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第3話 止まった薬と、見えてしまう渋滞

 渡り廊下の空気は、夕方になると少し冷える。


 王宮と大神殿をつなぐこの長い通路は、朝よりも夕方のほうが人の気配が濃い。祈りを終えた神官、面会を終えた侍女、書類を抱えた役人、使いを終えた雑用係。皆それぞれの持ち場へ戻ろうとしているのに、ひとところで流れが止まると、その場だけ水路に落ちた石みたいに人の動きが乱れる。


 今、まさにそうなっていた。


「だから、薬の搬送許可がまだ下りていないんです」

「もう待てません。小神殿からの使いが三度も来ています」

「分かっていますが、聖女様の印が必要で」

「それは本当に聖女様が見る案件なんですか?」

「規則上はそうなっています」

「規則上って、今そこにいる患者様は規則で待ってくれないでしょう!」


 侍女の声は抑えられていたけれど、切迫していた。


 神官補佐の男は強く言い返しているわけではない。ただ困った顔で、しかし一歩も動かずに立っている。両手には書類の束。侍女の側にも、似たような束がある。後ろには青い顔の若い神官見習いがいて、何度も足を踏み替えていた。


 私は布巾の籠を抱えたまま立ち止まった。


 薬の搬送。

 許可が下りない。

 待っていたら間に合わない。


 それだけでも嫌な並びなのに、彼らの手元の紙がさらに嫌だった。


 薄い報告書、厚い申請書、同じような書式の紙が何枚も重なっていて、遠目にも“どれが本体で、どれが控えなのか”が分からない。急ぎの案件に一番似合わない状態だった。


 胸の奥がざわつく。


 ああ、これ。


 前世の会社で何度も見た。

 「急ぎ」が増えすぎて、本当の急ぎが埋もれるやつだ。


 誰かが至急と書く。

 別の誰かも至急と書く。

 確認の紙、控えの紙、念のための紙、差し替えの紙が重なって、最後には一番大事な一枚が一番下に沈む。


 私は思わず足を踏み出しかけて、そこで止まった。


 何をするつもりだ、私は。


 ただの下働きが、王宮と神殿の間のやり取りに口を出すなんて、どう考えても筋が悪い。事情だって全部は分からない。勝手なことを言って、余計に話をこじらせたらどうする。


 布巾の籠を持ち直す。


 通り過ぎればいい。

 今の私の仕事は、神殿側に布巾を返すことだ。

 今日の持ち場だってまだ完全には終わっていない。

 関わらないのが正しい。


 そう分かっているのに、目だけがどうしても書類の束へ吸い寄せられる。


 前世の記憶が、いやに鮮明に刺さった。


 会議資料の差し替えが三件同時に入って、どれが最新版か誰にも分からなくなった日。

 至急の赤い付箋が三枚重なって、本当に必要だった発注確認がその下に埋もれた日。

 「確認待ち」の札だけが増えて、現場が丸ごと止まりかけた日。


 あのときも皆、困っていた。

 誰も悪人じゃなかった。

 ただ、誰も順番を決めなかった。


「……っ」


 侍女のひとりが息を呑む音がした。


「小神殿の使いが戻るのは、もう限界です。今夜を越せない患者様がいるって」

「だから、こちらとしても急いでいるんです」

「急いでいるなら動いてください!」

「聖女様の印がなければ正式には」

「正式を待つ間に手遅れになったら、誰が責任を取るんですか!」


 責任。


 その言葉に、神官補佐の男は一瞬だけ目を逸らした。


 私はそこで、諦めた。


 いや、諦めたというより、たぶん前世からずっと諦めが悪いのだろう。見えてしまった詰まりを、そのまま見送るのが苦手すぎる。


 私は布巾の籠を廊下の隅に置いた。


 石床に籠が小さく触れる音がしただけで、誰も私には注意を払わない。皆、目の前の言い争いで精いっぱいだ。


 だからこそ、私はできるだけ静かな声で言った。


「……命に関わるのは、どれですか」


 空気が、一瞬だけ止まった。


 侍女も神官補佐も、そろって私を見た。


 自分でも分かる。下働きの娘が口を挟む場ではない。雑用係の服、腕に少しかかった布巾の糸くず、磨ききれない安い靴。どう見ても、この会話の外にいる人間だ。


「君は」

 神官補佐が眉をひそめる。

「今は関係者以外」

「命に関わるのは、どれですか」

 私はもう一度だけ訊いた。

「全部を一度に見ていたら、たぶん分からなくなります」


 侍女のほうが先に反応した。


「分からないのよ」

 焦りで声が細くなる。

「薬が必要なのは確かなの。瘴気に当てられた子が二人、高熱の老人が一人、あと咳の止まらない人が増えてるって。でも書類が何枚も来ていて、どれが今すぐ通ればいいのか……」


「少し、見せてください」


「でも」

「見るだけです」


 神官補佐が止めるより先に、侍女は賭けるような顔で書類の束を差し出した。切羽詰まっている人間は、時々すごく思い切りがいい。


 私は束を受け取る。


 その瞬間、ざわつきが強くなった。


 前にも感じた、不思議な感覚。


 字を読むより先に、紙の重みの違いが分かるような感覚だった。重要なものは光るわけでも熱を持つわけでもない。ただ、指先の内側に“そこだ”と引っかかる。


 私は近くの窓際の細い台へ書類を広げた。


「おい、何を」

 神官補佐が苛立った声を出す。

「君に勝手に」

「全部いっぺんに見るから、分からなくなるんです」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


 まず一枚目。小神殿からの初回要請。

 二枚目。王宮側で受けた写し。

 三枚目。神殿書記室控え。

 四枚目。催促後の再提出分。

 五枚目。薬草庫からの持ち出し確認書。

 六枚目。搬送担当への通達未了票。


 似たような紙が、何枚も混ざっている。


「これとこれは同じ要請です」

 私は二枚を重ねた。

「字が違うだけで、中身は同じ。控えと写しですね」

「……そうだが」

「これは催促分。こっちは初回。必要なのは最新の状態だけです」

「でも記録上は」

「記録は後で並べられます。今は患者様が先です」


 そう言いながら、もう一枚を引き抜く。


 今度は紙を見るより先に、そこだけが妙に重かった。


「これは……加護薬の使用確認」

 表題を読んで、私は少し息を呑んだ。

「浄化後に使う薬の種類について、聖女様の確認が必要なのはこれだけですね」

「そうだ」

 若い神官見習いが勢いよく頷いた。

「その確認がないと、薬庫の奥の箱が開けられません」

「でも他は?」

「他は……」


 神官補佐が書類をのぞき込む。

 私は紙を三つの山に分けた。


「これは聖女様の確認が必要なもの」

 一番小さい山。

「これは倉庫に先に回せるもの。薬草袋の数と、搬送箱の準備」

 二番目の山。

「これは搬送担当へ先に通せるもの。どの小神殿へ先に送るかの経路確認」

 三番目の山。

「あとこれは控えです。今ここではいりません」


 私は一番端へ、重複書類をまとめて寄せた。


 侍女がぽかんとした顔をする。

「え……」

「急ぎなのは書類全部じゃなくて、患者様です」

 言いながら、自分でも少しだけ胸が熱くなった。

「だから今必要なのは、聖女様に見てもらう一枚と、その間に動かせる人を動かすことです」


 神官補佐が私の手元を見つめたまま固まる。


「……倉庫への持ち出し確認は、たしかに神官長代理でも」

「できますよね」

「搬送経路は……」

「先に決めておいたほうが、印が下りた瞬間に動けます」

「だが、聖女様の確認が終わる前に箱を開けるわけには」

「箱を開けるのと、運ぶ人を待機させるのは別です」


 自分でも、口がよく回ると思った。


 たぶん、前世で何百回もこういうことをしてきたからだ。

 何が本当に止まっていて、何なら並行して進められるか。

 全部を一つの確認に結びつけてしまうと、組織はすぐ止まる。


 私は加護薬の確認書を一枚だけ前に出した。


「聖女様に見ていただくのは、これだけで足りますか」

「……症状の要約と薬の照合が載っているなら、はい」

「じゃあ、これだけを走らせてください」


 侍女がはっとする。

「でも聖女様はいま浄化の儀で」

「儀のあと、どこへ出られる予定ですか」

「小礼拝堂から北の回廊へ」

 答えたのは若い神官見習いだった。

「次の面会が入る前に、短い移動があります」

「じゃあ、その移動で受け取ってもらえる人を探してください」

「そんなこと」

 神官補佐が言いかけたところで、別の低い声が後ろから落ちてきた。


「できる」


 振り向くと、そこに騎士が立っていた。


 いつからいたのか分からなかった。


 白銀に近い鎧。飾りは少ないのに、立っているだけで目を引く。年は若い。二十代前半くらいだろうか。背は高く、目つきは鋭い。けれど、その鋭さは誰かを切り捨てるためのものではなく、見極めるための刃に見えた。


 彼は私ではなく、まず書類の山を見た。


「聖女様の移動路は分かる。小礼拝堂から北回廊なら、護衛動線上で受け取れる」

 それから神官補佐へ視線を移す。

「神官長代理はどこだ」

「東書記室に」

「倉庫への持ち出し確認はそこで通せ」

「で、ですが」

「患者を待たせる理由になるか?」


 短い。けれど、逃げ道を消す問いだった。


 神官補佐は口を閉じる。

 侍女はぱっと顔を上げた。

 若い神官見習いは、もう走り出す寸前の姿勢になっている。


 騎士は最後に、私を見た。


「お前、何をした」


 その問いは責める口調ではなかった。

 ただ、本当に不思議そうだった。


 私は手元の紙を見下ろしてから答えた。


「詰まっていたのを、ほどいただけです」


 一瞬、沈黙が落ちた。


 騎士の眉が、ごくわずかに上がる。


「変な答えだな」

「よく言われます」

「まだ言ってない」


 そこで、侍女が思い出したように動いた。


「これ、持って行って!」

 加護薬確認書を若い神官見習いへ押しつける。

「北回廊! 急いで!」

「はい!」


 神官見習いが走り出す。

 神官補佐も慌てて残りの書類をかき集めた。


「倉庫持ち出し確認を取りに行く。お前は搬送担当へ!」

「はい!」


 人が、動き始める。


 さっきまで廊下の真ん中で絡まっていた流れが、少しずつほどけていくのが分かった。


 私は台の上に残った重複書類をまとめ、端へ寄せた。たぶん本来なら、こういう控えは後できちんと整理し直さなければいけない。でも今はまず、動かすほうが先だ。


 侍女が一度だけ、強く息を吐いた。


「……ありがとう」

「まだです。搬送が通ってからです」

「それでも」

 侍女は自分でも信じられないものを見るような顔で、書類の山を見た。

「こんなに、混ざってたのね」


 混ざっていたのだ。


 皆、急いでいた。誰も余計なことをしているつもりはなかった。控えを作り、催促を入れ、念のために紙を増やし、正式な順番を守ろうとした。その全部が、結果として“今必要な一枚”を埋もれさせていた。


 忙しいときほど、人は紙を増やす。

 そして、紙が増えるほど、本当に必要な動きが見えなくなる。


 私は台から離れ、布巾の籠を抱えようとした。


 そのとき、背後からまた声がした。


「おい」


 さっきの騎士だ。


 私は振り返る。

 近くで見ると、思っていた以上に若い。そのくせ、纏う空気は妙に静かだった。慌ただしい渡り廊下の中で、一人だけ違う速度で立っているみたいだ。


「名前は」

「レティアです」

「雑用係か」

「はい」

「……変な雑用係だな」


 失礼だな、と思ったけれど、否定もしづらい。


「そちらは」

「アルフレッド」


 短く名乗られたその名前は、聞き覚えがあった。どこかで聞いたのではなく、この王宮で知られている名前なのだろう。近くを通りかかった侍女が一瞬だけ背筋を伸ばしたから、たぶん護衛騎士の中でも立場が高い。


「覚えておく」

「何をですか」

「お前みたいなやつがいることをだ」


 変な言い方だった。


 褒めているわけでも、警戒しているわけでもない。ただ、“見つけた”と言われたみたいで、私は少しだけ居心地が悪くなる。


「私は別に、そんな」

「詰まりをほどくんだろう」

「……たまたま見えただけです」

「それを皆が見えていないから、止まっていた」


 そこで会話は切れた。


 若い神官見習いが、息を切らせて戻ってきたのだ。


「許可が出ました!」

 声が弾んでいる。

「搬送、通ります! 北回廊で確認をいただきました!」


 侍女が両手を口元に当てた。

「本当に!?」

「はい! 倉庫持ち出しも神官長代理が通してくれて、もう箱を出してます!」

「良かった……!」


 その場の空気が、一度に緩んだ。


 大袈裟な歓声が上がるわけじゃない。皆、まだ仕事の途中だから。けれど、たしかに一つ息がしやすくなったのが分かった。


 小神殿で待っている患者が、この一件で必ず助かるとは言い切れない。

 でも少なくとも、止まっていたものは動いた。


 それだけで、人は少し前へ進める。


「本当に、ありがとう」

 侍女が今度こそ言った。

「あなた、雑用係なんでしょう? どうしてこんな……」

「分かりません」

 私は正直に言った。

「でも、止まっている形は分かるので」

「止まっている形」

 侍女は一瞬だけ目を丸くして、それからふっと笑った。

「変な子ね」

「よく言われます」

「今度は本当だったか」


 横でアルフレッドが小さく言う。


 私は思わずそちらを見た。

 彼はほとんど表情を動かしていなかったけれど、ほんの少しだけ口元がゆるんでいた気がした。


 それ以上ここにいる理由はない。

 私はもう一度布巾の籠を抱え直した。


「では、私はこれで」

「あ、待って」

 侍女が呼び止める。

「あとで名前、ちゃんと聞かせて」

「さっき言いました」

「そういう意味じゃなくて!」


 そこへ、廊下の向こうがざわついた。


 人の声が低くなり、流れが自然に二つへ割れる。

 誰か偉い人でも来たのかと思って顔を上げた瞬間、空気が変わった理由が分かった。


 白い衣の少女が、神官たちに囲まれてこちらへ歩いてくる。


 最初に目に入るのは、やっぱり白だった。

 陽の残る廊下の中で、その衣だけがひどく澄んで見える。金色の髪は光を拾って柔らかくほどけ、伏せ気味の睫毛は長い。整いすぎていて、遠目には人形みたいだと思った。


 王宮で何度も耳にした名が、ようやく姿を持った。


 聖女。


 たぶん、あの人がそうなのだろう。


 人は道をあける。

 神官は少し頭を下げる。

 侍女たちは自然に姿勢を正す。


 それだけで、この少女がこの国にとってどれだけ特別な存在かが分かる。


 けれど。


 私は、きれいだと思うより先に、別のことに気づいてしまった。


 歩幅が小さい。


 いや、小さいだけじゃない。丁寧に、一歩ずつ選んでいるような歩き方だ。衣の裾を乱さないためではなく、そうしないと足元が危ういみたいな。


 白い指先が、手の中でほんの少しだけ力んでいる。

 頬の色も、きれいというより薄い。

 唇に笑みの形はあるのに、その笑みを保つだけで精いっぱいに見えた。


 まさか、と思って凝視してしまう。


 周囲は誰も騒がない。

 神官たちも侍女たちも、いつものことのようにその姿を受け入れている。


 でも私には、どうしてもそう見えなかった。


 あの人。


 立っているのが、やっとでは?

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