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灰色職人  作者: ルシア
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第1章

 俺は大学を卒業後、紫雀社という出版社に入社し、編集者として十五年働いたのち、フリーランスのライターになった。現在、コラムニストとして二十数冊の本を出版するに至り、新聞や週刊誌などに週四本、月間誌に一本の連載を抱えている。四十九歳という誕生日を迎えたその日も俺は、週刊誌に載せるコラムのネタに頭を悩ませており、イライラと煙草をふかしながら、パソコンの画面と向きあっていた。そしてそんな俺に、突如として一条の光のようなメールが届いたというわけなのである。


<武宮英治さま

 当方、イアン・バーンスタインと申す者です。もしよろしければ、貴殿に『灰色職人』のことをお知らせしようと思い、このように突然不躾にもメールを差し上げた次第です。『灰色職人』というのは、人々の灰色な心を無色透明にする錬金術師のことでして、わたくしもこの方に己の灰色な心を清めていただきました。この度、灰色職人さまのほうから武宮さまの灰色な心をお清めしたいとの申し出があり、このように御連絡いたした次第です。灰色職人さまに心を清めていただくことは、まさに三億円の宝くじに当たったような、深い喜びが心に湧きいずる出来ごとであり、武宮さまも是非、この機会に御自身の灰色な心をお清めしていただくことをお勧めいたします。


                             敬具 


                          イアン・バーンスタイン>


 最初このメールを読んだ時は、「なんじゃこりゃ?」と俺は思った。それと外人にしては随分丁寧な言葉遣いの文章だな、とも。ようするに人々の灰色な心を清める『灰色職人』と呼ばれる教祖のような人間が存在するということなのだろうか?つまり、新興宗教の勧誘として、無差別に誰にでもこのようなメールを送信しているということだ。

 普通であれば、このようなメールを真に受ける人間というのは大体相場が決まっている。少々オツムの足りない人間か、神に飢えている人間、オカルトやニューエイジ系のものに興味のある人間、宗教学者、あるいは人生に絶望し、己の悩みで切羽詰まっている人間、そして余計な好奇心が無駄に多い人間かのいずれかだ。

 俺は最後の<好奇心が無駄に多い>タイプの人間であったため、早速とばかり、イアン・バーンスタインなる人物にリターン・メールを送信した。

『貴殿の言う、灰色職人さまに是非一度お目にかかりたい』と――何しろ、俺はコラムのネタに詰まっていたから、その材料になりさえすれば、灰色職人がいかなる人物であれ、まるで構いはしなかったのである。


<わたしはそのようなメールをイアン・バーンスタインなる人物から受けとり、早速彼と会うために、千歳空港から釧路行きの飛行機に乗った……>

 俺は釧路空港内にある喫茶店でイアン・バーンスタインが姿を現すまで、某週刊誌に載せるためのコラムを途中まで書いておくことにした。何しろ締切日は明後日の火曜日だ。俺はメモ帖にボールペンで文字を走らせながら、(大体この先の展開は読めてるよな)と、コーヒーを飲みながら思った。

『灰色職人』とかいうイカレポンチキな偽教祖のところへ連れていかれて、妙な宗教行事に参列させられるとか、そんなところだ。だが俺は、それならそれでそれも一興と、そう考えていた。コラムにはそのあやしいおっさんの妙なまじないを受けても、心は無色透明どころか何も変わりはしなかったと書けばいいだけのことだ。何よりも今、俺自身が欲しているのは、自らが体験した、とれたての新しいネタなので、灰色職人なる人物が実はただのみすぼらしいネズミ男だったとしても、そんなことはどうでもいいことだったのである。

「あのう、もしかしてアナタが武宮英治さんでいらっしゃいますか?」

 微妙なイントネーションの日本語で話しかけられた俺は、振り返ってみて一瞬ぎょっとした。雪みたいな真っ白い肌に、深い湖の色を溶かしこんだみたいな、スカイブルーの瞳、短く刈りこまれた金髪――まるでスクリーンから抜けでてきたみたいな、美丈夫ではないか。俺はずり落ちるみたいにしてスツールから下り、半ば呆気にとられつつ、背のやたら馬鹿でかい彼と握手をかわした。

「ワザワザ札幌からおいでくださいまして、アリガトゴザイマス。わたしが先日メールを差し上げたイアン・バーンスタインと申す者……まあこんなところで立ち話もナンなので、よかったらドライブがてら、事情を説明したいのですが、イカガかと?」

 俺は自動人形のように硬直したまま、さっさと会計をすませて、白のポロシャツに黒のスラックスという格好の彼の後に続いた。


 俺は長年記者として、またコラムニストとして、色々なジャンルの著名人――芸能人はもちろんのこと、スポーツ選手や政治家、芸術家など――に会ってきた。だが、これほどまでに感覚が極限にまで研ぎ澄まされた人間には出会ったことがない。もしかしたら彼本人が実は灰色職人で、新興宗教の導者グルのような存在なのではないかとすら思った。

「ムサクルシイ車ですが、よろしかったらどうぞ」

 空港前の駐車場を長々と歩き、彼は一台のオープンカーを指差した。黄色のロードスター……この高級車のどこが、むさくるしい車だというのか。謙遜しすぎていてかえって嫌味だ。

 イアンは運転席におさまると、夏の強い陽射しを避けるためか、サングラスをしていた。くそー、腹がムカムカするほど様になっている。一体この外人、まったくもって本当に何者なのだ?

 俺はあたりの殺風景なのか自然が多いのかよくわからない片田舎の景色と、運転席におさまっている白人の男とを交互に眺め、しばらくの間黙ったままでいた。道東地方の夏は涼しい。今日も二十度あるかないかといったところ。俺は涼しいというより、寒ささえ感じる風を頬に受けながら、隣の美丈夫な外人が口を開くのを待っていた――近くの牧場から流れてくる、牛糞の匂いにさらされながら。

「ワタシは釧路のアイスホッケーチームの監督をしています。四年前まではワタシもアメリカで、現役の選手でした。デモ、試合の怪我が元で、ヤムナク引退することにしたんです。膝のほうをイタメテしまいましてね。ワタシの人生は幼い時からアイスホッケー一筋でしたから――その時は本当にオチコミました。何故なら、アイスホッケーのスティックのない人生など、ワタシにはまるで考えられなかったからです」

 俺はコラムニストというよりも、インタビュアーのような気持ちになって、ミスター=バーンスタインの話に黙って耳を傾けた。どこまでもこのまま続いていきそうな、殺風景な一本道を、車は走り抜けてゆく。時々、干し草がいくつもロール状になったものが農家と牧草地とを彩っている。

「ワタシの膝が悪くなったとワカルなり、企業はワタシをスグに追いだしにカカリました。デモその時ワタシがつきあっていた恋人が、そのアイスホッケーチームの有力なスポンサーでシテね、ワタシはその恋人の父親が経営する会社に、かなりヨイ待遇で迎えてもラうことができました――でもワタシはドウシテモ、アイスホッケーに未練があった。それまでアイスホッケー一本ヤリでやってキテ、これからは不動産王の跡を継ぐベク営業のシゴトに従事シロと言われても――ワタシには無理だった。マイニチ夢にミルのです。自分がコオリの上をホッケー靴で走りまわり、ゴールを決めるところ、あるいは相手のセンターフォワードと激しくぶつかりあうところナンカを――何よりもアノ、コオリの上をスケート靴が滑る、シャッという音――わかりマスカ?あの音が耳ヲ離れないのです。スケートリンクのコオリの匂いや冷たい空気の感触、仲間の吐くシロい息のこと――応援の声や選手を罵倒する声、ロッカーの汗の匂い、仲間とのふざけあい――ソレがワタシの人生を満たす、スベテのものだった。それなのに……」

 牧草地の牛や馬から目を離し、ふと隣を振り返ると、イアンは手の甲で目尻を拭っていた。アイスホッケーは俺も大好きなスポーツだった。はっきりいって、俺個人の感覚から言わせてもらうと、野球なんかよりもよほど面白い。何故もっとメジャーなスポーツとして日本人が注目しないのか、不思議にさえ思う――だから彼の気持ちは、痛いほどわかる気がした。

 イアンは目の前をのろのろ六十キロくらいのスピードで走るマツダ・ファミリアを物凄い勢いで追い越すと、そのまま九十キロくらいの速度で何もない単調な道を走り抜け、しばらくの間無言だった。そして、信号機が赤で止まった時に、今度は悲しみの表情から喜びの微笑みへと、がらりと面差しを変えて、肝心要の<灰色職人>の話をし始めた――まるで、彼のことを思いだすだけでもとても愉快だ、というように。

「ソンナ時、わたしは灰色職人さまにデアッタのです。その頃ワタシの生活はあらゆる意味で本当にボロボロでした……クライアントに呼びだされれば、たとえ夜中の何時であろうとも出かけなくてはならなかったし――イロイロな書類上のショリのことなんかもあって、シゴトは連日深夜にまでオヨビました。シカモ土日は忙しさの合間を縫って恋人や、彼女の両親のキゲンをとるために行きたくもないパーティへ出かけたり――ソンナ生活が続いたある日のこと、ワタシはフト思ったのです。コンナ日常はもうウンザリだと。高慢ちきでプライドの高い恋人にもイヤケが差していたし、トニカクなんにしてもワタシは、アイスホッケーのリンクの上に立ちたかった。あそこでしかワタシの魂は呼吸ができないのだということに、アラタメテ気づかされたのです」

 仁々志別ニニシベツ川という川沿いの道路を走りながら、イアンは速度をゆっくりと落としていき、やがて見えてきた大きな田舎農場風のレストランへと車を滑りこませていた。『The Wonderful Wizard of OZ』と看板には書かれていて、どうやらそれが店の名前なのらしかった。

 お昼時ということもあり、店内は満席に近い状態だった。感じのいい女性の店員が、空いているのは座敷と二階のテーブル席だけだと告げる。イアンはカウンターの前を通りすぎると、二間ある座敷の奥のほうへ歩いていき、そこで靴を脱いでいた。俺も彼と同じように靴を脱いで、テーブルを挟んで彼と向かいあった。

「ハラゴシラエしておいたほうがいいですよ」

 何故かその時イアンは、訳知り顔ににやりと笑った。だが俺は彼の言葉の深い意味にその時は気づくことなく、ただメニューの中からミートソースとピザを頼んだだけだった。彼はドリアとウーロン茶を注文し、メニューブックを閉じている。

「コンデいるから、少しジカンがかかるかも知れませんね。でもカエッテそのほうがいいカモしれません。ワタシの身の上話と、灰色職人のことを話すニハ」

 イアンは氷の浮かんだ水を、とても美味しそうに飲みながら、そう言った。俺はおしぼりで手を拭くと、座敷に飾られている招き猫の置物なんかをちらと眺め、先ほどから言おうと思っていたことを、ようやく口にした。

「日本語、お上手なんですね。一体いつごろからそんなに流暢にお話できるようになったんですか?日本へ監督としてくることになってから、猛特訓したとか?」

「オオ、素晴らしい!」イアンは外人らしい大仰な身振りで両手を広げた。「ワタシ、日本語なんか本当はチンプンカンプンだったのです。デモ灰色職人がワタシに、日本語をリカイする理解力をアタエテくれたのですよ!タケミヤさんには信じられないカモしれませんが、灰色職人に出会ったその次の日には、ワタシは日本語ペラペラだったのです!」

 はあ、そうですか、と俺は少し白けたようにイアンのことを見た。まさかとは思うが、<灰色職人>という外国語の塾の勧誘か?とさえ思った。そして宗教と語学とがその塾では密接に結びついており、一度そこに入会すると抜けだせなくなるのでは……などとくだらぬことをつい考えた。

「タケミヤさん、アナタ半信半疑。デモ気持ちよくわかります。ナゼって、ワタシも最初はソウだったから。デモ灰色職人とてもハッピー。タケミヤさんにもジキ、そのハッピーが手に入るでしょう。そしてワタシのハッピーは、ナントいっても、妻の野々宮春枝と結婚したことです!実はワタシ、結婚するまではカナリ、女性にダラシなかったのです。遠征先のバーで知りあった女性と一夜カギリの関係とか、そんなことはヨクありました。そしてハルエも、最初はワタシにとってそういう女性のひとりに過ぎなかったのですよ。ワタシがココ釧路のアイスホッケーリンクに試合できた時、たまたま知りあったのが彼女でした……ココだけの話ですが、ワタシは彼女と一夜を過ごしたあと、ショウジキいって、彼女の顔も何もカモ、すっかり忘れていたのです。ただチームメイトのひとりに『きのう、あの日本娘とどうなった?』と聞かれて、『日本の女はマンコが小さくて締まり具合がいい』と言って笑いあっただけでした……そうなのです。ワタシは以前はそういう、サイテーを絵に描いたような男のヒトリだったのですよ」

 イアンがマンコ、と言った瞬間に、ウェイトレスがピザとウーロン茶を運んできたので、俺は少しばかり居心地の悪い思いをした……だがイアンはまったく悪びれるような様子もなく、ビールを飲むかのようにウーロン茶をぐびぐび飲み、ピザをひとつ摘んでぺろりと食べている。

「ハルエは、ワタシがあらゆる意味でボロボロになっていた時、ニューヨークにまでわざわざワタシを訪ねてきてくれたのです……いいデスカ?こう言ってはナンですが、ハルエはドコにでもいる、ニッポンのイナカの娘です。彼女のオトーサン、オッカサンはシベチャというところで、農家をしているそうです……デモ彼女はそういう牛や馬に囲まれた生活がイヤで、釧路でヒトリ暮らしを始めたんだそうですよ。そして自分が勤める会社のホッケーチームのチアガールをしていた時に、ワタシと恋に落ちたのです……ワタシは最初、彼女のピチピチした若々しいオーラに惹かれた。デモそれは単にネンレイが若いということとはまた別のオーラだったのです。ニューヨークのワタシのアパートをどうやって探しあてたのかと、ワタシが彼女に訊ねた時、ハルエはコウ言いました。『灰色職人があなたに会いにいけと言った』と。『は?灰色職人?』とワタシは相手にしない感じで聞き返しました……そしたらハルエは言ったのです。『わたし、本当は英語なんてちっとも喋れないんだけれど、灰色職人が英語ペラペラにしてやるから、あなたに会いにいけって言ったのよ。場所は教えてやるから心配するなって』。ワタシは彼女の言った言葉が信じラレズ、『一体なんのことだ?』という科白ばかり、繰り返していたと思います。そしたら彼女は言うんですね。自分のシベチャの実家の裏山のほうに、何か精霊のような生きものが住んでいて、自分は小さな頃から、その精霊とよく交わっていたと。悲しい時つらい時、家の手伝いが面倒な時、彼はハルエのことを自然的な現象を通して慰めてくれたのだそうです。そして彼女のほうでも心を開いて、灰色職人のことを受け容れた……妻が言うには、それは精神的なセックスのようなもので、肉体のセックスよりも濃い官能が得られる行為なのだそうです。オトコのワタシには、イマヒトツよく理解できませんが。話は飛躍しますが、灰色職人が言うには、ハルエは自分の処女を奪った男と結婚しなくてはならないと彼に言われたというのです。ヒドイ話のようですが、ワタシはすっかり酔っていて、そんなこともわからなかったのです。ただカタコトの英語を一生懸命しゃべるハルエのことをとても可愛らしく思い、強引にホテルに誘ったのでした……ハルエは、自分の話を信じるのも信じないのもワタシの自由だと言いました。ただ、自分と結婚してくれなければ、このワタシ、イアン・バーンスタインは呪いを受けてヒドイ一生を歩み、逆に自分と結婚してくれさえすれば、望むままの人生の展望が開けるというのです……タケミヤさん、この話、アナタどう思いますか?ワタシも最初は半信半疑だったのですよ。デモ、その時ワタシの人生はすでにメチャクチャでしたから、ワタシはハルエの言うことを信じることにしたのです。ショウジキ、その時のワタシには日頃の忙しさからくる虚しさのせいで、マトモな判断力といったものが損なわれていたのだと思います。でもカエッテ、それだからこそよかった。ワタシはすぐに恋人のイザベラと別れ、会社を辞め、何をするというアテもなくここ、釧路の地へとやってきた。まるで旧約聖書にでてくるアブラハムが、行くところを知らずして、神の導きのままに己の故郷をアトにしたように」

 俺はなるほど、と頷きながら彼の話を聞き、時々フォークにパスタを絡ませながら食べた。彼はドリアが冷めるのを待つように、話をする間、それに手をつけようとはしなかったが。

<灰色職人>が何者か、ということについては、輪郭が朧げながら見えてきた。そしてイアンの言うとおり、問題なのはその存在を「信じるか否か」ということなのだ。まして俺には処女の女と寝た経験などなかったし、彼に<灰色職人>を紹介されて、英語がペラペラにならなければならない切羽詰まった必要性もないような気がした――ようするに彼は、自分の経験した珍しい話を、俺に記事として書いてほしいという、もしかしてただそれだけなのだろうか?

「これも聖書からの引用ですが、『神は恵みたい者を恵み、哀れみたいと思う者を哀れむ』ものなのですよ、タケミヤさん」イアンは俺の考えを見抜いたように、冷たく青い瞳を光らせた。そしてようやくドリアに手をつけはじめながら続けた――「ワタシ、猫舌なんです」と前置きしたあとで。

「そのようなワケで、ワタシとハルエはすぐに結婚しました。そしてハルエが自分の会社のアイスホッケーチームの監督として、ワタシが就任できるようにしてくれたんです。ココのところは説明するのが難しいのですがね、ワタシは今では膝を駄目にしてよかったとさえ思っているのですよ――でなければ、以前と同じように傲慢な人間のままだったでしょうし、イザベラと結婚して不満足な結婚生活と浮気を繰り返していたでしょうから。デモ今はハルエと、三歳になる息子、一歳になる娘と一緒にいて、トテモ幸せですよ。監督を三年勤めて、チームをリーグ優勝に導くこともできた。実は来年で、監督の職を辞すことになっているのですが、ようやくホッケーリンクに対する執着というのかな、そういうものがなくなってきたんです。これからはただのアイスホッケーファンとして、時々リンクに足を運んで試合の応援ができれば十分だって、そう思えるようになってきましてね」

 イアンは話す合間に、ふうふう言いながらドリアを食べていた。奇妙な話だが、俺はその時、彼の中にふたり人間がいるような、そんな錯覚に囚われそうになっていた。ひとりは彼を不幸にしようとする因子――それはコンピューターで計算することのできない、霊的な何か――で、もうひとりは彼を幸せへと導く因子を司る何者かだった。単純に天使と悪魔というのではない、両方の存在が確かに<いる>と直感的に感じた。

(……今俺が感じている、この奇妙な感覚は一体なんだ?)

 コンピューターが物凄い速さで同時にいくつもの計算をこなすように、目に見えない霊的な情報が脳に注ぎこまれてくるのを感じる。つまりハルエとイアンは今申し分なく幸せであり、<灰色職人>はもはやふたりの間に必要のない存在になったということなのではあるまいか?ということはつまり……。

「そのとおりです、タケミヤさん」イアンはドリアの皿から顔を上げると、げっぷをひとつしてから、言った。なんだかテレパシーで心と心が通じあってしまったみたいだ。「灰色職人はシベチャの山から引っ越すのだそうです。彼はもう何千年も生きており、これまでの間にも、世界中を転々としてきたのだそうですよ。そして時々ハルエのような心の持ち主を見つけては、濃い関係を持ち、その人間が死ぬと同時に<引越し>を繰り返してきたのだそうです。ワタシにもよくわかりませんが、灰色職人の話によると、世界はもうじき終わるということでした。もうじきといっても、彼にとって百年はそんなに長くないようなので、それがいつのことなのかはワタシにもよくわかりませんが。とにかく、彼はその昔神に反逆した存在の一分子だったようです。それで罰として世界が終わるまで地上で肉体を持たぬ存在として彷徨うことになった……なんでも、世界が終わる時には聖書にあるとおり、確かに神の審判というのがあるらしく、このままいくと彼は地獄いきなんだそうです。だから、人間に少しでも善いことをして、地獄いきを免れたいという話でした。『これまではのんびりやってきたが、時が縮まってきているのを近ごろとみに感じるので、善行を増やしたいと考えている』とか……」

「なるほど。それで俺がその気になれば、宝くじで三億円が当たるのも夢じゃないというわけか」

 俺はふざけてそう言ったが、イアンは至極真剣な顔をして首を振った。

「タケミヤさんにも次期わかりますよ。俺の膝が奇跡的によくなったり、タケミヤさんに三億円当たったりすることが、決して本当の幸せではないんだということが。彼がするのはあくまでも、必要最低限の手助けだけです。それに、彼が右と言っているにも関わらず、人間的な判断で左を間違って選んでしまったりとか……そういうこともよくあるようなので、タケミヤさんも気をつけてください」

「灰色職人っていうのは、つまりそのう……」俺は彼が間違いなく存在しているという仮定に立っている自分を、滑稽に感じたが、それでも聞かずにはいられなかった。

「霊的な存在として、耳元で囁いてきたりするものなのかい?たとえば――これはあくまでもたとえばだけど――ロトを買う時にある番号を耳元に囁いてきたりというような?」

 今度はイアンのほうが笑った。

「そうですね。彼と似たような霊的存在の中には、そういうことをする連中もいるということです。でも灰色職人はあくまでも灰色なんですよ――いるのかいないのか、よくわからないのです。ただハルエの場合は、彼女は特別彼に愛されていたらしく、よく夢の中で会っていたということですね。ワタシにもうまく説明できないのですが、ワタシもハルエと交わることによって、人間は肉体的にひとつになるだけではないということを生まれて初めて知りました。セックスをするというのは、肉体的にひとつになるということと同時に、霊的結合を果たすということでもあるのです。だから、ワタシにもハルエの巫女的な能力が若干乗り移るようになってきた。うまく言えませんが、霊の分け与えというもののようですね。そういう意味で、1+1は2ではなく3なのですよ」

 ううむ、と俺は頭をひねりながら食事を終え、ますますよくわからなくなっていた。そもそも、そんな目に見えない存在をどうやって俺に<紹介>するというのか?とはいえ、イアンの話したことは全部が全部本当でなかったとしても、不思議にところどころ真実味があった。果たして俺もこれから、フランス語がペラペラになったり、若い処女の娘とセックスしたりする機会に恵まれるとでもいうのだろうか?

「おお、ミスター・タケミヤ!」

 イアンが突然叫んだので何ごとかと思えば――彼はスプーンで左の目を隠し、真剣な表情で言った。

「ワタシの右目の視力は1.5です。そして左目も1.5。両方合わせて3.0。ミスター・タケミヤは?」

 思わず座布団の上に俺はずっこけそうになったが、彼は俺の答えなどまるで期待していない様子で、今度はつまようじで歯間のカスをシーハー言いながらとっている……つくづくよくわからない外人だな、と俺は彼のギャグセンスについていけないものを感じた。霊的な話ばかりでなく。




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