正しい子
少女の家には、決まりがあった。
泣かないこと。
怒らないこと。
困らせないこと。
母親はよく言った。
「感情はね、迷惑になるの」
だから少女は、全部飲み込んだ。
喉の奥に、重たいまま。
弟が生まれてから、
家は少し明るくなった。
笑い声が増えた。
ただ、それは全部、
弟の周りにだけ集まっていた。
「この子は手がかかるからね」
母親はそう言って、 泣く弟を抱き上げる。
少女は、その横で立っている。
静かに。
手の使い方を知っていた。
ミルクを作る。
おむつを替える。
夜中に起きて、背中を叩く。
誰も教えていないのに、 全部できた。
「ほんと助かる」
母親はそう言った。
でも、少女の顔は見なかった。
ある夜、弟が熱を出した。
母親は仕事でいない。
家には、少女と弟だけ。
弟は泣いている。
小さな身体で、 息を荒くして。
少女は抱き上げる。
背中を叩く。
水を飲ませる。
額に触れる。
熱い。
でも、少女は知っている。
——困らせてはいけない。
母親は疲れている。
仕事もしている。
自分がやればいい。
それが、正しい。
弟の泣き声は、だんだん弱くなる。
呼吸も、少しずつ浅くなる。
少女は、静かに背中を叩き続ける。
その手は、やさしかった。
いつも通りに。
完璧に。
朝、母親が帰ってくる。
玄関の音。
少女は顔を上げる。
「大丈夫だった?」
その言葉に、少女はうなずく。
正しく。
困らせないように。
弟は、もう泣いていなかった。
病院で、 母親は何度も同じことを聞かれた。
「なぜ、すぐに連れてこなかったのか」
少女は横で立っている。
静かに。
医者の声が続く。
「もっと早ければ」
その言葉が、空気を重くする。
帰り道。
母親は何も言わなかった。
家に着いて、 靴を脱いで、 ようやく振り返る。
そして、少女を見た。
初めて、ちゃんと。
「どうして、言わなかったの」
声は、震えていた。
少女は少し考える。
質問の意味を。
それから、答える。
「困らせたくなかったから」
母親の顔が、崩れる。
音を立てて。
でも少女には、それがよくわからない。
泣いている理由が、わからない。
だって、自分は。
全部、正しくやったから。
その日から、少女はよく褒められるようになった。
「なんて我慢強い子なの」
「いい子すぎるくらい」
周りの大人たちが、口々に言う。
母親も、言うようになった。
何度も。
何度も。
少女は思う。
——よかった。
ちゃんと、いい子でいられている。
ただ、夜になると。
何もない部屋で。
もう誰も泣かないはずの時間に、
小さな呼吸の音が、
耳の奥で、
何度も繰り返される。
家の中から、音が減った。
テレビはついているのに、
誰も見ていない。
時計の針だけが、
やけに大きく進んでいく。
母親は、以前よりよく笑うようになった。
外では。
近所の人に会えば、
軽く頭を下げて、
穏やかに受け答えをする。
「大変だったわね」
そう言われるたびに、 きちんと頷く。
涙も、ちゃんと流す。
正しい反応を、外では忘れなかった。
家の中では、 あまり喋らなくなった。
少女に対しても。
必要なことだけを、 短く。
名前を呼ぶ回数も、 減った。
ある日。
食卓に、二つだけ皿が並ぶ。
少女は、いつも通り座る。
手を合わせる。
「いただきます」
母親は、何も言わない。
ただ、箸を動かす。
しばらくして。
ぽつりと、言葉が落ちる。
「あなたは」
少女は顔を上げる。
「どうして、あのとき」
そこまで言って、 母親は一度口を閉じる。
何かを飲み込むみたいに。
「どうして、平気だったの」
少女は、少し考える。
正しく答えようとして。
「平気じゃ、なかったよ」
母親の手が止まる。
「でも、困らせたくなかったから」
その瞬間。
箸が、音を立てて落ちた。
「困らせたくない?」
母親の声が、少しだけ歪む。
「じゃあ、あの子は?」
少女は答えられない。
質問の意味が、うまく掴めない。
母親は立ち上がる。
椅子が、床を強く擦る。
「泣いてたんでしょう?」
「苦しかったんでしょう?」
「どうして——」
言葉が途中で崩れる。
「どうして、あなたは泣かなかったの」
少女は、静かに答える。
「いい子だから」
その一言で。
何かが、完全に壊れた。
母親は、それ以上何も言わなかった。
言えなかった。
それから。
母親は少女を叱らなくなった。
怒鳴らなくなった。
期待もしなくなった。
ただ、見なくなった。
同じ空間にいても、 視線が合わない。
名前を呼ばない。
存在に触れない。
少女は思う。
——よかった。
これで、もう。
誰も困らない。
夜。
布団の中で。
少女は、目を閉じる。
遠くで、誰かが泣いている気がする。
でも、それはきっと気のせいだ。
泣くのは、よくないことだから。




