前篇
「――おはよう、和泉くん」
凛とした声が、僕の世界をすうっと切り開く。
まるで流れ星が流れるみたいに。
『千代田区の社畜リーマンは有能女性部長の夢を見るか』/未来屋 環
消えてしまったその光に導かれるように、僕はのろのろと顔を上げた。机に突っ伏して眠ったせいで、身体中が軋んでいる。目の前のパソコンの画面上では、無機質な図形が踊っていた。
各部署からのデータが集まったのが、昨日の22時。そこからようやく今日の会議の資料を作り始め、出来上がったのは午前3時過ぎ。タクシーで帰ったとしても朝起きられる自信がなく、僕は職場で一夜明かすことを選んだのだった。
席で伸びをして――ふと先程の声の主の存在を思い出す。
慌てて振り返ると、職場の一番奥の席に声の主――鴫原部長が新聞を広げて座っていた。その視線がこちらに向けられる素振りはない。
部長の存在を確認してから、僕はちらりと机の上の時計に目をやった。時刻は午前7時。随分お早いご出勤だ。
せめて顔だけでも洗ってこようと、僕は席から立ち上がった。
***
鴫原部長がこの職場に現れたのは、僕が入社して4年目の春のことだった。
着任初日、「早く来て部長の受入準備をするように」という課長の命令で始業時刻の1時間前に僕が出社すると、打合せ用テーブルの所に、見慣れない女性が座っていた。
――それが、僕たちの初対面だった。
まるでそこに居るのが当然であるかのような、堂々とした佇まい。予想だにしなかったその存在に僕が面食らっていると、こちらに気付いた部長は立ち上がり、「おはようございます。今日からお世話になる鴫原です」と頭を下げる。
それにつられるように、僕も慌てて「あ、おはようございます、和泉です」と頭を下げた。
細身で小柄な体躯、僕と数歳しか離れていないように見える外見、そして――早朝の職場に響く、凛とした声。
初めて見た鴫原部長は、これまで僕が知っていた管理職のイメージとは大きくかけ離れていた。
いわゆる『古き良き日本企業』であるうちの会社において、齢40で部長職というのは稀有な存在であり、間違いなく出世コースを歩んでいると言える。
しかも女性ともなれば、尚更だ。少なくとも僕は、このひと以外の女性部長を見たことがない。
自分よりも年下の上司に仕えることになった課長は、当初「女性の管理職を増やそうっていう時代の流れもあるんだろ」なんて口さがないことを言っていた。
しかし、その週に行われた幹部との会議で部長に随分と助けられたらしく、「若くして部長に選ばれるからには、やっぱり理由があるんだな」とあっさり掌を返していた。
確かに、鴫原部長は相当な切れ者だった。
平社員の僕が直接部長に話しかける回数はあまり多くないが、たまたま共用スペースで会議資料の準備をしている際に、それは起こった。
「――その金額、ちょっと高いんじゃない?」
ふと横を通りがかった部長が、僕が持っていた資料の表を一目見てそう言ったのだ。
慌てて見直してみると、確かに金額がその箇所だけおかしい。
その項目は他の職場から出て来たデータをそのまま使っており、忙しさのあまり僕が確認し忘れていたようだった。資料を急いで修正してから席まで謝りに行くと、部長は事も無げに言った。
「まぁ、人は間違う生き物だから」
そして、その真面目な表情のまま、自分の仕事に戻る。
僕は、一瞬で間違いに気付く能力の高さに驚きながらも――その無愛想さと機械的で色の通わない台詞に、何も言葉を返すことができなかった。
***
夜を徹して作った会議資料は、何とかその役目を終えることに成功した。
課長と共に会議から戻ってきた時には既に昼休みに入っており、僕たち以外のメンバーは見当たらなかった。皆社員食堂にでも行ったんだろう。
――いや、奥に居た。たった一人。
「部長、お昼まだですか?」
課長が話しかけると、部長が手元の資料から顔を上げる。
「あぁ――資料を読んでいたら、行きそびれてしまいました」
そして立ち上がり、部長が僕の方を見た。
「和泉くん、一緒に行こうか」
――そして今、僕は鴫原部長と二人でエレベーターに乗っている。
こんなことになるとは思ってもみなかった。
課長に助けを求めようとしたが、愛妻弁当を盾に僕たちには目もくれなかった。
ちらりと部長の様子を窺うも、こちらを気にする様子は全くなく、エレベーター内に流れる広告を見上げている。
俗世と隔絶された箱の中は沈黙に支配されていた。
そもそも、僕は昼食を食べないことが多い。
朝買ってきたり社員食堂まで行くのも面倒で、食べる時間があればその分仕事を進めておきたいという気持ちもあった。家に帰る時間も遅く、自炊もできないのでコンビニ弁当生活だ。
不健康だという自覚はあったものの、今の僕には食に気を回す余裕などなかった。誰かと食事をすること自体、随分と久し振りな気がする。
そんな僕が、感情の見えない部長と何を話せばいいのか。
そもそも一緒に昼食を取るのは部長の着任日以来で(皆放置するもんだから、あの時はさすがに気を遣って僕が声をかけた)、普段から会話もないから共通の話題も思い浮かばないのに――そう逡巡していると、いきなり部長が「和泉くん」と呟いた。
「はいっ?」
情けなく裏返る声に反応することもなく、部長はいつもと変わらない――仏頂面とも呼ぶべき表情でこちらを振り返る。
「何が食べたい?」
反射的に「えっと……肉……」と好物を言いかけて、徹夜明けのコンディションであることを思い出し、僕は「すみません、あまり食欲ないです」と正直に答えた。
気分を害しただろうか――そんな風に思いながら様子を窺っていると、部長は少し考えるような仕種をする。また箱の中に沈黙が流れた。
その空気に耐えかねて何か言おうと思った矢先に、部長が小さく頷く。
「――わかった、そばにしよう」
その言葉と同時に、外界への扉が重々しく開いた。
オフィスを出てから、一直線に歩く部長の後ろを僕はただ付いていく。
女性にしては随分と歩く速度が速い。歩幅は僕より確実に小さいはずなのに、急がないと置いていかれてしまいそうだった。
横断歩道を渡って路地を進んで行くと、開けた場所に出る。
左側に佇む店はお昼のピークを過ぎているというのに並んでいた。黄色い看板には『六文そば』と書かれている。立ち食いそば屋のようだ。
それでも良いかと思っていると、店の反対側では数人のサラリーマンが丼を手に立ちながらそばを啜っている。
店内ならまだしも、ここは路上だ――僕はぎょっとしてしまった。
その間にも部長は歩を進めていて、店の前を足早に通り過ぎる。どうやら目的地はここではなかったようだ。
僕は歩幅を大きく取って部長に追い付いた。
「今の店、すごかったですね」
そう言うと、部長は僕の方に視線をよこす。
その眼差しには、オフィスに居る時とは少し異なる感情の色味が含まれているように思えた。
「あぁ、驚いた?」
「はい、何と言うか――道路で立ち食いしているのは、初めて見ました」
「あの店も安くておいしいよ。私はいかげそ天が好き」
そう事も無げに言うので、僕は思わず「えっ」と声を洩らしてしまう。
すると――部長はいつもの固い表情を小さく緩めた。「ふっ」と小さな笑い声が僕の耳に届く。
「さすがに私も道路で食べたことはないよ。店の奥に通してもらった。別に外でも構わないけれど、熱い丼をずっと手で持って食べるのはつらそうだから」
そう言いながら通りに突き当たったところで、部長が足を止めた。
「今日のお目当てはこっち」
顔を上げた瞬間、僕は思わず感嘆の息を吐く。
それは、この現代の神田の街並みの中で、厳かに――それでいて確固たる覚悟を以って異彩を放っていた。一軒だけタイムスリップをしているかのようなそのギャップが、殊更に僕の目を惹き付ける。
「『まつや』は初めて?」
部長の言葉に、僕はこくりと無言のまま頷いた。