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聖女様が忙しそうなので、雑用係の私が国を回しておきました【連載版】  作者: 星渡リン
第3章 雑用係、地方へ行く

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第16話 雑用係、西方へ行く

 正式な話になると、人は急に筆を信じるようになる。


 口では昨日から決まっていたような顔をしていても、紙に名前が並んだ瞬間に、ようやく「これは本当に動くのだ」と分かるのだ。


 その朝、私もそうだった。


 王宮実務局の控え机に置かれた派遣名簿の一番下に、見慣れない並びで自分の名前があった。


 聖女フィリア。

 護衛騎士アルフレッド。

 神殿書記補佐。

 王宮配給記録担当。

 搬送係二名。

 伝令補助一名。

 そして。


 雑用係 レティア。


 私は、その一行を二度見た。


 いや、正確には三度見た。二度では足りなかったからだ。


「何度見ても、名前は増えませんよ」


 背後から声がして振り向くと、王宮側の実務担当役人が立っていた。前の会議にもいた、少し神経質そうな男だ。いつもは紙の角まできっちり揃えてから話すタイプなのに、今日はそこまで余裕がないらしい。名簿の端がほんの少しだけずれていた。


「増えないなら減ってほしいです」

 私が言うと、役人は一瞬だけ目を丸くした。

「減ってほしいのですか」

「半分くらいは」

「半分」

「面倒が大きそうなので」

「正直ですね」

「嘘は苦手です」


 役人は呆れたように息を吐き、それから少しだけ声を落とした。


「ですが、必要です」

「……ですよね」

「西方でも王都と同じ詰まりが起きているなら、紙だけ読める者では足りません」

 彼は名簿の一番下を指で軽く叩く。

「どこで迷いが増えるか。どこで戻ってくるか。誰が“とりあえず上へ”にしたがるか。そういうものを見る目が要る」

「だから雑用係」

「だから、あなたです」


 そう言われると、変な感じがした。


 昨日までの私は、板の前にいると嫌な顔をされる雑用係だった。

 今日の私は、正式な派遣名簿の中に名前が入っている雑用係だ。


 立場が上がった、という感じではない。

 偉くなったとも思わない。


 ただ、逃げ道が減った感じがした。


 もう「たまたま近くにいたので見ました」では通らない。

 最初から役目として入れられている。


「出発は昼前です」

 役人が言う。

「早いですね」

「西方の現地報告が、今朝の分でも増えました。薬と浄化具だけでなく、面会順と搬送導線まで混線し始めています」

「……のんびりしてる場合じゃない、と」

「はい」

 役人は少し言いにくそうに続けた。

「本音を言えば、王都でもまだ片づいていないことはあります」

「ありますね」

「ですが、西方はもっとまずい」

「分かります」


 名簿の自分の名前を、もう一度だけ見た。


 雑用係 レティア。


 見慣れた肩書きなのに、置かれている場所だけが違う。

 その違和感が、じわじわ現実味を持ち始めていた。


     ◇


 出発が決まると、王宮の中は二種類の忙しさに分かれる。


 ひとつは、馬車や護衛や携行品のように、目に見えて動く忙しさ。

 もうひとつは、「誰が何を持っていくべきか」「何を向こうへ渡し、何を王都へ残すか」を決める忙しさだ。


 私にとって厄介なのは、だいたい後者だった。


 雑用口へ戻ると、板の前にはいつもより少し人が多かった。

 伝令札、確認札、搬送札、面会札。

 板そのものはいつも通りなのに、その前に立つ人の顔だけが少し違う。誰もが「見送る側」と「残る側」の顔をしている。


「来た」


 ナラがそう言ったのは、私が板の前へ立った瞬間だった。


「何その顔」

「何その、って」

「面倒がでかくなった時の顔」

「合ってる」

「でしょうね」

 ナラは腕を組む。

「正式メンバーなんだって?」

「らしいです」

「らしい、じゃなくてそうなんでしょ」

「紙にはそう書いてあった」

「紙にそう書いてあるなら決定だよ」

「そうなんだけど、まだ実感が薄い」

「馬車に詰め込まれたら出るよ、そのへんの実感」


 言い方が雑なのに、やけに真実味がある。

 私は少しだけ笑った。


 ダンおじさんも倉庫側の帳面を抱えたまま、こっちへ来る。


「聞いたぞ」

「何をですか」

「向こうへ行くんだろ」

「行くらしいです」

「お前、さっきから“らしい”ばっかりだな」

「急に大きい話になると、語尾が弱くなるんですよ」

「弱くなってる場合か」

 ダンおじさんはぶっきらぼうに言い、持っていた小さな帳面を私の前へ置いた。

「向こうの倉庫が雑でも驚くな」

「わあ、いきなり嫌な忠告」

「あと、帳面の数字が変なら、まず数え方を疑え」

「それはもう身にしみてます」

「だったらいい」

 彼は少しだけ言葉を詰まらせてから続けた。

「帰ってきたら、こっちの帳面も残ってるからな」

「逃げられないんですね」

「当たり前だ」


 ナラが横から口を挟む。


「向こうでも勝手に整えてきな」

「勝手にはしない予定」

「無理だね」

「即答」

「でも勝手に倒れてこないでよ」

 彼女は眉を寄せる。

「こっちの板、あんたの分まで睨むの、思ったより面倒なんだから」

「それはごめん」

「ごめんで済むなら楽だよ」


 面会控室付きの侍女、ミレナもやって来た。


「西方にも列はあるのでしょうか」

「たぶん、あると思います」

「見えない列だと面倒ですね」

「そうですね」

「……見てきてください」

 ミレナは小さく笑った。

「向こうの順番札も、また怒られない程度に整えてきてください」

「また怒られる前提なんですね」

「そこはもう諦めました」


 そのやり取りに、伝令役の少年まで口を挟んだ。


「僕、向こうでは行き先を一回で聞ける仕組みがいいです」

「切実だなあ」

「切実です!」

 少年は真顔で言う。

「同じ廊下を二回走るの、すごく疲れるので」

「分かる」

「書記室前と神殿入口の往復、本当に嫌なんです」

「知ってる」

「じゃあ、向こうでもお願いします」

「簡単に言うなあ」


 皆、あまり深刻な顔はしない。

 軽口で送ろうとしているのが分かる。

 でも、その軽さの下に、本当の頼もしさと不安が混ざっていた。


 ここへ来たばかりの頃、私はただの王宮の下働きの娘だった。

 床を磨いて、茶器を下げて、備品を補充して、誰かが落とした紙を拾う側。


 それが今、こうして送り出されている。


 王都の内側に、いつの間にか自分の居場所ができていたのだと、少し遅れて気づいた。


「レティア」


 ナラが、不意に真面目な声で呼んだ。


「はい」

「戻ってきなよ」

「……うん」

「向こうがひどくても、こっちはこっちで回しとくから」

「ありがとう」

「でも、あんたが戻った時に“やっぱり板の並び違う”とか言うんでしょ」

「たぶん言う」

「やっぱり」

 ナラはふっと笑った。

「じゃあ、その時はちゃんと文句言いに戻ってきて」


 私は返事の代わりに、小さく頷いた。


     ◇


 出発前の控室は、いつもより静かだった。


 忙しいのに静か、という少し変な空気だ。

 侍女たちの動きは速い。護衛の足音も増えている。書類の出入りもある。なのに、音の芯だけが沈んでいる。


 フィリアが、窓辺で西方からの報告書を見ていた。


 その紙はもう何度も読まれているはずなのに、彼女はまだ目を離せないでいる。


「聖女様」


 私が声をかけると、フィリアはすぐに顔を上げた。

 でも、返事の前にほんの一拍だけ呼吸を置いた。


「はい、レティアさん」


 その返し方に、私は少しだけ救われる。


 あの五分は、ちゃんと消えずに残っているらしい。


「出発の準備は」

「整いました」

「そうですか」

 フィリアは手元の紙へ視線を落とす。

「整っても、気持ちだけはあまり整いませんね」

「分かります」

「分かりますか?」

「はい」

 私は少し考えてから続けた。

「面倒が大きくなる前って、だいたい整わないです」

「……それは、とてもレティアさんらしい言い方ですね」

「励ましになってないのは自覚してます」

「でも、嫌いではありません」


 フィリアはそう言って、また報告書へ目を戻した。


「私の名があれば、現地は従わざるを得ません」

「はい」

「だからこそ、似せた命令でも通ってしまう」

「そうだと思います」

「助けるための名前であってほしかったのですが」

 彼女は指先で紙の縁をなぞる。

「迷わせるための重さにもなってしまうのですね」


 責めるような声ではなかった。

 でも、引き受けてしまう人の痛みがあった。


「名が悪いわけじゃありません」

 私は言った。

「使い方が崩れてるんです」

「使い方」

「誰が、どこで、どう使っていいのかが見えないと、名だけが先に走る」

「……」

「だから、見に行きましょう」

 私は続けた。

「今度は“ご判断待ち”になる前に、止まってる場所を探します」


 フィリアはしばらく黙っていた。


 窓の外から、馬具の音がかすかに届く。

 出発の時間が近いのだろう。


「行かなければならない理由が、分かりすぎるのがつらいです」

 彼女がぽつりと言った。


 その言葉が、妙に胸へ残った。


 責任があるから行く。

 自分の名で起きている混乱だから行く。

 それは正しい。正しいけれど、正しすぎる理由は時々つらい。


「だから」

 私は少しだけ言葉を選んだ。

「せめて、ひとりで背負う形にはしません」

「……はい」

「見るのは私もやります」

「守るのは俺がやる」


 低い声がして振り向くと、アルフレッドが立っていた。


 護衛用の外套姿で、いつもよりさらに硬い顔をしている。西方行きを決めてから、彼の緊張は目に見えて増していた。


「失礼しました」

 彼はフィリアへ一礼し、それから私を見る。

「荷車の積み込みは終わった。出発は予定通りだ」

「ありがとうございます」

「礼はいらない」

「その言い方、ちょっと怖いですね」

「護衛は怖くて構わない」

「本人が言うと説得力あるなあ」


 アルフレッドは無視した。

 でも、その無視の仕方が少しだけいつも通りで、私は逆に安心した。


「西方では、王都以上に警戒して動きます」

 彼はフィリアへ向けて言う。

「本人不在のまま聖女の名が複数走っている時点で、実務だけの話では済みません」

「はい」

「行動予定も、面会順も、護送経路も利用される可能性がある」

「分かっています」

「レティア」

「はい」

「お前の目が必要なのは認める」

 彼は不本意そうに言った。

「だが、勝手に単独で動くな」

「そんな予定は」

「ある顔だ」

「失礼だなあ」

「変なところへ首を突っ込む前提で護るのは面倒なんだ」

「ちゃんと護ってくれる気満々ですね」

「護衛だからな」


 フィリアが、そのやり取りに少しだけ笑った。


 その笑いに、私はまた救われる。

 重い旅になるのは間違いない。

 でも、少なくとも出発前のこの部屋には、ひとりで潰れる空気はなかった。


     ◇


 荷車の音が近づく頃、私はひとりで雑用口の前へ立った。


 たぶん、誰かに呼ばれる前のほんの短い時間だったと思う。

 でも、その時間が欲しかった。


 板はいつも通りそこにあった。


 倉庫。

 神殿書記室。

 面会控室。

 伝令中。

 確認待ち。

 搬送準備。


 伝令札がひとつ動いて、確認札が一枚ずれて、面会札の順番が少し入れ替わる。

 王都の流れは、今日も板の前で呼吸している。


 この板を見ていると、私はたぶん、ずっと“国の一部”を見ている気になっていた。


 どこが詰まっているか。

 何が戻ってくるか。

 誰が迷って、どこで待って、どこから全部が上へ行ってしまうか。


 ここを見れば少し分かる。

 少しだけ、国の呼吸が見える気がしていた。


 でも今は違う。


 西方で起きている混乱は、この板には載っていない。

 ここに並ぶ確認札の外で、聖女名義の命令が走り、誰が切るのか分からないまま、人や物が止まりかけている。


 この板に収まる範囲だけが国じゃない。


 そんな当たり前のことを、私はいま初めて身体で分かり始めていた。


 王都で見えていた“全部”は、全部じゃなかった。

 ここは、この国のほんの一角だ。

 しかもたぶん、整っている方の一角ですらないのに、それでもまだ一角でしかない。


「見すぎると名残惜しくなるよ」


 後ろから声がして振り向くと、ナラが立っていた。


「名残惜しい、かな」

「少しはあるでしょ」

「……あるかも」

「素直」

「出発前くらいは」

「じゃあ今のうちにちゃんと見ときな」

 ナラは板を見上げる。

「向こうから戻った時に、“やっぱりこの並び落ち着く”って思えるように」

「向こうでも同じようなのがあったらどうしよう」

「あるんじゃない?」

「やだなあ」

「でも、たぶん放っとけないでしょ」

「うん」


 ナラは小さく笑った。


「だったらもう諦めな。あんた、そういう子だよ」


 その言い方が妙に優しくて、私は返事の代わりに板をもう一度見た。


 王都の中で拾ってきた細かい迷い。

 順番を待つ顔。

 届かない支援。

 揃わない数字。

 休めない人。

 見えてしまう詰まり。


 それら全部が、板の上の並びと一緒に胸の中へ残っている。


「レティア!」


 伝令役の少年が廊下の向こうから手を振った。


「出ます!」

「今行く!」


 私は最後に板へ軽く手を触れた。


 別れの挨拶みたいで少し変だったけれど、そうしたかった。


     ◇


 馬車が王宮の門を抜けたあとも、しばらくは王都の石畳の音が続いた。


 車輪が小さく跳ねる。

 護衛の馬の蹄が、規則正しく鳴る。

 窓の外では見慣れた建物の並びが、少しずつ後ろへ流れていく。


 フィリアは向かいの席で静かに座っていた。

 膝の上には閉じたままの報告書。

 開いていないところを見ると、少なくとも今は“移動のあいだにもう一度確認しておこう”へは行っていないらしい。少しだけ、よかったと思う。


 アルフレッドは窓際に近い位置で外を見ている。

 目はずっと警戒しているのに、必要な時だけこちらを見る余裕も残している。


 同行する実務担当たちは、資料束を抱えて固い顔をしていた。

 西方がどのくらい荒れているのか、まだ誰にも分からない。

 だから皆、出発したあとも心だけが少し遅れて動いているみたいだった。


 私は窓の外を見た。


 城壁が少しずつ遠ざかる。

 見慣れた塔。

 市場の屋根。

王都の境を示す石の標。

 その全部が、後ろへ流れていく。


 ここまで積み重ねてきたものは、勝ち負けで片づくようなものではなかった。

 王都の中で、詰まり方を見た。

 ほどき方を覚えた。

 誰がどこで迷い、何が戻ってきて、どこで人が息を詰めるのかを見てきた。


 だから、これから向かう先は、ただ見知らぬ土地というだけではない。

 王都で見えていた歪みが、どこまで広がっているのか。

 この国が抱えた詰まりが、どんな形で根を張っているのか。

 それを、自分の目で確かめに行くのだ。


 王都の門が、ついに遠くなった。


 私は窓の外へ目を向けたまま、静かに思う。


 王都の外も、同じなら。たぶん、もっとひどい。

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