第5話 勝手に整理を始めます
許可を取っていたら、その許可書がまた一枚増えるだけだ。
王宮へ向かう朝の石畳を歩きながら、私は昨夜の結論を胸の中で何度もなぞっていた。
空はまだ白く、パン屋の前には焼きたての匂いが漂っている。荷車が軋み、行商人が声を張り、使用人たちはそれぞれの持ち場へ急ぐ。王都の朝はいつだってせわしない。
けれど今日は、その慌ただしさの中にある「詰まり」が、昨日までよりずっとはっきり見えた。
誰が何を持っているのか分からない。
どこで止まっているのか見えない。
そのくせ、皆が「急ぎ」と言う。
最後には全部、聖女様のところへ積み上がる。
それで、人が倒れないはずがない。
私は歩きながら頭の中で順番を組む。
王宮全体を変えるなんて無理だ。そんな立場も権限もない。下働きの娘がいきなり国の仕組みに手を入れられるはずもない。
でも、目の前の詰まりを減らすくらいならできるかもしれない。
今すぐ必要なものと、そうでないものを分ける。
同じ案件を重ねない。
誰が何を持っているか分かるようにする。
口伝えだけの伝言を、少しだけ形にする。
倉庫から出たものが途中で消えないようにする。
大改革じゃない。
ただ、少しだけ呼吸しやすくするためのことだ。
雑用口へ着くころには、やることはだいたい決まっていた。
「レティア、遅れたら今日こそ朝の掃除増やすよ」
門をくぐった途端、ナラの声が飛んでくる。私は慌てて首を振った。
「間に合ってます!」
「なら返事より手を動かしな。今日は神殿側の戻し物が多いからね」
「はい」
返事をしながら、私はいつもの雑用机へ向かった。
机と言っても、壁際に寄せられた細い台と、備品の入った木箱がいくつかあるだけの場所だ。侍女も雑用係も、誰でも一時的に物を置いて使う。正式な仕事机ですらない。
私は木箱のひとつを引き寄せ、その中に入っていた余り紙をぱらぱらとめくった。
使いかけ台帳の切れ端。
裏が白い札。
古い面会票。
封筒の端紙。
使える。
前世の自分が見たら、ずいぶん涙ぐましい工作だと笑うかもしれない。けれど、使えれば十分だ。
私は余り紙を三つの小さな束に分けた。
今すぐ。
今日中。
後日。
そこへ、朝一番の書類運びが来た。
「レティア、これ神殿側へ」
「王宮側の控えも混ざってますか?」
「たぶん」
「じゃあ一度見ます」
受け取った紙束をざっとめくる。
控え。
写し。
最新。
催促後の差し替え。
昨日までならそのまま束ごと運んでいた。けれど今日は違う。
同じ案件が四枚も重なっていれば、紙の厚みの分だけ事態が重く見える。でも必要なのは厚みじゃない。
「これ、急ぎですか?」
「侍女長補佐が朝いちでって」
「内容は面会札の並べ替えですね。今日中の山に置きます」
「え、今すぐじゃなくて?」
「今すぐ必要なのは、さっき来た薬庫確認のほうです。面会は昼前でも間に合います」
「……あ、そうか」
相手は少し驚いた顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。
今すぐ必要なもの。
今日中に必要なもの。
後日でも困らないもの。
たったそれだけだ。
でも、全部を同じ山にしないだけで、人は思った以上に落ち着く。
私は余り紙の端に、小さく用件と行き先を書いた。
薬庫へ。
西棟控室へ。
神殿書記室へ。
搬送係へ。
ついでに、誰に渡したかも書いておく。字は汚いし、正式書式でもない。けれど、口伝えの「さっき誰かに言った」が一番厄介なのは前世で嫌というほど知っている。
朝の最初の一時間は、相変わらず飛ぶように過ぎた。
東廊下の掃除。
応接室の水差し。
控室の燭台。
神殿へ返す茶器。
小神殿からの受領札。
倉庫への持ち出し依頼。
その合間に私は、頼まれた紙を勝手に三つの山へ分け、重複案件をまとめ、伝言の要点だけを小さな紙に書いては渡していく。
「これ、誰に?」
「神殿書記室です。ついでに“薬庫の返答待ち”って言ってください」
「口で?」
「この紙も一緒に」
「……あ、これ便利だね」
便利。
その一言に、少しだけ気持ちが軽くなる。
仕事は相変わらず多い。なくなったわけじゃない。
けれど、行き先と中身が見えるだけで、人は迷わずに済む。迷わなければ、そのぶん止まらない。
雑用机の横に、私はさらに一枚、少し大きめの板を立てた。
板といっても、倉庫の隅に転がっていた古い木箱の蓋だ。片側が少し欠けていて、前に何か別の用途で使われていたらしい。そこへ炭でざっくりと書く。
倉庫
神殿書記室
面会控室
伝令中
確認待ち
搬送準備
その下に紙片を貼っていく。今どこに何があるのか、せめて見えるように。
倉庫に行った薬草袋。
神殿書記室で止まっている確認書。
面会控室へ運ばれた面会札。
伝令中の受領札。
確認待ちの加護薬申請。
搬送準備に回った小神殿向けの箱。
完璧じゃない。雑だし、抜けもある。
でも、何もないよりはずっとましだ。
「お前、何してるんだい」
声をかけてきたのはダンおじさんだった。倉庫から木箱を抱えて戻ってきたらしい。
「今どこに何があるか、分かるようにしたくて」
「分かるように?」
「持っていった人と時間だけでも残しておけば、探し回る回数が減るかなって」
ダンおじさんは板をじっと見たあと、鼻を鳴らした。
「……字はきったないな」
「知ってます」
「でもまあ、どこに出したか分からんよりはましだ」
そう言って木箱を下ろし、帳面をぱらぱらめくる。
「昨日の蝋燭、やっぱり神殿側の礼拝堂へ余分に回ってた。誰が持っていったか分からなくて探したんだが、今朝は札に“南礼拝堂”って残ってたから早かった」
「よかったです」
「探し物が減るだけでも腰が楽だ」
ダンおじさんはぼそりと言い、少しだけ口元を緩めた。
「もっと早くやっときゃよかったな」
その一言に、胸の奥がじんわり温かくなる。
私は次の紙片を板へ貼る。
搬送準備。
そのすぐ下に、倉庫。
「レティア!」
今度は侍女が駆け込んできた。昨日、薬の件で言い合っていた侍女のひとりだ。今日は昨日ほど切羽詰まった顔ではない。
「面会札、どこまで通したか分かる?」
「西棟控室の分なら今日中の山です。神殿側の返答待ちが一件、もう運んだのが二件」
「え、分かるの?」
「ここに」
板を指すと、侍女は目を丸くした。
「……なにこれ」
「今どこにあるか、です」
「すごい」
「すごくはないです」
「いや、すごいわよ。さっきまで“誰が持ってたっけ”って三人で言ってたのに」
侍女は板を見ながら、心底ほっとしたように肩を落とした。
「何を先にやればいいか分かるだけで全然違う……」
その呟きが、やけにしみた。
何を先にやればいいか分かる。
ただそれだけのことで、人は思った以上に救われる。
前世でもそうだった。
誰が悪いわけでもなく、皆忙しいからこそ、順番が見えるだけで場の空気は変わる。
私はまた余り紙を切って、小さな伝言票を作った。
宛先。
用件。
急ぎ度。
今すぐ、今日中、後日。
伝令役の少年がそれを覗き込む。
「これ、持ってけばいいの?」
「うん。口でも伝えていいけど、紙があると戻ってきたとき忘れにくいから」
「助かる」
少年は二枚の紙をひょいとつまむ。
「同じ場所を何往復もすると、頭こんがらがるんだよね」
「だろうね」
「昨日も東棟行って戻ったら、また東棟って言われて」
「分かる」
「分かるの?」
「ものすごく」
私が真顔で頷くと、少年は少し笑って走っていった。
その背中が昨日より少し軽く見えたのは、気のせいじゃないと思いたい。
午前の終わり頃になると、雑用机のまわりの空気は目に見えて変わっていた。
朝は紙束と声と足音が入り乱れていたのに、今は少なくとも「どこへ持っていけばいいか分からない」は減っている。板は見た目に地味だし、私の字も相変わらず汚い。それでも、人は立ち止まるたびに板を見て、ひと呼吸してから動けるようになっていた。
倉庫番は探し物の時間が減った。
侍女は何を先にやればいいか分かる。
伝令は同じ場所を何度も往復しなくて済む。
薬師見習いの少年は、返答待ちの場所が見えるだけで顔色が違った。
「レティアさん」
その薬師見習いが息を切らしてやってくる。
「さっきの返答、もう来たんですけど!」
「早いね」
「昨日は半日かかったのに」
「昨日はどこで止まってるか見えなかったから」
「今日は?」
「今日は見えてる」
「……それだけで、こんなに違うんだ」
それだけで、違うのだ。
派手な魔法はない。
奇跡の光もない。
でも、人はたぶん、こういう地味なことで一番困るし、一番助かる。
私はそう思いながら、今日中の山から一枚抜き出した。
そのときだった。
「これは何ですか」
声は丁寧だった。
だからこそ、少し冷えた。
振り向くと、神殿書記官らしい男が立っていた。年は三十を少し越えたくらいだろうか。髪はきっちり撫でつけられ、袖口ひとつ乱れていない。胸元には書記官の印。顔立ちは整っているのに、表情だけが妙に平らだった。
この人が、昨日ちらりと見た“聖女様のご判断待ちです”の人だろうか、と私は思う。
「それは、とは」
「そちらの板です」
男は一歩近づく。
「誰が今どの書類を持っているか、などと書いてありますが」
「はい」
「誰の許可で?」
来たな、と思った。
現場は助かる。
でも、曖昧さの中で回っていた人間には、見える化は不快だ。
「許可は取っていません」
私は正直に言う。
「雑用口の近くで、皆が分かると便利かと思って」
「便利かどうかを決めるのは、あなたではないでしょう」
男は淡々と言う。
「前例にありません」
「でも、困っている人は減りました」
「それは偶然かもしれません」
「そうかもしれません」
私があっさり認めたので、男は一瞬だけ言葉を止めた。
「……あなた、名前は」
「レティアです」
「神殿書記官のバルドです」
名乗り方まできっちりしている。
「勝手なことをされては困ります。正式な書式でもない伝言票、非公認の所在表。そういうものは混乱を招く」
「混乱は昨日の時点でありました」
「それを判断するのは下働きの役目ではありません」
「そうかもしれません」
「そうかもしれません、では」
「でも」
私は板のほうを見た。
「探し物は減っています。伝言も戻りが早いです。少なくとも今は、皆さんが助かっています」
バルドは私の言葉より、板そのものの存在を嫌っているように見えた。
たぶん彼は、自分ではちゃんと仕事をしているつもりなのだろう。実際、書類の形式は整えているのかもしれないし、記録も残しているのだと思う。ただ、その整え方が現場の流れに繋がっているかどうかには、あまり関心がない。あるいは、関心を持たずに済む立場でいたいのか。
「聖女様のご判断待ちです」
バルドは、今自分の持っている書類に向かってそう言った。
「こちらも本来は、先に動かしてよい案件ではありません」
その言葉を聞いた瞬間、私の中の警戒が一段深くなった。
この人は怠けているわけではない。
ただ、“決めない”ことで無難に仕事をしてきた人だ。
曖昧なまま上へ回す。
責任の輪郭を自分で持たない。
そうすれば大きな失敗もしない代わりに、現場がどれだけ息苦しいかにも鈍くなる。
「書類は書記室へ戻してください」
バルドは丁寧に言う。
「所在表も、すぐに外すように」
「今すぐですか」
「今すぐです」
「……分かりました」
本当は分かりたくなかったけれど、ここで正面からぶつかっても仕方がない。私は素直に頷いた。
バルドはそれ以上追及せず、明確に不快な空気だけを残して去っていく。
私はその背中を見送りながら、板を見た。
外すべきだろうか。
でも、外したらまた皆が迷う。
迷って、立ち止まって、最後にはまた同じところへ積み上がる。
どうする。
そのとき、後ろから別の声がした。
「外すのか」
振り向くと、アルフレッドがいた。
相変わらず、気配が薄いのか濃いのか分からない人だ。立っているだけで目を引くくせに、近づく足音はあまりしない。
「……見てたんですか」
「少し」
彼は板の前まで来て、炭で書いた文字を上から順に追った。
「それは何だ」
「案件の所在表です」
「所在表」
「今どこに何があるか分かるようにしたくて」
「……地味だな」
その一言に、私は少しだけ肩をすくめた。
「地味です。でも、人は地味なことで一番困ります」
「さっきも似たことを言っていたな」
「たぶん、前世でもずっと思ってたので」
「前世?」
「あ」
しまった、と思ったけれど、アルフレッドはそこを深く追わなかった。ただ少しだけ目を細めただけだ。
「これで、実際に楽になっているのか」
「なってます」
「お前がそう思っているだけではなく?」
「倉庫番が探し物をしなくてよくなったって。侍女は何を先にやればいいか分かるって。伝令も同じ場所を何回も走らなくて済むって」
「……そうか」
短い返事だった。
賛成とも反対とも取れない。
でも、完全に否定していないのは分かった。
アルフレッドはもう一度だけ板を見てから、淡々と言う。
「目立つ」
「でしょうね」
「狙われるぞ」
「誰にですか」
「曖昧なままの方が都合のいいやつらに」
その言い方が妙に的確で嫌だった。
私は思わず苦く笑う。
「もうさっき来ました」
「書記官か」
「はい」
「分かりやすいな」
「分かりやすすぎて助かります」
アルフレッドはほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。
「完全には否定しないんですね」
「今朝より流れはいい」
「見てたんですか」
「護衛は、詰まりも見る」
「剣は抜けないって言ってたのに」
「抜けない。だが、見えないわけじゃない」
私は少しだけ肩の力を抜いた。
この人は、やっぱり敵じゃない。
「……外しません」
「そうか」
「怒られるかもしれませんけど」
「もう怒られている」
「ですね」
アルフレッドはそれ以上何も言わず、踵を返した。去り際に一度だけ振り返る。
「倒れるなよ」
「誰がですか」
「最近、その返し気に入ってるのか」
「便利なので」
「地味だな」
「便利です」
彼は最後まで否定も肯定もせず、そのまま去っていった。
私は板へ向き直る。
倉庫。
神殿書記室。
面会控室。
伝令中。
確認待ち。
搬送準備。
たったこれだけの地味な板。
それでも、朝よりずっと人が呼吸しやすそうに見える。
少しは回る。
そう思った矢先だった。
「レティア!」
ナラの声が飛ぶ。
「ちょっとこれ見て!」
「どうしました?」
「神殿側から戻ってきた未処理の束。あと王宮側の差し戻し分も」
「え」
「それだけじゃない。小神殿から追加申請、面会再調整、物資補充の再確認まで来てる」
言われるまま、私は運び込まれた紙束を見た。
一束ではなかった。
二束、三束。
いや、それ以上だ。
神殿側確認待ち。
王宮差し戻し。
小神殿追加申請。
面会再調整。
搬送経路再確認。
礼拝堂備品補充。
昨日の控えの再提出。
紙の山が、机の端から端まで増えていく。
さっきまで少しすっきりしたと思っていた板の前に、また新しい詰まりが次々と積み上がっていく。ひとつほどけば別の場所で絡まり、ひとつ見えるようになればその向こうにもうひと山ある。
私は息を止めた。
薬の件は、局所的な詰まりだった。
でもこれは違う。
同じ形の詰まりが、いくつもある。
一件直しても、別の場所でまた止まる。
つまり、これはたまたまじゃない。
「レティア?」
ナラが怪訝そうに私を見る。
「どう分ける?」
私は紙束の山を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
今すぐ。
今日中。
後日。
その三つへ分ければ、少しは整うだろう。
でも、それで終わる話ではない。
だめだ。
この国、思っていたよりずっと詰まっている。




