草抜き
僕は今、一心不乱に『草』を引き抜いている。
足場の悪い沼地を何とか這いずり回り、汗まみれ、泥だらけになりながら何時間もずっと同じ作業を繰り返していた。
僕が引き抜いているこの『草』は、『この世界』では一般的に薬草と呼ばれている。拾い集めればお金になるので、僕はこの一見どこにでも生えているその辺の雑草と見紛うような、『薬草』をひたすら集めているのだ。
背中に木製の大きな籠を背負いながら、目当ての薬草があれば引き抜いて入れる。作業は、背中の籠がいっぱいになるまで続いた。
そして、籠がいっぱいになったら今度はその薬草を籠から出して植物で作られた麻袋のようなものに詰めて空にして、また背中の籠がいっぱいになるまで薬草を引き抜きに行く。
一体どうして、何のために僕がこんな事をしているのかというと、『生きる為』だ。
この『草』を金に換えて、今日1日を生き永らえるための糧にするんだ。そうしなきゃ、飢えて死んでしまう。
なぜ僕が、『今を生きる』ただそれだけの為にここまで必死になって、惨めに泥の中を這いずり回っているのかというと、僕が今いるこの『場所』が、この『世界』が、僕の知っている『世界』じゃ無いからだ。
僕は今、『異世界』にいる。
ここに来て、もうすでに約半年ほどの月日が流れていた。
にわかには信じ難い話だろう。『異世界にいる』だなんて。
でも本当なんだ。あれは確か、貴方の五感の全てに体験を与える新感覚VR。
そんなキャッチコピーで触れ込みされていた謎の広告だった。
僕のスマホに入っていたどう見ても怪しげなメールに、なぜかこの時ばかりは思わず惹かれてしまった事を、今更ながらとても後悔している。
でも、いくら何でも突拍子もない話だ。異世界だって? 馬鹿馬鹿しい。
高校卒業も間近に迫り、日々を受験という苦難に頭を悩ませながら、人生においての岐路を迎えつつ必死に学業に専念すべき学生がどうしてこんな事に巻き込まれなくちゃならないんだ。
いや……違う。
全て僕が招いた結果だ。親のプレッシャーに耐えかねて、現実逃避しようとした末路なんだ。とはいえ、僕は元より両親からほとんど期待なんてされていなかったけれど。
ああそうか。だから僕は逃げたかったんだ、現実から。何より、両親から。
薬草を背中の籠にいっぱいになるまで入れて、それを袋に詰め直して空にして、また薬草を探して歩き回り、見つけたら再び籠に詰め込む。この作業を日が暮れるまで繰り返し、およそ2〜3kgほど薬草が集まった。
昨日はちょっと目を離した隙に薬草を詰めた袋を盗まれたので、今日は用心して袋は籠に括り付けて肌身離さず持ち歩くようにしている。重いし、かさばるが仕方がない。
それに、これを金に変えればようやくご飯が食べられる。
まるで、人の命が羽毛より軽かった時代の労働者階級のような暮らしだ。けどこんなことは、この異世界では日常茶飯事。油断して盗まれた僕が悪い。
ここは、そういう『世界』だ。
薬草1Kgで、およそ50ギリカ。日本円に換算するとおよそ500円。
それを所謂ギルドのような場所、便宜上ギルドと呼ばせてもらうが、そこに持って行き報酬を頂く。
1日中汗だくになって、泥まみれになって、クタクタになって、得られた報酬は132ギリカだった。1500円にも満たない。
ここは比較的田舎の方の町だが、宿に1泊するならだいたい300ギリカ〜350ギリカが相場だ。
日本円でおよそ3000円〜3600円くらい。
今、僕の手元にあるお金では、宿に泊まることなんて夢のまた夢だろう。
仕方無いが、また野宿をしなければならない。
商店みたいなところで、夕食に『マリエ』と『フロギー』を買って、寝られるような安全な空き地を探す。『マリエ』とはパンのような見た目の食べ物で、この国では一般的な主食だ。『フロギー』というのは、惣菜みたいなものだ。よく分からない草とタンパク質の塊の、炒め物の様なものだ。
青臭くて、塩味が強すぎて辛い。お世辞にも美味しいとは言えない味だ。でも、まだご飯が食べられるだけありがたい。
店から出た後振り返ると、店員は鼻を摘んで嫌な顔をしていた。そういえば、最後にちゃんと風呂に入ったのはいつだっただろう?
恥ずかしさと悔しさが込み上げて頭に血が上り、顔が熱くなるのを感じる。
結局、合計35ギリカを消費して、残金は残り97ギリカになった。
一文無しでこの異世界に迷い込んだ僕にとって、金を稼ぐ方法を見つける、それが一番の課題だった。
でも、この異世界はなんと、労働者にとって本当にありがたいことに年齢や性別、人種に問わず、やる気さえあればどんな人間でも働くことが出来る。
ギルドで。
とはいえ、何の資格も、能力も、金も、コネも、持たない奴に稼げるような仕事は永遠にやってこないし、命の保障だって無い。この異世界では、自分の行動によって生じたトラブルは全て自分の責任だ。
さらにギルドにはランクというものがあって、AAAが最高。そこからAAA +AB +Bという風に難易度が下がっていく。
これはあくまで僕自身が理解しやすくするために便宜上付けたランクだ。正式な名称は分からない。
とにかく、今僕が請け負える仕事はZZZよりも、ZZよりも下のZ。最低ランクだ。
誰にでも出来る仕事だから僕にも出来た。しかし、誰にでも出来る仕事の報酬は少ない。
危険を承知でより上のランクの依頼に挑戦しようとも考えたが、流石に非力な男子高校生が簡単に活躍出来るほど、この異世界は優しくはなかったことを思い出した。
それに、今よりランクの高い依頼を受けるにはそれ相応の実力というものを見せなければ、話すら聞いてもらえないだろう。
何処の馬の骨とも知らない奴に簡単に依頼を受けてもらって、結局失敗しましたでは話にならないからだ。
だから毎日毎日、僕は薬草という名の雑草を毟っている。
そもそもこの仕事だって、ある程度稼げるようになるまでにはそこそこ時間がかかった。
最初は、どんな物が売れるのかも分からないかったし、1週間ずっと収入が無いなんてザラにあった。
それこそ雑草で飢えを凌ぐ日々だった。
同じ依頼を受けている人間が、どんな薬草を集めているのかをちゃんと観察して、同じような薬草を集めれば一応売れることが分かった。しかし、その収入は微々たるものだった。
ライバルが多ければ多いほど、稼げる収入だって少なくなる。Zランクなんて、誰でも、それこそ僕みたいな得体の知れない放浪者ですら依頼を受けることの出来る程度のものだ。得られる一人当たりの収入はより少なくなる。
だから、僕は色々考えてこの異世界の図書館に相当する施設で、薬草学の本を拝借することにした。
ただ困ったことに、僕みたいな得体の知れない放浪者をすんなり入れてくれる公共施設なんて、この国には無かった。入り口に立つ前に門前払いだ。
だから、人の出入りが多くなる時間を見計らい、道端に捨てられていたボロボロの服の切れ端をそれぞれ継ぎ接ぎに纏いながら、一般人に紛れ込んで侵入した。
しかし、運よく入れたら入れたで、今度は別の問題に直面することになった。
例えば僕は、この異世界の言語なんてハッキリ言ってまったく分からない。言葉は、基本的なあいさつや、はい、いいえ等の受け答えなら辛うじて出来る程度だ。
施設の職員に呼び止められて、いろいろ質問されたら終わる。そんな緊張感の中、僕は薬草学の本を探した。挿絵の入った、出来るだけ分かりやすい本がいい。
しばらくこそこそと探し回っていると、ちょうど1冊僕の理想に近い本を見つけた。どうみても児童向けの可愛らしい絵本だったが、僕にはちょうど良かったのでその本を拝借した。
本を脇に抱えたまま、建物から出るまで冷や汗をかきながらオドオドとしていたが、どうやら施設の人間は大勢の人間を整理する仕事に追われていて、それどころでは無かったようだ。
僕がこの異世界に暮らし始めてから約半年が過ぎ、色々とこの異世界について分かってきたことがある。
その一つは、この異世界には医者がいないということだ。代わりに医者に相当する職業に薬草士なるものが存在する。
この異世界では一般的に、外科的な処置は主に魔法で対処して、内科的な処置は薬草士が行っている様だった。だから、僕たちの世界における一般的な医者という職業が存在しないのだ。
ここには、僕が元いた世界のおよそ何千、何万倍もの種類の植物が存在していて、薬というものは全てそこから抽出されるらしい。
つまり、人間が人工的に合成した薬というものは、この異世界には存在しない。
この国には、『この世に存在するありとあらゆる病と薬は神が全てこの地に置いてきた』という言い伝えがある。つまり薬とは人間が作るものでは無く、既にこの地のどこかに存在していて、我々人間はそれを見つけるだけだという考え方のようだ。
だから、この異世界には売れる草、もとい薬草が豊富に有る。
だが、素人が適当にそこら辺に生えている草を集めたって売れはしない。
だからこそ、僕にはこの薬草学の本が必要だった。
書かれている言葉は理解出来ないが、絵なら何となく僕にも理解出来た。
これで、より競合相手の少ない薬草を探すことが出来る。競合相手が少なければ、さらに多くの薬草を集められるようになり、取れる薬草の数が多くなれば収入が増え、今の生活がより安定しやすくなるだろう。
ただ、話はそう簡単じゃない。
競合相手が少ないということは、それ相応の理由がある。
例えば、希少すぎて滅多に見つからないとか、あるいは生えている場所が危険すぎるとか。あとは、汚い、もしくは臭い、めんどくさい場所に生えていてみんな敬遠してるとか。
稼ぎを得るには、他の人がやらないことをやらなければならない。
とはいえ、競合相手の少ない薬草を求めて、危険を承知でこれだけ必死に頑張ったって、稼ぎは雀の涙ほどしか得られなかった。
だけど、僕はいつまでもこんな生活はしていられないと、ある日決意した。
今より上のランクへ。より多くの稼ぎが期待出来る仕事が出来る様にならなくては。
上のランクに挑むことが出来る様になれば、もちろんその分リスクもあるが、この異世界で生きるための安定した収入を今より得られることが出来るようになる。
いつか、元いた世界に帰るために。僕はここで死ぬ訳にはいかない。
その為に、今の生活をもっと安定させなくてはならない。少なくとも、いつでも食べ物にありつけるような環境を手に入れなければ、話にならない。
未だに薬草集めの疲労が抜けきれていないまま僕は、まだ日が沈みきっていない時間の内に人里から少し離れた原っぱに来て、いつもの様にある訓練を始めた。
それは『この異世界に迷い込んだ人間だけが持つ特別な力』を制御するための訓練だ。