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第2話 王宮の雑用係

 王宮という場所は、もっと静かで、もっと優雅なところだと思っていた。


 白い石の回廊に、やわらかな光。

 磨き上げられた床の上を、裾の長いドレスや礼装の貴族たちがゆったり歩く。

 侍女は音もなく控え、騎士は壁際に立ち、神官は神々しく微笑んでいる。


 そんな絵本みたいな光景を、勝手に想像していたのだ。


 実際の王宮は、もっとずっと現実的だった。


 朝の鐘が鳴る少し前、私は下町の借り部屋を出た。

 空気はひんやりしていて、パン屋の窯の匂いと濡れた石畳の匂いが朝の道に混ざっている。市場へ向かう荷車が軋み、行商人が布を肩に担ぎ、同じ方向へ急ぐ使用人たちが目立たない色の服で流れを作っていた。


 正門へ向かう貴族の馬車は、遠くからでも分かる。

 紋章入りの扉、磨かれた金具、よく手入れされた馬。蹄の音まで、雑用口のほうとは少し違って聞こえる気がした。


 けれど私が向かうのは、そういう場所じゃない。


 王宮の裏手。

 荷車と木箱と人足が集まる、使用人たちの雑用口。


 今日もそこには、朝から人が詰まっていた。


「遅いよ、レティア」


 門番に名前を確認され、中へ入った途端に声が飛んでくる。振り向くと、年上の雑用係の女性が腕を組んで立っていた。肩のあたりできつく結んだ茶髪に、腕まくりした作業着。名前はナラ。口はきついが、仕事はきっちり教えてくれる人だ。


「すみません。急いだんですけど」

「急ぐのは皆やってる。あんたもその一人。ほら、今日の持ち場、覚えてるね」

「東廊下の掃除と、西棟の備品補充、そのあと茶器の片づけです」

「よし。あと、神殿側へ返す布巾が溜まってるから、声かかったらそっちも」

「はい」

「ぼんやりしてると潰れるよ。朝が一番詰まるんだから」


 詰まる。


 その言い方が、妙に胸に残った。


 前世でも朝は忙しかった。

 会議室、来客、備品、電話。始業前から人は動き始めるのに、準備が整っていない場所ほど、その最初の一時間で一日の空気が決まる。


 ここでも、きっと同じなのだろう。

 違うのは、通路が石造りで、飛び交う言葉に「殿下」と「神殿」が混ざるくらいだ。


 私は木桶と布を持って、東廊下へ向かった。


 王宮の朝は、雑用口から見ると豪華というより忙しい。


 侍女たちは腕に洗濯済みの布を抱えて足早に通り過ぎ、役人見習いらしい青年は書類の束を胸に押し当てて小走りし、白衣の神官補佐は箱を抱えたまま誰かに呼び止められている。そこへ鎧姿の騎士が二人、朝の巡回で廊下を横切っていく。


 高窓から差し込む光は綺麗だ。

 でも、その光の下を流れる人の動きは妙に悪い。


 誰かが立ち止まると、その後ろがすぐ詰まる。

 誰かが「今は無理」と言えば、そのぶん別の誰かが走る。

 広くて立派な建物のくせに、中身はずいぶんせわしない。


 廊下を半分ほど拭いたところで、さっそく声が飛んだ。


「レティア、そこ終わったら第三応接室の水差し替えて!」

「はい!」


 布を絞って桶を隅へ寄せ、水差しの置き場へ向かう。すると途中で別の侍女に呼び止められた。


「ごめん、東の控室に予備の燭台を二つ持ってきて」

「今ですか?」

「今。もうすぐお客様が来るの」

「分かりました」


 水差し、燭台、控室。


 頭の中で、自然に順番が並ぶ。

 先に水差し。客が入る前なら燭台。その帰りに備品棚へ寄れば無駄がない。


 そう考えたところで、少しだけ苦笑した。


 前世の私は、こういう順番を無意識に組んでばかりいた。

 今の私は異世界の王宮で雑用係をしている。

 なのに頭の中身だけ、相変わらず総務のままだ。


 第三応接室では、若い侍女がテーブルクロスの皺を必死に伸ばしていた。


「水差し、替えておきます」

「あ、ありがとう! ついでにこの茶器、使い終わったら下げてもらえる?」

「分かりました」

「助かる。今日は朝から人が足りなくて」


 足りないのは本当に人手だろうか。

 それとも、流れだろうか。


 そんなことを思いながら燭台を運び、今度は西棟の備品棚へ向かう。途中で役人見習いに書類を押しつけられた。


「悪い、これ神殿側の書記室に届けてくれないか」

「私は今、西棟の備品補充で」

「その途中でいいから。急ぎなんだ」

「……分かりました」


 急ぎ。


 それもまた、便利な言葉だ。


 本当に急ぎのものもある。

 けれど、“急ぎ”という札を貼れば先に動いてもらえると思っている人は、世界が違ってもいなくならないらしい。


 私は書類を受け取り、まず表紙だけざっと見た。


 前世なら、ただの癖だったと思う。

 件名、宛先、差出人、枚数。ざっと見て、どのくらい重い仕事か感覚で掴む。その程度のことだ。


 けれど今は、少し違った。


 紙束を見た瞬間、その中で一枚だけ妙に気になる紙があった。

 端の方に挟まれた薄い報告書。まだ表題もきちんと読んでいないのに、そこだけが引っかかる。


 私は眉を寄せた。


 なんだろう、これ。


「どうした?」

「いえ、何でもありません」


 今は立ち止まっている場合じゃない。私は書類を抱え直して神殿側の書記室へ向かい、届け、戻り、ようやく備品棚の整理に取りかかった。


 棚の中には、布巾、茶葉、予備の蝋燭、簡易包帯、封蝋、筆記具、薄布、紐。品目は多いが、置き方にきちんとした規則があるわけではない。使う人が使った場所へ戻しているらしく、ぱっと見は整っているのに、量の偏りがひどかった。


 前世の総務棚を思い出す。

 付箋だけ山ほどあって、ホチキスの針が一個もないやつだ。


 私は必要な分を補充用の箱へ移しながら、棚の中身をざっと目で追った。


 そのとき、不意に胸の奥がざわついた。


 足りない。


 そう思った。


 何が、と訊かれると困る。

 まだ数を数えたわけでも、補充表を見たわけでもない。ただ、そこにあるはずの重みが足りないような感覚だけがあった。


 私は一度手を止め、三段目を見た。


 礼拝用の細長い蝋燭が置いてある場所だ。箱はある。でも、少ない。いや、少ない“気がする”。その隣の薬草袋も、奥のほうが妙に空いて見える。来客用の茶葉缶も一つ軽そうだ。


「……なんで分かるんだろう」


 小さく呟いたとき、背後から声がした。


「レティア、補充終わったか?」


 倉庫番の老人だった。片足を少し引きずる癖がある。王宮勤めが長いらしく、雑用係の間では皆からダンおじさんと呼ばれていた。


「まだ少しです。でも、これ……蝋燭、減ってませんか」

「ん? どれだ」


 老人が棚の前へ来る。私は場所を指した。


「ここと、こっちの薬草袋も。あと茶葉も少ない気がします」

「いや、昨日見たときは……」


 言いながらダンおじさんは箱を持ち上げ、重さを確かめた。次に薬草袋の束を手に取り、茶葉缶の蓋を開ける。顔が少しずつ渋くなる。


「減ってるな」

「やっぱり」

「おかしいな。まだ補充は来てないはずだぞ。蝋燭は礼拝用だから予備切らしたらまずいんだが……」

「薬草袋も、この量だと危ないですよね」

「よく分かったな、まだ数えてもないのに」


 そこを訊かれると、私も困る。


 数を覚えていたわけじゃない。

 でも見た瞬間に、そこが薄いと分かった。言葉にするとだいぶ気味が悪い。


「なんとなく、です」

「なんとなく?」

「……詰まりそうな場所って、目につくので」

「詰まりそう?」


 ますます説明しにくい。


 私は適当に濁した。


「前にしてた仕事で、足りなくなる前に気づく癖がついてて」

「前って、王宮来る前の?」

「あ、はい。そんな感じです」


 前の仕事。

 嘘ではない。ずいぶん前で、ずいぶん別の世界の話だけれど。


 ダンおじさんは首を傾げつつも、それ以上は聞かずに在庫帳を引っぱり出した。


「蝋燭、次の補充は明日か。間に合わんな。薬草袋は……おいおい、こっちは神殿返しの分まで見込んでるだろ」

「茶葉も、今日の来客数だと危ないかも」

「お前、目ざといなあ」


 目ざとい、のだろうか。


 私は棚を見つめたまま、胸の内側のざわつきを確かめるように息を吐いた。前世の私は、仕事の流れや抜けを見つけるのが得意だった。でも今のこれは、それだけではない気がする。


 足りないもの。

 偏っているもの。

 このままだと詰まる場所。


 そういうものが、少しだけ強く目につく。

 まるで、そこだけ輪郭が濃く見えるみたいに。


「レティアー! 誰か、茶器下げに来て!」


 遠くから侍女の声が飛んできた。私ははっとして顔を上げる。


「行きます!」

「おう、蝋燭と薬草はこっちで何とかする。助かった」

「いえ」


 助かった、と言われると、相変わらず少しだけ胸が軽くなる。


 私は木箱を抱え直して、倉庫を出た。


 茶器の片づけ、布巾の回収、応接室の水差し、伝言の中継。王宮の中を動き回るうちに、この場所の不思議さがますますはっきりしてきた。


 見た目は綺麗だ。

 高窓から差す光はやわらかいし、王族の通る回廊には季節の花が飾られ、香油の匂いもかすかに漂う。貴族たちは上等な布をまとい、侍女たちはよく訓練されていて、騎士は立っているだけで絵になる。


 なのに、内側の流れは綺麗じゃない。


 茶器を神殿側へ返しに行ったとき、私はまた聞いた。


「まだですか?」

「聖女様のご判断待ちです」

「でも面会時間が押しているのよ」

「承知しています」

「承知していて動かないのは、承知していないのと同じでしょう!」


 言い合っていたのは、侍女長補佐らしい女性と神官補佐だった。テーブルの上には面会札が並び、その横に書類が二枚。どちらも、ただの順番調整にしか見えない。


 それで、聖女の判断待ち?


 私は足を止めそうになって、すぐにまた歩き出した。


 まだ分からない。

 私は下働きだ。表に見えているものだけで決めつけるのは危ない。


 けれど、そのあとも同じ言葉は何度も耳に入った。


「小神殿への補充は?」

「聖女様のご判断待ちです」

「返却帳はどこへ?」

「聖女様のご判断待ちです」

「明日の来訪者の順番は?」

「聖女様のご判断待ちです」


 私は茶器を抱えたまま、心の中で首を傾げた。


 聖女って、そんなに細かいことまで決めるものなの?


 瘴気を祓って、人を癒やして、祈りを捧げる。

 そういう大きな役目の人じゃないのだろうか。


 面会の順番や、薬草袋の数や、補充のタイミングまで、全部そこへ上げるものなのだろうか。


 前世で言えば、社長が会議室の椅子の数まで最終判断しているようなものだ。

 そんな会社がまともに回るわけがない。


 けれどここでは、誰もその言葉に違和感を持っていない。

 “聖女様のご判断待ち”は、困っている側の言い訳であり、待たされる側への説明であり、そして何より、それを言えば自分では決めなくていい便利な札になっていた。


 信頼、なのだろうか。


 それとも、ただ押しつけられているだけなんだろうか。


 午後に入ると、王宮はさらに騒がしくなった。


 西棟では茶会の準備、神殿側では礼拝の補助、南の控室では地方役人の待機。私は布巾を抱えて廊下を曲がり、書類の束を運び、空いた手で扉を押さえ、たまに雑用仲間の背中を避けながら歩いた。


 その途中で、また書類を渡される。


「レティア、これ書記室へ」

「どちらのですか」

「神殿側。急ぎ」

「……はい」


 受け取った瞬間、またあの感覚があった。


 紙束の中に、妙に重い一枚が混ざっている。


 内容を読んだわけではないのに、そこだけが引っかかる。


 私は廊下の隅へ少し寄り、表紙だけ確かめた。


 薬草搬送補助願い。


 たったそれだけの文字なのに、喉の奥がざらつく。今朝、倉庫で見た薬草袋の不足と、どこかで線がつながった気がした。


 でも、まだ分からない。

 分からないことばかりだ。


 私は書類を抱え直し、神殿側の書記室へ急いだ。


 扉の前では、若い神官見習いが青い顔で立っていた。


「あの、これ、早めに」

「順に処理します」

「でも、南棟から三度目の催促が」

「分かっています。聖女様のご判断待ちです」


 またその言葉だ。


 私は書類を渡しながら、心の中でため息をついた。


 ここまで何でも聖女に集めていたら、その人がどれだけ優秀でも、いずれ潰れる。


 前世の会社でも似たようなことがあった。

 やたら仕事のできる一人に確認を集め、判断も調整もその人任せにして、周囲が「やっぱりあの人じゃないと」と言っているうちに、その人が倒れるやつだ。


 それは信頼じゃない。

 ただの依存だ。


 もちろん、まだ私はこの国のことを何も知らない。聖女という立場がどういうものかも、王宮と神殿の関係も分からない。だから断定はできない。


 でも、胸の奥にある前世の感覚が静かに告げていた。


 これは、あまり良くない流れだ。


 夕方近くになって、ようやく一息つけそうだと思ったころ、ナラにまた呼ばれた。


「レティア、神殿へ返す布巾、まとめ終わった?」

「はい。いま持っていきます」

「その帰り、渡り廊下の先で侍女長補佐に声かけられたら、薬庫へ走って」

「何かあったんですか」

「さあね。今日は朝からずっと誰かが走ってる」


 それは本当にそうだった。


 私は布巾の籠を抱え、王宮と大神殿をつなぐ渡り廊下へ向かう。


 この廊下は、朝より夕方のほうが混むらしい。石の床は磨かれ、窓から差す光が長く伸びている。表向きは綺麗な場所だ。けれど、綺麗な廊下ほど、立ち止まっている人の気配は目立つ。


 少し先に、人だかりができているのが見えた。


 侍女が二人。神官補佐らしき男が一人。その向こうに、書類を抱えた若い神官見習い。皆、声は抑えているのに、空気だけがぴんと張っていた。


「だから、薬の搬送許可がまだ下りていないんです」

「もう待てません。小神殿からの使いが三度も来ています」

「分かっていますが、聖女様の印が必要で」

「それは本当に聖女様が見る案件なんですか?」

「規則上はそうなっています」

「規則上って、今そこにいる患者様は規則で待ってくれないでしょう!」


 私は反射的に足を止めた。


 薬の搬送。

 許可が下りない。

 待っていたら間に合わない。


 胸の奥が、ひどくざわつく。


 見れば、彼らの手には書類が何枚もある。薄い紙、厚い紙、似たような束。遠目にも、どれが本当に急ぎなのか分からない。

 けれど、あの中に今すぐ動かなければならないものが混ざっている。そんな嫌な気配だけは、はっきり分かった。


 前世の感覚が、いやなくらい疼く。


 “急ぎ”が何件も重なると、本当の急ぎが埋もれる。


 しかもここでは、皆が「聖女様のご判断待ち」という札を持ったまま立ち止まっている。


 私は布巾の籠を抱えたまま、少しだけ息を止めた。


 まだ、口は出せない。


 私はただの下働きだ。事情も全部は分からない。ここで軽々しく割って入るのは違う。そう頭では分かっている。


 でも、分かっていても、嫌な予感だけは消えなかった。


 書類の束。

 止まっている足。

 待たされる薬。

 そしてまた、あの言葉。


「聖女様のご判断待ちです」


 ああ、これ。


 嫌な予感がする。

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