彼女の犬はバームクーヘン
授業にダンスがあるっておかしいと思う。
体育の授業でダンス。ダンス? ダンスってスポーツなのか? そんなことを考えるのはクラスでおれ一人だった。誰もおれの発言に賛同してくれない。
音楽に合わせて体を動かす。言うのは簡単だけれど実際にやるのはすごく難しい。運動神経が悪いわけじゃない。でも音楽に合わせたくても体が思うように動かないんだ。
器械体操部のやつらは楽しそうだ。リズムに合わせてキレのあるダンスをこれでもかと見せつけてくる。それにバク転やアクロバティックな技をしてクラスを盛り上げているのも彼らだ。陸上部のおれにアクロバティックなんて言葉は全く縁がない。嫌になるよ本当に。
「最低限のクオリティならできる」
そう考えている時期がおれにもあった。具体的に言うと今朝までそう思っていた。
ちゃんと練習したし、なんなら動画を撮って悪いところは器械体操部のキャプテンの田中に指摘してもらった。かなり頑張ったと思う。やれることはやった。
今日の体育の授業はダンスの個人発表だった。自信はそこそこあった。出だしは好調。でもダメだった……
曲に合わせて踊っているうちに気がつけばテンポがずれていきサビに差しかかった時完全にタイミングを見失った。左右交互に行う動きは完璧に左右逆になり後半はもうぐだぐだ。どう踊ったかもうまったく覚えていない。唯一覚えているのは踊り終えた時のクラスメイトの顔だ。
おれのあまりにもレベルの低いダンスを見てみんな笑うのを忘れてぽかんとしていた。哀れみの眼差しがおれに突き刺さった。
「杉原……お疲れ様。次頑張ろうな」
少しでも笑いに変えようと口を開こうとした時、先生の一言がおれの発表に幕を下ろした。おれはすごすごとステージを降りるしかなかった。真夏だから……なんて言葉では片付けられないぐらい全身から滝のように汗が流れた。
「おい、どうした。私のつくった唐揚げが少し焦げてるからってそんな顔するならもう食べなくていいぞ」
気がつくと目と鼻の先に不機嫌な母の顔があった。
「うおっ!」
「唐揚げが不味いなら食わなくていいぞ」
そう言うと母はゆっくりとつきだしていた首を戻す。母は「どっこいしょ」と言いながらテーブルを挟んでおれの向かいの椅子に座った。
「いや、唐揚げに不満があるわけじゃなく……」
「味噌汁か? 味噌汁がインスタントなことに文句があるのか? それともご飯がさっき買ってきたばかりのレンチンのやつってのが不満なのか? ほら、不満があるなら言ってみろ」
「いや、不満は無いから。むしろ仕事しながらもこうしてご飯を作ってくれてありがたいなと感謝してるぐらいだって」
「おうおうおう、一丁前に優しい単語並べやがって。そんな使い古されて擦り切れた言葉で母さんが喜ぶとでも思ったか?」
「なにこの面倒くさい絡み。どこのヤンキーだよ」
「ふふふ、なんか眉間に皺を作ってたからウザ絡みしてみました」
にやにやしながら頬杖をつく母は息子のおれが言うのもなんだがとても四十代には見えない。三十代半ばと言ってもみんな信じると思う。肩までかかった茶髪を指でいじる母は実年齢よりも若々しく見える。
「で、なにしけた面してるのよ。言ってみな」
「いや、なにもないって」
「なんにもなかったら食事中に眉間に鉛筆挟めるぐらい皺寄せないでしょ」
「いやそこまで深くないって…………小さいことだよ、体育の授業でダンスの発表があって失敗しただけ。本当にそれだけだから」
言うつもりはなかったのにおれは思わず俯きながら母に言ってしまった。言ってから少し恥ずかしくなってそれ以上何も言えなくなった。暫く黙っていたが母から何のレスポンスもないのでそっと顔を上げると母は机に突っ伏して寝ていた。
「聞くなら最後まで聞いてくれよ……」
おれの心からの訴えは母の耳に届くことはなかった。おれは諦めて夕飯を黙々と食べた。夕飯を食べ終え食器を片付けた後、大きめのバスタオルをそっと母にかけて風呂に入ることにした。
ぶにっ
何かが足にぶつかった。視界は真っ暗。真っ暗? いや、目を閉じているだけか。ゆっくり目を開けると見覚えのある場所だった。体育館だ。今日ダンスの発表をした高校の体育館のど真ん中に立っていた。
すぐに夢だと気づいた。風呂に入ってベッドに倒れ込んだところまでの記憶はある。ゆっくりと見渡すと体育館の照明は全て煌々とついていてカーテンや窓は全開。窓の外には真っ暗な闇が覗いて見えた。
夜だというのにセミの声が体育館に響いている。自分の服装を確かめると風呂の後に着たタンクトップと短パンだった。うん、やっぱり夢だ。夢に違いない。
ぶにっ
また右足に何かがぶつかった。そうださっきも何かがぶつかってきたんだ。
下を見ると右足に直径30cmぐらいのバームクーヘンの幹? 何て言うんだろう、厚みが直径の倍ぐらいあるバームクーヘンが足にぶつかっていた。
「なあ、お前はバームクーヘンなのか?」
とりあえず声をかけてみた。すると驚いたことにバームクーヘンはこちらを見上げてきた。そしてさらに驚いたことにバームクーヘンには顔があった。チワワだった。チワワってあの犬のチワワだ。思わずかわいいと思ってしまった。
「まるた、あんた何してんの?」
いきなり後ろから声がした。びっくりして振り返ると女の子がいた。初めて見る顔だった。いや、どこかで会ったことがあるようなないような、そんな顔だった。真っ黒のシャツと短パン、とってもシンプルな服装をしている。
まるたと呼ばれたバームクーヘンのチワワはひょこひょこと女の子の足元へ駆けて行った。なんだか嬉しそうに飛び跳ねている。
「ねえ、暇ならストレッチに付き合ってよ」
バームクーヘンを眺めていると女の子に声をかけられた。話しかけられると思っていなかったのでおれは周りを見渡した。しかし体育館の中には彼女とおれ以外には誰もいなかった。
「……え? もしかして、おれ?」
「ここに他に誰かいる?」
「いや……」
「文句ある?」
「いや文句はないけど……無理だ」
おれは断った。黒髪ショートヘアのかわいい女の子とストレッチ? こんな二人きりの場所で? 幸か不幸か真夜中の体育館はエアコンが効いた部屋の中のように涼しい。でも、絶対に無理。そりゃやりたくない訳ではないけど……
断った……
断ったはずなのに気がつけばおれは床に座り前屈姿勢で彼女に後ろから背中を押されていた。
夢とは怖いものだ。おれの意思に関係なく場面が進む。いつの間におれはストレッチをしていたんだろう? それにしてもおいしい展開だ。夢とわかっているけれどちょっと嬉しかった。少しでも長く続けばいいなとさえ思った。
甘い匂いがするなと思えばおれのすぐ横にバームクーヘンが転がっていた。チワワのつぶらな瞳がおれを見つめている。こいつはチワワなのか、それともバームクーヘンなのか、一体どっちなんだろう?
背中に感じる女子特有の雰囲気とバームクーヘンの甘い匂いにうっとりしていると徐々におれは睡魔に襲われはじめた。セミの声がどんどん遠ざかっていく。
「ねえ、あなた珈琲が好きなの? 珈琲みたいなにおいがする」
突然彼女の声がおれの意識を呼び戻す。
「珈琲は好きだよ。毎日豆を挽いて珈琲を飲むのが趣味なんだ」
「そー、なんだか気が合いそうね。私は珈琲を飲みながらバームクーヘンを食べるのが好きなの。あなたバームクーヘンは好き?」
「好き」
無意識のうちに答えていた。おれは甘いものが好きだ。かなり好きだ。特にバームクーヘンが好きで、バームクーヘンのあの年輪を少しずつ剥がしながら食べるのが大好きだ。ふと、こんな子が彼女だったらいいのに……そんなことが頭によぎる。まあ無理だろうけど……そもそもこれ夢だし。
そう思った瞬間おれは睡魔に負けて眠りに落ちた。そして気がつけばおれは大量の汗を流しながら自分の部屋の天井を眺めていた。どうやら風呂から上がった後、エアコンをつけずに寝てしまったらしい。湿度と温度も表示する卓上の電波時計に目を向けると部屋の中は32度もあった。ものすごく暑い。
汗で湿った服が気持ち悪いが着替える気力は残ってない。おれはエアコンをつけてもう一度夢の続きを見ようとベッドに横になった。しかし残念ながらうまくいかず結局寝付くことはできなかった。
朝の六時になった。
仕方がないのでおれは起きることにした。いつも通りランニングウェアに着替えてリビングに行くと母はまだテーブルで寝ていた。かなり疲れていたようだ。もう少し寝かしてあげよう。カレンダーを見ると昨日と今日の日付に『父出張』と書かれていた。そうか父さんが帰ってくるのは明日か、そんなことをぼんやり思った。
コップに一杯水を飲んでカーテンを開けると爽やかな朝日が見えた。走るにはばっちりの天気だ。おれは気分良く家を出た。
「まるた! 勝手に走って行かないで」
家を出た途端小さな犬が駆け寄ってきた。犬がおれの右足に顔を擦り付けてくるのでしゃがんで頭を撫でてやると嬉しそうに目を細めた。顔をよく見ると見覚えのあるチワワだった。
「まるた!」
声のする方向を見るとランニングウェアを着た女の子が片手にリードを持って立っていた。これまた見覚えのある黒髪ショートヘア。動物で例えるなら元気な子熊みたいなかわいらしい感じがする。あ! どっかで見た覚えがあると思えば去年のインターハイの会場で会ったんだ。たしか3000mだった気がする。
「……すみませんうちの子が」
申し訳なさそうに彼女が話しかけてきた。たしか隣の県の代表だったような気がする。このあたりの学校ではないのは間違いない。引っ越してきたんだろうか? まあそんなことどうでもいいか。
大した理由なんてない。去年インターハイで見かけた女の子を夢で見た。そしてその子がまた今目の前にいる。これはきっと偶然じゃない。おれは彼女に惚れてしまった。我ながら単純な自分に呆れそうになるが惚れてしまったんだから仕方がない。おれは彼女にくぎ付けになった。
「ねえ、バームクーヘンは好き?」
おれは思い切って彼女に声をかけた。絶対に今言うべきセリフはこれじゃないと思ったけれどこれしか思いつかなかった。
「え? ……好きだけど」
彼女は若干驚いたような顔をしたが答えてくれた。よっしゃ! おれは心の中でガッツポーズをしながらおれの足を舐めまくっているチワワの頭を撫でてやった。
「夏はまだ始まったばかりだ」
そんな使い古されたありきたりな言葉が頭に浮かんだ。