第8話 井戸の依頼は三回来る
王都の朝は、急いでいる人ほど同じ顔をしている。
眉間にしわを寄せ、紙を抱え、半分走るみたいな足取りで角を曲がってくる。雑用口に立っていると、それがよく分かる。急いでいる人は、自分の紙がいちばん大事に見えている。だから、周りも同じ顔で急いでいることに気づきにくい。
今日の朝いちも、そんな顔が三つ続けて来た。
ひとり目は、王宮側の若い役人だった。整えた髪に少しだけ寝癖が残っている。きっと朝から走っているのだろう。胸元の札を押さえながら、紙を差し出してきた。
「南区の共同井戸です。住民からの苦情が上がっていて、できれば朝の確認へ」
「井戸」
「濁りと臭いだそうで。使用停止になる前に、浄化の判断をいただきたいと」
私は受け取って、ざっと文面を見た。
下町南区、第三区画、共同井戸。
濁りあり。水臭強し。住民不安。至急確認願う。
急ぎではある。
でも、“今すぐ”かどうかは、まだ分からない。
「分かりました。いったん預かります」
「朝いちでお願いできますか」
「内容を見て、先に仕分けます」
「仕分け?」
役人が少し怪訝そうな顔をした、その時だった。
「その件、神殿側でも上がっています」
ふたり目は神官補佐だった。胸元の印は神殿のもの、手にしている紙は王宮書式ではなく神殿の申請様式だ。彼は役人へ軽く会釈をしてから、私の前へ紙を置いた。
「南区共同井戸の浄化願いです。神殿側としては、正式な浄化手順の確認が必要ですので」
「……南区?」
「はい。住民代表から直接、神殿へ願いが出ています」
「第三区画の共同井戸?」
「ええ。ですので、こちらを優先していただければ」
私は二通目を受け取り、目を細めた。
同じ。
いや、文面は違う。
でも、対象はたぶん同じだ。
神官補佐は、私の沈黙を別の意味に取ったらしい。
「王宮経由の紙より、浄化案件としてはこちらの方が正式です」
「まだそこまで言ってません」
「しかし、聖女様へ上げるなら」
「内容を見てからです」
役人がむっとした顔で口を挟んだ。
「こちらは住民苦情として、王宮側の記録番号が振られています」
「浄化を執り行うのは神殿です」
「だからといって、王宮記録を後回しにする理由には」
「優先順位の話をしているのです」
「同じです」
同じではない。
でも、同じ部分もある。
私はそのあたりを言葉にする前に、三人目が来る気配を感じた。
ばたばたと廊下を駆けてきたのは、町役場の使いらしい青年だった。服の裾に泥が跳ねていて、紙も少し湿っている。彼は息を整える暇もなく、封書を差し出してきた。
「南区第三区画、共同井戸の使用停止申請です!」
「……やっぱり」
「はい?」
「いえ。見せてください」
「町役場からです。住民が使えなくなると代替水の手配も必要なので、早く回していただきたくて」
「内容は」
「井戸の使用停止、代替水の確保、あと浄化の優先判断を」
私は三通目を受け取った。
下町南区第三区画共同井戸。
住民使用停止要請。
至急、浄化または代替水の指示を求む。
私は三枚を手元に置いたまま、少しだけ天井を見た。
来た。
こういうのだ。
こういう、“ばかばかしいのに誰も笑えないやつ”が、きっと王都じゅうにある。
「レティア?」
ナラが布巾の束を抱えたまま覗き込んでくる。
「嫌な顔してる」
「ちょっとね」
「面倒?」
「面倒」
私は三通を重ねず、あえて横に並べた。
王宮経由。
神殿経由。
町役場経由。
違う紙。違う書式。違う差出人。違う言い回し。
でも、井戸はひとつだ。
◇
問題は、紙が三枚あることそのものじゃない。
紙が三枚あるせいで、三人とも“自分の案件が先”だと思っていることだ。
「こちらは住民苦情として記録番号が振られています」
「神殿側の浄化願いは儀礼確認が必要です」
「いや、井戸が止まれば生活に直結するので、町役場としては代替水の方を」
「だからそれを王宮で一度」
「神殿を通さなければ」
「町役場の判断待ちでは遅いんです」
三人とも、怒鳴っているわけではない。
だから余計に面倒だった。
皆、言っていることはそれぞれ一理ある。
でも前提が違うせいで、話が交わらない。
侍女が困った顔で私を見る。
「これ、聖女様の朝いちへ入れますか」
「三通とも?」
「ええと……同じ井戸、なんですよね?」
「たぶん」
「たぶん?」
「たぶん、じゃなくて、たぶん同じ」
自分でも変な言い方だと思う。
けれど、その“たぶん”こそ今の王都の詰まり方だった。
紙が違うから別に見える。
窓口が違うから別に見える。
言い方が違うから別に見える。
でも、困っている人は同じ場所にいる。
「待ってください」
私は三人の声をいったん止めた。
「ちょっと並べます」
「並べる?」
「はい。いま揉めても、井戸はきれいにならないので」
役人が口を閉じ、神官補佐が目を細め、町役場の使いが息を整えながら頷く。
私は三通を机に並べた。
左から、王宮経由、神殿経由、町役場経由。
まず差出人。
王宮側は住民苦情の受付から。
神殿側は住民代表の浄化願い。
町役場側は使用停止申請。
次に対象。
南区。
第三区画。
共同井戸。
同じだ。
文面は違う。
でも、井戸の位置、住民数、濁りと臭いの報告時刻まで、きれいに重なる。
「これ」
私は三通の真ん中を指で軽く叩いた。
「違う紙ですけど、困っている井戸はひとつです」
場が静まった。
役人が先に反応する。
「ですが、こちらは王宮記録です」
「はい」
私は頷く。
「住民苦情としての記録は要ります」
次に神官補佐を見る。
「こちらは浄化願いですね」
「ええ」
「浄化手順の確認としては要ります」
最後に町役場の使いを見る。
「こっちは、使用停止と代替水の相談」
「はい」
「生活への影響として要ります」
三人とも、そこまでは頷く。
「でも」
私は紙を押さえたまま言った。
「井戸はひとつです」
もう一度、はっきりと言う。
「困ってる住民も、たぶん同じ人たちです」
役人が小さく口を開く。
「だから、三件として揉めるより、一件として通した方が早いです」
神官補佐がすぐに反論した。
「王宮記録と神殿手続は別です」
「別です」
「では」
「別ですけど、本体の問題はひとつです」
「本体」
「井戸が濁って、住民が困っていて、浄化か代替水が必要」
私は三枚を示す。
「紙は三枚です。でも、困りごとは一件です」
町役場の使いが戸惑ったように言う。
「じゃあ……どれが本体になるんです?」
「いま決めます」
私は三通を見比べた。
いちばん情報がまとまっているのは神殿側の浄化願いだ。井戸の位置、症状、浄化必要性が簡潔に書かれている。王宮側の住民苦情は記録として添付に回せるし、町役場側の使用停止申請は生活対応として付ければいい。
「本体はこれ」
私は神殿側の紙を中央へ置いた。
「浄化願いを主軸にします」
「神殿が本体、ですか」
役人が少し顔をしかめる。
「浄化が必要かどうかの判断が先だからです。住民苦情記録は添付で足ります。消えません」
次に町役場の紙へ手を伸ばす。
「使用停止申請は生活への影響として別添。こっちは代替水手配に回す」
「代替水は町役場で?」
「町役場が窓口で、王宮側と調整した方が早いです。井戸が今日中に浄化されるかどうかで量も変わるので」
「……なるほど」
役人と町役場の使いが、微妙な顔で見合う。
まだ完全には納得していない。
でも、“三件別々に回すよりはまし”とは感じ始めている顔だ。
侍女が横から言った。
「では、聖女様へはこの一件だけ?」
「ううん」
私は首を振る。
「全部は上げないです」
今度は侍女が驚く番だった。
「全部じゃない?」
「聖女様に見ていただくのは、井戸浄化の優先順位だけでいい」
「でも、面会の順番とか文面の確認とか」
「それは今ここで決められます」
私は順に指で示す。
「面会の順番調整は侍女さん側で。文面の整えは王宮側で。町役場への返しは役人さんと使いの方で。神殿手続の本申請は神官補佐さん。聖女様に必要なのは、“今日どの浄化案件を先にするか”だけ」
「……」
場に、妙な静けさが落ちた。
皆、考えているのだと思う。
全部を聖女様へ上げなくてよかったのか。
今まで、上げすぎていたのではないか。
私は少し肩の力を抜いた。
ここだ。
ここが詰まりの正体だ。
忙しいのではない。
忙しく見えるように、同じ困りごとが別々の紙で増えている。
ひとつの井戸が、三枚の依頼になる。
ひとつの迷いが、三人分の優先主張になる。
その全部が最後にフィリアへ行く。
そりゃ、息もしにくくなる。
「まず」
私は紙を整えた。
「神殿側の浄化願いを本体にします。王宮記録と町役場申請は添付で」
役人を見る。
「苦情記録の番号は消えません。添付で残します」
神官補佐を見る。
「神殿手続の正式扱いはそのまま」
町役場の使いを見る。
「代替水の手配だけ、先に走れますか」
「走れます」
「じゃあ水桶の準備だけ先に」
「分かりました」
侍女を見る。
「聖女様へ上げる時は、“井戸浄化を今日どこへ入れるか”だけ聞いてください」
「面会の差し込みは?」
「今日中で足りる案件として扱います」
「了解」
それだけで、さっきまで机の上で揉めていた三枚の紙が、急にひとつの仕事になった。
◇
フィリアの控室へ届いた紙は、一件分だった。
朝の紙束自体が昨日より軽い。その上、新しく届いた井戸の件も、三通の束ではなく、一通の本体と短い補足になっている。侍女が差し出した紙を見て、フィリアは少しだけ首を傾げた。
「井戸の件ですか」
「はい。南区第三区画の共同井戸が濁っているそうです」
「一件……?」
「はい。いえ」
侍女は少しだけ言いにくそうに言葉を選ぶ。
「正確には、三通来ていたようですが、雑用口でまとめられたそうで」
「三通」
フィリアの手が止まる。
「はい。王宮側の住民苦情、神殿側の浄化願い、町役場の使用停止申請です」
「同じ井戸の?」
「そのようです」
フィリアは紙を見つめた。
同じお願いが、三通。
それはつまり、今まで自分のところへ来ていた紙束のかなりの部分が、こういう“同じ困りごとの違う顔”だったかもしれないということだ。
住民苦情。
浄化願い。
使用停止申請。
どれも別に見える。
けれど困っている井戸はひとつ。
「……同じお願いが、三通も来ていたのですか」
呟いた声は、自分でも驚くほど小さかった。
侍女は頷く。
「そのようです。ただ、今は浄化優先順位だけご判断いただければよいと」
「それだけで」
「はい。代替水の手配と記録整理は下で進めるそうです」
フィリアはもう一度、紙を見る。
必要な判断だけが残っている。
今すぐ見て、返せる。
それで井戸の対応が進む。
息が止まるような紙の厚みも、読む前から疲れる圧もない。
しかも、なくてもよかったはずの二枚が今まで自分の机へ来ていたのだと思うと、背中が少し寒くなる。
同じお願いが三通。
そんなことが、今までもあったのだろうか。
いや、きっと、ある。
フィリアは昨日のレティアの言葉を思い出した。
聖女様に何でも持ってくる仕組みが悪いんです。
あの時は、責任の集まり方の話だと思った。
でも、今はそれだけではないと分かる。
仕組みは、同じ困りごとまで別々に増やして、自分のところへ運んでいたのだ。
「聖女様?」
「いえ」
フィリアは顔を上げた。
「浄化の優先順位だけなら、すぐに返せます」
「では」
「南区共同井戸は、今日のうちに入れてください。西棟礼拝堂の補修確認より先で」
「かしこまりました」
侍女が下がっていく。
フィリアは茶器へ手を伸ばした。
まだ温かい。
昔なら、この井戸の件だけで、王宮側の文面確認、町役場側の事情確認、神殿側の手続確認まで、自分のところへ上がってきていたのかもしれない。
それを全部見ていたのだとしたら、今日までの自分の朝は、何枚の“同じ困りごと”で膨れていたのだろう。
紙束は軽い。
なのに、知ってしまった事実の方が重かった。
◇
井戸の件は、その日のうちに動いた。
神殿側では浄化担当が手配され、王宮側では住民苦情記録が整理され、町役場では代替水の案内が先に走る。面会控室でも、侍女たちが「聖女様へは優先順位だけ」と共有したことで、余計な出し入れが減った。
いつものように大きな鐘が鳴る頃には、伝令役の少年が息を切らして戻ってきた。
「井戸、今日のうちに入るって!」
「どっちが?」
ナラが聞く。
「浄化も! 代替水も!」
「へえ」
「南区の方、怒鳴ってた人たちも落ち着いたって」
「そりゃそうでしょ。話が進んだんだから」
侍女が控室から戻ってきて、紙束を机へ置く。
「朝のうちに一本化してもらえると、こんなに違うんですね」
「違う?」
「違います。面会の差し込みも減るし、誰が何を待ってるのか分かるし」
彼女は息を吐く。
「三通分で揉めるより、一通で進めた方がずっと早い」
神官補佐も、少しばつが悪そうな顔で頷いた。
「……最初からそう見えていればよかったのですが」
「最初から見えてたら、私はたぶんここにいません」
私が言うと、彼は苦笑した。
「確かに」
役人も、王宮記録用の控え札を持ち直しながら言う。
「住民苦情として残すことと、聖女様へ全部持っていくことは、同じじゃないんですね」
「同じにしない方が早いです」
「そうか……」
誰も大声では喜ばない。
でも、はっきり空気が軽くなっている。
本来なら、普通にできたはずのこと。
井戸が濁った。困っている。浄化が必要。代替水も要る。
それだけの話が、やっとそれだけの話として動いた。
私は板の前へ立った。
伝令中。
確認待ち。
搬送準備。
そこに貼っていた井戸案件の札を外し、「対応中」へ差し替える。
小さな動作だ。
でも、その瞬間、胸の奥が少しだけすっとした。
詰まりの正体は、量だけじゃない。
重複だ。
ひとつの困りごとが三倍の紙になって、三倍の忙しさみたいな顔で積み上がる。
そしてその三倍が、フィリアの机に落ちる。
気づけてよかった。
でも、井戸ひとつでこれだ。
じゃあ、他は。
「ねえ」
面会控室付きの侍女が、紙束を抱えたままぼそっと言った。
「こういうの、他にもたくさんあるんでしょうね」
私はすぐには答えなかった。
板を見る。
今すぐ。
今日中。
後日。
その山の中にも、きっと似たものがある。
違う顔で来て、別件のふりをして、同じ困りごとを増やしている紙たちが。
「……ありますね」
ようやく答えると、侍女は「ですよね」と疲れたように笑った。
「なんとなく、そんな気はしてました」
「私もです」
「なんとなく?」
「今日で、なんとなくじゃなくなりました」
ナラが横から口を挟む。
「じゃあ次は何? 同じ水汲み札が二枚来る?」
「もっと嫌なのが来るかも」
「やめてよ」
「やめたい」
ダンおじさんが帳面を閉じた。
「だが、見つけるんだろ」
「見つけます」
「勝手にか」
ナラがにやりとする。
「半分は?」
「半分は」
私は板へ新しい札を差しながら言った。
「勝手にです」
皆が少しだけ笑った。
雑用口の空気は、まだ忙しい。
でも、前よりましだ。
その“前よりまし”を、たぶんこの王都は思っているより何度も必要としている。
私は次の紙束へ手を伸ばす。
たくさんある。
きっと、思っているよりずっと。
だから、入口で見つけるしかない。




