「あんたなんか使用人よ!」からの逆転喜劇
「あんたなんかただの使用人よ!!!」
義母が頬を叩きながら宣言したその言葉は、私を奈落に落とす言葉のはずでした。
(でも残念、私はその言葉を待ってたんですよ、フフフ)
私、ヘインは不義の子です。
実母はこの屋敷の使用人でしたが、当主の正妻である義母が追い出したと聞いています。
ただの平民である母を追い出すことは出来ても、当主の娘である私を追い出すことはさすがに出来なかったようで、私は今日まで17年間、生かさず殺さずこの屋敷で飼い殺しにされてきました。
義母と義姉は私を毛嫌いし、父に見えないところで私をいじめ、今日まで散々な扱いをされてきました。
けれど、私が適齢期になったことで、伯爵家は私の扱いをどうするのかをキチンと考えなければならない時期に来ていました。
通常の令嬢であれば、家の名を背負って社交デビューしたり、学校へ通ったり、王宮で宮仕えという名の婿探しをしたり、結婚したり……17歳とはそういう年齢なのです。
当主である父は口数が少なく、何を考えているのかあまりよく分からない人です。私を義母からキチンと庇ってくれているような、そうでないような。
今後の事は「おまえの好きにしていい」と言われていますが、義母が好きにさせてくれるとは到底思えません。
私はきっと今まで通り、どこに行くこともなく彼女たちに殴ったり叩かれたり、唾を吐きかけられたり熱い紅茶を浴びせられたりと、彼女たちのサンドバックのような人生が続いていくのだろうと、そうずっと考えていました。
だから、義母の「あんたなんかただの使用人よ!!!」という言葉は天恵でした。
私がどんなにひどい扱いを受けても、私はあくまでもこの家の「お嬢様」として扱われていました。
継母の命令で夜通し屋敷中の窓を磨かされても、真夏の炎天下のなか毎日庭を草むしりさせられようとも、私はあくまでもお嬢様であり、この家の使用人の仲間に入れてもらえることはありませんでした。
だからでしょうか。私は心のどこかで、正式に使用人になることが出来たのなら、とずっと思っていました。
「メイド長、今の継母さまの言葉、お聞きになりました?」
「はい、ヘインお嬢さま」
「執事長も聞きましたか?」
「はい、ヘインお嬢さまが奥様の命でメイドになるという言葉はもちろんこの爺の耳にも届きました」
「ですよね!聞き間違いじゃありませんよね!!」
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
継母と義姉は私たちの様子を見て待ったをかけてきましたが、そうはさせません。せっかく混迷していた私の未来に光が射しこんできたのです。このチャンスを逃す手はありません。
「あくまでも、使用人というのは例え話で……」
「今の言葉を早速当主様に伝えましょう!義母様も賛同下さっていると聞けば、私を使用人にすることにもきっと了承してくださるはずです!」
「そうですね!」
「はい、一緒に参りましょう」
「えええ……」
驚いて呆気に取られている継母と義姉をよそに、私ヘインはその日から正式にこの家の使用人になったのでした。
ーーーーー
(おかしい……ヘインのヤツ、どういうつもり……?)
ヘインが使用人になって数日。義姉アンリリは彼女の不可解な行動に頭を悩ませていた。
「ねぇママ、ヘインはどういうつもり?何を考えているの?」
「さぁ、あんな薄汚い娘の考えることなど、私に分かるはずがありません」
「でも、見て。あんなに生き生き働いてるわ。何か狙いがあるとしか思えないじゃない」
アンリリの指した窓の外では、階下で使用人たちと楽しそうに洗濯仕事に励むヘインの姿があった。
この冬の時期の洗濯がツラい仕事だということは、水仕事をしたことのないアンリリにもさすがに理解出来ていた。それなのにあんなに楽しそうに仕事をするヘインを見ていると、なにか裏があるとしか思えなかったのだ。
「なにをそんなに気にしているのです?あのバカな娘に私たちを苦しめることのできる程の脳味噌があるようには思えませんが?」
「それはそうだけど……」
使用人には雇用規則というものがある。当主一族に仕えさせる代わりに彼らの身を保証するための規則は、正式に使用人になったヘインにも適用されていた。
そのため、ここ数日は彼女をむやみにいたぶることも出来なくなってしまっていたのだ。
彼女の事は腕を折ってやったこともあるし、ケーキを分けてあげるフリをして中に虫を仕込んで食べさせたこともある。鶏小屋に三日三晩寝泊まりさせたこともあった。
そうした嫌がらせがストレスのはけ口だった継母と義姉にとって、この状況は実に耐えがたいものだった。
加害者とは逆襲に怯えるものだ。ヘインが使用人という地位を得たことで、復讐されるのではないかとつい思ってしまうのは、加害者側の性だろう。
「あんなに楽しそうに笑うなんて、私たちに復讐する算段でもついたのかしら?使用人にさせたのは失敗だったわ……」
「失敗?では適齢期を迎えたあの娘にこの家の名を背負って社会に出ろと?」
「そうは言ってないけど……なんだか怖いのよ。ねぇ、ママ。なんとかしてあの子に出て行ってもらえないかしら?」
「それはそうね……なら、もう一つ、良い手があるわ」
母が鋭い目を優雅に歪め、微笑を作った。悪いことを考えている時の顔だ。
「高齢の貴族男性にあの子を売りつけてやりましょう。田舎の貴族で、とびきり女癖の悪い相手が良いわ。それなら確実に追い出せます」
「ママ!ナイスアイデア!!!」
王都の上位貴族にヘインを嫁入りさせるのはどんなにこの家に理があろうとも、許せそうにない。ヘインが綺麗な服を来て、夫に愛されて貴族夫人として暮らしていくのを想像しただけで腹が立ちそうだ。
けれど、田舎の老貴族の後妻にでもしてしまえば、こちらに金は入ってくるし、相手に恩も売れる上にヘインが幸せになる未来もない。
「ぐふふ…あいつ、太った醜い爺さんの慰み者になるなんて、お似合いすぎて笑っちゃうわ……ぷぷぷ」
「ふふふ、決まりね。さっそく段取りをつけて来るわ」
「そうね、なるべく早く実行しましょう!」
こういう時の母の手腕は筆舌しがたい華麗さがある。あっという間に条件に合う人物を見つけ出し、相手との内々の交渉を済ませ、一週間後には相手方から「ぜひ!」という言葉と共に見合い写真が送られてきていた。
「ぷぷぷ、この男爵がヘインの夫になるのね。グフフフフ、だめだわ、笑いが止まらないわ……!まさか、ここまで醜い容姿のおじさんが見つかるなんて……!」
母の説明によると、この老人には加虐癖がありこれまでの4人の妻たちは皆、裸で夜逃げしただとか、そのまま虐殺されただとか、とにかく碌な噂がなかった。
「でも、ヘインの写真を見たら断られちゃうんじゃないかしら。だってあの子、不潔だし痩せすぎだし、とてもじゃないけど気に入られるとは思えないわ……」
気に入られなければ婚約はまとまらないし、それではヘインがこの家に居付いたままになってしまう。
「どうしましょう……そうだわ!返送する写真にラブレターを添えましょう!」
ヘインが男爵に熱烈に惚れたことにしておけば、多少彼女の容姿が醜くとも受け入れてくれるかもしれない。
「でも、それだけじゃ不安ね……。そうだわ、写真だけでも美人に見える手を尽くしましょう!」
馬子にも衣装と言うし、風呂に入れて綺麗にメイクをすれば多少はマシになるはずだ。
「ちょっとアナタ、いいところにいるわね。お湯を沸かしてヘインを風呂に入れて頂戴」
「はい?俺ですか?」
「!」
ヘインは使用人の仕事が忙しいのか、姿を見ることもほとんどなくなっていた。そんなヘインをいちいち見つけて指示するのも面倒だと思い、たまたま脇を通ったこの下男に全て指示をして、あとはお茶でも飲んで待っていようと考えていたアンリリだったが、呼び止めた下男を二度見してしまった。
(か……かっこいい……!!!!!)
イケメンだ。ものすごいイケメンが目の前にいる。
アンリリはイケメンに目がない。さっき醜いオッサンの見合い写真を見せられた後だからか、余計に目の前の青年が美しく見えた。
服装を見るに、この家の使用人としては一番位が低い仕事をしている下男のようだったが、それに反して身なりは整っており、清潔感もあった。なにより理知的なその目は、貴族の男性と相違ない輝きを持っていた。
正直こんな安月給の仕事なんてしなくても、この顔面でいくらでも金が稼げるはずだ。それなのにこの家で下働きをしている理由は一つしか無い。
「ふーん、そいうことね。アナタ、気に入ったわ。今晩から私の部屋に来なさい」
「いえ、それは出来かねます」
「はい?」
こんなに直球で断られると思っていなかったアンリリは喜劇もかくやという具合にズッコケてしまった。この家のお嬢様である自分に声をかけられて、今までなびかなかった男など居なかったからだ。
(意味が通じなかったのかしら?きっとそうよね、そうに決まってるわ。じゃなきゃ私の誘いを断るはずないもの!)
「もう一度だけ言ってあげるわ。私、あなたがちょっとだけ気に入ったの。だから可愛がってあげてもいいって言ってるの。どう?これ以上ない誘いでしょう?」
「いえ、自分は結構です。それより、ヘインを風呂に入れろというのはどういうことですか?」
「そ、それよりってどういうことよ!!!」
「なにか急いでいらっしゃる様子でしたので、急ぎの要件かと思ったまでです」
「そ、そういう意味ね。そうなの、あの汚い娘の写真を撮るのに、なんとかして見栄えよく見せなくちゃいけなくなってしまったの。難しいと思うけど、頑張って頂戴」
「では、風呂だけでなく、メイドにメイクや衣装の手配も必要ですね。サイズの合う服がこの屋敷には無いでしょうから、衣装屋も呼ばないと……」
「へぇ、良い判断ね。アナタ、私のこの命令をやり遂げたら出世に口利きしてあげてもいいわ」
「かしこまりました。最大限に善処いたします」
見目の良い下男は出世という言葉に一瞬だけ目を光らせ、アンリリの前に片膝をついて見せた。
(ふーん、なるほど。出世をエサにすれば案外扱いやすそうね。私の男になる日も遠くなさそうだわ、ふふふ)
「じゃ、そういうわけだから今晩部屋に来てちょうだいね」
「あ、それは結構です」
「もう、照れちゃって」
アンリリはスキップしながら自室に戻ると、今後のヘインに待つ暗い未来とアンリリの前に拓ける明るい未来を想像し、笑いが止まらなかった。
ーーーーー
1ヶ月後。今日はとうとうヘインの婚約が成立する日だ。
アンリリは朝からそわそわとし、落ち着かない朝を過ごしていた。
今日婚約が成立するとは言っても、婚約の証書を王宮に取り寄せた時点でこの結婚は成立したも同然だ。すでに王宮では話題になっていることだろう。
婚約の後、ヘインと男爵は近くのレストランで一緒に食事をとることになっている。
2人きりになったところでヘインが男爵の異常性に気づいてくれれば、帰宅したヘインの絶望顔が見られるという寸法だ。これを見逃すほどアンリリはバカではない。きっと、ここ数日のうっぷんが晴れること間違いなしだ。
「男爵様がいらっしゃいました!」
「待ってました!!!」
実物の男爵は、写真で見るよりもうんと醜いに違いない。
アンリリは男爵とヘインの邂逅の瞬間を決して見逃すまいと、一目散に玄関ホールに向かった。
―――しかし、それがマズかった。
「アナタがヘイン嬢ですね?なんとお美しい!!」
「あ~えっと、そうではなくて……」
ホールにはまだヘインどころか当主すら来ておらず、アンリリは男爵の相手をする羽目になってしまった。
「熱烈なお手紙感動いたしました。まさかあなたのような若いお嬢さんと、この年になって恋に燃えることができるとは……」
「いえ、その相手は私ではなく妹のヘインです」
「妹……ですか?この家のお嬢さんは一人しかいないと聞いておりますが?」
「いえ、それは勘違いですわ。この家には間違いなく、ヘインという二女がおりますもの」
「聞き捨てならない言葉だぞ、アンリリよ」
「お、お父様!」
声のする方を振り返ったアンリリは、鬼の形相で自分を睨む初老の男性が自分の父親だと気づくのにしばらくの時間を要した。
父は娘にも妻にも興味がなく、いつも疲れたような無表情な顔をしていた。喜んでいるところを見たこともないが、怒っているところを見るのも初めてだった。
「あなた、なにもそんな風に言葉を荒げなくとも……」
「お前もだミネルバ」
「!」
父が母にも怒りの籠った表情を向けたことで、アンリリは脳内は完全にパニックになっていた。
聞き捨てならないと言われた気はする。しかし、自分のどの発言に父が怒っているのかどうしても分からない。分からないので父の怒りを和らげる策も湧かない。
さっきまで上機嫌に胸を打っていた心音は、怒髪天を打つ勢いの父の登場で一転して不穏なリズムを刻み出した。
緊張から乾いてしまった喉を潤そうと、アンリリは生唾を飲み込み、父の言葉を待った。
「ミネルバ、アンリリ。お前たちは長年ヘインを私の娘として認めて来なかった」
「ええそうね、でも貴方もそれを黙認していたでしょう?」
「そうだ。それがお前たちへの贖罪だと思っていたからな。でもこれはなんだ?都合のいい時だけヘインを娘として認め、当主への許可すらとらず勝手に婚約者を当てがあうとは、どういうつもりなのだ?」
「それは……年頃のあの娘への必要な配慮ですわ。誰でも結婚をするものです。それを母親としてこの家に相応しい結婚相手探しを手助けすることの何が不満なのですか?」
「母親として、だと……?お前がそれを言うのか?義理とはいえ母親らしいことを一つもしてこなかったお前が?」
「…………」
さすがの母も、父の言葉に黙り込んでしまった。これまで父は私たちに関心がないのだと思い込んでいた。だからこそ、何をやっても許されると思っていた。
しかし、ミネルバとアンリリは一線を超えてしまったのだ。
「ど、どういうことですかな、伯爵!伯爵は今回の婚約の件をご存じなかったと?」
「男爵には申し訳ないことをしたと思っております。婚約はこちらの落ち度で不成立とさせていただきたい」
「でも、ヘインという娘は実在するのでしょう?あの熱烈な手紙をくれたお嬢さんに合わなければ気が済みません!」
「ヘイン。男爵に手紙を出したのか?」
「いいえ旦那様、出しておりません」
いつの間にそこにいたのだろうか。以前より髪を短く整えたヘインは、いつものメイド服姿ですぐ脇に控えていた。元々影が薄かったが、使用人然とし過ぎていてまったく存在に気づかなかった。
「た、短髪ではありませんか!」
「この子は先日、平民に登録を移したのです。短髪はそのためです」
「私のもとに届いた写真は美し長髪でした!そんな短い髪のありふれた平民娘では話になりませんぞ!!!」
「おやおや、ありふれた平民娘とは聞き捨てなりませんね、男爵?」
「あ、あなたは……!!!」
「え!?」
突然話に入ってきた青年にホールに居た全員が驚いた顔を見せた。けれど、アンリリと男爵は、他の皆よりも、ひときわこの人物の登場に驚いていた。
「な、なんでアンタがここにいるのよ!」
「おや、お嬢様ごきげんよう」
「昨日の夜も部屋に来るように伝えたはずなのに、またすっぽかしておいてどういうつもり?」
そう、この青年こそ、アンリリがこの1か月執着し続けているイケメン下男だった。
一目惚れしたその後もアンリリは彼を何とか手中に入れようと画策していたが、いつものらりくらりとかわされてしまっていた。
そんな下男がいつもの下人服ではなく仕立ての良い装いをしてこんな場面に現れたのだから驚くのも無理はない。
(でも、このオッサンはなんで驚いてるわけ?っていうか、この下男何しにこんなところに入って来たわけ?貴族の会話に平民が割って入るなんて、重罪なのに)
「あ、ああああなた様がなぜここに?」
「え?あなた様?」
「わしが呼んだのです」
「伯爵様が!?」
「理由は分かっているでしょう男爵」
「それはその……」
「結納金をアテてにしてうちから借りた金、借り逃げされたら困りますからね。こうして直接回収しに来たというわけです」
「ま、待って!なんでウチの下男が男爵に金を貸してるのよ!」
「アンリリは彼を知っていたのか?」
「ええ、ちょっと前からこの家に入った下男でしょ?そうだ、パパ、この男生意気なの!私がちょっと目をかけてあげようと思ったのに、全然言うことを聞かないのよ!」
父親に言いつけて彼を懐柔する算段だったが、怒り顔だった父の顔が呆れ顔に変わったことで、アンリリはようやく自分の発言が悪手だったことを悟った。
「彼は王都一の商会の次期商会長だ」
「えええええ!そんな人がなんでうちに!?」
「商会長とは長い付き合いでな。勉強のためにうちで働きたいと言われて受け入れていたのだ」
「そうだったの!?」
自分の惚れた人物が予想外の大物だったことで、舌なめずりしたい気分になった。アンリリは貴族なので彼と結婚する気はないが、愛人として囲っておくのには最適な相手だ。
そんな相手に目をつけるとは、自分の慧眼に眩暈がしそうだなどとアンリリは思う。
しかし、次期商会長の次の言葉で、アンリリは頭から水でもかけられたような心地になった。
「男爵、私の妻を侮辱するのはやめていただこう。慎ましいが、私にとって彼女は最高の女性なのです」
「つ、妻!?」
「えぇ、先日伯爵にも了承を得て、ヘインは正式に私の妻になりました」
「あ、アナタ!そんなこと私は聞いていませんよ!」
「散々イジメてきた義娘の結婚を報告する必要があるとは思わなかったが?」
「でも!一言言ってくだされば男爵に迷惑をかけることもなかったでしょうに!!!」
ミネルバが珍しく狼狽する。
「えへへ、継母様とアンリリお嬢様が私をただの使用人だと明言してくださったおかげで、平民同士として彼と結婚することが出来ました。ありがとうございました!」
「彼女とはこの屋敷に来てすぐに好意をもっていましたが、アンリリお嬢さまの命令で写真を撮る際に美しくなった彼女を見て惚れなおし、私からプロポーズをしました。そういう意味ではアンリリお嬢様には感謝していますよ。あなたがこれまで彼女にしてきたことを許すつもりは全くありませんけどね」
「そ、そんな……」
まさか自分の嫌がらせがこんな結果に結びつくだなんて、一体誰が思うだろうか。
仲睦まじく微笑み合うヘインと次期商会長を見ていると苛立ちと悔しさが喉元までせり上がって来るのを感じるのに、どうぶつけていいのかもはや分からない。
「そ、そういうことでしたら私はこれで……」
「おっと、男爵。今日返して頂く約束のお金をいただきましょうか」
「そ、それは結納が成らなかったのだから……」
「言い訳は聞きませんよ」
「そんな……そうだ!アンリリ嬢!私と結婚して下さい!」
「ハァ!?」
「それなら借金も返せるし、それに何より熱烈なあの手紙を送ってくれたのは貴方なのですよね?」
「そ、それは……」
「『貴方に一目惚れしました。貴方の胸に抱かれる日を思うと恋焦がれて眠れません。どうか妻にして下さい』と、そう言ってくれたから私はここまできたのですよ!」
「本当なのか?アンリリよ」
「違うのパパ!それは、ヘインがこの人と上手くいけばと思ってつい……」
「ほう……」
伯爵が絶対零度の目線を伏せ、考え込むような姿勢をとると、ホールにいる全員が息を殺して伯爵の決断を待った。
「よし、アンリリとミネルバ。この件はお前たちに任せよう」
「はぁ?パパ!何言ってるのよ!」
「忙しい私のために伯爵家の仕事を手伝いたいと言っていただろう?お前が引っ掻き回したせいですべきことが増えて困っているんだ」
「でも!ヘインが既婚者だっただなんて知らなかったんだもの!」
「自業自得であろう?王宮に婚約の申し出の取り下げをするには書類が多すぎて年単位でやり取りせねばならんし、男爵にも迷惑をかけてしまったし……」
「そ、そんなぁ……」
ちょっとした嫌がらせのつもりが、こんな面倒な仕事を呼び寄せてしまったアンリリは絶望し、膝から崩れ落ちた。
「旦那様、いい案がございます」
「ほう、ヘイン。申してみよ」
「婚約の申し出は家同士の結びつきを申告するだけにすぎません」
「つ、つまり?」
「私と同じ家名のアンリリお嬢さまと男爵が婚約をすれば丸く収まるかと……」
「はぁ!?」
「それは良い考えですね!!!」
ヘインの提案に勢いよく飛びついたのは男爵だ。ズボンベルトの上に乗った肉が飛び上がるほどに喜びをあらわにしながら、男爵はアンリリに歩み寄り、彼女の手を取った。
「アンリリ嬢、アナタを必ず幸せにします。僕の妻になってください」
「絶っっっっ対にいやです!!!」
「ブフフフ、その嫌がる顔、ますます好みです。もっと泣かせてみたいなぁ……」
「ひ、ひぃいいッ」
「あ、アナタも止めてください!大事大事な娘がこんな年の離れた身分の低い男と結婚するだなんて……」
「ミネルバよ、先ほどの自分の言葉を忘れたのか?」
「はい?」
「母親としてこの家に相応しい結婚相手探しをした、と。では同じ娘のアンリリにとっても男爵は良い相手なのではないか?」
「そんな……」
ホールは阿鼻叫喚となり、もはや収拾不可能な事態となっていた。
ヒステリック持ちのミネルバとアンリリの被害からいち早く逃げ出した伯爵は素知らぬ顔で自室に下がっていく。妻子に関心の無い、いつもの顔だ。
「アンリリ嬢、そろそろレストランへ行く時間です。さぁ、参りましょう」
「い、いやあああああ!こっち来ないでよデブジジイ!!!!」
「はははっはは、俺のアンリリは本当にかわいいなぁ」
「誰があんたのものになるもんですか!!!」
アンリリは男爵からなんとか逃げているが、母のミネルバが完全に気絶してしまっていて味方がいない状況では形勢不利のようだった。
とはいえあの状態では2人でレストランに行くことは難しいだろう。折角大人気のレストランだというのに……
「そうだ、こっそり抜け出して一緒にレストランへ行きませんか?予約が無駄になっては申し訳ないですし、それにもう今日は借金も返ってこないようですし……」
「それもそうだね。未来の義兄さんのために借金をもう少し待ってあげるとするかな」
「ふふふ、私の旦那様って本当に優しいわ~」
「だろ?今日は気分も良いし、レストランで目いっぱい美味しいものを食べようヘイン」
「やったー!」
こうしてヘインとその夫もホールを去り、この家には混沌だけが残っていた。
「さぁ、アンリリ。君が喜ぶと思って手錠を持って来たんだ。一緒に付ければもう誰も僕たちの邪魔はできないよ!あ、心配しなくてもご飯はあーんしてあげるし、トイレも風呂もずっと一緒だよ♪」
「いやあああああああああああああ!」
この日起きた悲劇、あるいは喜劇は婚約解消手続きが終わるはずの一年が経った後も長らく続いていくのだった。