第11話 薬庫の数字は嘘をつく
空気が悪い場所には、声より先に気配が出る。
その日の神殿薬庫の前を通った時、私はそう思った。
薬草の匂いはいつも通りだった。乾いた葉の青っぽい香りと、土に近い根の匂い、少し甘い樹皮の匂い。けれど、その奥に混じる人の気配がよくない。ぴんと張って、尖って、じわりと湿っている。怒鳴り声になる一歩手前の空気だった。
雑用口から薬庫へ回す確認札が、朝から妙に多い。
治療用薬草の再確認。
儀礼用乾燥葉の在庫照合。
使用記録の再提出。
棚番号三番の見直し。
数量相違の確認依頼。
私は確認札を三枚ほど見比べてから、板の前で小さく首を傾げた。
「また薬庫?」
横を通ったナラが、私の手元を覗き込む。
「今朝から何度か来てますね」
「さっき書記見習いの子が、泣きそうな顔で走ってたよ」
「泣きそう」
「“僕じゃありません”って顔」
「それはかなりよくないですね」
「よくないねえ」
ナラは布束を抱え直しながら、少しだけ声を落とした。
「盗った盗られたの話になってるかもよ」
「……そういう空気?」
「そういう空気」
私は手の中の確認札をもう一度見た。
数量相違。
再確認。
再提出。
数が合わない時、人はだいたい二つの方向へ走る。
ひとつは、帳簿を書き直す方向。
もうひとつは、誰かを疑う方向。
後者へ行きかけている時の空気は、すぐ分かる。
「見てきます」
「巻き込まれすぎないでね」
「善処します」
「善処って言う時、だいたいしないよね」
「今日はするかもしれません」
「しない顔だなあ」
ナラの声を背中で聞きながら、私は薬庫へ向かった。
◇
神殿薬庫の前には、三人の若い薬師見習いが立っていた。
普段なら、彼らはもっと静かだ。棚から袋を下ろし、乾き具合を確かめ、必要な量を量って包み直す。薬庫という場所にいる人らしく、声も動きも少し控えめだ。
今日は違った。
「だから、勝手に多く出してませんって」
「でも帳簿では足りないんだ」
「足りないなら薬庫記録の方でしょう」
「薬庫記録では十ある」
「現物は六しか見えない」
「六って、何の六ですか」
最後の言葉は、少し震えていた。
薬師見習いのひとりが、私に気づいて振り向いた。まだ十代半ばだろう。いつもなら穏やかな顔をしている子なのに、今日は目の下に薄く影ができている。
「レティアさん」
「どうしました」
「……数が、合わなくて」
その言い方は、事情説明というより、助けを求める響きだった。
私は薬庫の中へ視線をやる。棚の前には薬庫番の老人、帳簿を抱えた書記見習い、そして薬師見習いたちが、それぞれ微妙に距離を取って立っている。誰も露骨に責めてはいない。けれど、誰もが「自分ではない」と思っている顔をしていた。
「何が合いません?」
「治療用の乾燥薬草です」
薬師見習いの少年が答えた。
「帳簿では十あるはずなのに、棚には六しかないって」
「四つ足りないと」
書記見習いが慌てたように言い添える。
「だから再確認を」
「確認はもう三回しました」
別の見習いが言った。
「でも数え方が」
「数え方?」
「……そこが、うまく言えなくて」
私は少しだけ眉を寄せた。
数え方。
そこに引っかかる。
「帳簿、見せてください」
「え、はい」
書記見習いが急いで帳簿を開く。乾燥薬草の欄に、きれいに数字が並んでいた。
治療用乾燥葉 十
儀礼用乾燥葉 八
使用記録 四
補充待ち 二
一見すると、きちんとしている。
けれど、私はそこで妙な違和感を覚えた。
「……これ、十って何の十ですか」
「何の?」
書記見習いが目を瞬く。
「ええと、十は十で」
「束ですか。袋ですか」
「……」
「一回分ですか」
「……」
沈黙が落ちた。
私はその沈黙で、だいたいを理解した。
薬庫番の老人が、少し苛立った声で言う。
「十は十だろう。袋だ」
「袋で入れてますか?」
私は棚へ目を向けた。
「束のままのものもありますよね」
「束で来るものを袋に分ける時もある」
「その時、帳簿は」
「そのままだ」
「治療側は」
今度は薬師見習いたちを見る。
「何で数えます?」
「……一回分、です」
少年が答えた。
「患者さんに出す時は一回分で見ます」
「儀礼用は?」
「祭具の分は、小袋です」
「小袋」
「はい」
私は帳簿を机へ置いた。
足りないのか。
それとも、足りないことになっているのか。
まだ断言はできない。
けれど、少なくとも今の帳簿の数字は、何を数えているのかが揃っていない。
「盗られたわけじゃないかもしれません」
私がそう言うと、全員の視線がこちらへ集まった。
「何が」
薬庫番が低く問う。
「数字です」
「数字?」
「たぶん、数字が合ってないんじゃなくて」
私は帳簿を指で叩いた。
「数字の意味が揃ってません」
◇
薬庫の中へ入り、私は棚の前へ立った。
ここは広くはない。けれど天井が少し高く、壁際の棚が上まで続いているせいで、数字で管理できているように見えやすい場所だ。袋、束、小箱、小瓶。見た目の似たものが並んでいると、余計にそう見える。
私は棚から薬草袋をひとつ下ろし、次に束ねた乾燥薬草を持ち、さらに隣の小袋も机へ並べた。
「確認します」
誰に向けた言葉でもなくそう言うと、薬庫の中が少し静かになった。
「これ」
最初に大きい袋を持ち上げる。
「倉庫番さんは、これをいくつで数えます?」
「一袋だ」
「はい」
次に、中身を少し出して、小分けした包みを見せる。
「でも薬師見習いさんは、ここから何回分取れます?」
「え……四回か五回です」
「治療用は一回分で見る」
「はい」
「じゃあ同じ袋でも、一と四になる」
薬師見習いが小さく息を呑む。
私は次に、束ねた乾燥薬草を持ち上げた。
「これは?」
「一束」
書記見習いが答える。
「記録は束で入ることがあります」
「でもこれをほどいて小袋にしたら?」
「……小袋の数になります」
「儀礼用は?」
「小袋で出します」
「はい。つまりここでも、一束と三袋とか四袋が混ざる」
皆が少しずつ嫌な顔になる。
もう答えが見え始めているからだ。
「さらに」
私は帳簿を開いた。
「この欄、治療用と儀礼用で別名になってますけど、中身は同じ薬草ですよね」
「ええ」
「でも使用記録は別欄」
「はい」
「補充はまとめて」
「……はい」
「なら、同じ草を、倉庫は袋で見て、薬庫は束で見て、使用側は回数で見て、書記側は用途で分けてることになります」
私は薬草袋を持ち上げたまま言う。
「数字が嘘をついてるんじゃなくて、数字の意味が揃ってないんです」
その一言で、空気が変わった。
さっきまでは“誰が四つ減らしたんだ”へ向かっていた視線が、今度は“そもそも四つって何だ”へ変わる。
薬師見習いのひとりが呆けたように呟く。
「四つって……袋の四じゃなくて」
「たぶん違います」
「束かもしれないし、小袋かもしれないし、一回分のことかもしれない」
「そうです」
私は頷く。
「足りないのか、“足りないように見えてる”だけなのか、先に分けないと」
薬庫番が不機嫌そうに腕を組んだまま言う。
「だが現物は六だ」
「はい」
「帳簿は十だ」
「はい」
「なら四足りない」
「だから、その六と十の単位が違うかもしれません」
「……」
老人は言い返さなかった。
言い返したくても、さっきまでの“絶対に足りない”より、自分でも説明しにくくなっているのだろう。
書記見習いが恐る恐る聞く。
「じゃあ、どうすれば」
「まず分けましょう」
「分ける」
「棚も、分類札も、数え方も」
私はすぐに棚の前へ回った。
「治療用と儀礼用を一緒に置くの、やめます」
「場所が」
薬庫番が言いかける。
「あります」
私は棚の端を指した。
「開封済みをここへ寄せる。予備在庫を上。未開封のままの束は左。治療用小袋は下。儀礼用は別段」
「……」
「それから分類札です」
私は余り紙を引き寄せ、炭で書く。
「治療用。儀礼用。予備。開封済み。未開封」
さらに帳簿の余白へ追記する。
「束単位。袋単位。一回分」
薬師見習いの少年が、まだ半信半疑の顔で言う。
「そんなので変わりますか」
「変わります」
「本当に」
「少なくとも、“十って何の十?”って顔で睨み合うよりはずっと」
少年は少しだけ口元を緩めた。
ようやく、責められるだけの時間が終わりそうだと感じたのかもしれない。
◇
整理は、派手には見えない。
棚から棚へ移す。
分類札を書く。
束を束のままの場所へ戻す。
開封済みを別箱へ移す。
帳簿の欄外へ単位を書き足す。
でも、やればやるほど、薬庫の空気は変わっていった。
「それ、儀礼用だったんですね」
「こっちへ混ざってたのか」
「開封済みが未記録扱いになってた?」
「一袋を一回で数えてたら、そりゃ足りなく見える……」
薬師見習いたちの声が、少しずつ“言い訳”から“確認”へ変わっていく。
私はその変化が好きだった。
人は疑い始めると、同じものを見ても相手の落ち度ばかり探す。
でも、整理が始まると、同じものを見ても“どこが揃っていないか”を見るようになる。
それだけで、ずいぶん違う。
「レティアさん」
さっきの少年が、小さな袋を持ち上げた。
「これ、儀礼用棚に置いてたけど、中身は治療用と同じです」
「使い方が違うだけですね」
「はい」
「じゃあ分類札に“用途別”って書きましょう。中身同じ、使い方違う、って」
「そんな細かく?」
「細かい方が後で疑いにくいです」
私は炭で新しい分類札を書く。
中身同じ、用途別。
束単位で入庫。
袋単位で使用。
一回分は別記録。
横で書記見習いが感心したように呟く。
「ここまで書くんですね」
「書かないと、また来月同じ顔します」
「同じ顔」
「“誰が減らしたんだ”って顔」
「……それは嫌です」
その言い方が少しおかしくて、私は思わず笑いそうになった。
薬庫番の老人はまだ機嫌がいいとは言えない顔だったが、作業自体は止めなかった。むしろ最初より手つきが早い。自分でも分かっているのだろう。曖昧なまま回していた部分が、思っていた以上に多かったのだと。
「よし」
私は一歩引いて棚を見た。
「じゃあ、今の基準で数え直しましょう」
それからが本番だった。
治療用を袋単位で。
儀礼用を小袋単位で。
未開封束は束のまま。
開封済みは一回分換算もつける。
薬師見習い、書記見習い、薬庫番、全員で数える。
さっきまで疑っていた相手と同じ棚を見て、同じ分類札を確かめて、同じ言葉で数を読む。
「治療用袋、六」
「開封済み換算で四回分」
「未開封束、一」
「それを袋にしたら三」
「儀礼用小袋、四」
「予備棚に同じ草束、二」
数字が揃っていく。
いや、正確には、数字の意味が揃っていく。
「……あ」
最初に声を漏らしたのは、薬師見習いの少年だった。
「足りてる」
「何が」
書記見習いが顔を上げる。
「治療用。帳簿の“十”は、束換算で見てたら足りなく見えるけど、袋と開封済み換算も入れると」
「……十を越える」
薬庫番が低く言った。
「いや、儀礼棚へ紛れてた分まで戻すと、ほぼ帳簿どおりだ」
「盗まれてない」
別の見習いが、その言葉を恐る恐る口にする。
「本当に」
「たぶん最初からな」
薬庫番はぶっきらぼうに答えた。
「数えてるつもりで、揃ってなかっただけだ」
その瞬間、空気がほどけた。
薬師見習いのひとりが、その場にへたり込みそうになって棚へ手をつく。
「……よかった」
「疑われる筋合いはないけど、でも怖かったです」
別の見習いがそう言った。
「勝手に出したんじゃないかって顔、されてたので」
「されてたというか」
書記見習いが顔を伏せる。
「私、少し思ってました」
「僕も」
「すみません」
謝る声が、いくつか重なった。
私はそれを聞きながら、胸の奥で静かに思う。
整理は、物を見やすくするだけじゃない。
人を疑わなくて済む形も作れる。
それは、思っていたよりずっと大きい。
◇
報告を受けたフィリアは、しばらく薬草袋の分類札を見つめていた。
私は整理し直した帳簿の控えと、簡単な説明札を持って控室へ上がっていた。薬庫不足の疑いは解けた。盗難ではなく、数え方の違いだったと。
「不足では、なかったのですね」
「はい」
私は答える。
「少なくとも、盗まれたわけではありませんでした」
「そう……」
フィリアは静かに息を吐いた。
「よかった」
「ただ」
私は少し迷ってから続ける。
「“足りない”として上がってくる報告の中には、実際の不足じゃなくて、混乱が作ってるものもあるかもしれません」
「混乱」
「束で数えて、袋で使って、回数で減らしているのに、帳簿の欄がひとつだったので」
「……」
「だから、数字は足りなく見える。でも実際にはある」
フィリアは指先を小さく動かした。
「それが、私のところへ“在庫不足です”と来ていたのですね」
「たぶん、かなり」
「そうですか」
彼女は目を伏せた。
“緊急”とされてきたものの中に、本当の緊急ではないものが混じっていた。
それは、フィリアの机を軽くする話でもある。
でも同時に、自分が見てきた“急ぎ”のいくつかが、混乱由来だったと知る話でもある。
「急がなければならないものを、見誤っていたかもしれないのですね」
「全部じゃないです」
「ええ」
フィリアは頷いた。
「でも、混ざっていた」
「はい」
「それもまた、聖女へ何でも上げる仕組みのひとつ、ですね」
「……そうだと思います」
フィリアは整理札を見つめ、それから小さく笑った。
「薬庫の数字は、少し怖いですね」
「揃ってないと、すごく怖いです」
「人まで疑わせるのですから」
「はい」
私はうなずいた。
あの薬庫でいちばん危なかったのは、薬草が足りないことそのものじゃない。
誰かが盗んだかもしれない、勝手に使ったかもしれない、記録を誤魔化したかもしれないと、人の目が変わり始めていたことだ。
数字が曖昧だと、それだけで人は壊れる。
◇
薬庫の空気が落ち着いた頃、バルドが来た。
遅い登場だった。
けれど遅いぶんだけ、彼はすでに“何が起きて、どう片づいたか”をある程度聞いてきた顔をしている。
薬庫の棚へ目をやり、分類札を見て、帳簿の追記を確認する。
治療用。
儀礼用。
予備。
開封済み。
未開封。
束単位。袋単位。一回分。
現場目線では、ほとんど成功だった。
薬師見習いたちは安堵している。
薬庫番も「次からこれで数える」と言った。
書記見習いも帳簿欄の書き換えに納得している。
なのに、バルドの表情は冷えたままだった。
「不足ではなかったそうですね」
彼は帳簿を閉じながら言った。
「はい」
書記見習いが少し緊張しながら答える。
「単位が揃っていなかっただけで」
「だけ」
バルドがその言葉を繰り返す。
「在庫不足として上がるところだった案件を、“だけ”で済ませるのですか」
「でも、盗難では」
「結果としては、でしょう」
薬庫の空気がまた少しだけ固くなる。
私は内心で息を吐いた。
この人は、現場が助かったこと自体を否定したいわけではない。
ただ、曖昧なまま流せていたものが、曖昧ではなくなっていくのが嫌なのだ。
どこが曖昧だったか。
誰が何を揃えていなかったか。
どうすれば防げたか。
それが見えるようになるほど、書記側の運用も透けて見える。
「見やすくはなりました」
バルドは分類札を見ながら言う。
「そうですね」
私は答える。
「次からは同じ勘違いは減ると思います」
「勘違い」
「単位の不一致です」
「言い方を変えただけでしょう」
「変えていません」
私は彼を見る。
「誰も盗んでいないのに、人を疑いかけていました」
「だから?」
「だから、数字の意味を揃えました」
「……」
バルドはしばらく黙っていた。
その沈黙は、怒鳴る代わりの沈黙だった。
彼は感情で当たってくる人ではない。
もっと厄介だ。理屈と冷たさで、じわじわ削る。
そして最後に、彼は静かに言った。
「見えるようになりすぎるのも、問題です」
その言葉は、薬庫の棚よりずっと広いものを指していた。
私はすぐには返さなかった。
見えるようになりすぎる。
つまり、いままで曖昧なまま回っていたものが、曖昧でいられなくなる。
誰が困っていたか。
どこで止まっていたか。
何が不足で、何が混乱だったか。
それが見えるほど、流してきた人間はやりにくくなる。
「見えないままの方が、怖いと思います」
私はようやく言った。
バルドはそれに答えなかった。
ただ一度だけ、薬庫の分類札へ目をやってから踵を返す。
残された薬庫は静かだった。
けれど、その静けさはもうさっきまでの疑心暗鬼の静けさではない。
整理されたあとに残る、少し疲れて、でも息のしやすい静けさだ。
薬師見習いの少年が小さく言う。
「……見えた方が、僕もいいです」
「私も」
別の見習いが頷く。
「疑われるの、嫌なので」
「ですよね」
私は分類札を見ながら答えた。
整理は、便利のためだけじゃない。
安心のためにも要る。
でも、その安心が誰かの不快になることもある。
たぶん、これから先はそっちの方が増える。
私は薬草袋を棚へ戻し、分類札の位置を少しだけ整えた。
治療用。
儀礼用。
予備。
未開封。
開封済み。
数字は、揃えば怖くない。
揃っていないと、人まで壊す。
そのことを、たぶん私は、またひとつこの王都で覚えてしまった。




