「愛妻家」を売りに大人気となった夫、その動画の無料小道具にされていた私
プロローグ
亮介がほかの女と親しげにしていることに気づいてからも、私は、きちんと向き合って話すべきか迷っていた。ところが翌日、ネット上で六年前の動画を見つけた。悠斗を出産したとき、病院のルールで許可された範囲なら家族が撮影できたため、亮介は記念に残したいと言って、立ち会い出産の様子をスマートフォンで少しだけ撮っていた。映っていたのは私の顔と、握り合った手、それから痛みで言葉も出なくなっている私の姿だけだった。
その映像が、今になって十数分の動画に編集され、亮介のアカウントへ投稿されていた。タイトルは「妻の出産に立ち会って、初めて母親のすごさを知った」。動画は瞬く間に話題になり、リアルで感動したという声の一方で、痛みに耐える私の表情を切り抜いて面白がる人まで現れた。
亮介は概要欄に、「これから出産を迎える家庭の役に立つなら、美緒が頑張ったことにも意味があると思います」と書いていた。その一文を見た瞬間、もう話し合う気持ちは消えた。
「離婚しよう。悠斗は私と暮らす」
亮介は私を見ても、ほとんど驚かなかった。
「いいよ。ただ、離婚したい、悠斗も主にそっちで育てたいっていうなら、先にこれへサインして」
私はテーブルの書類に目を落とした。離婚後も定期的に撮影へ参加し、離婚したことは公表せず、カメラの前では仲のいい夫婦を演じ続ける。亮介のアカウントと企業案件のイメージを守るための契約だった。どうやら、この日を待っていたのは彼も同じだったらしい。
私は袖口に隠していたスマートフォンを取り出した。ライブ配信の画面はずっと真っ暗だったが、音声は切っていない。増え続ける視聴者数を見ながら、私は口を開いた。
「今の話、みんな聞こえてましたよね?」
1.カメラの前でだけ優しい夫
「みなさん、おはようございます。美緒はまだ寝てるので、今日は朝ごはんを作って、この寝坊助をいい匂いで起こしてみようと思います」
眠りの底で、亮介がわざと声を抑えて話すのが聞こえた。昨夜は彼が何人かの友人を家に呼んで飲んでいて、リビングには空き缶やデリバリーの容器、油のついた皿が残っていた。私が片づけ終わったのは午前三時で、ようやく眠ったばかりだった。
眉を寄せて目を開けると、亮介は髪まできれいに整え、清潔なグレーの部屋着でスマートフォンを構えていた。寝起きの私と自分が一緒に入る角度で撮っている。
「起きた? おはよう。朝のキス、してくれる?」
私は顔をそむけた。寝不足の隈も、寝起きのひどい顔も、全部そのまま画面に映っている。
「亮介、もう少し寝かせて」
押しのけられても、彼は機嫌を悪くするどころか、カメラに向かって笑った。
「今日は本当に疲れてるみたいですね。じゃあ先に朝ごはんを作ってきます」
ようやく寝室のドアが閉まった。私は寝返りを打ち、すぐにまた眠りに落ちた。
次に目を覚ますと、リビングまで食べ物の匂いが漂っていた。テーブルにはトースト、目玉焼き、サラダ、ヨーグルト、果物が並び、普段よりずっと豪華に見えた。亮介は先に席につき、もう半分ほど食べ終えていた。
私がトーストを取った瞬間、彼がスマートフォンを持ち上げた。
「待って。今の角度いい。もう一回、持ってみて」
手を止めた。
「今?」
「すぐ終わるから」
亮介が構図を整えたので、私は仕方なくトーストを持ち直した。
「ほら、今日も妻を大事にする一日の始まりです」
カメラが私の顔からテーブル全体へゆっくり移動する。撮影が終わると、亮介はすぐにスマートフォンを置き、椅子の背にもたれた。
「俺はもう食べたから。テーブル片づけといて。これ撮るために早起きしたし、もう一回寝る」
仕事部屋へ向かう背中を見ながら、私は画面のためだけに並べられた皿に目をやった。
「亮介、今日も会社には行かないの?」
足が止まった。亮介はもともと広告関係の会社で営業をしていた。数か月前、就業規則に定められた自己都合休職制度を利用し、家庭の事情を理由に半年の休職へ入ったものの、その時間の大半を動画アカウントの運営に使っていた。
「今やってることだって仕事だよ。アカウントが伸びれば、会社員より稼げる。家のためにやってるんだ」
私たちが結婚後に買ったのは、駅から歩いて十五分ほどの3LDKの分譲マンションだった。広すぎる家ではなく、亮介は三部屋のうち一番小さな洋室を仕事部屋にしていた。住宅ローン、自動車ローン、悠斗の幼稚園代に日々の生活費と、毎月決まって出ていくお金は少なくない。
「でも、今のところアカウントはほとんど収入になってないでしょ。休職したって、ローンの支払いは止まらないんだよ」
亮介の顔が曇った。
「毎日家にいて、外で働いてるわけでもないのに、何がそんなに大変なの?」
私は彼を見た。
「悠斗を妊娠したとき、仕事を辞めていいって言ったのは亮介でしょ。子どもが小さいうちは俺が支えるって」
「先月だって生活費は渡しただろ。もう残ってないの?」
仕事部屋のドアが閉まった。私はダイニングテーブルの横に立ったまま、手にしていた牛乳のグラスを滑らせた。床に落ちたガラスが細かく砕けた。
悠斗が部屋から走ってきた。
「ママ?」
六歳の悠斗は、幼稚園の年長組だった。ガラスの端で私の指に小さな傷がついているのを見つけると、しゃがみ込み、私の手を取って一生懸命息を吹きかけた。
「痛い?」
その顔を見ていると、胸の奥に押し込めていたものが重く詰まった。
悠斗を幼稚園へ送ったあと、私はすぐには家へ戻らなかった。結婚前にはEC運営のアシスタントや顧客対応の仕事を数年していたが、妊娠を機に退職してから、この六年間は正式な職歴がほとんどない。まず近くのハローワークへ行き、そのあと求人サイトから何社かに応募した。
ずっと、悠斗がもう少し大きくなったら働こうと思っていた。「もう少しだけ」と先延ばしにしているうちに、六年が過ぎていた。
夜、玄関を開けるなり、亮介が飛び出してきて私を抱きしめた。
「美緒! 伸びた! 朝の動画、すごいことになってる!」
興奮した亮介は、私の体が浮きそうなほど強く抱いた。差し出されたスマートフォンでは、再生回数もフォロワー数も目に見えて増え続けている。最初は私も本当にうれしかった。コメント欄を見るまでは。
『こんな夫、どこにいるの?』
『朝から奥さんの機嫌が悪いのに、こんな朝食まで作るなんて』
『イケメンで料理もできるとか、うらやましすぎる』
『奥さん、さすがにだらしなさすぎない?』
『こんないい旦那さんが、どうしてこの人と結婚したんだろう』
指が止まった。亮介はすぐにスマートフォンを取り上げた。
「気にするなよ。画面の向こうの人に美緒のことなんてわからないんだから。最近の反応、本当にいいんだ。このまま伸びれば企業案件も増える。もっと広い家に住めるし、悠斗が小学校に入ったら習い事だっていろいろさせてやれる」
膨らみかけた怒りが、少しずつ引いていった。
「これからは撮る前に言って」
「もちろん。次からちゃんとするよ」
私はうなずき、部屋へ戻ろうとした。その背中に、亮介の小さな声が届いた。
「まあ、別にきれいにしすぎなくてもいいけど。今くらいのほうがギャップが出るし」
振り返ったときには、亮介はもうスマートフォンを持って部屋へ入っていた。
2.借り物の結婚記念日
その夜、私は初めて亮介のアカウントをじっくり見た。動画の私は顔色が悪く、隈を作り、突然起こされたせいで不機嫌そうに見える。一方の亮介は身なりも整い、優しく、辛抱強い夫に映っていた。
コメント欄には、「美緒はずっと家で子どもの面倒を見ていて大変なんです。家では無理してほしくない」とまで書いていた。仕事をしているのかと聞かれると、「今は悠斗のことを中心にしてもらってます。まだ小さいし、これ以上無理させたくない。家のお金も二人で管理してます」と答えている。
私はその文を長いこと見つめた。二人で管理していると言っても、亮介が私に渡すのは毎月六万円の生活費だけだ。食費や日用品、悠斗に急に必要になったものまで、ほとんどそこから出している。私自身の服は、四、五年着続けているものも多かった。
それでもコメント欄の亮介は、「妻を大切にする理想の夫」になっていた。私を攻撃する書き込みに反論しようと文字を打ちかけたが、結局すべて消した。このアカウントが本当に収入につながるなら、家計は少し楽になるかもしれない。
ただ、その夜初めてはっきりわかった。自分の生活を、これ以上亮介だけに預けてはいけない。
翌日も仕事を探した。面接は思っていた以上に厳しかった。
「このポジションは、状況によって残業をお願いすることがあります。お子さんはまだ幼稚園とのことですが、送迎の調整はできますか?」
「ブランクが長いので、その点も含めて選考させていただきます」
「こちらで使っているシステムは、以前のお仕事とは少し違います。次の選考へ進まれた場合は、簡単な操作テストも受けていただきます」
どこも言い方は丁寧だった。それでも、丁寧に言われるたび、六年という空白の長さを思い知らされた。
疲れきって帰宅し、ドアを開けた瞬間、頭上から紙吹雪が降ってきた。リビングから亮介が出てきて、私を抱きしめた。
「結婚五周年、おめでとう」
私は一瞬固まった。今日は本当の結婚記念日ではない。次の瞬間、リビングに三方向からスマートフォンが置かれているのが見えた。
亮介はカメラに背を向け、私の耳元へ顔を寄せた。
「撮ってる。合わせて。すぐ終わるから」
それで全部わかった。
私たちはソファに座った。亮介は出会った頃のこと、初めてのデート、私が妊娠して自分が家族を支えると決めたことを話した。どれも嘘ではない。それでも彼の口から語られると、まるで私たちの結婚生活には喧嘩も疲れも存在しなかったように聞こえた。
何度か合わせて返事をしているうちに、悠斗が一度も姿を見せていないことに気づいた。今日は亮介が幼稚園へ迎えに行く約束だった。
「悠斗は?」
亮介は聞こえなかったように振る舞い、背中から上品なリングケースを取り出した。
「美緒、今まで本当にありがとう。悠斗のために仕事を辞めて、この家のこともずっと支えてくれた。俺はちゃんとわかってるよ」
ケースの中には、ダイヤの指輪が入っていた。照明を受けて光る石に、本当に驚いた。亮介に抱き寄せられたその瞬間、私は馬鹿みたいに思った。もしかすると、私たちはただ疲れていただけなのかもしれない、と。
十数分後、撮影が終わった。ライトを消した亮介は、すぐに手を差し出した。
「指輪、返して」
意味がわからず、私は彼を見た。
「え?」
「明日返却するんだよ。一日借りるだけでも安くないし、傷つけないで」
私はゆっくり指輪を外した。
「悠斗はどこ?」
亮介は指輪に傷がないか確かめながら答えた。
「拓也のところ」
私は勢いよく立ち上がった。
「拓也に預けたの?」
拓也は亮介が大学時代から知っている友人だった。仕事は長続きせず、古いワンルームの賃貸に住んでいて、仲間が集まって麻雀をしたり酒を飲んだりすることも多い。いつ行っても部屋は散らかっていた。
「今日はこっちの準備で迎えに行く時間がなかったんだ。拓也が空いてたから頼んだだけ」
私はバッグをつかんで家を飛び出した。
拓也の部屋は駅からそれほど遠くない。ドアが開いた瞬間、酒と煙草の匂いが流れてきた。何人かの男が低いテーブルを囲んで麻雀をし、テレビも大きな音でついている。
悠斗は一人で隅に座り、子ども用のマスクをして、半分ほど残ったジュースを横に置きながら、幼稚園でもらったひらがなのワークに取り組んでいた。
「悠斗」
顔を上げるなり、悠斗は立ち上がった。
「ママ!」
私はしゃがんで、子どもを強く抱きしめた。悠斗の小さな手が私の頬に触れた。
「ママ、どうしたの?」
「なんでもないよ。帰ろう」
3.六年ぶりの再就職
悠斗を寝かせたあと、亮介の仕事部屋のドアを開けた。若い女の笑い声が聞こえていたが、ドアの音と同時に途切れた。亮介はスマートフォンを伏せて机の上に置いた。
「仕事の話してるんだけど。入る前にノックくらいできない?」
私はドアの前に立った。
「拓也の部屋がどんなところか知ってるよね。大人が煙草を吸って、お酒を飲んでる中で、悠斗は夜まで一人で隅にいたんだよ」
亮介はイヤホンを外した。
「じゃあどうしろっていうんだよ。美緒だって最近、毎日のようにどこかへ出てるだろ」
「今日は亮介が迎えに行く約束だった」
「美緒が急に何やってるのかわからないから、ほかの人に頼むしかなかったんだろ」
亮介はスマートフォンを手に取り、私へ二万円を送金した。
「今月はこれで。俺はまだ仕事があるから、もういいだろ」
画面の振込通知を見た。二万円では、一か月分の食費や日用品にさえ足りない。私はそれ以上言い返さなかった。
リビングへ戻ると、スマートフォンに一通のメールが届いた。以前応募した会社からだった。大企業ではないが、生活雑貨のブランドとオンラインショップを運営していて、EC運営のアシスタントを募集している。
書類選考を通過したので、翌日の午前中に面接へ来てほしいと書かれていた。私は何度も読み返した。長いこと忘れていた期待が、少しずつ戻ってきた。
翌朝、久しぶりにきちんと化粧をし、クローゼットから面接にも使えそうな服を選んだ。出かけようとしたところで、廊下から亮介が来た。スマートフォンはすでに録画中だった。
「おはようございます。今日は美緒も早起きです。朝ごはんも、もうすぐできますよ」
私はカメラを避けた。
「昨日言ったよね。午前中、用事があるって」
亮介は笑顔を崩さない。
「ちょうどいい企画を思いついたんだ。十分で終わる。悠斗も幼稚園へ送らないといけないし、ちょっとだけ合わせて」
時計と、玄関ですでに通園バッグを背負って待っている悠斗を見比べ、結局私は席についた。
亮介に朝食を一口食べさせてもらい、カメラに向かってうれしそうにしなければならない。十分のはずが二十分以上かかり、幼稚園の登園時間ぎりぎりになって、ようやく撮影が終わった。
バッグを持って出ようとすると、亮介が後ろから腕をつかんだ。
「最近、何してるの? 撮りたいときに全然いないじゃん」
「静香がちょっと困ってるから、手伝ってるだけ」
面接のことはまだ言わなかった。悠斗を抱きしめてから、私は急いで家を出た。
会社に着いたときは、面接開始まで数分しかなかった。洗面所で呼吸を整えた。六年間まともに職場へ出ていなかったから、もっと怖くなると思っていたが、面接室に入ると、昔やっていたことが少しずつ体に戻ってきた。
六年のブランクについて聞かれても、隠さずに答えた。
その日の午後、採用の連絡が来た。EC運営アシスタントとして雇用契約を結び、最初の三か月を試用期間とするという条件だった。翌日から入社手続きをすることになった。
昼に悠斗を迎えに行っても、すぐには家へ戻らなかった。亮介の撮影は日に日に増え、最近は悠斗まで出演を求められることがある。しばらく私の母の家で過ごさせたほうがいいと思った。
「おばあちゃん、悠斗に会いたいって言ってたよ」
悠斗がぱっと顔を上げた。
「ほんと?」
「ほんと。少しお泊まりして、一緒にいてあげる?」
悠斗はすぐにうなずいた。私は頭をなで、そのまま母の家へ連れていった。
4.「そんな仕事、辞めればいいだろ」
家へ戻ると、玄関の外にブランド物のショッピングバッグがいくつも置かれていた。一番上には亮介の字で、「袋を持って、うれしそうに入ってきて」と書いたメモが貼ってある。私はしばらくその場に立ってから、ドアを開けた。
亮介は黒いシャツにエプロン姿でキッチンに立っていた。補助ライトが点き、少し離れたところにはスマートフォンがセットされている。
「おかえり。夕飯、もうすぐできるよ。先に新しい服、着てみて」
私の横を通るとき、声を落とした。
「最近の動画、反応いいから。ちゃんとやって」
部屋には値段の高そうな服が何着も掛けてあった。一着につき何度も着替え、同じ場面を三回、四回と撮り直して、ようやく亮介が満足した。
機材を全部止めたあと、ダイニングテーブルへ行った。そこには何もなく、キッチンにあるのは溶いた卵が入ったボウルだけだった。
「夕飯は?」
亮介はソファに座って素材を確認している。
「俺はさっきデリバリーで食べたよ。卵は溶いてあるから、お腹すいたなら適当に作れば?」
私は数秒その場に立ち、それから自分でうどんを作った。
亮介は顔も上げない。
「夜、もう一本ライブ配信するから美緒も出て。メイクは濃くしなくていい。今は自然なほうが受けるから」
「明日から仕事なの」
亮介の手が止まった。
「え?」
「採用された。明日から働く」
亮介が顔を上げる。
「何の仕事?」
「EC運営のアシスタント」
鼻で笑われた。
「何年も仕事してなかったのに、二十代の子たちと張り合って何になるの? 家で俺と動画やってたほうがいいだろ」
私は彼を見返した。
「撮影が必要なら時間は調整する。でも、これからは前もって言って」
亮介は答えなかった。
その夜も、私はライブ配信に出た。亮介に、昼間着たブランド物のワンピースを着るよう言われた。
「ロゴのところ、隠さないで」
配信が始まると、亮介はカメラに笑いかけた。
「みなさん、こんばんは。美緒はまだ準備中です。もうすぐ来ますよ」
私は彼の横に座った。コメントがすぐに流れ始める。
『やっと来た』
『実物も普通なんだね』
『こんないい旦那さんなのに、何が不満なんだろう』
亮介は画面を見ながら笑った。
「そういうこと言わないでください。俺は美緒の悪口を言われるのが一番嫌なんです。俺にとって一番大事な人だから」
コメント欄にはすぐに称賛が並んだ。私は隣で黙っていた。
それから数日で、亮介のもとには企業案件が増えていった。スキンケア用品、洗剤、小型家電まで、さまざまだ。「妻のために洗濯する夫」という動画では、洗濯機を実際には動かさず、同じ新品の服を二枚用意してビフォーアフターのように見せていた。
それでも、亮介一人だけのPR動画は夫婦の日常動画ほど再生されない。彼にとって、私はますます欠かせない存在になっていた。
ある夜、亮介が突然言った。
「撮影用に別のスタジオを借りようと思ってる。家だとできることに限界があるし。軌道に乗ったら、美緒も今の仕事辞めて、こっちに専念してよ」
私は彼を見た。
「スタジオを借りるお金、どこから出すの?」
亮介の表情が一瞬固まった。
「そこは気にしなくていい」
広告案件の金額も、プラットフォームからの入金記録も、彼は一切見せなかった。それでも口では、稼いだ金は全部家族のためだと言い続けている。
私が疑い始めたのを察したのか、亮介は一枚のキャッシュカードを差し出した。
「生活費用の口座。最近入った金は、ひとまずここに入れてる」
口座残高を確認すると、確かにまとまった金額が入っていた。亮介はカードを私に渡す。
「暗証番号は悠斗の誕生日。まず自動車ローンを片づけて、住宅ローンも一部繰上返済できるようにしよう」
カードを受け取り、その夜はようやく少しだけ安心できた。
5.残高、38円
仕事には思っていたより早く慣れた。長いブランクがあると知っても、同じチームの人たちは特別な態度を取らなかった。隣の席の森本さんは私より少し年下で、明るく話しやすい人だった。
昼休み、何人かが短い動画を見ながら話していた。森本さんが急にスマートフォンを私のほうへ向けた。
「桐谷さん、これ……見れば見るほど似てる気がするんですけど」
周りの人も画面をのぞき込んだ。そこに映っていたのは亮介のアカウントだった。
私は二秒ほど黙った。
「私です」
オフィスが一気にざわついた。
「え、本当に?」
「最近すごく伸びてる夫婦のアカウントですよね?」
「どこかで見たことあると思ってた」
誰かが笑いながら、旦那さんは撮影チームを作るのかと聞いた。
私は聞き返した。
「撮影チーム?」
森本さんも少し驚いた顔をした。
「知らなかったんですか? 昨日の配信で、スタジオの契約はもう済んだって。アシスタントと、新しい配信者も募集するって言ってましたよ」
笑顔が止まった。
退勤後、近くのATMへ向かった。亮介から渡されたキャッシュカードを入れ、残高を確認する。表示された数字を見た瞬間、自分が見間違えたと思った。
38円。
一度カードを抜き、もう一度確かめた。それでも38円だった。
以前見せられたまとまった金額は、亮介がカードを私へ渡したその日の夜に、インターネットバンキングで別口座へ移されていた。「生活費用の口座」は、私を安心させるためだけのものだった。ローンを返すことも、もっといい家へ住み替えることも、私に撮影を続けさせる口実にすぎなかった。
家へ戻ると、玄関に花束が置かれていた。亮介がスマートフォンを構え、笑顔で近づいてくる。
「今日もお疲れさま」
カメラを見た瞬間、胸の奥から怒りがこみ上げ、私は花束を払いのけた。
「もうやめて」
花が床へ落ち、亮介の笑顔が凍った。
「口座、38円しか残ってなかった。渡した日のうちに全部移したんでしょ。スタジオだって、ずっと前に借りてた」
「美緒――」
「これから勝手に撮らないで。私にも仕事がある。亮介の動画の素材になるためだけに生活したくない」
私は寝室へ入った。
その夜、初めて本気で考えた。仕事を続けられるなら、悠斗を自分で育てていけるなら、離婚できるのではないか、と。
6.私の仕事を壊したのは夫だった
翌朝、会社へ入ったところで足が止まった。私のデスクとパーティションに赤い塗料がかけられ、「取引先を誘惑した女」「他人の家庭を壊すな」と印刷した紙が貼られている。オフィスの中は不自然なほど静かだった。
席までたどり着く前に、四十代くらいの女が突然駆け寄ってきた。頬を平手打ちされ、私は机の端によろめいた。女はバッグから何枚もの写真を取り出し、机と床へばらまいた。
「仕事を取るためなら、人の夫にまで手を出すの?」
写真の男は高橋という取引先の担当者だった。数日前、先輩社員について商談へ行き、その後の会食にも参加していた。高橋は酒が回ると何度も不必要に距離を詰めてきたため、私は早めに理由をつけて席を離れた。それなのに、写真だけを見ると状況はまるで違う。
一枚は私から高橋へ寄り添っているように見え、もう一枚はちょうど彼の手が私の腰に触れた瞬間だけを切り取っていた。
「この写真と、実際にあったことは違います」
女は鼻で笑った。
「こんな写真まであるのに、まだ言い逃れするつもり?」
もう一度こちらへ向かおうとしたところを、同僚が止めた。
部門責任者と人事担当者がすぐに駆けつけた。女は会議室へ案内され、私も別室で経緯を説明した。
午後、人事から、取引先とのトラブルに加えてネット上でも話が広がっているため、事実確認が終わるまで自宅待機してほしいと告げられた。試用期間中の業務も、いったん停止になった。
数日後、再び会社へ呼ばれた。人事は解雇を告げたのではなく、ネット上の騒動が収まらず、高橋側からの苦情も続いていることを理由に、退職勧奨をしてきた。まだ試用期間中でもあり、双方の合意で雇用契約を終了できないかという話だった。
その頃の私は離婚の準備を始め、亮介や悠斗のことまで抱えていた。会社との問題まで同時に争う余力はなく、最終的に退職勧奨を受け入れ、合意退職の書類へ署名した。
あとで弁護士に見てもらうと、あの退職が本当に私の自由意思に基づくものだったのか、会社が十分な事実確認をしたのかについて、争う余地はあると言われた。ただ、その時点では、そこまで手を広げる力がなかった。
会社を出た日は雨だった。軒下に立っていると、悠斗から電話がかかってきた。
「ママ、いつ迎えに来るの?」
私は一度目を閉じた。
「もう少しだけ、おばあちゃんのところにいてくれる?」
「でも、ママに会いたい」
「ママも会いたいよ。すぐに迎えに行くからね」
電話が切れると、ようやく頭が冷えてきた。高橋、突然会社へ来た妻、都合よく切り取られた写真、ほぼ同時に出た匿名の書き込み。あまりにも出来すぎている。
仕事の関係で、高橋の会社がどこにあるかは知っていた。本人を訪ねるつもりはなく、ただ近くへ行ってみた。しばらくすると、カフェの外で見覚えのある男を見つけた。
藤原蓮。
亮介が最近雇った若いアシスタントだった。
蓮は高橋と一緒に立っていた。会社で騒いだ女までそこにいる。三人とも楽しそうに話し、高橋は蓮の肩を親しげに叩いていた。
私は通りの反対側から、その様子をスマートフォンに収めた。ここまで見れば、どれほど鈍くてもわかる。私が色仕掛けで仕事を取ったという話は、最初から作られたものだった。
スマートフォンが何度も震え始めた。会社で私が平手打ちされた映像が、誰かによってネットへ投稿され、すぐに身元を特定された。
『これ、あの夫婦アカウントの奥さんじゃない?』
『ずっと家で子育てしてるんじゃなかったの?』
『再就職したと思ったら取引先とトラブル?』
『亮介かわいそう』
一時間もしないうちに、私と亮介の名前がXのトレンドに入った。
家へ戻ったとき、マンションの隣にある二階建ての小さなオフィスビルの一階が、いつの間にか改装されていることに気づいた。ガラス越しに補助ライト、背景スタンド、何台かのパソコンが見える。入口には亮介の撮影スタジオの名前が掲げられていた。
中へ入ると、亮介はパソコンのアナリティクス画面を見ていた。
「私の仕事のこと、亮介が仕組んだの?」
椅子をこちらへ向ける。
「帰ってくるなり怒るなよ」
「藤原蓮が、どうして高橋と一緒にいるの? やっと仕事を見つけたのに、私を陥れるためにあんなことまでしたの?」
亮介の笑みが少し薄くなった。
「美緒の給料なんて、俺の企業案件数本分にもならないだろ。無理して働くより、こっちで一緒に撮ったほうが楽じゃない?」
私は小さく笑った。
「私が自分の仕事を持ったら、もう亮介の言うとおりに撮影しなくなるのが嫌だっただけでしょ」
亮介の表情がようやく揺れた。それでもすぐに取り繕う。
「考えすぎだって。今夜、俺からちゃんと説明するよ。美緒がこれ以上ネットで叩かれないようにする」
私はそれ以上追及せず、スタジオの中へ視線を移した。
「ここ、借りるのにかなりかかったんじゃない?」
亮介は少し安心したようだった。
「これからは全部ここで撮る」
「じゃあ、自動車ローンと住宅ローンは? 私も仕事を失ったし、このままにはできないでしょ」
すぐに答えが返ってきた。
「大丈夫。俺が何とかする」
翌日、本当に自動車ローンは完済されていた。住宅ローンについても、一部繰上返済を申し込んだ記録を亮介が見せてきた。これで私がまた安心して撮影に戻ると思ったのだろう。私は黙って、その資料をすべて保存した。
7.夫は別の女を抱いていた
母の家へ悠斗を迎えに行った。帰る途中、隣のオフィスビルの前まで来て、悠斗がいつも乗っているキックバイクを、数日前に亮介が撮影用の小道具としてスタジオへ持っていったことを思い出した。そのまま悠斗の手を引いて中へ入った。
スタジオのドアは少し開いていた。キックバイクを見つけたところで、奥の休憩室から声が聞こえた。
私はすぐに悠斗の体を反対側へ向けた。
「悠斗、あっちのポスター見てて。ママ、ちょっとだけ取ってくるから」
それから、自分だけドアの隙間をのぞいた。
亮介が、一人の女を抱いていた。
見覚えのある女だった。立花結衣。前日の配信で、亮介がスタジオ所属の新しい女性配信者として育てていくと紹介していた人だ。
私はスマートフォンを取り出し、必要な証拠だけを残した。六年続いた結婚生活が、その数分のあいだに不思議なくらい静かになっていった。取り乱すと思っていたのに、頭に浮かんだのは一つだけだった。
そういうことだったのか。
私は悠斗をもう一度母の家へ預けた。子どもには何も見せなかった。
その後も数回だけ、亮介との夫婦動画に付き合った。同時に、自分でもアカウントを作った。最初の投稿には、以前の結婚記念日動画で公開済みだった映像を使った。
アカウントを開設すると、コメントとダイレクトメッセージが一気に増えた。私を罵る人もいれば、ただ騒ぎを見に来ただけの人もいる。
亮介が気づいたとき、明らかに機嫌を悪くした。
「なんで自分でアカウントなんか作ったの?」
「ネットでは、私がほかの男と関係を持ったことになってる。ずっと誰かに勝手なことを言われたままなのは嫌なの」
亮介は不満そうだった。それでもカメラの前では、ずっと妻の意思を尊重する夫を演じてきた。表立って反対することはできなかった。
その夜、亮介は予定を早めてライブ配信を始めた。スタジオには撮影時に共用しているタブレットがあり、台本やコメント、リアルタイムの数値を確認するために使っている。
配信の途中で、亮介が一時的に席を外した。突然、タブレットの画面が点灯した。
結衣から届いたLINEの通知プレビューだった。
『昨日、亮介さんが帰ってからずっと眠れなかった』
すぐにもう一件表示された。
『いつになったら、美緒に隠れなくてよくなるの?』
亮介のアカウントは、仕事用に共用しているその端末へログインしたままだった。通知内容はロック画面にそのまま表示されている。私はトーク画面を開いて遡ることはせず、すでに画面に出ていた内容だけを写真に残した。以前撮った写真も、改めてクラウドへバックアップした。
配信のコメント欄では、相変わらず書き込みが流れていた。
『こんないい旦那さんがいるのに、何が不満なの?』
『亮介さん、本当に奥さんのこと大事にしてるよね』
私はしばらく画面を見た。
「本当に、そう見えますか? 話せることが出てきたら、そのときは私自身の言葉で話します」
亮介が戻る前に、私は自分のやり取りを終えた。
その深夜、知らないアカウントからフォロー申請とメッセージが届いた。承認すると、送られてきたのは一枚の写真だけだった。
亮介が結衣の隣で横になっていた。二人の関係を説明する言葉は、もう必要なかった。
一度自分の目で見たはずなのに、その写真を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。私は画像を保存し、そのまま亮介へ転送してスマートフォンの電源を切った。
その夜は、不思議なほどよく眠れた。
8.私の出産まで、彼の商品になった
翌朝スマートフォンを開くと、亮介からのメッセージで埋め尽くされていた。最初は言い訳だった。次第に責める言葉へ変わり、最後には脅すような文面まで混じっていた。
同じ日、亮介のアカウントに新しい動画が投稿された。六年前、私が出産したときの映像だ。家族だけで残すはずだった記録が、十数分の一本の動画に編集されている。
コメント欄には感動したという言葉が並び、一方で、痛みに耐える私の表情を画像として切り抜く人もいた。
私はスタジオへ向かった。亮介は撮影中で、結衣もそばにいた。
私が入ると、亮介はスタッフにいったん止めるよう合図した。
私は彼を見た。
「離婚しよう。悠斗は私と暮らす」
亮介はさほど驚かなかった。
「いいよ」
「家と車は?」
「俺が稼いだ金で買ったものだろ」
私は目をそらさなかった。
「住宅ローンは結婚してからずっと返してきたよね」
亮介は肩をすくめた。
「専業主婦だった美緒が、いくら出したの?」
「悠斗は?」
「俺のほうが収入はある。どうして美緒と暮らすって決まるんだよ」
結衣が横から口を挟んだ。
「何も持たずに出たほうが、かえって新しく始めやすいんじゃないですか?」
私は彼女を見た。
「これは私と亮介の話です」
結衣はそれ以上何も言わなかった。
亮介がこちらへ歩いてくる。
「明日、同じ時間に来て。条件をまとめておくから」
私はうなずき、スタジオを出た。
その日のうちに、弁護士へ相談した。保存していた資料を一通り確認した弁護士は、まず、亮介が離婚について思い込んでいることの多くが正確ではないと説明した。
婚姻中に形成・維持してきた預貯金や不動産、車などは、名義だけで単純に誰のものか決まるわけではなく、財産分与の対象になり得る。亮介の不貞行為と、私が持っている資料については、慰謝料請求に関係する可能性もある。悠斗のことも、収入の高低だけで監護する側が決まるものではない。
弁護士は、親権、日常の監護、養育費、今後の親子交流を一つずつ分けて説明した。現行制度では、離婚後に父母双方または一方を親権者と定めることができ、具体的な取り決めでは子どもの利益が最も重視されるという。
「今後は、できるだけ二人きりで正面からぶつからないでください。条件を話す必要があるなら、会話はきちんと記録しておきましょう」
私はうなずいた。
「明日、書類にサインしろって言われています」
「まず内容を確認してください。その場では署名しないで」
9.離婚しても、妻を演じろ
翌日の午後、私は先に自分のアカウントでライブ配信を始めた。カメラは誰にも向けず、レンズを覆って画面を真っ暗にした。亮介、結衣、スタジオ関係者のアカウントは、あらかじめ配信を見られないよう設定してある。
スマートフォンを消音にして、上着の袖口へ入れた。視聴者は少しずつ増え、なぜ真っ暗なのかとコメントされても、私は答えなかった。
スタジオへ入ると、亮介はソファにもたれていた。結衣が隣に座り、テーブルには二種類の書類が置かれている。
一つは離婚条件案。もう一つには、「動画出演・イメージ協力契約書」と書かれていた。
私は最初から最後まで目を通した。
「これ、どういう意味?」
亮介はソファにもたれたままだった。
「離婚はしていい。でも、アカウントは止められない」
契約書には、離婚後も定期的に撮影へ参加し、自分の判断で離婚を公表せず、企業案件や夫婦をテーマにした動画にも協力すると書かれている。
「離婚したあとも、私に夫婦を演じろってこと?」
「仕事だよ。このアカウントが毎月どれくらい稼いでるか、美緒だってわかってるだろ」
「私がサインする理由は?」
「サインすれば、揉めずに離婚する。悠斗も主に美緒と暮らすことで同意していい」
私は亮介を見つめた。
「悠斗を、この契約の交換条件にするの?」
亮介の笑みが薄くなった。
「一番現実的な条件を出してるだけだよ」
私は家と車について書かれた箇所を指した。
「これは全部、亮介が取るの?」
「俺が稼いだ金だから」
「結婚してから何年もローンを返してきたのに、私は何も受け取らずに出ていけって?」
「悠斗を美緒のところに置くなら、それで十分だろ」
私は彼を見た。
「浮気したのは亮介だよ」
亮介は結衣の肩を抱いた。
「誰が知ってるの? 外の人が見てる話は、こっちとは違うだろ」
私は黙っていた。亮介はそのまま続ける。
「前の会社の件だって、あの写真は今もネットに残ってる。本当に争ったら、世間がどっちを信じると思う?」
私は顔を上げた。
「高橋の件、藤原蓮にやらせたんでしょ?」
亮介には、警戒する様子すらなかった。
「蓮があいつらと一緒にいたのを見たから何? 俺が指示したって証拠、持ってるの?」
私は二秒だけ黙り、袖口からスマートフォンを取り出した。視聴者数は予想以上に増えていた。前面カメラをオンにし、自分の顔だけが映るようにする。
「今の話、みんな聞こえてましたよね」
亮介の顔から血の気が引いた。
結衣が勢いよく立ち上がる。
「配信してるの?」
私はカメラを彼女へ向けなかった。
「今日はここまでにします。今の内容は保存して、あとは弁護士に渡します。離婚や今後の手続きについては、弁護士に確認して公表できる内容だけ、自分から説明します」
そう言って、配信を終了した。
スタジオを出て初めて、手のひらが汗で濡れていることに気づいた。元の家には戻らず、近くのビジネスホテルへ向かった。
その日のうちに、ネットでは急速に話が広がった。私は続けて配信をして煽るようなことはせず、弁護士の助言に従い、時系列と、公開済みのアカウントから使える情報、写真が意図的に作られた可能性を示す資料だけを整理した。
亮介が長く作り上げてきた「妻思いの夫」というイメージは崩れ始めた。広告主やタイアップ先の企業が次々と案件を止め、結衣もコメント欄を閉じた。一方で、私のアカウントのフォロワー数は初めて大きく増えた。
あとで弁護士から、会話を記録して証拠を保存することと、私的な会話をそのまま公にすることは別問題だとはっきり注意された。事件や第三者のプライバシー、進行中の法的手続きに関わる内容は、公開していいか必ず事前に確認するよう言われた。
私はその忠告を受け入れた。それ以降、同じような話し合いを勝手にライブ配信することはなかった。
10.悠斗を連れていかれた
弁護士は正式な離婚手続きを進め始めた。協議でまとまる見込みがなくなったため、家庭裁判所へ離婚調停を申し立てることにし、財産分与、慰謝料、悠斗の親権、日常の監護、養育費についても一緒に整理していった。
亮介からは一日に何度も電話がかかってきたが、すべて弁護士を通すことにした。
あとは手続きが進むのを待てばいい。そう思っていた。
ある夜、ホテルのドアが激しくノックされた。
ドアスコープをのぞくと、二人の警察官と、青ざめた母が立っていた。
すぐにドアを開けると、母が私の手をつかんだ。
「悠斗、亮介が連れていったの」
頭の中が一瞬真っ白になった。
亮介は以前から、幼稚園に届け出ている送迎者の一人だった。別居してからまだ日が浅く、私は園へ送迎者の変更を正式に申し出るところまで手が回っていなかったし、引き渡しを制限するような法的な書類も出していなかった。父親本人が迎えに来たため、園の先生は私たちの関係がそこまで深刻になっているとは気づかなかった。
母が迎えに行ったときには、悠斗はもう園を出たあとだった。亮介のスマートフォンも電源が切られている。
警察は、車の移動経路や周辺の防犯カメラ映像を確認していた。そのとき、私のスマートフォンに突然ビデオ通話が入った。
亮介だった。
警察官が、出るよう目で合図した。
画面がつながると、最初に映ったのは高層ビルの屋上だった。強い風が吹き、背後には夜の街が広がっている。カメラが動き、亮介の腕の中にいる悠斗が見えた。
悠斗の顔は赤く、目を閉じていた。泣き疲れて眠っているようにも見える。体が固まった。
「亮介、まず悠斗を安全なところに下ろして」
髭は伸び、亮介の目も真っ赤だった。
「美緒、俺、もう何もないんだ」
「私たちのことは、あとでいくらでも話せるから」
「広告は全部止まった。取引先からは損害の話までされてる。会社にも、休職した理由と、事前に届け出てなかった副業のことを説明しろって言われた。復職の話も止まったんだ。なんでそこまで俺を追い詰めるんだよ」
私は歯を食いしばった。
「何をしてほしいの?」
「離婚調停を取り下げて。慰謝料もいらないって言ってくれ。離婚もしない。今までどおり暮らそう。じゃないと、本当に俺には何も残らない」
そばの警察官を一瞬見た。
「亮介、少しだけ時間をちょうだい」
突然、通話が切れた。
続けてLINEが届いた。
『三十分』
『取り下げろ』
こちらから送ろうとしても、その後はメッセージが届かなくなった。
11.三十階建てビルの屋上
警察は、動画に映った建物の形、周辺の明かり、亮介の車が最後に確認された場所から、短時間で候補を絞り込んだ。場所は三十階を超えるオフィスビルだった。亮介のスタジオが最近この建物に入る会社と仕事をしており、上階の設備エリア近くへ通じる経路を知っていたらしい。
警察はまず屋上への出入口を封鎖し、関係するフロアから人を退避させた。説得を担当する警察官からは、私は指定された位置を絶対に動かず、勝手に端へ近づいたり、亮介を刺激したりしないよう何度も念を押された。亮介が私とは話すと確認できてから、ようやく警察の指示で彼から見える場所へ出た。
悠斗はまだ亮介に抱かれていた。
私は離婚調停に関する書類のコピーを手にしていた。周囲に人の気配を感じた亮介が、すぐに警戒した。
「警察、呼んだの?」
「悠斗を無事にしたいだけ」
私は紙を持ち上げた。
「取り下げればいいんでしょ。わかった」
亮介の目の前で、そのコピーを破った。
破ったのは、あくまで手元のコピーだけだ。離婚調停を本当に取り下げるには、別途正式な手続きが必要になる。
亮介は床へ落ちた紙片をじっと見た。
「悠斗を渡して。こっちに来て」
彼は首を振った。
「あとでまた裏切ったらどうするんだよ」
「私はここにいる。悠斗、もう限界だよ。まず下ろしてあげて」
亮介が腕の中の子どもへ目を落とした。張りつめていた表情が、ほんの少し揺らいだ。
屋上の反対側では、警察官たちが安全を確保しながら少しずつ距離を詰めていた。私は一度もそちらを見なかった。
「亮介、まず悠斗をこっちへ。あとの話は、それからにしよう」
亮介が子どもを抱いたまま、一歩だけこちらへ動いた。
そのとき、背後でかすかな物音がした。亮介が勢いよく振り返る。警察官の姿を見た瞬間、表情が一変した。
「騙したな!」
悠斗を抱いたまま、別の方向へ走り出した。
数人の警察官が同時に飛び出した。一人が横から亮介の体を押さえ、別の警察官が真っ先に悠斗をかばう。何人かがそのまま床へ倒れ込んだ。
亮介が確実に取り押さえられたのを確認してから、私は悠斗のところへ走った。薄く目を開けた悠斗が私を見た。
「ママ……」
私はその体を抱きしめた。
「ママ、ここにいるよ」
今度こそ、私は手を離さなかった。ほどなく待機していた救急隊が悠斗の意識や呼吸、全身の状態を確認し、そのまま病院へ搬送した。脱水と強い疲労、緊張は見られたものの、幸い重い外傷はなかった。
12.夫ではなく、子どもを選んだ日
屋上の一件のあと、亮介は警察に連行された。どのような犯罪が成立し、どの程度の刑事責任を負うのかは、その後の捜査を経て警察、検察、裁判所が判断することになった。私はアカウントで事件の詳細を追いかけて公表することはせず、弁護士からも、刑事手続きや家事事件が進んでいる間は、手続きに影響する内容や悠斗のプライバシーに関わることを投稿しないよう言われた。
離婚は最終的に成立した。亮介が幼稚園から無断で悠斗を連れ出し、子どもを使って離婚調停の取下げを迫ったこと、さらに屋上で現実の危険が生じたことなどを踏まえ、親権は私が単独で持ち、悠斗も引き続き私が日常的に監護することになった。
養育費は別途取り決めた。亮介が今後悠斗と会うか、どのような方法で親子交流を行うかについても、まず悠斗の安全と心身の状態を優先して考えることになった。
家と車も、亮介が考えていたように、名義が彼だからすべて彼のものになるわけではなかった。車は処分し、マンションも売却して残った住宅ローンを返済したうえで、婚姻中に形成・維持した預貯金やその他の財産と合わせ、財産分与の中で整理した。
結衣についても、亮介が既婚者だと知りながら関係を続けていたことから、弁護士を通じて慰謝料を請求した。亮介が家計から結衣のために支出していた高額な費用については、財産分与の協議の中で一緒に確認した。
離婚後も桐谷姓を名乗ることにした。悠斗の小学校入学も控えており、生活上の変化をこれ以上増やしたくないという思いもあった。私は期限内に「離婚の際に称していた氏を称する届」を提出し、その後も桐谷美緒として生活を続けた。
あの会社の仕事へ戻ることはなかった。それでも、短い期間でも職場へ戻ったことで、一つだけ確かめられた。
私は社会から取り残されていたわけではない。
ただ、もう一度始める機会を長いこと持てなかっただけだった。
その後も、自分のアカウントは続けた。完璧な家庭を見せる動画は作らず、毎日亮介のことばかり話すこともしなかった。再就職へ向けて動く様子、一人で家計を組み立てる方法、子育て、仕事で使うソフトを学び直す過程、実際に使って便利だった生活用品などを少しずつ発信した。
フォロワーはゆっくり増えていった。やがて企業からタイアップの相談も来るようになり、広告やPRを含む投稿には必ずその旨を明記した。契約書はまず自分で読み、大きな案件だけ専門家にも確認してもらう。稼いだお金が、初めて自分だけで管理する口座へ入るようになった。
二年後、私は小さな店を開いた。
場所は汐浜駅の近くにある、静かな商店街の一角だった。広い店ではない。生活雑貨や親子向けの商品、自分で選んだ日用品を並べ、オンラインショップも一緒に運営した。
オープンした日の午後、学校が終わった悠斗が店へ駆け込んできた。
「ママ、僕も手伝っていい?」
私は小さな紙袋を一つ渡した。
「じゃあ、これをカウンターの下に置いてくれる?」
悠斗は真剣な顔でうなずいた。
私は店先に立ち、通りの向こうを走る夕方の電車を眺めた。昔の亮介はいつも言っていた。アカウントがもっと大きくなったら広い家へ引っ越そう。もっと稼げるようになったら悠斗にいい生活をさせよう。仕事が安定したら、美緒はお金の心配なんてしなくていい、と。
あとになってわかった。本当に私を安心させるものは、大きな家ではなかった。
来月のお金がどこから入ってくるのか自分でわかること。何か起きたとき、自分で決められること。そして、誰かの顔色をうかがわなくても、悠斗に靴を一足買い、習い事を一つ選び、好きなものを食べに連れていけることだった。
以前の私は、いつも亮介のカメラの中にいた。何を着るか、いつ笑うか、いつ幸せそうに見せるか。知らない人たちに私をどう見せるかまで、彼が決めていた。
今、カメラはようやく私の手に戻ってきた。
撮りたいときに撮る。
撮りたくないときは、電源を切る。
人生が少し遅れてやってきたって、かまわない。
最後に、それが本当に自分のものになればいい。
――完――




