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聖女様が忙しそうなので、雑用係の私が国を回しておきました【連載版】  作者: 星渡リン
第2章 王都は回り始める、けれど敵も動き出す

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第12話 休む練習をしてください

 仕事が減れば、人は休める。


 そう思うのは、たぶん外から見ている人だけだ。


 実際には、空いた場所へ別の仕事が滑り込んでくる。

 しかもそれは、誰かに押しつけられる前に、自分の手で拾ってしまうことがある。


 その日のフィリアは、まさにそうだった。


 朝の紙束は、以前より明らかに軽くなっていた。


 井戸の依頼は一本化されるようになった。

 面会待ちには見通しが出た。

 薬庫の混乱も、そのまま“在庫不足”として上がる前に立ち止まるようになった。


 だから理屈の上では、フィリアの時間に少し余白ができている。


 けれどフィリアは、その余白を余白のまま置いておけない。


「これは後で大丈夫です」


 控室付きの侍女がそう言って控え札を下げようとした時、フィリアはすぐに手を伸ばした。


「いえ、いま見ます」

「ですが、次の面会まで少しだけ休憩を」

「その少しで確認だけ」

「聖女様」

「すぐです」


 そう言って、彼女は茶器の横へ紙を置く。

 置くだけではない。茶器を持ちながら、目はもう次の文字を追っていた。


 私は控室の端で、その様子を見ていた。


 机の上の紙は少ない。

 けれど、フィリアの息は少しも軽くなっていない。


 むしろ、空いた時間ができるたびに、別の何かを詰めている。


 面会がひとつ早く終わった。なら、保留にしていた返答を開こう。

 薬庫の混乱が落ち着いた。なら、先送りしていた感謝状の文面も見よう。

 侍女が「次は少しあとです」と告げた。なら、いまのうちに札を一枚でも減らそう。


 その動きが、あまりにも自然だった。


 自然すぎて、たぶん本人にも自覚がない。


 私は茶を運んできた侍女と目を合わせる。

 侍女は困ったように眉を下げ、小さく肩をすくめた。

 たぶん何度か言って、もう聞かれなかったのだろう。


 フィリアは立ったまま一口だけ茶を飲み、そのまま紙へ目を落とした。


 軽食も同じだった。

 つまみやすいように出された薄いパンをひとかけ口へ入れ、まだ飲み込む前に次の返事をしようとする。椅子はある。茶もある。軽食もある。だから一応、休憩の形には見える。


 でも、それは休みではなかった。


 身体だけがその場にあって、気持ちはずっと次へ走っている。


 横で控えていたアルフレッドも、今日は何度かその様子を見ていた。以前なら、立っている、歩けている、倒れていない、そのあたりで判断していたはずだ。今は違う。彼も少しずつ、“大丈夫そうに見えて大丈夫ではない状態”を見分け始めている。


 でも、まだ言葉にはなっていない顔だった。


 私は小さく息を吐いた。


 仕事は減っている。

 でも、聖女様の息は減っていない。


 そこへ気づいてしまったら、見て見ぬふりはできない。


     ◇


 次の面会まで、ほんの少しだけ間が空いた。


 本当に少しだ。五分もあれば次の札が来るかもしれない、そんな細い隙間みたいな時間だった。


「聖女様」


 私が声をかけると、フィリアは紙から目を上げた。


「はい、レティアさん」

「ひとつお願いがあります」

「お願い」

「休む練習をしてください」


 フィリアは、ぱちりと瞬いた。


 驚いたというより、意味が分からないという顔だった。


「……休む、練習?」

「はい」

「休むことに、練習が要るのですか」

「要ります」

「そうなのですか」

「今の聖女様には、特に」


 私はできるだけ真面目に言った。


「今の聖女様は、休み方を忘れています」


 部屋が少し静かになった。


 侍女も、アルフレッドも、さっきまで机の横に置かれていた紙まで、一瞬こちらを見た気がした。


 フィリアは少しだけ傷ついたような、困ったような顔をした。


「私は……休んでいないでしょうか」

「休んでいるつもりでは、いらっしゃると思います」

「つもり」

「はい」

 私は頷く。

「茶は出ていますし、椅子にも座れますし、軽食もあります。でも聖女様は、その間もずっと次の仕事へ走っています」

「そんなことは」

「あります」

 私はやわらかく言った。

「座っていても、頭が走っていたら休みではありません。茶を飲みながら紙を見ていたら、それも休みではありません」

「……」

「一口食べて、飲み込む前に次の返事をするのも、休みではありません」

「……そんなに」

「はい」


 フィリアはしばらく黙っていた。


 責めているように聞こえていたら嫌だと思った。

 でも、たぶん私は、少しだけ自分にも言っていた。


 前の人生でも、私はそうだった。


 空いた時間を埋めた。

 誰かが困るかもしれないと思って、先に拾った。

 自分がやった方が早いと信じて、止まらなかった。

 そして最後に、ちゃんと止まれなくなった。


 だから分かる。

 止まればいいだけではない。

 止まる練習をしないと、人はずっと走り方のままで休もうとしてしまう。


「……休んでいるつもりでは、いたのです」


 フィリアが小さく言った。


「茶をいただいていますし、少しは座っていますし」

「はい」

「けれど、違うのですね」

「違います」

「どう違うのですか」

「次の準備をしたまま休んでいるからです」

 私は椅子の背を見ながら言った。

「身体だけ止めても、気持ちがずっと次へ傾いたままだと、休みになりません」

「気持ちが」

「はい」

「そんなことまで……」

「必要です」


 侍女のひとりが、そっと茶器を置き直した。

 細い湯気が立つ。

 フィリアはその湯気を見た。けれどすぐに机の紙へ視線が戻りそうになって、私は先に言った。


「いまは見ないでください」

「え」

「茶を見る時間です」

「茶を」

「はい」


 フィリアはますます困った顔になった。


 それはそうだろう。茶は飲むものであって、見るものではない。普通ならそう思う。けれど、休み方を忘れた人には、そういう当たり前のことを一度ずつ言葉にしないと届かないことがある。


「レティアさん」

 フィリアは戸惑いながら聞いた。

「休むことにも、やり方があるのですか」

「あります」

「そんな……」

「あります」

 私は少しだけ強く繰り返した。

「座る。茶を飲む間は紙を見ない。口に入れたら、飲み込むまで返事をしない。軽食を食べる間は札を手に取らない。次の予定を口に出す前に、一度だけ息を吐く」

「……」

「そういうの、全部です」

「細かいですね」

「細かいです。でも、細かくしないと戻れないところまで来てます」


 アルフレッドが、その言葉にわずかに目を細めた。


 彼もいま、違う形で守ることを覚え始めているのだと思う。剣や盾や立ち位置だけではなく、座らせること、飲み込ませること、返事を急がせないことも、たぶん守ることの一部になる。


「では」

 私は茶器を指した。

「五分だけ、やってみましょう」

「五分」

「はい」

「五分も」

「五分しか、です」


 フィリアは茶器を見た。紙を見た。侍女を見た。最後に、少しだけ助けを求めるみたいにアルフレッドを見た。


 アルフレッドは一拍だけ迷ってから、低く言った。


「五分くらいで世界は崩れません」


 その言い方が彼らしくて、私は少しだけ笑いそうになった。


 フィリアも、ほんのわずかに口元をやわらげた。


「……分かりました」

 彼女は静かに言う。

「では、五分だけ」


     ◇


 五分だけ、何もしない。


 言葉にするとそれだけなのに、始めてみるとずいぶん難しかった。


 フィリアはまず、椅子へ座るところから妙にぎこちなかった。普段も座っているはずなのに、今日は“座ること”に意識が向いているせいで、背の預け方まで分からなくなっているみたいだった。


「もっと背を使ってください」

 私が言うと、フィリアは少し戸惑った。

「背を」

「椅子の背もたれです」

「こう、でしょうか」

「もう少しです」

「……これ以上は」

「崩れません」

 アルフレッドが言った。

「崩れたら支えます」

「アルフレッド」

「護衛ですから」


 フィリアは困ったように笑って、それからほんの少しだけ背を預けた。


 それだけで肩の位置が変わる。

 いつもより、少し低くなる。


「では次」

 私は茶器を指した。

「茶を飲んでください」

「はい」

「紙は見ないで」

「……はい」


 フィリアは茶器を持ち上げた。

 けれど、癖なのだろう。目がすぐ机の紙へ滑りそうになる。


「だめです」

「見ていません」

「見ようとしました」

「……少しだけ」

「その少しだけが休めてないんです」


 侍女がくすっと笑うのを、フィリアは少し恥ずかしそうに見た。


「厳しいですね」

「休む時だけです」

「休む時だけ厳しいのですか」

「今いちばん必要なので」


 フィリアは小さく息を吐いて、茶を口に含んだ。


 その瞬間、私は彼女の喉が動く前に唇が少し開くのを見た。たぶん、何か返事をしようとしたのだ。


「まだです」

「え」

「飲み込んでからです」

「……はい」


 フィリアは茶を飲み込み、それからようやく小さく息をついた。


「……難しいですね」

「はい」

「茶を飲むだけなのに」

「今までずっと、“飲みながら次を考える”方をしてきたんだと思います」

「そう、なのかもしれません」


 五分のうち、最初の一分はむしろ落ち着かなかった。


 フィリアの指先は何度か紙の方へ行きかけたし、視線も何度か机へ落ちた。次の面会札が来たらどうしよう。誰かが待っているのではないか。いま止まっていることで誰かにしわ寄せが行くのではないか。そういう不安が、身体の外側へまで出ていた。


 分かる、と思う。


 休めていない人は、休み始めた瞬間にむしろ不安になる。

 何もしていないことが怖い。

 手を動かしていない自分が間違っている気がする。

 止まったぶんだけ、誰かが困るのではないかと思ってしまう。


 あの時の私もそうだった。


「大丈夫です」

 私はなるべく穏やかに言った。

「いまは飲むだけで」

「……はい」

「紙は逃げません」

「はい」

「五分で全部は崩れません」

「五分で全部が崩れたら、それはもう別の問題だ」

 アルフレッドがぼそりと足す。

「アルフレッド」

「事実です」


 フィリアは少しだけ笑って、その笑いのあとで、ようやく本当に息を吐いた。


 最初より、少し深い息だった。


 私はそこで初めて、机の上の紙から目を離したフィリアの視線が、窓辺の光へ向くのを見た。茶器の湯気を目で追っている。ほんの短い間だけれど、“次の仕事”ではなく“いま目の前にあるもの”を見ている。


 その小さな変化が、なんだか胸に刺さった。


 誰かがあの時、私にもこう言ってくれていたら。


 座って。

 飲み込んで。

 五分だけ止まって。


 そんなことを言われても、たぶん前の私は笑って流しただろう。忙しいから無理だと、今はそれどころじゃないと、きっともっともらしく返したはずだ。


 でも、本当は必要だった。

 必要だったからこそ、いま私はフィリアへ言っている。


「レティアさん」


 二分か三分ほど経った頃、フィリアが小さく呼んだ。


「はい」

「息が、変です」

「変」

「いつもより……少しだけ、深い気がします」

「いいことです」

「そうなのでしょうか」

「はい」

「でも、変です」

「変でも、その方がいいです」


 フィリアは少し考えてから、また茶を飲んだ。今度は飲み込むまで言葉を出さなかった。


 その一拍が、とても大きかった。


 返事が一拍遅くなる。

 ただそれだけのことなのに、部屋全体の空気が少し落ち着く。


 アルフレッドも、たぶんそれに気づいていた。彼は壁際に立ったまま、いつものように口数は少ない。でも、その目は以前よりずっと細かいものを見ている。


 守るとは、倒れた時に支えることだけじゃないのかもしれない。

 座らせることも、飲ませることも、返事を急がせないことも、守ることの中に入るのかもしれない。


 そうやって彼の中で意味が広がっていくのが、なんとなく分かった。


「あと少しです」

 私が言うと、フィリアは目を丸くした。

「まだあるのですか」

「あります。五分なので」

「もう十分くらい経った気がします」

「二分半くらいです」

「二分半」

「はい」

「二分半で、こんなに長いのですね」

「休めてない人の五分は長いです」


 フィリアは、少しだけ困ったように、でも前よりずっとやわらかく笑った。


     ◇


 五分が過ぎた時、最初にそれを知らせたのは私ではなく、フィリア自身だった。


「……あ」


 彼女は小さく瞬いて、茶器を机へ置いた。


「どうしました」

「なんでもないのです」

「なんでもない顔じゃないです」

「なんでもないわけではないのですが」

「じゃあ何ですか」


 フィリアは少しだけ自分の胸元へ手を当てた。


「息が、少し楽です」

 その言葉は、驚き半分の声だった。

「ほんの少しだけ、ですが」

「十分です」

 私はすぐに言う。

「五分なので」

「五分で」

「はい」


 フィリアは机の紙を見た。


 紙はまだそこにある。

 案件も消えていない。

 返事を待っている人もいる。

 でも、五分止まったくらいで世界は崩れていない。


 それを身体で知ることは、たぶん彼女にとって初めてだった。


「……こういうことだったのですね」

「はい」

「休む、というのは」

「何もしない時間を、ちゃんと休みとして扱うことです」

「難しいですね」

「難しいです」

「私は、少しも得意ではないようです」

「私もです」

 つい口にすると、フィリアが私を見た。

「レティアさんも?」

「……はい」

「そうなのですか」

「前に、ちょっと」

 私は曖昧に笑った。

「止まるのが下手だったので」

「今は」

「練習中です」

「私と同じですね」

「たぶん、少し」


 侍女たちの表情も、最初よりやわらいでいた。

 皆、フィリアが五分止まったことそのものより、その五分でちゃんと呼吸が変わったことに安堵しているのだと思う。


 アルフレッドが低く言った。


「次からは、五分取らせればいいのか」

「“取らせる”は少し強いですね」

 私は言う。

「でも、五分作るのはありです」

「分かった」

「すごく素直に頷きましたね」

「必要だと分かったからだ」

「……ありがとうございます」

「礼を言われることか?」

「一応」

「変なやつだな」

「よく言われます」


 フィリアが、そのやり取りに小さく笑った。


 その笑いも、少し違っていた。いつものように誰かを安心させるための笑顔ではなく、自分の内側から出てきた小さな笑いだった。


 それから彼女は、少しのあいだ机の上の紙と茶器を見比べていた。


 たぶん、迷っているのだろう。

 ここでまたすぐ紙へ手を伸ばすか。

 それとも、この“少しだけ楽な感じ”をもう少しだけ残してみるか。


 その迷い自体が、もう前と違う。


 今までなら迷わなかったはずだ。

 空いたら埋める。

 手が空いたら拾う。

 休んでいる暇があるなら、返事をひとつでも先にする。


 そうしてきた人が、初めて迷っている。


「聖女様」


 私は急かさずに呼んだ。


 フィリアは顔を上げる。

 そして、少しだけぎこちなく、でもちゃんと自分の口で言った。


「……五分だけなら、休んでもよいでしょうか」


 その言い方は、私に許可を求めているようでいて、たぶん本当は違う。


 初めて、自分で自分に許そうとしているのだ。


 私は笑わないように気をつけながら、やわらかく頷いた。


「はい。五分からで十分です」

「五分から」

「今日はそれでいいです」

「……はい」


 フィリアはそう返して、もう一度だけ椅子の背へ重さを預けた。


 窓辺の光が少し揺れて、茶器の縁にやわらかく反射する。

 机の上にはまだ紙がある。

 それでも今は、紙より先に、ちゃんと座っている聖女がいた。


 たった五分。


 でも、その五分は、たぶんこの王都のどんな札より重かった。

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