第16話 雑用係、西方へ行く
正式な話になると、人は急に筆を信じるようになる。
口では昨日から決まっていたような顔をしていても、紙に名前が並んだ瞬間に、ようやく「これは本当に動くのだ」と分かるのだ。
その朝、私もそうだった。
王宮実務局の控え机に置かれた派遣名簿の一番下に、見慣れない並びで自分の名前があった。
聖女フィリア。
護衛騎士アルフレッド。
神殿書記補佐。
王宮配給記録担当。
搬送係二名。
伝令補助一名。
そして。
雑用係 レティア。
私は、その一行を二度見た。
いや、正確には三度見た。二度では足りなかったからだ。
「何度見ても、名前は増えませんよ」
背後から声がして振り向くと、王宮側の実務担当役人が立っていた。前の会議にもいた、少し神経質そうな男だ。いつもは紙の角まできっちり揃えてから話すタイプなのに、今日はそこまで余裕がないらしい。名簿の端がほんの少しだけずれていた。
「増えないなら減ってほしいです」
私が言うと、役人は一瞬だけ目を丸くした。
「減ってほしいのですか」
「半分くらいは」
「半分」
「面倒が大きそうなので」
「正直ですね」
「嘘は苦手です」
役人は呆れたように息を吐き、それから少しだけ声を落とした。
「ですが、必要です」
「……ですよね」
「西方でも王都と同じ詰まりが起きているなら、紙だけ読める者では足りません」
彼は名簿の一番下を指で軽く叩く。
「どこで迷いが増えるか。どこで戻ってくるか。誰が“とりあえず上へ”にしたがるか。そういうものを見る目が要る」
「だから雑用係」
「だから、あなたです」
そう言われると、変な感じがした。
昨日までの私は、板の前にいると嫌な顔をされる雑用係だった。
今日の私は、正式な派遣名簿の中に名前が入っている雑用係だ。
立場が上がった、という感じではない。
偉くなったとも思わない。
ただ、逃げ道が減った感じがした。
もう「たまたま近くにいたので見ました」では通らない。
最初から役目として入れられている。
「出発は昼前です」
役人が言う。
「早いですね」
「西方の現地報告が、今朝の分でも増えました。薬と浄化具だけでなく、面会順と搬送導線まで混線し始めています」
「……のんびりしてる場合じゃない、と」
「はい」
役人は少し言いにくそうに続けた。
「本音を言えば、王都でもまだ片づいていないことはあります」
「ありますね」
「ですが、西方はもっとまずい」
「分かります」
名簿の自分の名前を、もう一度だけ見た。
雑用係 レティア。
見慣れた肩書きなのに、置かれている場所だけが違う。
その違和感が、じわじわ現実味を持ち始めていた。
◇
出発が決まると、王宮の中は二種類の忙しさに分かれる。
ひとつは、馬車や護衛や携行品のように、目に見えて動く忙しさ。
もうひとつは、「誰が何を持っていくべきか」「何を向こうへ渡し、何を王都へ残すか」を決める忙しさだ。
私にとって厄介なのは、だいたい後者だった。
雑用口へ戻ると、板の前にはいつもより少し人が多かった。
伝令札、確認札、搬送札、面会札。
板そのものはいつも通りなのに、その前に立つ人の顔だけが少し違う。誰もが「見送る側」と「残る側」の顔をしている。
「来た」
ナラがそう言ったのは、私が板の前へ立った瞬間だった。
「何その顔」
「何その、って」
「面倒がでかくなった時の顔」
「合ってる」
「でしょうね」
ナラは腕を組む。
「正式メンバーなんだって?」
「らしいです」
「らしい、じゃなくてそうなんでしょ」
「紙にはそう書いてあった」
「紙にそう書いてあるなら決定だよ」
「そうなんだけど、まだ実感が薄い」
「馬車に詰め込まれたら出るよ、そのへんの実感」
言い方が雑なのに、やけに真実味がある。
私は少しだけ笑った。
ダンおじさんも倉庫側の帳面を抱えたまま、こっちへ来る。
「聞いたぞ」
「何をですか」
「向こうへ行くんだろ」
「行くらしいです」
「お前、さっきから“らしい”ばっかりだな」
「急に大きい話になると、語尾が弱くなるんですよ」
「弱くなってる場合か」
ダンおじさんはぶっきらぼうに言い、持っていた小さな帳面を私の前へ置いた。
「向こうの倉庫が雑でも驚くな」
「わあ、いきなり嫌な忠告」
「あと、帳面の数字が変なら、まず数え方を疑え」
「それはもう身にしみてます」
「だったらいい」
彼は少しだけ言葉を詰まらせてから続けた。
「帰ってきたら、こっちの帳面も残ってるからな」
「逃げられないんですね」
「当たり前だ」
ナラが横から口を挟む。
「向こうでも勝手に整えてきな」
「勝手にはしない予定」
「無理だね」
「即答」
「でも勝手に倒れてこないでよ」
彼女は眉を寄せる。
「こっちの板、あんたの分まで睨むの、思ったより面倒なんだから」
「それはごめん」
「ごめんで済むなら楽だよ」
面会控室付きの侍女、ミレナもやって来た。
「西方にも列はあるのでしょうか」
「たぶん、あると思います」
「見えない列だと面倒ですね」
「そうですね」
「……見てきてください」
ミレナは小さく笑った。
「向こうの順番札も、また怒られない程度に整えてきてください」
「また怒られる前提なんですね」
「そこはもう諦めました」
そのやり取りに、伝令役の少年まで口を挟んだ。
「僕、向こうでは行き先を一回で聞ける仕組みがいいです」
「切実だなあ」
「切実です!」
少年は真顔で言う。
「同じ廊下を二回走るの、すごく疲れるので」
「分かる」
「書記室前と神殿入口の往復、本当に嫌なんです」
「知ってる」
「じゃあ、向こうでもお願いします」
「簡単に言うなあ」
皆、あまり深刻な顔はしない。
軽口で送ろうとしているのが分かる。
でも、その軽さの下に、本当の頼もしさと不安が混ざっていた。
ここへ来たばかりの頃、私はただの王宮の下働きの娘だった。
床を磨いて、茶器を下げて、備品を補充して、誰かが落とした紙を拾う側。
それが今、こうして送り出されている。
王都の内側に、いつの間にか自分の居場所ができていたのだと、少し遅れて気づいた。
「レティア」
ナラが、不意に真面目な声で呼んだ。
「はい」
「戻ってきなよ」
「……うん」
「向こうがひどくても、こっちはこっちで回しとくから」
「ありがとう」
「でも、あんたが戻った時に“やっぱり板の並び違う”とか言うんでしょ」
「たぶん言う」
「やっぱり」
ナラはふっと笑った。
「じゃあ、その時はちゃんと文句言いに戻ってきて」
私は返事の代わりに、小さく頷いた。
◇
出発前の控室は、いつもより静かだった。
忙しいのに静か、という少し変な空気だ。
侍女たちの動きは速い。護衛の足音も増えている。書類の出入りもある。なのに、音の芯だけが沈んでいる。
フィリアが、窓辺で西方からの報告書を見ていた。
その紙はもう何度も読まれているはずなのに、彼女はまだ目を離せないでいる。
「聖女様」
私が声をかけると、フィリアはすぐに顔を上げた。
でも、返事の前にほんの一拍だけ呼吸を置いた。
「はい、レティアさん」
その返し方に、私は少しだけ救われる。
あの五分は、ちゃんと消えずに残っているらしい。
「出発の準備は」
「整いました」
「そうですか」
フィリアは手元の紙へ視線を落とす。
「整っても、気持ちだけはあまり整いませんね」
「分かります」
「分かりますか?」
「はい」
私は少し考えてから続けた。
「面倒が大きくなる前って、だいたい整わないです」
「……それは、とてもレティアさんらしい言い方ですね」
「励ましになってないのは自覚してます」
「でも、嫌いではありません」
フィリアはそう言って、また報告書へ目を戻した。
「私の名があれば、現地は従わざるを得ません」
「はい」
「だからこそ、似せた命令でも通ってしまう」
「そうだと思います」
「助けるための名前であってほしかったのですが」
彼女は指先で紙の縁をなぞる。
「迷わせるための重さにもなってしまうのですね」
責めるような声ではなかった。
でも、引き受けてしまう人の痛みがあった。
「名が悪いわけじゃありません」
私は言った。
「使い方が崩れてるんです」
「使い方」
「誰が、どこで、どう使っていいのかが見えないと、名だけが先に走る」
「……」
「だから、見に行きましょう」
私は続けた。
「今度は“ご判断待ち”になる前に、止まってる場所を探します」
フィリアはしばらく黙っていた。
窓の外から、馬具の音がかすかに届く。
出発の時間が近いのだろう。
「行かなければならない理由が、分かりすぎるのがつらいです」
彼女がぽつりと言った。
その言葉が、妙に胸へ残った。
責任があるから行く。
自分の名で起きている混乱だから行く。
それは正しい。正しいけれど、正しすぎる理由は時々つらい。
「だから」
私は少しだけ言葉を選んだ。
「せめて、ひとりで背負う形にはしません」
「……はい」
「見るのは私もやります」
「守るのは俺がやる」
低い声がして振り向くと、アルフレッドが立っていた。
護衛用の外套姿で、いつもよりさらに硬い顔をしている。西方行きを決めてから、彼の緊張は目に見えて増していた。
「失礼しました」
彼はフィリアへ一礼し、それから私を見る。
「荷車の積み込みは終わった。出発は予定通りだ」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「その言い方、ちょっと怖いですね」
「護衛は怖くて構わない」
「本人が言うと説得力あるなあ」
アルフレッドは無視した。
でも、その無視の仕方が少しだけいつも通りで、私は逆に安心した。
「西方では、王都以上に警戒して動きます」
彼はフィリアへ向けて言う。
「本人不在のまま聖女の名が複数走っている時点で、実務だけの話では済みません」
「はい」
「行動予定も、面会順も、護送経路も利用される可能性がある」
「分かっています」
「レティア」
「はい」
「お前の目が必要なのは認める」
彼は不本意そうに言った。
「だが、勝手に単独で動くな」
「そんな予定は」
「ある顔だ」
「失礼だなあ」
「変なところへ首を突っ込む前提で護るのは面倒なんだ」
「ちゃんと護ってくれる気満々ですね」
「護衛だからな」
フィリアが、そのやり取りに少しだけ笑った。
その笑いに、私はまた救われる。
重い旅になるのは間違いない。
でも、少なくとも出発前のこの部屋には、ひとりで潰れる空気はなかった。
◇
荷車の音が近づく頃、私はひとりで雑用口の前へ立った。
たぶん、誰かに呼ばれる前のほんの短い時間だったと思う。
でも、その時間が欲しかった。
板はいつも通りそこにあった。
倉庫。
神殿書記室。
面会控室。
伝令中。
確認待ち。
搬送準備。
伝令札がひとつ動いて、確認札が一枚ずれて、面会札の順番が少し入れ替わる。
王都の流れは、今日も板の前で呼吸している。
この板を見ていると、私はたぶん、ずっと“国の一部”を見ている気になっていた。
どこが詰まっているか。
何が戻ってくるか。
誰が迷って、どこで待って、どこから全部が上へ行ってしまうか。
ここを見れば少し分かる。
少しだけ、国の呼吸が見える気がしていた。
でも今は違う。
西方で起きている混乱は、この板には載っていない。
ここに並ぶ確認札の外で、聖女名義の命令が走り、誰が切るのか分からないまま、人や物が止まりかけている。
この板に収まる範囲だけが国じゃない。
そんな当たり前のことを、私はいま初めて身体で分かり始めていた。
王都で見えていた“全部”は、全部じゃなかった。
ここは、この国のほんの一角だ。
しかもたぶん、整っている方の一角ですらないのに、それでもまだ一角でしかない。
「見すぎると名残惜しくなるよ」
後ろから声がして振り向くと、ナラが立っていた。
「名残惜しい、かな」
「少しはあるでしょ」
「……あるかも」
「素直」
「出発前くらいは」
「じゃあ今のうちにちゃんと見ときな」
ナラは板を見上げる。
「向こうから戻った時に、“やっぱりこの並び落ち着く”って思えるように」
「向こうでも同じようなのがあったらどうしよう」
「あるんじゃない?」
「やだなあ」
「でも、たぶん放っとけないでしょ」
「うん」
ナラは小さく笑った。
「だったらもう諦めな。あんた、そういう子だよ」
その言い方が妙に優しくて、私は返事の代わりに板をもう一度見た。
王都の中で拾ってきた細かい迷い。
順番を待つ顔。
届かない支援。
揃わない数字。
休めない人。
見えてしまう詰まり。
それら全部が、板の上の並びと一緒に胸の中へ残っている。
「レティア!」
伝令役の少年が廊下の向こうから手を振った。
「出ます!」
「今行く!」
私は最後に板へ軽く手を触れた。
別れの挨拶みたいで少し変だったけれど、そうしたかった。
◇
馬車が王宮の門を抜けたあとも、しばらくは王都の石畳の音が続いた。
車輪が小さく跳ねる。
護衛の馬の蹄が、規則正しく鳴る。
窓の外では見慣れた建物の並びが、少しずつ後ろへ流れていく。
フィリアは向かいの席で静かに座っていた。
膝の上には閉じたままの報告書。
開いていないところを見ると、少なくとも今は“移動のあいだにもう一度確認しておこう”へは行っていないらしい。少しだけ、よかったと思う。
アルフレッドは窓際に近い位置で外を見ている。
目はずっと警戒しているのに、必要な時だけこちらを見る余裕も残している。
同行する実務担当たちは、資料束を抱えて固い顔をしていた。
西方がどのくらい荒れているのか、まだ誰にも分からない。
だから皆、出発したあとも心だけが少し遅れて動いているみたいだった。
私は窓の外を見た。
城壁が少しずつ遠ざかる。
見慣れた塔。
市場の屋根。
王都の境を示す石の標。
その全部が、後ろへ流れていく。
ここまで積み重ねてきたものは、勝ち負けで片づくようなものではなかった。
王都の中で、詰まり方を見た。
ほどき方を覚えた。
誰がどこで迷い、何が戻ってきて、どこで人が息を詰めるのかを見てきた。
だから、これから向かう先は、ただ見知らぬ土地というだけではない。
王都で見えていた歪みが、どこまで広がっているのか。
この国が抱えた詰まりが、どんな形で根を張っているのか。
それを、自分の目で確かめに行くのだ。
王都の門が、ついに遠くなった。
私は窓の外へ目を向けたまま、静かに思う。
王都の外も、同じなら。たぶん、もっとひどい。




