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青の街の女王

ジマとエライケと別れた後、私はさらに西へと旅立った。草も生えぬ乾燥地帯を過ぎ、そして砂漠地帯へと足を踏み入れる。

皇国の西方にも砂漠はあったが、そことはまた違いここでは酷く日差しが照りつける。周辺の民族は皆、移動の際ラクダを使用するらしい。私もラクダ使いに金を払い、旅をしていた。ラクダ使いは客の他にも交易される荷を多く乗せ、彼ら自身は何里もラクダを引いて歩くのだ。


「お客さん、あんたはここらへんでは見ない顔だね。東から来たのかい」

「えぇ。ここよりずっと東にある小さな国より来ました」

「そうかい。俺も交易で東には何度か行った事がある。こちらとは民族も文化も違う」

「そうですね」

「そんなあんたがなんでこんな遠くまで旅をしてるんだい」

「この目で世界というものを見たくなったからです。それこそ自分とは違う文化を持った人々を」

「ふうん」


ラクダの上に乗った私からは、ラクダ使いの頭しか見えない。彼らは強い日差しから肌を守るためゆったりとした長袖の服を着こみ、そして日除けの布を頭から被る。彼がどの様な表情で私の話を聞いているのかは分からなかった。


「それならお客さんにおすすめの街がある」

「おすすめ」

「あぁ、そうだ。そこは青の街って呼ばれててな、青い衣装が伝統として着られているからなんだが、そこは女王が治めている街なんだ。ここらあたりじゃ珍しい、そうだろう」

「そうですね」


ここ周辺の国々はほとんどが男性社会で、女性が首長となるような街は無かったように思う。


「それに近々街を挙げた祭りが行われるらしい。俺も詳しい事は知らんがな。もしお客さんが特に急いでないなら行ってみたらどうだい」

「そうですね。ありがとうございます」



そうして特に目的地も無かった私はラクダ使いの言う、青の街へ向かう事とした。後から分かった事ではあるのだが、どうやらその時一緒に運んでいた荷は全てその青の街に卸す物であったらしい。ラクダ使いは私を同じ目的地に連れて行った方が都合が良かったのであろう。


青の街は砂漠に突如現れるオアシスを囲むように作られていた。周囲は四角く切り分けられた石によって堅牢な城壁が作られている。


青の街に一歩足を踏み入れた私はその豊かさに驚いた。道はきれいに整備され、家々は石を積み上げて作られている。整備された道に沿って順序だって家が建てられているため、街全体に秩序が保たれている印象がある。市場には砂漠地帯ではお目にかかれないような異国の果物や新鮮な野菜が並んでいた。人々は活気に溢れ、物々交換ではなく、貨幣を利用している。それはこの街と外との交流が盛んであるということだ。


「どうだいお客さん、この街は活気があるだろう」


ラクダから荷を下ろし終えたラクダ使いが得意気に私に話しかけてきた。つい数分前まで長いこと彼の頭しか見ていなかった私は、彼と目線が同じ事にふと不思議な感覚を抱いてしまった。


「そうですね、驚きました。それにしても、なぜこの街は女性ばかりなのでしょう」


私は青の街が想像以上に栄えていた事にも驚いたが、もう一つ、街に出ている人々のほとんどが女性である事にも驚いていた。そして彼女たちの多くは青を基調とした伝統衣装を身に纏っている。


「あぁ、この街は女が稼いで男が家のことをするんだ。面白いだろう。この街はオアシスを持っているからこれだけ豊かなんだ。ここらへんじゃ水は高値で売れる。それを狙って外からも戦を仕掛けられる事があるらしい」

「なるほど、だから街を囲むように城壁が造られているのですね」

「そういうこった。じゃあお客さん、気をつけてな」

「えぇ、ありがとうございました」


ラクダ使いはそう言うと街の喧騒の中に消えていった。今晩はここに泊まっていくのだろう。


私が見つけた宿は街一番の繁華街の裏通りにある小さな安宿だった。そこの女将は大層珍し物好きで、異国人である私を酷く歓迎してくれた。宿だけでなく、食事の世話まで買って出てくれたのだ。


「先生、もうすぐこの街一番の祭りが行われる事は知ってるかい」


女将は私の事を先生と呼んだ。この街の人々には私の名前の発音に馴染みが無いために呼び難いらしく、自然と私はその様に呼ばれる様になった。


「えぇ、けれど詳しくは知りません」

「そうなのかい。それならその祭りまでここで泊まっていくといい」

「そんなに盛大な祭りなのですか」

「当たり前だよ。なんたって最後に行われたのは三十年前だからね」

「それはどういう事ですか」

「この祭りはね、この街の女王が結婚をする際に行われる祭りなんだよ。今の女王、アティヤ様はお母様である先代女王を早くに亡くされてね、若干十四で女王となったんだ。強くて美しい女王だ。この街だって、アティヤ様のおかげで益々発展した。女王は今年で二十八になる。そのアティヤ様が遂に結婚を決められたんだよ」


女将はまるで自分のことの様に嬉しそうに教えてくれた。


「アティヤ様は偉大な女王だ。おい旅人さんよ、そんなアティヤ様の結婚の祭りにたまたま立ち会えるなんて幸せもんだな」


宿の食堂で女将と話している私を見て、口々に他の客も声をかけてきた。彼らの表情からはどれだけ女王を慕っているのか伝わって来る。


「そういうわけでね先生、きっと祭りまで泊まっていった方が良い」

「えぇ、そうしてみます」


その言葉に女将は満足げに頷いた。



宿が繁華街の裏通りにあるという土地柄か、それからしばらくして私に娼館での琴の演奏依頼が入った。時間帯は昼であるという。娼館の営業時間とは違う時間帯の依頼に私は少々首を傾げながら、娼館の門戸を叩いた。その娼館はこの街で一番の大店であった。


通されたのは深い青を基調とした応接間であった。家具は東方趣味の物で揃えられている。久々の故郷を思わせる空間に私は懐かしさを覚えた。

応接間に入って来たのは初老の上品な女性であった。


「私はこの娼館の女将をしております、ジベルバと申します。先生にお頼みしたいのはこの店で働いている子たちに琴を教えて頂きたいのです」

「私でよろしいのですか」

「えぇ、先生の琴の腕前は宿屋の女将からもお聞きしております。報酬もご満足頂けるでしょう」


提示された報酬は確かに一介の吟遊詩人に払う額にしては破格であった。


「ここはこの街で一番の娼館でございます。それは即ち、身分の高い貴人達の訪れる娼館であるという事でございます。その報酬には口止め料も含まれております。ここでもしお客様を見てしまったとしても、決して口外しませぬ様」


ジベルバは真っ直ぐに私の目を見つめた。

なるほど、その様な事情であれば破格の報酬にも納得がいく。それに私は旅人である。万が一身分の高い貴人を目にしたとしてもそれを判別するのは難しいであろう。彼女はそれを見通して、吟遊詩人がこの街に立ち寄るたびに雇っているのかもしれない。


「分かりました。このご依頼お引き受けいたします」



そうして私は娼館で琴を教える事となった。私がそこで初めて琴を教える生徒は、娼館で一番人気のあるラタリという者だった。

ラタリは男であった。ラタリと初めて顔を合わせた際に知ったのだが、女性社会であるこの青の街では娼館で身を売るのは女性ではなく、男性であるという。初めてラタリと出会った時、私は相当間抜けな表情をしていた様に思う。


「先生、もう一回あの表情してよ」

「ラタリ、先生を揶揄うものではありません」


娼婦、いやこの場合娼年と言うべきであろうか。彼らには娼館で一人一部屋が与えられ、そこで接客を行う。私は昼の間に彼らの部屋に赴き、琴を教えていた。ジベルバは娼館で一番人気のラタリに力を入れている様で、私はラタリに琴を教える事が一番多かった。


「先生の故郷では女性が男性に身を売るんだね。変な感じ」


ラタリは深い青に染められた衣装を気怠げに着崩していた。褐色の肌はきめが細かく、琥珀色の髪の毛は無造作に伸ばされてはいるが、艶めいている。瞳も髪の色と同じく琥珀色に輝いていて目鼻立ちは確かに非常に整っていた。そして翠玉で出来た耳飾りを着けている。年は二十であると言う。


「私にはこちらの文化の方が新鮮です」

「ふぅん。・・・ねぇ先生、先生は娼館に行った事はあるの」


ラタリは私に近付くと瞳を煌めかせながら顔を覗き込んできた。


「えぇ、まぁ」

「へぇ、女性を買うってどういう感じなの」

「どういう、とは」

「ほら、僕って女性に買われた事しかないから、女性を買うってどういう気持ちなんだろうって」


私はラタリのその質問にどう答えようかとても迷った。というのも今まで娼館で女性を買うことを、深く考えた事がなかったからだ。しかしながら、ラタリの前でその様な答えを言うのは、彼にとって酷な事である様に思えた。


「そこまで娼館に行った事が無いので・・・。ラタリは女性を買ってみたいのですか」


私はとっさに話を逸らした。


「うぅん、どうだろう・・・」


ラタリは視線を天井に向けると少し悩む風をした。


「やっぱり買いたくはないかな。人を買うって、やっぱりあまり良い言葉じゃない」

「・・・」

「僕は十歳の時にここに売られたの。その時はまだアティヤ様が女王になられて四年だった。だから、まだ街には人身売買なんかもあったんだ。それをアティヤ様が法を整備して、摘発して、それでやっと子供が娼館に売られる様な事は無くなったんだよ」

「そうなのですね。この街の女王は素晴らしいですね」

「先生もそう思うんだ。・・・僕はアティヤ様を尊敬してる」


ラタリの言葉は真実である様だった。


「そういえばもうすぐ女王が結婚されると聞きました」

「うん、そうなんだ。とってもおめでたい事だよ・・・」


ラタリは不意に少し顔を俯けると、そう呟いた。



私が娼館に忘れ物に気づいたのはその日の夕方のことであった。旅について書き記した紙をラタリの部屋に置いて来てしまったのだ。時間はまだ娼館の営業時間の前で、私は今の内であれば取りに戻っても大丈夫であろうと考えた。


娼館に入るとジベルバが慌てた様に私に駆け寄って来た。


「先生、こんな時間にどうされましたか」

「いえ、ラタリの部屋に忘れ物をしてしまって。今ならまだ間に合うだろうと取りに帰って来たのです」

「でしたら、私がまた後ですぐにお届けします。今はどうぞお引き取りください」


ジベルバは何かを隠す様に私の背を押した。彼女がそう言うのであれば、従うしかない。背を向けたところで二階から誰かが降りてくる気配がした。

ふと振り返ると降りてきていたのは美しい女性であった。褐色の肌に燃える様な赤い髪の毛。背は高く、階段を降りるその姿は堂々としている。

その、人を惹きつける雰囲気に私は一瞬見惚れてしまった。


「アティヤ様、また来てくださいますか」


そしてその女性を追いかける様に後ろから側に寄ったのはラタリであった。


ジベルバは私が二人の姿を目にした事で諦めたのか、私を入り口に追いやるのを止め、女性に向かって深々と頭を下げた。私も思わず彼女に倣う。


「あぁ、ラタリ。また来よう。その時はまた琴を聞かせてくれ」

「やった。アティヤ様、僕の今の琴の先生は東方から来られた方なんです。先生から聞いた東方の面白い話も今度アティヤ様にお聞かせしますね」


そこでラタリは私の存在に気付いた様であった。


「アティヤ様、あそこにいらっしゃるのが今話していた琴の先生です」


ラタリは無邪気にもアティヤ様にそう伝えた。アティヤ様、この国の女王に。


「そなたが東方より来たと言う吟遊詩人か」

「はい、ここより東にあります皇国の生まれでございます。吟遊詩人をしております」

「ラタリから琴の腕前は一流だと聞いた。私も先生と呼んで良いか」

「恐れ多いことにございます」


女王は私の側まで寄って来ると私に顔を上げさせた。女王は私の目をじっと見つめるとこの様に言った。


「私は今東方の国々との交易を栄えさせたいと思っている。そこでそなたには私に交易を行う上での助言を賜りたい、良いであろう」


かくして私は女王に先生と呼ばれる立場となってしまった。



女王は翌日、私を彼女の居室に招き入れた。結婚間近の女性が、しかも街を治める女王が男を部屋に入れ、二人きりで話をするというのは私にとって慣れぬことであった。

女王はゆったりとした青い衣装を纏い、東方趣味の椅子に座していた。


「先生、女と部屋で二人きりになるのは不思議か」


女王は西方より取り寄せた茶を飲みながら私に問いかけた。紅茶と呼ばれるその茶は、故郷のものより少し苦味があり渋い味わいをしていた。


「いえ、ただ身分の高い女性が男と二人きりになるというのは私の故郷では珍しいことです」

「そうか。この街の様に女が男より外に出て働く社会というのは珍しいだろう」

「ご存知でしたか」

「まぁな。こう見えてこの街は多くの国々と交易をしている。外の世界の事も民よりはよく知っている。

私は女が外で働き、男が家の事をする社会で育った。だから、他の社会、男が外で働くという社会には馴染みがない。

しかしながら他の国の王には、よく女が街を治めるのは烏滸がましいと言われることがある。私にはその感覚がよく分からない」

「恐れながら優れた王というものは男女の別で考えるものでは無いでしょう。現に街の様子から、陛下がいかに優れた首長であるか伺えます。案ずる事ではございません」

「ありがとう、先生。

そういえば先生はラタリに琴を教えているのだろう。ラタリがあの娼館に来た経緯は知っているか」

「十歳の時に売られてきたと聞きました」

「そうだ、私がラタリと初めて会ったのもその頃であった。当時私は街で横行する人身売買を根絶しようとしていた。あの娼館に視察に行った際にラタリと出会ったのだ」

「そうなのですね。ラタリは陛下のおかげで子供が娼館に売られる事は無くなったと喜んでいました」

「・・・私は確かに人身売買を取り締まった。これからこの街でラタリの様な目に遭う子供はいないだろう。しかし・・・」


女王は外を眺めながら呟いた。


「先生も娼館で見たであろう。私はラタリを買っている」

「・・・」

「確かに私は人身売買を根絶した。けれど、私は人身売買の犠牲となってあの娼館に売られたラタリを買っている。それは、とても罪深いことだとは思わないか」


ラタリは真実女王を慕っている。その想いに女王は気付いているのだろうか。


「先生、すまない。この様な話をしてしまって」

「いえ、私は異国から来た流浪の民です。その様なお話しをされても構うことの無い相手でございます」

「そうか、ありがとう。先生は不思議だ。先生と話しているとついつい余計な事まで喋ってしまう。

本題は、東の国々との交易の事であったな。

実は、近々私が結婚する相手というのが皇国の豪商の息子なのだ」


それは私の故郷の皇国で最も栄えている豪商、楽家の次男、楽栄であった。女王が私に助言を頼んだのにはこの様な理由があったからなのか。


「楽家は今の当主が無一文から国一番の豪商へと成り上がった家でございます。先見の明に優れ、西方の国々とも広く交易をしていると聞いておりました。陛下が東の国々との交易を発展させる上でも大きな力となるでしょう」

「そうか・・・婚約者となる楽栄とは会ったことは無いが、文のやりとりをしている。先生にはこの婚姻が我が街にとって真実益となるものかどうか、助言を頂きたい。文の様子からは楽栄は信用できる相手に思う。ただ、所々言い回しが分からない部分があってな。そこで先生に見て頂きたいのだ」


女王はそう言うと私に文を見せた。首長がまだ知り合って間もない相手にその様に重要な文を見せるのは些か無用心に思えた。


「先生、案ずるな。こう見えても私はこの街の女王だ。先生がどの様な経緯でこの街に来たかは既に調べてあるし、仮に知られたとしても構わない内容だ」


私の心配を見透かした様に女王は付け加えた。


「では、拝見します」


楽栄と女王のやりとりは、情愛ではなく婚姻による互いの利益など、政治的な内容であった。そして楽栄の文には所々皇国ならではの言い回しが使われている。

この世界は人々が意思疎通を図ることの出来る様、神は共通の言語のみを人々に与えた、と伝えられている。しかしながら、慣用句や言い回しなどはそれぞれの文化によって多少の違いが出てくる。さらには、楽家から友好の証として送られてくる調度品についてや、その返礼として送るべき品はどの様な物が皇国で喜ばれるのか、そういった皇国の文化を女王は知りたい様であった。


私はそうして週に二、三回城へ招かれる事となった。




「先生、今日は先生の故郷の話を聞かせて」

「ラタリ、琴の稽古が終わったら教えましょう」


城への見参と同時に昼間は相変わらず娼館でラタリに琴を教えていた。最近は専らラタリばかりに琴を教えている。それはラタリが稽古の時間を増やして欲しいとジベルバに頼んだからだと聞いていた。


「先生、この前アティヤ様とお会いしたよね」

「えぇ」


ラタリは琴を爪弾きながら呟く様に私に尋ねた。


「アティヤ様は先生に助言を頼みたいって言ってた。アティヤ様の先生になったの」

「先生というのは烏滸がましいです」

「ふぅん・・・。あの日以来一ヶ月近くアティヤ様が来てくれないの。どうしてだろう・・・」

「・・・」


それは女王が夜、私と会っているからに他ならない。女王とは何もないとは言え、それをラタリに言う事は控えておいた。


「僕、アティヤ様に喜んで欲しくて琴のお稽古増やしてるのに・・・」

「今は忙しい時期なのでしょう。婚姻前でもありますし・・・」

「先生、その話はやめて」


ラタリの声色は今まで聞いた事が無いものだった。いつも朗らかに浮かべている笑顔が消えている。私は失言した事を悟った。


「すみません」

「ううん、ごめんなさい。・・・僕ちょっと今の可愛げがなかったね。・・・最近アティヤ様に会えなくて焦ってるのかもしれない・・・」

「ラタリ・・・」

「・・・これ、ずっと昔にアティヤ様からもらったの」


そう言ってラタリは翠玉の耳飾りを指した。


「アティヤ様は結婚するけれど、きっと僕の事を大事に想ってくれてる。僕はそう信じてる。そうでないとこんなに綺麗な物をくれないもの。

それにアティヤ様と会う時にこれを着けてると必ず喜んでくれるんだよ」


そううっとりと呟くラタリから、私はそっと目を逸らした。ラタリは知らないのであろうか。来週には女王の婚姻が執り行われる事を。そして明日にはその相手、楽栄がこの街に来る事を。


「ラタリ、入りますよ」


その時ジベルバが室内に入って来た。彼女が稽古中に部屋に立ち入ってくるのは初めての事であった。


「何、女将さん」

「今晩アティヤ様がいらっしゃると連絡がありました。すぐに準備をなさい」

「えっ、本当にっ」


ラタリは飛び上がった。その顔には満面の笑みが浮かんでいる。


「先生、申し訳ございません。そういう事ですので本日は途中ではありますがお引き取り願えますか」

「分かりました。ではまた明日参ります」

「先生、ありがとう。また明日」


退室する時には既にラタリはこちらを見向きもせず鏡を覗いていた。


ラタリの部屋から出るとジベルバは廊下の隅へ私を招いた。


「どうされましたか」

「先生にはラタリとアティヤ様の関係についてはもう知られています。ですから包み隠さずお話しするのですが、本日アティヤ様は恐らくラタリに別れを告げる予定だと思われます」

「と、言いますと」

「先生もご存知でしょうが、アティヤ様のご結婚は来週に迫っています。そして明日にはお相手の方が街にいらっしゃいます。

ラタリは娼館に居ますから、その事をまだ知らないようなのです。お客様もここでは一夜の夢を見るために街でのお話はあまりされませんから」

「なるほど」


ラタリが翠玉の耳飾りを撫でていた表情を思い出し、私は頷いた。


「そういったわけで今晩アティヤ様が久しぶりにいらっしゃるのはラタリに別れを告げるためだと思うのです。

先生、明日こちらへお越しになった時はラタリは憔悴しているかもしれません。その際にはどうぞ慰めてやっては頂けませんか」

「ジベルバはラタリの女王への想いに気付いていたのですか」

「えぇ、私も長年ここで女将としておりますから・・・。

本来ならば、彼らが一人のお客様に対して個人的な想いを抱く事は禁止しております。けれど・・・」

「ラタリに関しては理由があるのですか」

「えぇ・・・。ラタリは幼い頃ここへ売られ、そしてアティヤ様に救われました。

アティヤ様はラタリにとって初めてお客様と娼年という立場ではなく出会った女性なのです。アティヤ様は最初、ラタリにこの世界から足を洗わせるおつもりでした。けれど、ラタリは普通の人間になってしまえば一生アティヤ様とお会いする事は叶わなくなると、ここへ残る決意をしたのです。お客様と娼年という立場となってでも、会えるだけで幸せだと最初は思っていた様なのですが・・・」

「・・・」

「人の想いというものは、与えるだけだと割り切っていてもいつか必ず相手に求めてしまうものです。ラタリのアティヤ様への想いはとっくにお客様への想いとしては度が過ぎていました。私は分かっていたのに止められませんでした。

ラタリは先生にとても懐いております。どうか明日ラタリと会った際は、彼が壊れてしまわぬよう助言して頂きたいのです」


ジベルバはそう言うと私に深々と頭を下げた。



その日の夜中、私は城へ呼び出された。私はラタリの事であろうと予想しながら女王の部屋へ参じた。


「先生、遅くに急に呼び出してすまない。そこに座ってくれ」


女王は珍しく酒を飲んでいた。それは琥珀色に輝く酒であった。


「先生も酒は好きか」

「はい、あまり強くはありませんが」

「それならぜひ一緒に飲もう。これはここより北にある国から仕入れた珍しい酒だ。小麦から出来ている」


女王は私の杯に酒を注ぐと、自らの杯にも注いだ。


「・・・私が今日ラタリを訪れた事は知っているだろう」

「えぇ、ちょうど昼間にラタリに琴を教えておりました」

「そうか・・・。ラタリに別れを告げて来た。

ラタリは・・・泣いていた。あの子の涙を見るのは初めてあの店を視察で訪れた時以来だ。正直堪えたよ」


女王は一口酒を口に含んだ。


「私はね、先生。ラタリを大切に想っている。けれど、それはラタリが私に抱いている感情とは違うんだよ」

「と、言いますと」

「私はラタリが可哀想なんだ。可哀想で、あの子があまりに私に執着するもんだから、その気持ちに恵んであげたんだよ。

私はこの街の女王だ。全ての民を愛おしく思う。彼らが私に何かを望んで、それが私の出来る事であれば極力恵んでやりたいと思っている。けれど、全てに応えてやることはこの街のためにも出来ない。だからラタリに恵んだんだ。ラタリの望むこと、たとえそれが彼を買うという愚かな事でもそれに応えた。それは私が応えなかった民の要求の代わりなんだ」

「・・・」

「先生、軽蔑しただろう。私は最低の人間だ。今日ラタリに別れを告げて、一番最初に感じたのは安堵だ」

「陛下・・・」


女王は口早に話すと、また酒を呷った。


「最初は可哀想なラタリが望むままに関係を持った。けれど、一度そうなると私はラタリの期待を裏切る事が出来ない。そうしてラタリを買う度に、今度はラタリ以外の民に対して負い目を感じてしまう。だから正直ラタリと離れることが出来て本当にほっとしている」

「・・・」


私は何を言うべきか分からなかった。女王は身勝手に、自己肯定感を高める為にラタリを利用していた。そういう事であろうか。


「・・・男は面倒くさい。私達は外で働き、男達を養う。彼らは外の世界を知らない。だから時に女に酷く執着する。嫉妬にかられた男達が心中したり、相手を殺す歌劇や物語は巷に溢れかえっている。けれど当の男達はその事実を知らない。それは学がないからだ。学がないから本を読む事も外を自由に出歩く事もない。皇国で育った先生からしたら不思議だろう」

「確かに皇国は男が外で働き女性が家の事をする社会です。けれど男女の別なく、働ける人が働き家を盛り立てる事が社会にとって最も有益だと私は思います」

「そう思うか。楽栄はその点そなたと同じ皇国の出身だ。我が街に新たな風を呼び込むやもしれん。

・・・明日、楽栄がこの街に来る。私は楽栄と結婚し、この街をもっと豊かなものにする。私はそれが楽しみでならない」


女王は楽しそうに口の端を上げた。女王の興味は既にラタリではなく楽栄へと移っている。


「陛下、恐れながらラタリに対して真実可哀想な少年という気持ち以上のものはないのでしょうか。ラタリは陛下から賜った翠玉の耳飾りを大切にしておりました。とても貴重な物であるとお見受けします。あの様な物を授けるというのはラタリに対して愛情があるからではないでしょうか」


私は無礼にも自分の立場を弁えず女王に捲し立てた。分かってはいても止められなかった。ラタリが女王の事を話す時、その瞳には女王への親愛が溢れ出ている。それを思い出すと、彼が気の毒でならなかった。


「翠玉の耳飾りはラタリに似合うと思ったから渡した。私がラタリに対する想いは、可哀想な我が民、それ以上も以下もない。みんな愛しい守るべき民なんだよ」


先生も含めてな、そう女王は笑った。


「ただ・・・もし明日ラタリを訪れて、それでラタリがまだ泣いていたら、この文を彼に渡してやってくれ」


女王はそう言うとわたしに文を預けた。


「先生、短い間であったがこうしてお話しするのは今日で最後だ」

「陛下・・・」

「急ですまない。これからも気をつけて旅をしてくれ」


女王は私を追い払う様に部屋から出した。



翌日、娼館を訪れるとそこにはラタリはいなかった。ジベルバもラタリの居場所を知らないと言う。彼が娼館を勝手に不在にするのは初めてのことらしく、ジベルバはあからさまに取り乱していた。


「先生、どうしましょう。私とした事が・・・」

「ジベルバ、落ち着いてください。ラタリの行きそうなところに心当たりはありませんか」

「いえ・・・」


そこでジベルバは、はっとした様に顔を上げた。


「今日、皇国よりアティヤ様の結婚相手の方がいらっしゃいます。もしや、ラタリは・・・」


『嫉妬にかられた男達が心中したり、相手を殺す歌劇や物語は巷に溢れかえっている』


私は女王の言葉を思い出していた。

今街では楽栄を迎えるパレードが行われている真っ只中だ。ラタリはもしや女王が楽栄を迎える前に彼女を・・・


「ジベルバ、ラタリはとんでもない事を考えているかもしれません。すぐに人手を集めて女王と楽栄の元へラタリを探しに行きましょう」

「は、はいっ」


ジベルバが慌てて娼館の奥へ人を呼びに行くのを確認し、私はすぐさま娼館を飛び出した。

楽栄を乗せたラクダはパレードに歓迎されながら、正門から女王の待つ城へとゆっくりと歩を進めている。町中は人々でごった返している。


「ラタリッ。ラタリ、いませんか」


私は大声をあげながら人混みをかき分けた。今日ほど城への道のりを遠く感じたことはない。

城の前では女王が玉座に座し、ゆったりとラクダに乗ってやって来る楽栄を待っている。周りには側近の面々が控えているが、皆パレードに夢中だ。

楽栄は穏やかな笑みを浮かべて観客に手を振っていた。

楽栄は三十になる美丈夫だ。その風格も、頭の切れも、ラタリは遠く及ばない。女王は守るべき民であるラタリを選ぶ事は永遠にない。女王が望むのは共に街を発展させる事の出来る有能な同士だ。


そこで視界の端にキラリと光る色を捉えた。あの美しい緑色に輝く宝石は滅多にない。ラタリの自慢の翠玉だ。

果たしてラタリは混雑の中、楽栄のパレードを見つめていた。その横顔は張り詰めている。


「ラタリッ」

「先生・・・」


久々に大きな声を出す。ラタリはこちらに気付くとふと顔を綻ばせた。


「先生の大きな声、初めて聞いた」

「それは・・・急に店から姿を消せば誰でも驚きます」

「ふふっ。・・・ねぇ先生安心して。別にアティヤ様をどうこうしたりしないから」


ラタリは私の考えを見透かすかの様にそう言ってきた。


「僕ね、アティヤ様の結婚相手を見てみたかったの。ほら、お店からじゃ見えないから」


ラタリはラクダに乗る楽栄を眩しそうに眺めた。


「でも絶対に叶わないね。アティヤ様の結婚相手は、大きくて遠い」

「大きくて遠い・・・」

「賢くて、広い世界を知ってる。夜の、娼館の、寝台の中しか知らない僕は到底叶わない」

「・・・けれど、ラタリは今まで見てきたどの生徒よりも熱心に琴の練習をしています。多くの女性の心を癒す方法を知っています。それはラタリだけにしか無いものです」

「ふふっ、そんな事言ってくれるのは先生だけだね。・・・でもアティヤ様が望んでいるのは、美しい琴の音色でも、癒しでもない。同じ方向を向いて歩む事のできる仲間だ」

「・・・ラタリ、これを」


私は女王から預かっていた文をラタリに渡した。

女王のみに許された封蝋を見つめて、ラタリはそれが誰からの物か悟った様であった。


「ラタリッ」


そこで私達を見つけたジベルバが、駆け寄って来た。いつも隙のない、完璧な装いのジベルバが息を乱し、髪を乱している。

ラタリはそんなジベルバを見遣りながら、女王からの文を手に取った。そして、その文を躊躇う事なく破り捨てた。


「ラタリ・・・」

「先生、ありがとう。けどこれを読んだらきっとまた僕は引き戻される」


ラタリは晴々とした顔をしていた。


「先生、僕を旅に連れて行って」

「どういうことですか」

「僕はきっとこの街にいたらいつかおかしくなってしまう。アティヤ様が結婚して子を産むなんて僕には耐えられない。

それに、僕は小さい。大きくて、深くて、そんな人間になりたい」


ラタリは呟く様にそう言うと、翠玉の耳飾りを外した。


「僕が持ってる宝飾品も洋服も、全て売ればきっとお金になる。・・・これも。先生、僕も一緒に先生の旅に連れて行って」

「・・・」


私はラタリの琥珀色の瞳を見つめながら思案した。

ラタリは外の世界を全く知らない。世間知らずで、力も弱い。旅先では足手まといになるだろう。けれど・・・


「先生、ラタリを連れて行ってあげてください」


そう声をかけたのはジベルバであった。


「ラタリの覚悟は本物です。ラタリにはずっと働き詰めで頑張ってもらいました。そろそろこの世界から足を洗う時でしょう」


そう言ってジベルバは目を伏せた。

ラタリが女王への想いを募らせてしまったのには、それを止められなかった責任があると彼女は感じているのかもしれない。


そうして、私は旅を共にする仲間が増えた。

翌日にはラタリは持ち物を売り、そして青の街を出立した。女王と私達は終ぞ会う事は無かった。ラタリの希望もあって、私達は青の街より北へと旅をしている。


青の街は楽栄を迎え入れた事でますます発展し、男性も徐々に社会進出を果たす様になったと、風の噂で聞いた。


ラタリはあれから旅をする事で逞しく、思慮深い人間へと成長した。けれどラタリはあれから一度たりとも女王の話をした事はない。


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