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第1話 書類は人を殺す

 ここまでお越しいただきありがとうございます。


 本作は、短編として書いた

『聖女様が忙しそうなので、雑用係の私が国を回しておきました』

をもとに、連載版としてあらためて書き始めた物語です。


 短編では「聖女様を支える雑用係の少女」が、仕組みで王宮を回すところまでを描きましたが、連載版ではそこに至るまでの流れや、王都の外に広がる問題、聖女制度そのものの歪みまで、じっくり描いていけたらと思っています。


 もちろん、短編を読んでいなくても大丈夫なように、最初から読める形で始めていきます。


 派手な魔法や戦いで押し切るのではなく、

「誰かがやらなければ止まる仕事」

を拾い上げながら、少しずつ世界を動かしていくお話です。


 お付き合いいただけましたら嬉しいです。

 書類は、人を殺す。


 大げさだと笑う人は多い。


 紙一枚で人が死ぬわけがない。印鑑がひとつ足りないくらいで騒ぐな。連絡が少し遅れたくらいで世界は終わらない。そういう言葉を、前の会社で私は何度も聞いた。


 けれど、本当は違う。


 会議室の予約が一列ずれただけで、三十人の予定は吹き飛ぶ。

 発注の確認が一日遅れただけで、必要な備品は届かなくなる。

 来客予定の共有が一本漏れただけで、商談の空気は最悪になる。


 そういう小さな「たかが」は、すぐには人を壊さない。


 ただ、少しずつ削る。


 集中力を。

 体力を。

 睡眠を。

 余裕を。


 そして最後には、「なんでこんなことになってるの」と誰かが怒鳴る場所だけが残る。


 だから私は、総務の仕事を一度だって軽いと思ったことがなかった。


 朝八時五十分。


 出社して最初にやるのは、会議室の予約表を開くことだった。


「おはよう」


 声をかけてきたのは営業事務の先輩だった。私は鞄を置きながら頭を下げる。


「おはようございます」

「悪いんだけど、十時からの第三会議室、先方が一人増えるって。椅子足りる?」

「確認します」

「助かる」


 まだパソコンの電源すら入れていないのに、今日の一件目。


 会議室の予約システムを開き、レイアウト表を確認する。六名用。先方が一人増えるなら椅子を追加しなければいけないし、資料の部数も変わる。


 予備椅子の位置を確認しに倉庫へ向かったところで、総務の代表電話が鳴った。


「はい、総務です」

『プリンターのトナー切れたんだけど、替えあります?』

「ございます。どちらのフロアでしょうか」

『五階。急ぎでお願い』

「分かりました」


 受話器を置き、トナーを持って五階へ向かう。その途中で、受付の後輩に呼び止められた。


「ごめんなさい、今日の来客札、二件分まだ来てなくて」

「確認するね」

「あ、それから十一時のお客様、駐車場を使うかもしれないって」

「了解」


 気づけば、まだ始業十分で私の頭の中にはやることが五つ並んでいた。


 総務の仕事は、だいたいこんな感じだ。


 誰かの「困った」が流れてきて、詰まらないようにつなぐ。

 誰かの「忘れてた」が大きな事故にならないよう、先回りしてふさぐ。

 目立たない代わりに、欠けた瞬間だけ大騒ぎになる。


 午前中だけで、私は来客表を修正し、備品を補充し、社内便を仕分けし、会議資料を追加印刷し、消耗品の在庫を確認し、代表電話を受け、冷房の苦情をビル管理会社へ流し、会議室のプロジェクターの接続不良を見に行った。


 その間、何度も同じ言葉を聞いた。


「これもお願い」

「ついでにやっといて」

「急ぎで」

「誰でもできるやつだから」


 悪意はない。


 そこが厄介だった。


 みんな忙しいのだ。営業は客先に追われ、開発は仕様変更に追われ、経理は締め日に追われている。その中で私に回ってくるのは、誰かがつまずかないための細かい仕事ばかりだった。


 会議資料を三部追加で印刷してホチキス留め。

 蛍光ペンの補充。

 予定変更の一斉連絡。

 来客用のお茶の確認。

 冷蔵庫のミネラルウォーター補充。


 ひとつひとつは小さい。

 けれど、小さい仕事ほど積もると重い。


「ごめん、役員会の資料、数字差し替えになった。二十部」

「分かりました」

「あと、第二会議室のプロジェクター、まだ映らないらしい」

「見てきます」

「助かる、本当に」


 助かる、と言われると弱い。


 必要とされるのが嫌いなわけじゃない。むしろ、その一言で何とか今日を乗り切っている気さえする。だから断りにくい。


 断れないわけじゃない。


 ただ、断った先が見えるのだ。


 私が今ここで資料の差し替えを断れば、会議の冒頭で数字が合わなくなる。

 トナー交換を後回しにすれば、誰かの印刷が止まる。

 会議室の椅子を増やさなければ、来客の前で「少々お待ちください」が始まる。


 そういう「ちょっとした困りごと」が、どれだけ場の空気を荒らすか、私はよく知っていた。


 だから引き受ける。


 自分がやった方が早いから。

 今止めたら、あとで余計に面倒になるから。

 ここで流しておけば、誰かの仕事はちゃんと前へ進むから。


 その判断自体は、たぶん間違っていない。


 問題は、その「たぶん」が毎日積み重なることだった。


 昼休みを十五分削る。

 午後の休憩を飛ばす。

 退勤時間を三十分過ぎる。


 それくらいなら、大したことではない。

 少なくとも、その瞬間はそう思える。


 でも、それが毎日続くと、人は少しずつ自分を後回しにすることに慣れていく。


 夕方六時を過ぎても、オフィスの蛍光灯は昼みたいに白かった。


 営業は客先から戻って報告を始め、開発はモニターとにらめっこし、経理は伝票の束を机に立てている。みんな自分の持ち場で忙しい。誰も遊んでいない。


 その中で私は、明日の社内研修用の席札を印刷しながら、会議室の利用予定を再確認していた。


「悪い、この前頼んだ備品比較表、明日の午前中までにもらえる?」


 課長がマグカップを片手に顔を出す。


「業者三社分でいいから。できればコメントも一言つけて」

「分かりました」

「急ぎで悪いね」


 急ぎで悪い。


 それもよく聞く言葉だった。


 悪いと思うなら減らしてほしい、と言いたいわけじゃない。

 本当はもっと別のことを思っていた。


 頼むなら、せめてそれが本当に急ぎか考えてから持ってきてほしい。

 “誰でもできる”みたいに言わないでほしい。

 目に見えないからといって、軽く扱わないでほしい。


 でも、それをいちいち言うのも違う気がして、結局私は今日も「分かりました」と返す。


 夜七時半。


 オフィスの人が少しずつ減っていった。


「お先です」

「お疲れ様です」

「あ、総務さんまだいる? 明日の会議室レイアウトだけ確認しといてもらえる?」

「はい」

「助かる。安心だわ」


 安心。


 それもよくもらう言葉だった。


 私はその代わりに何を受け取っていたんだろう。


 たぶん、付箋の増えたメモと、肩こりと、あと少しの自己満足だ。


 それでも、何も残らないよりはましだと思っていた。


 人が減ったオフィスは、妙に音が目立つ。パソコンのファン、コピー機の待機音、遠くのエアコンの風。キーボードを叩く音が、自分の席の周りだけに細く響く。


 私は資料の差し替えを終え、机の端に溜まった付箋を見た。


 来客札。

 備品発注。

 会議室レイアウト確認。

 駐車場申請。

 冷蔵庫の水補充。

 共有メールの再送。

 会議室のホワイトボード清掃確認。


 どれも主役の仕事じゃない。


 社内報に載ることもなければ、売上になるわけでもない。目標達成のグラフに分かりやすく現れることもない。


 でも、やらなければすぐ分かる。


 会議は始まらない。

 人は待たされる。

 空気が悪くなる。

 誰かが走る。

 そして最後に、だいたい誰かが怒る。


 こういう仕事には、成果という名前がつきにくい。


 ただ、欠けた瞬間だけは目立つ。


 私は席を立ち、空いた会議室へ向かった。


 椅子の数を確認し、予備を二脚足し、プロジェクターの接続を見て、机の位置を少しだけ整える。ついでにホワイトボードもきれいにして、マーカーのインク残量まで確認する。


 整っている、というのは案外大事だ。


 人は整った場所に入ると、それだけで少し焦らずに済む。

 逆に、入った瞬間から乱れている場所では、たったそれだけで心が急ぐ。


 そんなことを考えるあたり、たぶんもう職業病だった。


 時計を見ると、終電がかなり危うい時間になっていた。


 急いで席に戻り、備品比較表だけ何とかまとめて課長にメールを送り、来客札を受付に置き、最後に自分の机の上を片づける。鞄を肩にかけた瞬間、肩紐が妙に重かった。


 エレベーターを待つ間にも、私は明日の段取りを頭の中で並べていた。


 朝いちで会議室の再確認。

 来客札の配置。

 トナー残量のチェック。

 備品比較表の返信確認。

 昼の弁当数変更が入るかもしれない。

 いや、その前に駐車場申請を総務共有に回しておくべきか。


 ビルを出ると、夜気が冷たかった。


 秋の終わりか、冬の入口か。駅までの道を歩く靴音が、やけに乾いて響く。コンビニの灯りが少し滲んで見えたのは、疲れているせいだと思った。


 ホームに着いたときには、足元が少しふらついていた。


 でも、座れれば何とかなると思った。

 家に帰ってシャワーを浴びて、明日は少し早く出ればいい。

 メールは送れた。来客札も置いた。たぶん大丈夫。

 あ、でも会議室のホワイトボード、ちゃんと消したっけ。


 考えるのは、そんなことばかりだ。


 身体がしんどいとか、休みたいとか、そういう感覚はたしかにある。

 でもその前に、「止めないためのこと」が浮かぶ。


 ホームの白い光が妙に眩しい。

 アナウンスが遠い。

 人の足音が、水の中みたいにぼやけて聞こえる。


 まずいな、と思ったのは、膝が不意に抜けた瞬間だった。


 手すりに掴まろうとして、指先が空を切る。


 視界が傾く。

 床の模様が近づく。

 誰かが何か叫んでいる。


 でも、その声より先に胸の奥に浮かんだのは、ひどく静かな実感だった。


 雑用って、誰かがやらなきゃ世界が止まるのに。


 恨み言じゃない。

 怒りでもない。


 ただ、本当にそう思っていた。


 馬鹿みたいだ、と自分でも思う。倒れる直前まで、自分のことじゃなくて明日の流れのことを考えている。


 でも、たぶんそれが私だった。


 音が遠のく。

 光がにじむ。

 世界がふっと裏返るみたいに軽くなって、そのまま意識が落ちた。


     ◇


 目を開けたとき、見えたのは知らない天井だった。


 白いクロスでも蛍光灯でもない。ざらついた石の天井。ところどころに細いひびが走り、隅にはうっすら煤のような汚れがある。


 ぼんやりと瞬きをする。


 硬い。


 最初に思ったのはそれだった。背中に当たる寝台が、会社の仮眠室のソファよりずっと硬い。次に、毛布が重くて粗い。化繊のなめらかさじゃない。目の粗い布を重ねたような手触りだ。


 ここ、どこ。


 問いは浮かんだのに、答えは何も出てこない。


 目だけ動かして辺りを見回す。狭い部屋だ。小さな窓。木の机。背もたれのない椅子。洗面台らしきもの。曇った金属の鏡。服をしまうための木箱。古い木と石と乾いた布の匂いがした。


 病院ではない。

 少なくとも、私の知っている現代日本のどこでもない。


 そこでようやく、自分の手が目に入った。


 細い。


 驚くほど細かった。指が短い。手首も華奢で、爪の形まで違う。


「……は?」


 声が出た。


 高い。


 喉が震える。自分の声じゃない。もっと幼く、もっと軽い音だった。


 私は勢いよく起き上がろうとして、頭がくらりと揺れた。寝台の端に手をつき、深呼吸をする。心臓が速い。


 落ち着け。

 まず状況を整理しろ。


 パニックになるより先にそう考えた自分に、少しだけ安心する。泣いたところで石の天井は変わらない。


 足を下ろす。床はひやりと冷たい石だった。立ち上がると視界の高さが明らかに違う。低い。机の位置も、前の私なら腰くらいだったはずなのに、今は胸の近くにある。


 私は鏡の前まで歩いた。


 曇った金属板に映っていたのは、知らない少女だった。


 栗色の髪。肩の少し上で切りそろえられ、寝起きであちこち跳ねている。目は少し大きく、頬はまだ丸い。十代半ばくらい。少なくとも、終電間際の総務社員では絶対にない。


 鏡の中の少女も、呆然とした顔でこちらを見返していた。


 その瞬間、胸の奥に妙なざわめきが走った。


 知らないはずの言葉。

 知らないはずの生活。

 知らないはずの名前。


 レティア。


 不意に、その名前が頭に浮かぶ。


 私の名前ではない。ついさっきまでの私の名前では、少なくとも絶対にない。


 けれど、それが自分を指しているのだと、なぜか分かった。


 レティア。


 さらに断片が浮かぶ。


 王都の下町。

 石畳の道。

 安いパン屋。

 路地に干された洗濯物。

 日雇い仕事。

 下働き。

 王宮の雑用口。


 息が止まる。


「……レティア?」


 自分で口にすると、その音は胸の奥に妙にしっくりとはまった。


 そのとき、部屋の外で足音がした。石の廊下を軽く踏む足音。すぐに扉の向こうから女の人の声がする。


「レティア? 起きてるのかい」


 知らない声だった。

 でも同時に、少しだけ聞き覚えがあるような気もする。


 私は返事ができないまま扉を見た。


「まったく、昨日熱を出したと思ったら静かすぎるんだから。返事くらいしな」


 扉が開き、四十代くらいの女の人が顔を出す。腕まくりした庶民服、働き慣れた手、気の強そうな目。でも、その目はちゃんと心配そうだった。


「あんた、大丈夫かい?」


 私は少し遅れて頷いた。


「……だいじょうぶ、です」

「本当に? 顔色は昨日よりましだけどねえ」


 女の人は部屋に入り、私の額に手を当て、それからふっと息をついた。


「熱は下がったみたいだね。よかったよ。今日の仕事は無理なら断っていいって、マルタ婆さんには言ってあるから」

「仕事……?」

「王宮の洗い場だよ。忘れたのかい?」


 忘れた、というより、知っていることと知らないことが混ざって気持ち悪い。


 けれど、その言葉には引っかかりがあった。


 王宮。

 洗い場。

 雑用。


 どうやら私は、本当に異世界で生きているらしい。しかも王都で下働きをしている少女として。


「レティア?」

「あ……すみません。少し、ぼんやりして」

「そりゃ熱出した次の日だもの、無理もないよ。水、飲むかい」

「はい」


 渡された木のコップを受け取る。冷たい水が喉を通って、ようやく自分が本当に生きているのだと実感した。


 女の人は少し安心したように頷き、部屋を出る前に振り返った。


「無理なら今日は休みな。死にそうな顔で働いても、いいことないんだから」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 死にそうな顔で働いても、いいことない。


 それはたぶん、前の私にも言ってほしかった言葉だ。


 扉が閉まる。部屋に静けさが戻る。


 私はコップを両手で包んだまま、もう一度鏡を見た。


 栗色の髪の少女が、まだ少し青ざめた顔でこちらを見ている。


 名前はレティア。

 王都の下町で暮らしている。

 王宮で下働きをしている。

 家は裕福ではない。

 でも、働けば食べてはいける。


 情報はまだ断片的だ。

 それでも、ひとつだけは分かった。


 私は死んで、そしてここに来た。


 窓の外では、どこか遠くで鐘が鳴っている。知らない街の、知らない朝の音だ。


 私はその音を聞きながら、ゆっくり息を吐いた。


 前の人生でも、私は表に立つ側ではなかった。

 主役でもなかった。

 拍手を受ける側でもなかった。


 それでも、誰かがやらなければ止まる仕事を抱えていた。


 そして今度もまた、どうやら同じ場所から始まるらしい。


 王宮の洗い場。

 下働き。

 雑用。


 あまりにも、それらしい。


 私は小さく笑ってしまった。


 豪華な舞台の真ん中ではなく、また誰かを支える側。

 でも、たぶん私はそういう場所のほうが、何をすべきか分かる。


 コップの水が小さく揺れる。


 私はその揺れを見下ろしながら、静かに思った。


 どうやら今度の人生でも、私は“表には立たない側”らしかった。

 第1話をお読みいただき、ありがとうございました。


 連載版の始まりとして、まずはレティアの前世と、彼女がどんな痛みを知っているのかを描きました。


 この物語は、聖女様の奇跡だけで国を救う話ではなく、

見えにくい仕事、後回しにされがちな役目、誰かが黙って支えている部分

に光を当てながら進んでいく予定です。


 第1話はまだ静かな立ち上がりですが、ここから王宮、神殿、そして聖女様へと話がつながっていきます。

 レティアがなぜ“見過ごせない”のか、その理由も少しずつ見えてくるはずです。


 続きも読んでみたいと思っていただけましたら、感想や評価、ブックマークなどで応援していただけると励みになります。


 改めまして、連載版のスタートを見届けてくださりありがとうございました。

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