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聖女様が忙しそうなので、雑用係の私が国を回しておきました【連載版】  作者: 星渡リン
第2章 王都は回り始める、けれど敵も動き出す

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第13話 いないだけで止まる

 人を外す時、命令はたいてい、きれいな顔をしている。


 その朝、私のところへ来たのも、そういう顔をした言葉だった。


「レティア、今日の午前は南回廊へ回ってください」


 雑用口へ朝いちの札が集まり始めた頃だった。板の前では、夜のうちに戻った伝令分をナラが動かし、ダンおじさんが倉庫の持ち出し札を机へ置いていく。私は三分類の山を整えながら、「はい」と返しかけて、相手の顔を見た。


 上位侍女の補佐役をしている年嵩の女だった。口調は穏やかで、声も低い。けれど、目が少しも揺れていない。


「南回廊ですか」

「ええ。床磨きと、備品補充と、茶器の下げ。あと布庫の数合わせも」

「午前いっぱい」

「そうです」

 彼女は視線を板の方へ流した。

「最近、下働きがここへ居すぎるという声があります」

「……」

「雑用係は雑用に戻りなさい、ということです」

 言い方は静かだった。

「板の前へ出すぎている、と」


 後ろでナラがぴたりと手を止めたのが分かった。

 ダンおじさんも帳面を閉じる音をひとつ立てて、それきり黙った。


 私は少しだけ息を吸った。


 名目は分かりやすい。

 雑用係が雑用へ戻る。正しい持ち場へ帰る。

 表向きはそれだけだ。


 でも、板の前から私を外したいのだということも、はっきり分かる。


「承知しました」

 私は頭を下げた。

「南回廊へ回ります」


 その返事に、補佐役の女は満足したようにうなずいた。


「結構です。あくまで本来の職務を優先しなさい」

「はい」

「紙や札は、侍女や書記が扱えますから」

「……はい」


 女が去っていく。


 足音が遠ざかったあと、雑用口の空気は妙に静かだった。


「感じ悪いねえ」


 最初に口を開いたのはナラだった。

 声は小さい。でも、怒っている時の声だ。


「“本来の職務”だって」

「まあ、言い方は正しい」

 ダンおじさんがぶっきらぼうに言う。

「だから余計に厄介だ」

「雑用してなかったわけじゃないのに」

「してるから、なお面倒なんだろ」


 私は板を見た。


 倉庫。

 神殿書記室。

 面会控室。

 伝令中。

 確認待ち。

 搬送準備。


 炭で書いた札が朝の光を受けて少しだけ白く見える。

 このところ、板そのものはずいぶん自然に使われるようになってきた。

 でも、板があることと、流れが回ることは同じじゃない。


 板は道具だ。

 道具は、見て、切って、つなぐ人がいて、ようやく効く。


 それがいま、抜かれる。


「レティア」


 ナラが不安そうに呼んだ。


「午前だけだよね」

「たぶん」

「たぶん?」

「名目上は」

「うわ、やな言い方」

「でも本当でしょ」

「本当だけどさあ」


 私は札を一枚だけ動かした。今すぐへ入れておくべき確認札だった。


 半日だけでも、嫌な予感しかしない。


「じゃあ行ってきます」

「行かなくてもいいのに」

「命令だから」

「分かってるけど」

 ナラは口を尖らせる。

「嫌だなあ」

「私も」

「帰ってくるよね」

「南回廊が王都の外にあるなら別だけど」

「そういうこと言ってるんじゃないんだよ」

「分かってる」


 私は雑用口を離れた。


 背中に、板のある気配が残ったままだった。


     ◇


 南回廊の床は、その日に限ってやけに長く見えた。


 床磨きは嫌いじゃない。力の入れ方さえ覚えれば、やったぶんだけ目に見えてきれいになる。布で擦れば曇りが取れ、光が戻る。余計な言い訳が要らない仕事だ。


 でも、その日は布を動かすたびに、別のことが頭へ浮かんだ。


 いまごろ最初の伝令が戻っている時間だ。

 倉庫確認を挟む札は、誰が“いったん戻す”を切るだろう。

 面会控室から“今日中で足りるか”の確認が来る頃でもある。

 神殿書記室へそのまま送ると戻される紙が、今朝は何枚あるだろう。


 私は無意識に顔を上げてしまう。


 南回廊から雑用口は見えない。見えないのに、音だけが届く。

 伝令が走る足音。

 遠くで誰かが「これどっち?」と聞く声。

 また別の誰かが、「さっき誰に渡した?」と返す声。


 小さい。

 でも、嫌な響きだった。


「レティア」


 布を絞っていると、布庫の見習いが顔を出した。


「これ、南棟へ運ぶ分って聞いたんだけど」

 抱えているのはタオル布の束だ。

「札は?」

「ない」

「……誰から?」

「上の人」

「誰」

「上の人」

「具体性がない」

「ごめん」


 私は思わず額へ手を当てた。


 これだ。


 札がないまま“上の人が言ってた”で物が動き始めると、後ろが切れる。

 切れたものは、あとで探すしかない。

 探す時、探す人はたいてい最初に動かした人じゃない。

 だから余計に面倒になる。


「とりあえず一度ここへ置いて」

「南棟じゃないの?」

「後で確認する」

「でも急ぎって」

「急ぎかどうかの札がない」

「……そっか」


 見習いが素直に納得してしまって、私は少し苦くなる。


 板の前にいれば、この束は“確認待ち”に一枚差して、どこへ聞くか切れた。

 いまはそれもできない。

 南回廊へ戻れと言われた以上、こちらで全部拾い始めたら命令の意味がなくなる。


 歯がゆかった。


 私は布束へ仮札だけ差して、布庫の端へ寄せた。

 南棟と書く代わりに、“出所未確認”と炭で小さく書いておく。


 こんなの、ただの応急処置だ。


 そのうち、茶器の片づけへ呼ばれた。

 盆を抱えて控室脇の廊下へ出ると、今度は侍女たちの顔色が悪い。


「レティア、いま時間ある?」

「南回廊担当ですけど」

「知ってる。でも一個だけ」

「一個だけって言う時、だいたい一個じゃないですよね」

「今日は一個半くらい」

「微妙だなあ」


 年若い侍女が、紙束を胸に抱えて困った顔をする。


「これ、返答待ち?」

「内容は?」

「面会札の差し替えと、神殿側の確認札」

「重なってる?」

「重なってる気がする」

「誰が持ってるの」

「それが分からなくて」

「……」


 私は盆を見た。

 片づけるべき茶器。

 抱えたままの侍女。

 廊下の向こうを通る神官補佐。

 そして控室の扉。


「ミレナさんは?」

「いま、中」

「ナラは?」

「さっきこっち来たけど、伝令に呼ばれてどっか行った」

「ダンおじさん」

「倉庫」


 つまり、いつもの“どこへ聞けば早いか”が全部ずれている。


「……いったん、それ机に置いて」

「どこへ」

「面会控室前の机」

「でも順番」

「いまその場で切ると、たぶん余計ずれる」

「分かった」


 侍女は急いでうなずき、走っていった。


 私は盆を持ったまま立ち尽くしたくなった。


 たったこれだけのことで、じわじわ重くなる。

 誰かが大失敗したわけじゃない。

 ただ、“いまどこを切るか”が見えなくなるだけで、場はすぐ鈍る。


     ◇


 雑用机の前では、最初の一刻くらいはまだ何とか回っていたらしい。


 それは午後になってから、みんなの顔を見て分かった。


 板は残っている。

 札も残っている。

 今すぐ、今日中、後日、の三分類もそのままだ。


 だから表面だけ見れば、昨日までと大差ない。

 でも、表面が残っていることと、流れが回っていることは別だった。


 伝令は戻る。

 でも、どこへ置けばいいかで一拍止まる。


 倉庫から確認が返る。

 でも、その先を誰が切るか分からず、机の端へ溜まる。


 面会札の差し替えが入る。

 でも“今日中”で足りるのか“今すぐ”へ上げるべきか、侍女同士で確認し合って宙に浮く。


 書記室へそのまま行った札が、重複確認もないまま戻される。

 戻された札は“戻された札”として机へ置かれ、次の意味がつかない。


 どれも小さい。

 ひとつひとつは本当に小さい。

 だから余計に厄介だった。


 大きな事故なら、皆がそこを見る。

 でも小さな迷いは、それぞれの持ち場で黙って増える。


 私は南回廊で床を磨きながら、その重さが向こうから滲んでくるのを感じていた。


 ときどき、わざと遠回りして雑用口の見える廊下を通った。


 一度目は、ナラが板の前で札を両手に持ったまま固まっていた。

 倉庫確認へ戻すべきか、伝令へ載せるべきか、迷っている顔だった。


 二度目は、ダンおじさんが帳面と板を見比べながら、誰かへ向かって「だからさっきどこへやったんだ」と言っていた。


 三度目は、伝令役の少年が同じ廊下を逆方向へ走っていた。

 一度行った先へ、また戻らされている走り方だ。


 四度目には、面会控室付きの侍女が机の前でぽつりと漏らしたのを聞いた。


「……これ、前はどうして回ってたんだっけ」


 その一言に、誰も答えられなかった。


 ナラが「板があるから……?」みたいな顔をして、でもそれだけじゃないとすぐ気づいて黙る。

 ダンおじさんは「伝令が戻れば……」と言いかけて、やはり違うと思ったのか帳面を閉じる。


 板があったからではない。

 札があったからでもない。

 それらを見て、“いまどこをつなぐか”を決める人がいたからだ。


 私は廊下の角に立ったまま、奥歯を噛んだ。


 嬉しいわけじゃない。

 必要とされている、と浮かれるような気分にはまるでならなかった。


 ただ、詰まりが戻ってきている。

 それが腹立たしかった。


 こんな戻り方をするくらいなら、最初から手を入れない方がましだ。

 でも、いまさら戻せるわけがない。

 現場はもう、少しでも見える方へ慣れ始めているのだから。


     ◇


 その頃、フィリアの机にはまた紙が厚くなり始めていた。


 朝のうちは軽かった。

 それは彼女自身も分かっていた。

 少し前までなら三つに分かれて上がってきていた井戸の確認も一本になり、面会の見通しが出るだけで“とりあえず聖女へ”の紙が減る。薬庫の件も、今日は途中で整えられた。


 それなのに、昼を越えたあたりから紙束の重みが変わる。


「……増えていますね」


 フィリアがそう言った時、侍女は答えに詰まった。


 紙が増えたというより、下で切れるはずのものまで一緒に上がり始めていた。


 倉庫確認前の紙。

 重複の整理が済んでいない紙。

 今日中で十分なもの。

 返答先だけ決めればよいもの。

 面会順の微調整で済むもの。


 以前のように“全部が全部”ではない。

 でも、“本来ならここまで来なくていいもの”が混ざるだけで、束はすぐ厚くなる。


 フィリアはその重さを、手でというより身体で思い出していた。


 紙を受け取ると、肩が少しだけ上がる。

 呼吸が浅くなる。

 視線が急ぐ。

 どれから見ればいいのかと考える前に、“全部を見なければ”が戻ってくる。


 先日、ほんの五分だけ休む練習をしたばかりだった。

 だからこそ、戻ってくる重さがよく分かる。


「これも、こちらへ?」

 フィリアが一枚持ち上げる。

「倉庫の現物確認前かと思うのですが」

「……下で、少し」

「迷ったのですね」

「はい」


 侍女は申し訳なさそうにうなずいた。


 フィリアは紙束を見下ろしたまま、小さく息を吸った。


 また、全部が来る。


 完全ではない。

 以前ほどではない。

 それでも、“下でほどけるはずのもの”がそのまま来るだけで、机の上はすぐ重くなる。


 扉のそばに立つアルフレッドは、その変化を今日はいつもよりはっきり見ていた。


 朝は軽かった。

 昼から重くなった。

 しかも、その増え方は案件そのものの変化ではなく、流れの崩れ方に近い。


 つまりレティアがいない半日だけで、フィリアへ返る紙の重さが変わっている。


 彼はそこで、ようやく具体的に理解した。


 板を置いていただけじゃない。

 札を動かしていただけでもない。

 紙の束を薄くしていた。

 迷いを下で止めていた。

 そして何より、“全部が聖女へ戻る”のを途中で切っていたのだ。


「……また、全部来ています」


 フィリアが静かに言う。


 その声には、責める響きはなかった。

 ただ、重さを知っている人だけの痛みがあった。


 アルフレッドは返事をしなかった。

 代わりに、扉の外へ一歩だけ出た。


 雑用口の方を見るためだった。


     ◇


 私が雑用机の前へ戻れたのは、午前が終わり切ってからだった。


 戻れたというより、南回廊の床磨きが終わり、布庫の確認も片づき、茶器片づけがひと段落した。名目上の仕事を終えたから、ようやく足を向けられたのだ。


 雑用口へ近づいた瞬間、空気の重さが違った。


 板は立っている。

 でも札が雑に溜まっている。

 今すぐの山に今日中が混ざり、後日の端に返答待ちが乗り、誰かが途中で置いたらしい小札が机の隅で折れている。


「うわ」


 思わず声が漏れた。


 ナラがその声で振り返る。


「レティア!」

「どうしたの、この机」

「見れば分かるでしょ、死んでる」

「比喩じゃないやつ?」

「比喩だけど気持ちは本気」

 ナラは髪をかき上げた。

「伝令が二往復した。侍女が三回聞きに来た。ダンおじさんが二回怒った。面会控室が一回詰まりかけた」

「十分だなあ……」

「十分だよ!」


 ダンおじさんが帳面を抱えたままこっちへ来る。


「戻ったか」

「戻りました」

「遅い」

「命令なので」

「知ってる」

 彼は不機嫌を隠しもしない。

「知ってるが、遅い」


 私はすぐ机の前へ回った。


 まず今すぐの山を切る。

 重複、倉庫確認前、神殿返答待ち、今日中で足りるもの。

 三分類を組み直す。

 次に板の位置札を見て、伝令中と確認待ちを入れ替える。

 面会控室から戻された札を“差し戻し”でいったんまとめる。

 倉庫確認が返っているのに次へ行っていない紙を拾う。


「これ、誰が持ってる」

「さっきは私」

 ナラが言う。

「いまは」

「いまは……」

「持ってない?」

「持ってない」

「じゃあ戻ってる。伝令!」

「は、はい!」

 少年が飛んでくる。

「南棟行きの返答札、どこへ置いた?」

「ええと、書記室前の机」

「回収して。これは倉庫先」

「はい!」


 次に侍女へ向き直る。


「面会差し替え、これは今日中」

「今日中でいい?」

「いい。先に薬庫返答」

「分かった!」

「こっちは」

 別の侍女が紙を差し出す。

「控室へ上げます?」

「上げない。返答先だけ決めればいい」

「じゃあ下で」

「うん」


 ダンおじさんが横から札を置く。


「蝋燭の持ち出し、南礼拝堂で合ってる」

「了解。搬送準備へ」

「最初からそう言え」

「最初から分かってたなら言ってください」

「分からんから聞いてるんだろ」


 言い合いながら、でも手は動く。


 机の上の重さが少しずつ軽くなる。

 板の前の滞りがほどけていく。

 皆の顔から、“次どうするんだっけ”の迷いが少しずつ消えていく。


 その時、私は気づいた。


 戻ってきたことを喜ぶ顔を、皆がしている。


 ナラはあからさまだし、ダンおじさんは認めない顔をしながらも機嫌が少し戻っている。侍女たちは札を渡す時の声が一段軽い。伝令は行き先を聞いたあと、ちゃんと一度で走る足になった。


 その安堵が、ちょっと悔しい。


 私が必要だからじゃない。

 止まりかけた流れが、また動き出したことに安堵しているのだ。

 でも、もう現場はそれを知ってしまった。


 レティアがいないと鈍る。

 それを知ってしまった。


     ◇


 紙の山がようやく“山”くらいに戻った頃、ナラが机の端へ腰をぶつけるように寄りかかって言った。


「上はさ」


 その声は、怒っているくせに妙に明るかった。


「あんたを外したいみたいだけど」

「うん」

「現場はもう無理だね」


 私は手を止めた。


 その言い方は、励ましというより事実だった。


 無理。

 つまり、好き嫌いとか、助かる助からないとか、そういう曖昧な話じゃない。

 回らない。

 止まる。

 鈍る。

 現場から見ると、もうそこまで来ているということだ。


「無理かどうかじゃなくて」

 私は半分だけ笑う。

「止まるのが困るんだよ」

「同じだよ」

 ナラが言う。

「現場にとっては」

「……そうかもね」

「そうだよ」


 ダンおじさんも横から低く言った。


「午前だけで十分分かった」

「何がですか」

「板が大事なんじゃない」

「うん」

「札が大事なんでもない」

「……うん」

「見て、切って、つなぐやつが要る」


 私はその言葉に、少しだけ目を伏せた。


 言われて嬉しいわけではない。

 でも、現場がそこまで言葉にしてしまったことの重さは分かる。


 上は、たぶんまだ“下働きが出過ぎている”と言う。

 でも、現場はもうそれだけでは戻れないところまで来ている。


 私は板の前へ立ち、さっきまで雑に積まれていた札をもう一度まっすぐ並べた。


 倉庫。

 神殿書記室。

 面会控室。

 伝令中。

 確認待ち。

 搬送準備。


 ただの板だ。

 ただの札だ。

 でも、それだけでは回らないことを、今日の半日で皆が知ってしまった。


 人を外す時、命令はきれいな顔をしている。

 でも、流れはきれいには止まらない。


 少しずつ重くなって、少しずつ息が詰まって、最後に全部が戻ってくる。


 私は炭を持ち直した。


 上がどう見ようと、現場はもう知っている。

 いないだけで止まるものがある。


 それを知ってしまったら、前には戻れない。

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