったが、結実の娘として、一条梓として生きる他ない、と思った。

そして、全寮制の白鳳女学院への入学を考えた。

秘密保持が確実な場所で、きちんとした教育さえ受ければ、将来、梓にとって有利に働くだろう、と考えた。

梓は4歳以後、受験勉強のためにマンション暮らしをさせたが、通いの家政婦と数人の家庭教師をつけた軟禁状態に代わりはなかった。

その後、梓は今日まで―

 時計を見ると、もう5時をまわっていた。

ドアがノックされた。

 「どうぞ」

 喪服の結実が入ってきた。

 「そろそろお召し替えください」

 「梓は?」

 「知りません」

 「おまえの娘だろう。なんて言い種だ。連れて来いといったのはおまえだ。探して着替えさせておけ」

 「あなたの姪です。よろしく面倒見てください」

 「結実!」

 背を向けた結実は、振り向いた。

 「あれから、会うのは初めてだろう。どうして声ひとつかけてやらないんだ」

 ふ、と結実は微笑んだ。

 「お忘れかしら?あの子は、あなたの弟に犯されて身ごもった子供。母親として愛せるはずないでしょう?」

 「・・・成程。犯された子供とはいえ、堕ろすことは女として汚点になる。しかし愛情を持つことは難しい。すべて計算尽くか。さすがだな」

 なにも言わず、結実は出て行った。


 真一は寝室で手早く喪服に着替えた。

梓の喪服のことが頭をよぎったが、考えてみれば濃紺の制服だから、あの格好のままで充分と思いなおした。

女中頭の佳菜子に、電話で客間を一室用意させた後、梓を探し始めた。

 母屋と東の対と西の対と、順番にまわり、ちらほら見かける使用人に注意を促し、勝手知ったる我が家をまわるのに、気づいたら30分経っていた。

ぐるっとまわって裏庭に出る。

桜の樹は、毎年、花を咲かせるが、さすがにいまは散って、葉桜になっていた。

 葉の間から空を透かして、真一は立ち止まった。

 「あー!」

 場違いに頓狂な声に、慌てて真一は周囲を確認した。

予想にたがわず、こちらに小走りに駆けてくる梓がいた。

 「そろそろ始まる。行くぞ」

 「ま、まっておじさん。おねがい、ちょっとだけ」

 梓と顔を合わせて初めての言葉だった。

真一は足を止めた。

 「どうした」

 「樹の下に立って」

 2,3歩、真一は後戻りして、梓を振り向いた。

 「こうか?」

 「うん。それで、上見て」

 真一は仰向いた。

 「ちがうよぉ。こう・・・見上げて!」

 さっきのように、真一は葉を見た。

太陽がまともに眼に入ってまぶしいので、早々に視線を下に落とした。

 「やっぱり!おじさんなの?あれ、おじさんだったの?」

 駆けてきた梓は、真一の上着の裾をしっかりと握り締めた。

 「なんの話だ?おまえと会ったのは、今日が初めてだろう」

 物心ついてからは、と内心で付け加える。

 「・・・ちがうんだ。じゃあ、お父さんだったのかなぁ」

 「どういうことだ?」

 言葉に鋭さが入ったせいか、見上げる梓の眼が不安に染まった。

 「・・・一体、なんのことを言ってるんだ?」

 「あの・・・学校に来る前にいた家の前に、桜があったの」

 「あぁ、マンションの前にあった桜か」

 「その樹の下に、おじさんがいたの」

 「それで?」

 「桜を見てね、下を見たの。咲いてるのより、散ったほうがすきみたいだった」

 「・・・それで?」

 「おじさんにどうしてって聞いたの。そしたら、えっと・・・なんだっけ、むずかしいコト言って」

 「待て!なんと言ったんだ?思い出してくれ!」

 思わず真一はしゃがみこんで、華奢な梓の両肩を揺さぶった。

梓が思い出す時間は、真一にとって永かった。

下を向いていた梓がやっと顔を上げて、間近から真一を見つめた。

 「かなわない思いのせい。かなわない思いが、くりかえし、散ってゆく。咲いて、散って、くりかえす。忘れられない思いのせいだろう、って」

 功二だ。

 「それは・・・君の父親だ」

 梓はにっこり笑って、うれしそうにうなずいた。

 「びっくりした。ずっと前のことなのに、ちゃんと思い出せた。おじさん、ありがと。ここにいるおじさん見なかったら、あたし、思い出せなかった。ありがとう」

 「行くぞ。通夜が始まる前に、顔合わせがある。

 足早に歩き出した真一を、梓は小走りに追いかけた。

 

 それから数時間。

通夜は互いの、藤永と一条のごくごく身内だけのものだったから、形式張ることもなく、あっさりとしたものだった。

隅に座る梓に首をかしげる人間もいたが、誰もなにも言わなかった。

弔問客のそれぞれが東の対と西の対に引き上げ、梓も佳菜子に案内されて、客間に引っ込んだ。


 母屋の二階、真一と結実は寝室を別にしている。

真一は決して結実の寝室に近づきはなしないが、結実は用事のあるときだけは勝手に出入りしている。

が、この夜、二人が結婚して初めて、真一は結実の寝室のドアをノックした。

 「どなた?」

 「俺だ」

 「どうぞ」

 ノブに手をかけて、真一は部屋に入った。

窓際にある2つのルームライトが、ぼんやりと部屋を照らしている。

白で統一された、機能的ながらも女性らしいラインの家具で囲まれた部屋は、なんとなく真一には意外であった。

 「どんな急ぎの用なの?」

 真一は喪服の上着を脱いだだけだったが、結実はすでにバスローブ姿であった。

ドレッサーの前に座っていた結実は、スツールをまわした。

ベッドに腰掛ける気にもならず、真一は壁に背を預けていた。

 「これから梓はどうするつもりだ?」

 「どうもしないわ。私はあの子を産んだだけ。その後はあなた方兄弟にまかせっきりだもの。これからもよ」

 「・・・よくもそんなことが言える。あれはおまえの娘だろう」

 「犯されて身ごもった子供よ」

 「いいかげんにしろ!冗談でもそんなことは言われたくない!」

 結実はにっこりと微笑んだ。

 「冗談じゃないわ。あなたの弟が認めたことよ」

 「・・・おまえだ。おまえから誘ったんだ。でなきゃあいつが、兄の婚約者に手を出すものか」

 「随分な言われようね」

 「おまえは満足だろう。好きな男を手に入れて、その男の子供を産んで」

 「・・・」

 暗い部屋の中、淡い光に結実の白いバスローブが浮かび上がる。

 「真一さん。梓に会った途端、そんなことを言うのは妙ね。功二が死んだと聞いても、なにも言わなかったのに」

 「確かにな・・・梓は功二を覚えていた。桜の下の功二をな」

 「桜がなんですって?」

 話す気にはならなかった。

心底功二が惚れた女だが、この女のせいで、功二の一生は狂ったのだ。

 結実は立ち上がった。

 「どういうこと?功二はなにを、梓に残したの?」

 「・・・」

 散る桜を見るたびに、弟はこの女を思い出したのだろう。

一見、許されたかのような身体と、決して受け入れなかった心を。

 「真一」

 そして、手放してしまった自分を、幾度も悔いたのだろう。

だが、功二が本当に結実を手に入れたとしたら、真一は功二を殺しただろう。

梓の存在も、どんな手段を使っても殺しただろう。

 「真一。どうしても言わないつもり?」

 ゆっくりと結実が近づいてくる。

豊かな黒髪、白いバスローブ、鬼のように研ぎ澄まされた殺気。

 「功二はなにを残したの。梓以外に、なにを残したの」

 「・・・なにも」

 結実の足が止まった。

 「残ってるのは梓。それと、結実だけだ」

 「本当?」

 「あぁ。俺はおまえに嘘をつく勇気はない」

 「・・・さっきのはお芝居ね?」

 「あぁ」

 伝わったのだろう、結実の持つ気が、部屋の中に拡散した。

 「私を憎んでいるでしょう?」

 「あたりまえだ。功二は俺の、たった一人の弟だ」

 結実は聖母のように微笑んだ。

 「功二はあたしの、たった一人の弟よ」

 

 あれは、中学にあがった頃。

父の年始の顔見せに付き合ったと後、功二との待ち合わせまで時間があったから、ロビーで時間つぶしをしていたときだ。

ちょうど一条も来ていて、目ざとく結実は俺を見つけた。

 「待ち合わせ?」

 「あぁ。これから功二と遊ぼうと思ってな」

 「いいなぁ。うちはいまから始まるの。毎年とはいえ、面倒よね」

 「ホントにな」

 「あら?」

 入口から死角になったスペースに、母が周囲を気にしながら歩いていく。

結実の不信な視線が俺に向く。

俺は首を振りながら立ち上がり、用心しながらそばに移動した。

結実も着いてくる。

 観葉植物に囲まれた一角、母と、一条の父。

 「お願いです。呼び出すのは最後にしてください」

 「約束できんな」

 母は一条の父に、必死に頭を下げている。

一条の父は取り付く島のない無表情で、いつもながらの太い声だ。

 「どうして・・・お互い家庭を持つ身です。わかってください」

 「できん相談だ。おまえが離縁して囲われるなら、呼び出すことはないがな」

 「そんな!どうしてそんなことばかり、おっしゃるんですか」

 「おまえが欲しいからだ」

 母はいきなり手を取られ、あえなく一条の父の胸に抱かれる。

ごつい手がすばやく着物の袷に差し込まれ、乱暴にまさぐる。

 「やめっ・・・こんなところでやめてください!」

 「ロビーにしか来ないと言ったのはおまえだろう。素直に部屋に来ればいいものを」

 「いやです!帰ります!」

 もう一方の手が、裾を割って入った。

 「駄目だ。我慢も1ヶ月が限界だ。また私の子を産みたいか?」

 「っ・・・やめてください!功二は―」

 「そうだ。功二は私の子だ」

 「お、お願いですから・・・っ・・・いや、やめ、て・・・」

 一条の父の両手は、思う存分、母を翻弄していた。

拒絶は言葉だけの、確かに母の、女の悦んでいる声だった。

だからそれは、真実なのだ。

 「結実。忘れるな。功二と結実は、血がつながってる」

 「・・・真一・・・」


 「・・・そうだ。功二はおまえの弟でもある」

 「そうよ。あたしが愛した、ただ一人の男。弟と知る、ずっと前から」

 結実の気持ちを、俺は知っていた。

功二の子供の頃からの気持ちも、知っていた。

だが、異母姉弟と知って、少なくとも結実は、諦めたと思っていた。

 「もっと、まともな女と思っていたがな」

 「そう?」

 「いくらなんでも・・・いくらなんでも、知っていながらあんなことするとは思ってなかった!」

 「好きだから」

 笑みを浮かべた表情は、憎らしいほどに清らかだった。

 「好きだった。異母姉弟と知ってもだめだった。あきらめられない。どうしても好き。他の女なんかに渡さない。渡さなくてもいいはずなのに、あたしは」

 「・・・」

 「春から夏、何度も功二に抱かれたわ。好きな男に抱かれるって、すごく気持ちいい。父親を責めるどころか、理解してた。功二がいればいい。他になにもいらない。まだおぼえてるわ、功二に抱かれた時のこと」

 「・・・」

 「抱かれてる時、溶けちゃいそうだった。肌と肌が吸い寄せられて、とても功二が愛しくて。幸せだから泣けるって本当ね」

 「・・・」

 結実は眼を閉じた。

 「功二はあたしを愛してくれた。誰よりも強く愛してくれた。だからあたし・・・人からどんな目で見られても平気だった」

 「婚約者の弟に犯されて身ごもって、出産しても捨て子同然の真似でもか。おまえは好きな男の子供にそんなことしかできないのか!」

 「あなたがいたわ」

 「どういう意味だ。代わりの人間がいれば、親は不要でいいというのか?」

 苛立った。

結実が本音で話しているのに、理解できないことが腹立たしい。

 「あなたがいてくれた。あたしがどんな酷いことしても、必ずあなたが優しくしてくれた。だからあたし、なんだってできた」

 「俺に責任だけ被せるな」

 正面から俺を見て、結実が微笑んでいる。

 「どうしてあたしと結婚してくれたの?」

 「功二との約束だ。二度と裏切らない」

 結実は首を振った。

 「真一はね、あたしを好きなの」

 「・・・なんだって?」

 「それがわかってたから、あたし、全部、できたの」

 「どういう意味だよ」

 結実は微笑んだ。

聖母のような、あの笑顔。

 「異母姉弟の功二に抱かれた。功二の子供も産んだ。なにくわぬ顔して、あなたと結婚もできた。いまも、こうして功二のことだけ考えて生きてる。みんな真一がいてくれたから。あたしを好きで、いてくれたから」

 「なんだと?」

 「本当のことよ。真一、絶対に認めてくれなかったでしょう?」

 「俺はおまえを憎んでる」

 「うん・・・そうね。真一は、絶対にあたしと結婚してくれるのわかってた。真一と結婚しても、あたしを抱かないってわかってた。だからあたし、功二に抱かれても大丈夫、この人だけ愛していられる・・・て思ったの」

 「なにを言ってるんだ、結実」

 俺は一瞬、本当に頭がおかしくなったのかと心配した。

 「真一以外の人と結婚したら、たとえ過去に子供を堕ろしていても、避けることはできないでしょう?あなたでない限り、身体を求めないはずないもの」

 「あたりまえだ。半分とはいえ血のつながった弟と・・・」

 白いバスローブに包まれた、黒い聖母。

 「そうよ。あたしは血のつながった弟と身体で愛し合った女。だからあなただけは、功二の兄であるあなただけはあたしを抱くことはない。絶対に」

 「・・・」

 コンコン、とドアがノックされた。

 「どなた?」

 「梓です」

 俺と結実は顔を見合わせた。

 「どうぞ」

 制服姿のままの梓が入ってきた。

なんのつもりか、ぺこっとお辞儀をした。

 「どうした」

 「あたし、帰れないの?」

 「明日、葬式が終わったら送っていく。今日は寝なさい」

 梓は結実を見た。

 「本当にあたしのお母さん?」

 「そうだ。君は一条梓だろう。彼女は一条結実」

 じっと、梓は結実を見つめている。

視線すら合わせてくれない、母親を。

 「おい。聞いたことなかったが、どうして梓なんだ?」

 「伊勢物語よ」

 相変わらず、こちらに向かない。

 「なんだって?」

 「伊勢物語。在原業平の」

 「・・・大昔のだよな。たしか」

 俺は理系だった。

名前を覚えているのも感謝してほしいくらい、文系は駄目だった。

 「だ、そうだ」

 「梓は首をかしげている。

 「・・・調べておくから、今日はもう寝なさい。部屋はわかるな?」

 「はい」

 大人しく梓は出て行ったが、俺は残っていた。

 「おい。なんなんだ、それ」

 結実を見ると、くすくす笑っている。

本当に・・・10年ぶりに見る笑顔。

 「伊勢物語に出てくる歌よ。

  『梓弓 引けど引かねど昔より 心は君に寄りにしものを』

  それから取ったの」

 「どういう意味なんだ?」

 「梓弓を引いても引かなくても、ずっと以前から、心はあなたに惹かれていたのに」

 「・・・成程」

 「中学生の時に覚えたの。その時、女の子が生まれたら梓って決めたのよ」

 「なぁ・・・梓のことだが。すぐに引き取るのは無理でも、もう少し考えてみないか。やっぱりおまえは梓の母親なんだ」

 「そうね・・・考えてみるわ。少し時間をちょうだい」

 「あぁ」

 いままでこの日を待っていたかのようだった。

こんな風に笑う結実を見て、俺も笑える。

これからだって、待つ時間は充分にある。

 「じゃあな」

 結実は立ち上がり、俺を見て微笑んだ。

清らかな聖母のようではなく、昔見せた、明るい少女の笑みだ。

 それが、最後だった。


 翌朝、結実の死体が発見された。

功二の葬式の準備どころではなく、変死体だったから、警察の人間が数人出てきた。

 「お母さんも死んだの?」

 「・・・あぁ。自殺だ」

 「じさつ?」

 「自分で死んだんだ」

 梓はなにも言わなかった。

理解できなかったのだろう。

 結実はあの後、俺が出て行った直後に、首吊り自殺をした。

翌朝、いつものように佳菜子が電話で起こしたが応答がなく、ドアを開けた。

白いワンピースが喪服のような、死体だった。

 「君の名前だが・・・」

 裏庭の桜の下、ぼんやりと腰をおろしている。

 「梓弓という言葉から取ったんだそうだ」

 「ひとつの言葉を、お母さんと分けてるの?」

 「あぁ・・・そうだ。その通りだ」

 遺書は、昨夜尋ねたその歌が丁寧に書かれていた和紙、それだけだった。

俺は夫婦仲が悪かった亭主として最初は疑われたが、どこからどう見ても自殺でしかないため、早々に疑いは晴れた。

 「・・・」

 俺は、気づくべきだったのだ。

功二が死んだ時、梓を迎えに行った時、昔のように笑ってくれた時。

あの女が、これから先、生きていく気持ちのないことを、気づくべきだった。

俺しかわかってやる人間はいないのに。

 結実には、最初から俺しかいなかった。

功二のことを知った時、自分の動揺よりも結実の身を案じた。

結婚をやめることはありえなかった。

梓のことも、誰より親身になって、できるだけのことはした。

すべて結実のためだ。

 「・・・梓。君はいままでどおりだ。約束どおり、今日の夕方、学校に送っていく」

 「・・・」

 「梓?」

 「あたし、もうここに来ないの?おじさん、ここがあたしの家って言ったよね?」

 言葉に詰まった。

だが。

 「白鳳は全寮制だろう。休みの日、帰ってきたいのなら、帰ってきなさい」

 「いいの?」

 「あぁ」

 梓は笑った。

嬉しそうに笑った。

子は鎹だ。

功二と結実を、俺と結実を、つないでくれた。

 「梓・・・」

 「はい」

 彼女は結実によく似ている、瓜二つだと思っていた。

 「おじさん?」

 なんのことはない。

この子の眼は、功二、ひいては俺に似ていたのだ。

懐かしく思って当然だ。

 「確か・・・昔のアルバムがあったはずだ。君の両親を見せてあげよう」

 「ホント?」

 「あぁ」

 すばやく立ち上がった梓が、ぎこちなく手を差し出した。

家族を知らないこの子にとって、年上の人間にこんなことをするのは初めてなのかもしれない。

 小さな手を握った。

そして桜の樹を振り返る。

梓は桜を見上げた。

 「君も昔、この桜を見たんだ。梓」

 「お母さんと一緒に?」

 「あぁ」

 「お父さんが見たのも、この桜だったんだね」

 「あぁ、そうだな・・・」



このカタチの「きょうだい」を思いついたのはずっと昔ですが、やっと小説にできました。浜崎あゆみの「M」から出来た小説です。真一・功二(浩二)と結実の設定は、まんが「贖いの扉」から影響を受けてます。



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