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正しい子

掲載日:2026/04/26


少女の家には、決まりがあった。


泣かないこと。

怒らないこと。

困らせないこと。


母親はよく言った。

「感情はね、迷惑になるの」

だから少女は、全部飲み込んだ。

喉の奥に、重たいまま。


弟が生まれてから、

家は少し明るくなった。

笑い声が増えた。


ただ、それは全部、

弟の周りにだけ集まっていた。


「この子は手がかかるからね」

母親はそう言って、 泣く弟を抱き上げる。


少女は、その横で立っている。

静かに。


手の使い方を知っていた。

ミルクを作る。

おむつを替える。

夜中に起きて、背中を叩く。


誰も教えていないのに、 全部できた。


「ほんと助かる」

母親はそう言った。

でも、少女の顔は見なかった。


ある夜、弟が熱を出した。

母親は仕事でいない。

家には、少女と弟だけ。

弟は泣いている。

小さな身体で、 息を荒くして。

少女は抱き上げる。

背中を叩く。

水を飲ませる。

額に触れる。

熱い。


でも、少女は知っている。

——困らせてはいけない。

母親は疲れている。

仕事もしている。

自分がやればいい。

それが、正しい。

弟の泣き声は、だんだん弱くなる。

呼吸も、少しずつ浅くなる。

少女は、静かに背中を叩き続ける。

その手は、やさしかった。

いつも通りに。

完璧に。


朝、母親が帰ってくる。

玄関の音。

少女は顔を上げる。


「大丈夫だった?」

その言葉に、少女はうなずく。

正しく。

困らせないように。

弟は、もう泣いていなかった。


病院で、 母親は何度も同じことを聞かれた。

「なぜ、すぐに連れてこなかったのか」

少女は横で立っている。

静かに。

医者の声が続く。

「もっと早ければ」

その言葉が、空気を重くする。

帰り道。

母親は何も言わなかった。

家に着いて、 靴を脱いで、 ようやく振り返る。

そして、少女を見た。

初めて、ちゃんと。

「どうして、言わなかったの」

声は、震えていた。

少女は少し考える。

質問の意味を。

それから、答える。


「困らせたくなかったから」

母親の顔が、崩れる。

音を立てて。

でも少女には、それがよくわからない。

泣いている理由が、わからない。

だって、自分は。

全部、正しくやったから。


その日から、少女はよく褒められるようになった。

「なんて我慢強い子なの」

「いい子すぎるくらい」

周りの大人たちが、口々に言う。

母親も、言うようになった。


何度も。

何度も。

少女は思う。


——よかった。

ちゃんと、いい子でいられている。

ただ、夜になると。

何もない部屋で。

もう誰も泣かないはずの時間に、

小さな呼吸の音が、

耳の奥で、

何度も繰り返される。


家の中から、音が減った。

テレビはついているのに、

誰も見ていない。


時計の針だけが、

やけに大きく進んでいく。


母親は、以前よりよく笑うようになった。

外では。


近所の人に会えば、

軽く頭を下げて、

穏やかに受け答えをする。


「大変だったわね」

そう言われるたびに、 きちんと頷く。

涙も、ちゃんと流す。


正しい反応を、外では忘れなかった。

家の中では、 あまり喋らなくなった。

少女に対しても。

必要なことだけを、 短く。

名前を呼ぶ回数も、 減った。


ある日。

食卓に、二つだけ皿が並ぶ。

少女は、いつも通り座る。

手を合わせる。


「いただきます」

母親は、何も言わない。

ただ、箸を動かす。

しばらくして。

ぽつりと、言葉が落ちる。


「あなたは」

少女は顔を上げる。


「どうして、あのとき」

そこまで言って、 母親は一度口を閉じる。

何かを飲み込むみたいに。


「どうして、平気だったの」

少女は、少し考える。

正しく答えようとして。


「平気じゃ、なかったよ」

母親の手が止まる。


「でも、困らせたくなかったから」

その瞬間。

箸が、音を立てて落ちた。


「困らせたくない?」

母親の声が、少しだけ歪む。


「じゃあ、あの子は?」

少女は答えられない。

質問の意味が、うまく掴めない。

母親は立ち上がる。

椅子が、床を強く擦る。


「泣いてたんでしょう?」

「苦しかったんでしょう?」

「どうして——」

言葉が途中で崩れる。


「どうして、あなたは泣かなかったの」

少女は、静かに答える。


「いい子だから」

その一言で。

何かが、完全に壊れた。

母親は、それ以上何も言わなかった。

言えなかった。



それから。

母親は少女を叱らなくなった。

怒鳴らなくなった。

期待もしなくなった。

ただ、見なくなった。

同じ空間にいても、 視線が合わない。

名前を呼ばない。

存在に触れない。


少女は思う。

——よかった。

これで、もう。

誰も困らない。


夜。

布団の中で。

少女は、目を閉じる。

遠くで、誰かが泣いている気がする。

でも、それはきっと気のせいだ。

泣くのは、よくないことだから。

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