第7話 正式な仕事ではありません
朝の雑用口は、今日も忙しかった。
荷車が石畳をきしませながら入ってきて、木箱が次々と降ろされる。侍女が面会札を抱えて小走りで横切り、神殿側から戻った伝令が息を切らしたまま返答札を差し出す。倉庫番のダンおじさんは帳面を片手に眉間へしわを寄せ、ナラは布巾の束を抱えて「そこ通るよ!」と怒鳴っていた。
見た目だけなら、昨日までと変わらない。
けれど、違う。
雑用口へ足を踏み入れた瞬間、私はそれを感じた。
板が立っている。
倉庫。
神殿書記室。
面会控室。
伝令中。
確認待ち。
搬送準備。
炭で書いた字は相変わらず汚い。板の端も欠けたままだ。立派な掲示とはとても言えない。なのに、その前を通る人たちの足は、以前よりほんの少しだけ迷わない。
私は近づいて、目を瞬いた。
紙片が動いていた。
昨夜置いたはずの「確認待ち」が「伝令中」へ移り、倉庫の欄にあった備品札が「搬送準備」へ動いている。私が触っていないのに、ちゃんと流れの形になっていた。
「お、来たかい」
声をかけてきたのはダンおじさんだった。片手で帳面を閉じながら、板を顎でしゃくる。
「夜のうちに、伝令の坊主が二件戻ってきてな。ナラに聞いて動かしといた」
「……ありがとうございます」
「礼は早い。字の汚さは相変わらずだが、ないよりましだ」
言い方はぶっきらぼうでも、口元は少しだけ緩んでいた。
私は板を見上げたまま、昨日のことを思い出す。
小さな応接室。
薬草茶のやわらかい匂い。
助けてくれますか、と問うフィリアの声。
私は、もちろんですと答えた。
けれど、だからといって今日から急に何かが変わるわけじゃない。役職が生えるわけでも、権限が増えるわけでもない。私は相変わらず雑用係で、下働きの娘のままだ。
立場は変わっていない。
でも、やることはもう決まっている。
「レティア、突っ立ってないで手ぇ出して」
ナラが空いた木箱を私の足元へ押しやった。中には余り紙がいくつか入っている。使いかけ台帳の端、裏が白い札、古い面会票。
「神殿側の戻し、多いよ。あと面会控室の追加札」
「分かった」
「ついでに今日の分、また三つに分けといて」
「もうそれ前提なんだ」
「だって楽だし」
ナラは悪びれもせず言い切って、次の荷へ走っていった。
だって楽だし。
その一言に、私は少しだけ息を吐く。
便利なものは、説明されるより先に使われる。
使われ始めたら、なかった頃へは戻りにくい。
私は木箱を引き寄せ、余り紙を三つの束へ分けた。
今すぐ。
今日中。
後日。
そこへ、朝いちの書類束が飛んでくる。
「レティア、これ神殿側から!」
「どれ」
受け取ってざっとめくる。
薬草補充確認。
礼拝堂備品不足。
面会札の差し替え。
井戸浄化の追記。
控え。
写し。
催促後の再提出。
枚数だけ見れば、朝からうんざりする量だ。
でも、枚数はそのまま重さじゃない。
「面会札の差し替え、今日中で足ります」
「え、朝いちって言われたけど」
「中身は昼の面会順です。今すぐじゃなくても困らないです」
「あ、ほんとだ」
「こっちは倉庫確認が先」
「どれ?」
「小神殿の薬草補充。現物見ないで聖女様に上げても、結局戻るから」
「じゃあ倉庫」
「うん。礼拝堂備品は控えと本申請が重なってるから一件にする」
「了解」
会話が自然すぎて、私は一瞬だけ変な気分になる。
前なら毎回「何してるの」と聞かれていた。
今はもう、誰もそこを説明として求めない。
侍女が言う。
「これ、今日中の山でいい?」
「うん。薬庫返答が先」
伝令役の少年が顔を出す。
「神殿書記室と倉庫、どっち先?」
「倉庫。返答ないと書記室で止まる」
「了解」
ダンおじさんが木箱の向こうから声をかける。
「昨日の蝋燭、南礼拝堂で合ってたぞ」
「札残してくれてたからですよ」
「だから字が汚くても許してやってる」
前は私が「こうしてください」と説明していた。
今はもう、皆が自分の言葉で使い始めている。
少し嬉しい。
でも、少し怖い。
便利って、馴染むのが早い。
だからきっと、消されるときも早い。
「レティアさん!」
薬師見習いの少年が小走りで戻ってきた。手には二枚の札。
「薬庫確認、返ってきた」
「早いね」
「倉庫で見たら、治療用と儀礼用が混ざってただけだったって」
「じゃあ補充申請は一枚でいい」
「これ、聖女様へ?」
「ううん。神官長代理で足りる。聖女様に上げるのは加護薬の切り替えだけ」
「分かった!」
少年は札を持って、また走っていった。
私はその背中を見送りながら、重複していた控えを重ね、面会札の差し替えを「今日中」の山へ置いた。井戸浄化の追記札は、昨日から動いている本体の札へ紐で留める。別件に見せない。それだけで、無駄に増えるはずだった紙が二枚消えた。
「ずいぶん自然ですね」
肩越しにそう言われて振り向くと、面会控室付きの侍女が立っていた。少し年上で、きりっとした顔立ちの人だ。
「何がですか」
「皆が、あなたに聞くこと」
「……そうですか?」
「前は“なんで下働きが”って顔も多かったでしょう」
「今もありますよ」
「あるけど、急いでるときほど便利な方を使うのが人ですから」
彼女はそう言って、私の前の束を持ち上げた。
「これ、聖女様のところへ」
「うん。こっちだけ」
「少ない」
「必要なものだけです」
「そう」
侍女は紙束の軽さを確かめるように持ち直して、それから控室の方へ歩いていった。
少ない。
私はその言葉を心の中でもう一度なぞる。
少ない。でも、足りないわけじゃない。
要るものだけが前へ行く。
たったそれだけのことを、今まで誰もやってこなかったのだ。
◇
フィリアの控室は、朝の光がよく入る。
窓辺の薄い布が揺れ、卓上には今日最初の茶が用意されていた。侍女がいつものように紙束を運んでくる。
「本日の朝いちの確認分です」
「ありがとうございます」
フィリアは受け取って、わずかに目を瞬いた。
軽い。
自分でも、そう思った。
いつもなら朝の最初の紙束を抱えた瞬間、肩が少し固くなる。今日はそれがない。
「……今日は少ないのですね」
侍女は少しだけ表情を和らげた。
「雑用口で、先に分けております」
「分けて」
「倉庫確認が必要なものは倉庫へ。重複しているものは一件へ。今日中でよいものは後ろへ回しました」
「そうですか」
フィリアは紙束を見下ろす。
不安がないわけではない。
自分が見ていないところで、誰かが仕分けている。
見落としがあったらどうしよう、という考えはやはり胸に残る。
けれど身体の方は、先に答えていた。
呼吸が浅くならない。
最初の一枚をめくる前から疲れを意識しなくて済む。
肩の力が、ほんの少しだけ抜けている。
フィリアは一枚目を見る。
加護薬切り替えの確認。
二枚目。
西棟控室の面会優先順位。
三枚目。
神殿側からの返答、要確認一点。
確かに、必要なものだけが前にある感じがした。
「聖女様」
侍女が遠慮がちに言う。
「よろしければ、本日の茶を先に」
「……はい」
フィリアは紙束を膝へ置いた。
いつもなら、茶を口へ運びながら紙も開いていたはずだ。
でも今日は、茶器を両手で持つ。
指先にぬくもりが移る。
それだけのことなのに、胸の奥のせわしなさが少しほどけた。
昨日の応接室での会話がよみがえる。
聖女様が悪いのではありません。
聖女様に何でも持ってくる仕組みが悪いんです。
そして。
助けてくれますか。
もちろんです。
フィリアは薄く息を吐いた。
「……本当に」
「はい?」
「いえ」
茶器を口元へ寄せる。
温かい。
紙束は少ない。
怖くないわけではない。
でも、息がしやすい。
「本当に、少しだけ楽ですね」
その呟きは、侍女にだけ届く程度の小ささだった。
扉の近くに立っていたアルフレッドは、表情を動かさなかった。
けれど、その言葉を確かに聞いていた。
昨日までのフィリアなら、先に「少なくて大丈夫でしょうか」と言っただろう。
今日は違う。
先に“楽だ”と感じて、それを口にした。
それだけで十分だった。
◇
雑用口へ戻る途中、アルフレッドはしばらく考えないようにしていた。
いや、考えないふりをしていた。
護衛騎士として見るべきものは多い。
人の出入り、視線、動線、聖女の身体の揺れ、疲労の深さ。
そこへ最近は、書類束の厚みや、控室へ入る前の呼吸まで加わっている。
面倒なことだ、と彼は思う。
たった一人の雑用係が、見なくてよかったものまで見せてくる。
雑用口の前で足を止める。
レティアは板の前に立ち、紙を三つの山へ分けていた。
今すぐ。
今日中。
後日。
動きは速い。けれど慌ててはいない。
紙の表題だけを見ているのではなく、流れを見ている。
どこへ行って、どこで止まり、誰が持てるかまで考えている顔だ。
「聖女様の紙が減っていた」
声をかけると、レティアは顔を上げた。
「そうですか」
「お前がやったのか」
「半分は」
「半分」
「半分は勝手にです」
その答えに、アルフレッドは小さく鼻を鳴らした。
勝手に、で済ませるにはもう深く入り込みすぎている。
しかもフィリアはそれを拒んでいない。
昨日の応接室で何があったのか、詳しくは聞いていない。
聞くつもりも今のところはない。
ただ、空気が違う。
レティアとフィリアの間に、昨日までとは別の線が引かれたのだと分かる。
「聖女様は」
アルフレッドが言う。
「少し、楽そうだった」
「……ならよかったです」
レティアはそう言って、手元の紙を一枚ずらす。
反応は小さい。
でも、そのあと彼女の指先が少しだけ緩んだのを、アルフレッドは見た。
こいつも緊張しているのだろう。
当然だ。
役職もない。
権限もない。
やっていることは効いているが、正式ではない。
それでも止めない。
アルフレッドは板を見上げた。
倉庫。神殿書記室。面会控室。伝令中。確認待ち。搬送準備。
「勝手にか」
「……半分は」
レティアがさっきと同じように答える。
アルフレッドは少しだけ口元を動かした。
「止めるなよ」
「何をですか」
「呼吸だ」
レティアがきょとんとしたあと、少しだけ笑いそうになって、でもこらえるような顔をした。
「分かりました」
「本当に分かってる顔か?」
「半分くらいは」
「半分か」
「半分は勝手にです」
同じ言い回しだ。
たぶん、こいつなりの照れ隠しなのだろう。
アルフレッドはそれ以上言わずに踵を返した。
十分だった。
“変な雑用係”は、もう聖女の流れに食い込んでいる。
しかも、その変化は悪くない。
だからこそ、危うい。
◇
昼が近づく頃には、雑用口の流れはさらに自然になっていた。
侍女が札を置き、伝令が回収し、倉庫確認が戻り、レティアが入口で三分類する。板の前に立つ人は増えたが、立ち尽くす人は減った。誰もが忙しいままだ。それでも、前のような“どこへ向かって急げばいいか分からない忙しさ”は薄れている。
そんな中、バルドが来た。
神殿書記官らしい、きっちりした足音。
袖口まで整っていて、髪も乱れがない。
そのくせ、彼が来ると空気だけが少し冷える。
バルドは怒鳴らない。
前回のように露骨な不機嫌をぶつけてもこない。
だから余計に嫌な感じがした。
彼は板の前で立ち止まり、炭文字を上から順に見ていく。
倉庫。
神殿書記室。
面会控室。
伝令中。
確認待ち。
搬送準備。
それから机の上の三つの山を見る。
今すぐ。今日中。後日。
最後に、小さな伝言票の束へ視線を落とした。
「ずいぶん自然に回り始めていますね」
静かな声だった。
私は手を止める。
「助かる方が多いので」
「でしょうね」
バルドはあっさり頷いた。
「現場は、目に見えて楽になっているのでしょう」
そこを否定しないのか、と少し驚く。
でも、だからこそ怖い。
彼は便利さが分からない人ではない。
分かったうえで警戒しているのだ。
「小神殿への返答も早くなったそうです」
「はい」
「面会控室も、以前より詰まりにくいと」
「そうみたいです」
「倉庫の持ち出しも」
「探し物が減ったって聞きました」
バルドはそこでようやく私を見た。
「便利でしょう」
「……はい」
「だからこそ、厄介です」
その言葉に、私は何も返せなかった。
バルドは続ける。
「誰が決めたのですか」
「決めた、というほどでは」
「では、誰が責任を持つのです」
「責任」
「流れを変えているのでしょう」
声は静かだが、刃のように細い。
「入口で分ける。差し戻す。上げる前に束ねる。順番を変える。つまり、実務上の判断をしている」
「詰まりを減らしてるだけです」
「それを判断というのです」
周囲の動きが少しだけ鈍った。
侍女も、伝令も、ダンおじさんも、聞いていないふりをしながら耳だけはこちらへ向いている。
私は板を一度見た。
そこには、いま動いている紙の流れが見える。
確かに変えている。
ただ並べているだけじゃない。
どこへ先に通すか、何を後ろへ下げるかを決めている。
それは、そうだ。
バルドは一歩だけ板へ近づいた。
「誤解なさらないでください。私は、現場が助かっていることまで否定していません」
「……はい」
「ですが、便利であることと、正しいことは別です」
静かだった。
けれど、その一言は、朝から積み上げてきた流れの上へ冷たい水を落とすように、はっきり響いた。
便利であることと、正しいことは別。
私はすぐには答えられなかった。
その言葉には、一理ある。
便利なら何をしてもいいわけじゃない。
人の目につかないところで勝手に流れを書き換えているのも事実だ。
役職もない。承認もない。
だから、いつでも「間違っている」と切れる。
でも。
今までの“正しい運用”が、聖女へ何でも積み上げて、現場を迷わせて、弱いところから困らせていたのなら。
それは、本当に正しかったのか。
バルドは私の沈黙をどう受け取ったのか、表情を動かさないまま踵を返した。
「いずれ、整理は必要になります」
「何のですか」
「仕組みの、です」
それだけ言って、彼は去っていった。
あとに残ったのは、いつも通りの雑用口のはずなのに、さっきまでより少し張った空気だった。
「……やな感じ」
ナラがぼそっと言う。
「でも間違ってるとも言い切れない顔してたね、あんた」
「だって」
私は息を吐く。
「間違ってるところも、あるから」
ダンおじさんが帳面を閉じた。
「あるだろうさ。正式な仕事じゃないんだからな」
「うん」
「でも、困るのはこっちだ」
ダンおじさんは板を顎で示す。
「今さらなくされたら、また探し物人生だ」
「人生って」
「大げさじゃないね」
面会控室付きの侍女も、小さく頷く。
「面会も戻されたら困ります」
「伝令も」
少年がすかさず割り込む。
「同じ場所三往復とか、もう嫌です」
皆が、少しずつ、でもはっきり言う。
前みたいには戻りたくない、と。
私は板を見上げた。
今すぐ。
今日中。
後日。
その三つの山は、まだ小さい。
板だってただの木の蓋だ。
伝言票も余り紙を切っただけ。
こんなもの、正式じゃない。
だから、いつでも消される。
消されたら、きっとまた詰まる。
誰が何を持っているか分からなくなって、同じ書類が三枚来て、“念のため”が積み上がって、最後にはフィリアのところへ全部が落ちる。
それは嫌だ。
嫌だ、だけじゃ足りない。
私は紙束を持ち直し、今日中の山へ一枚差し込んだ。
正式じゃない。
だからこそ、消されない形まで持っていかなきゃいけない。
雑用口の朝は、相変わらず忙しかった。
でも私はもう、その忙しさの中で立ち尽くすつもりはなかった。




