遊牧民の兄妹
旅に出て私が最初に向かったのは皇国より北西にある遊牧民の国であった。彼らは馬に乗り、家畜と共に一生をかけて旅をする。そこでは詩を歌い、楽器を奏でる事は一番の娯楽であるという。私のような生き方をしてきた人間にとっても馴染みやすい国であると考えた。
私はその内の一つの家族に世話になる事となった。
その家族は祖父母、父母、そして若い兄妹が共に暮らしいていた。兄はエルマ、妹をテハという。エルマは二十、テハは十六であった。
彼らの民族は家族単位で旅をする。ゲルと呼ばれるテントの中に一家全員で暮らすのだ。であるから家族以外の人間と共に生活するというのは慣れていない。ましてやテハは年頃の娘だ。私は最初、家長であるテハの父に聞いた。彼の名はラキといった。
「私は二十六となる男です。テハの様な年頃の娘がいる家に世話になっても良いものでしょうか」
「何を言ってるんだ。旅人は私達の民族ではみな歓迎すべき者だ。気にすることはない」
後から分かった事ではあるが、家族のみで生活し、外との交流の無い彼らは、旅人を歓迎する文化があるという。特に壮年の男性は。それは共に暮らす事で、自分の家の娘と婚姻をさせたいからだ。
かくして私は彼らと共に遊牧の旅へ出る事となった。
彼らの生活は朝早くより始まる。女性は男性より早く起き、食事の支度を始める。川などほとんど見あたらない草原地帯をどこまでも歩いて水を探すのだ。これはこの家で最も若い女性、即ちテハの仕事である。何里もある道のりを桶を持って歩き、水を汲む。それを一日二往復行うのだ。
私は世話になっている身としてテハと共に水汲みをする役目に名乗り出た。
ラキは最初渋い顔をして断った。
「客人に、そんな事をさせるなどあり得ない。それにあなたは男だ。男は本来、家の事をするべきではない」
「私は旅人です。世話になっているお礼をしたい。それに私はあなた方の民族ではありません。ですから気になさらないでください」
そう言って半ば強引にも私は水汲みの役目を得た。
朝、日が昇るより前に起きるとテハと共に桶を持ち水汲みに向かう。
「先生、やはり私一人で行きます。男性に、しかも客人にこの様な事をさせるべきではありません」
テハは初日その様な事を言った。私は世話になる傍ら、エルマとテハに琴を教えていた。それで先生と呼ばれている。
「テハ、これは私のわがままでしているのです。どうか許して頂けませんか」
そう言うとテハは困った様に笑いながらも頷いてくれた。
テハは無口な女性だ。しかし共に水汲みを行う内、段々と打ち解けて来た。
「先生は皇国より来られたと聞きました。皇国はどの様な国なのですか」
「皇国はここより南東にある小さな国です。炎帝という皇帝が国を治めています。私はそこで吟遊詩人をしながら御上に仕えていました」
「皇帝にお仕えしていたのにどうして先生は旅に出るのでしょう」
「それは、世界を見てみたくなったからです。この世界は五つの大陸と七つの海、そして二百の国があると皇国の神話では伝えられています。私はそれを自分の目で確かめてみたい」
「二百も国が・・・。私はこの草原とゲルの中しか知りません。この世界はどんなに広いのでしょう」
そう語るテハの目は遠くの丘陵を見つめていた。
遊牧民の男達は日が昇ると、羊の放牧を始める。そして羊が草を食んでいるのを眺めながら食事をとる。
あたり一面に草原のみが広がるこの地では、羊は大事な食料となる。朝は羊の乳を飲み、干し肉を齧る。そうしてまた夕飯まで食べずに過ごすのだ。
夕方には男達が馬に乗り、羊を集める。
彼らは馬の扱いに非常に長けており、特にエルマの腕は目を見張るものがあった。テハも同じで、私は彼らに琴を教える代わりに彼らに馬や羊の扱いを教えてもらっていた。
エルマは最初、あまりに馬の扱いが下手な私に呆れていた様だった。
「先生は琴は上手だが馬の扱いは下手だな」
「面目もありません。エルマはとても上手です」
「それはそうだ。俺たちは生まれた時からこいつらと共に過ごしているんだから」
そういう風にして私は数週間を彼らと共に過ごした。
その日もエルマは羊を集め終わり、馬から降りるとテハに声をかけた。
「テハ、後は任せた。先生、後で琴を教えてくれ」
羊を集め終わるとその後はテハの仕事となる。
羊達をゲルに入れ、彼らの毛並みを整える。羊毛はゲルや民族衣装にも使われる他、町に出た際は売ってお金にもなる。羊の毛並みを綺麗に整える事は大事な仕事だ。
私はテハとエルマの兄妹の関係が奇妙な事に気付いていた。テハとエルマは同じゲルの中で生活していてもほとんど会話をしない。それは旅芸人の仲間と共に泣き、笑いながら育って来た私にとって奇妙な兄妹の形に思えた。
「テハ、私にも羊の毛並みの整え方を教えてくれませんか」
「先生、でも先生はこの子達にあまりよく思われていない様です」
テハの言葉に思わず苦笑してしまう。私は何故か動物にはあまり好かれない性質らしい。私自身は動物が好きなのだが、彼らは異様に私を警戒するのだ。現に私は何週間かここで過ごしているにも関わらず、私を見つめる羊達の目は、警戒の色を示している。
「では、私はここで見学しています」
「はい、そうしていてください。
先生は皇国に想い人はいらっしゃいましたか」
テハは私に背を向けて羊の世話をしながらそんな事を聞いてきた。唐突なテハの質問に私は少々面食らってしまう。
「とても急な質問ですね。何かあったのですか」
「いえ・・・。先生はご存知ないかもしれませんが、私達の民族には一年に一度大きな祭りがあります」
「祭り」
「ええ。その祭りの日に各地に散らばっている私達の友は首都、タマリの街に集まるのです」
「それは・・・なんとも楽しそうな祭りですね」
「けれど、その祭りは年頃の独身の男女しか参加できませ
ん。先生はその意味が分かりますか」
それは・・・その祭りは恐らく独身の男女が結婚相手を見つける祭り、そういう事であろうか。
「男は二十、女は十六の年よりその祭りに参加することができます。今年、エルマと私はその年となりました」
テハは話しながらも一心不乱に羊の世話をしている。その張り詰めたような背中は、テハが祭りに参加できる年齢となった事を喜んでいる様には見えなかった。
「テハは・・・テハは祭りに参加したくないのですか」
「私は・・・」
そう言うとテハはこちらを振り向いた。
テハは私の予想とは裏腹に笑顔を浮かべていた。
「私は先程、故郷に先生に想い人はいたのかと尋ねました。どうなのですか」
あからさまに質問をはぐらかされ、また面食らってしまう。今までテハがその様に会話を途中で変えてしまう事はなかったからだ。
「想い人は・・・いました」
「先生はその方を置いて旅に出かけられたのですか」
「ええ」
「何故でしょう」
「その方とは身分があまりにも違ったためです」
「身分・・・。では叶わぬ恋だったのですね」
「そうですね、叶わぬ恋でした」
「先生はその恋を諦めても良かったのですか。その方と共に逃げようとは思わなかったのですか」
これほど饒舌に話すテハを私は見たことが無かった。テハは先程の笑顔とは一変し、強い眼差しで私を見つめている。
共に逃げようとは思わなかったか・・・。それに否と答えるのは容易い。恋に溺れ、何もかもを捨て去り逃げるのは、現実にはとても難しいのだから、と。
けれどテハの強い瞳は私にその様な建前を許さなかった。
「思った事もあります・・・。彼女と最後に別れた日に戻れるものなら戻りたい」
けれど、もし戻れたとして、私は彼女の手を取ることが出来たであろうか。その自問は口には出さず、テハを見つめる。テハは私の目をじっと見つめると何かを納得させる様に頷いた。
「そうですか・・・。ありがとうございます」
そう言うとテハはまた私に背を向けて羊の世話に没頭した。
ゲルに戻るとラキはすでに夕飯を済ませ、酒を飲んでいた。その横にはエルマもいる。
ラキはいつも以上に機嫌が良かった。
「先生、遅かったな。もう先に始めてしまった。先生も飲もう」
そう言うとラキは私の手を引き、エルマとの間に座らせた。
エルマの目元もほんのりと赤い。彼も今日は酒を飲んでいる様だった。
「先生は我々遊牧民の祭りを知ってるか」
「ええ、先程テハから聞きました」
「私はテハが祭りに行く前に先生に娶って欲しかったが、そうは行かなかったようだ」
ラキは笑いながら私の肩を叩いた。エルマは隣で無言で酒を飲んでいる。
「だが、テハもエルマも今年祭りに行く事のできる年齢となった。これは喜ばしい事だ」
「タマリの街までは遠いのですか」
「あぁ、ここより馬で三日はかかる。エルマとテハは明日にも出立する。だから今日はめでたい日なのだ」
「もう明日にも出かけるのですね」
急な話に私は思わずエルマを見やる。エルマは今までそんな事は言っていなかった。急な別れを感じ、私は寂しくなった。
「先生、心配するな。祭りが終わればまたすぐに帰ってくる。一週間後にはまた会える」
エルマはそう言うと私の杯に酒を注いだ。
「この祭りは我々にとってとても大事なものだ。我々の様な遊牧民は年頃の男女が他で出会う事はない。だからこそこの様な祭りが必要なのだ」
「それは、そうかもしれません」
「テハは綺麗だ。先生もそう思うだろう」
ラキは嬉しそうにそう言った。
確かにテハは美しい。艶やかな黒髪に大きな瞳をしている。その瞳はまるで吸い込まれるかの如く深い藍色だ。
「きっとテハはこの祭りで拐われる。そうなれば私も父として安心だ」
「拐われる、それはどういう意味ですか」
「なんだ、先生には話していなかったか。我々の民族は男が女に求婚する際、花嫁を誘拐するんだ。拐われて、男の家に一歩でも入った女はもうその家に嫁いだとみなされる」
「それは・・・女性の意に沿わぬ婚姻となりませんか」
思わずそう言ってしまった私に、ラキは不思議そうな顔を向けた。
「そんな事はない。男に拐われ、婚姻を結ぶのは当たり前の事だ。最初は意に沿わないかもしれないが、男は必ず女を幸せにする。婚姻とはそういうものだからだ」
それを野蛮な風習と一概に非難する事は出来ない。私はよそ者だ。彼らには彼らの考え方があるのだ。
「エルマ、タマリの街で好きな相手を見つけたら他の男に取られる前にすぐに捕まえるんだ」
「あぁ、分かっている」
そう言うエルマはじっと杯に注がれた酒を見つめていた。
夜、皆が寝静まった後、私はエルマに起こされた。
エルマは外に散歩に出ようと言う。
草原を歩き、丘の上に行くとそこにはテハもいた。その日は満月で、夜目の効かない私でもあたりが見渡せるほど明るかった。
「テハ、エルマ、どうしたのですか」
「先生、俺たちは明日祭りに出かける」
「ええ」
「だけどここには帰ってこない」
「それは・・・どういう事でしょう」
「俺がテハを誘拐するからだ」
エルマはそう言うとテハの腰に手を回した。テハもエルマに身を寄せる。
それは私の知っている兄妹の形ではない。
「エルマ・・・なぜそれを私に」
「先生には世話になった。俺たちがここに帰らなければ家は荒れる。ちょっとした騒ぎになるだろう。だから先生も明日俺たちと旅立ってくれ。そしてそのまま俺たちが逃げるのを見逃してくれ」
エルマの口ぶりは固い決意に満ち溢れていた。それはもう決定事項で揺らぎようのない物のようであった。
「エルマ、私がもしラキにこの事を伝えたらどうするのです」
「先生はそんな事をしません。私は知っています」
エルマの代わりに答えたのはテハであった。
テハは知っている。私が叶わぬ恋を経験した事を。そしてその様な私がこの申し出を断る事など出来ないことを。
翌日、私はラキに別れを申し出た。エルマとテハの二人では道中心細い。それにもうそろそろ次の旅に出なければならない。そう告げるとラキは寂しそうな顔をしたが、笑顔で送り出してくれた。
ラキの笑顔を忘れられない。彼は客人だけでなく、大事な二人の子供もこれから一生失う事となるのだ。
道中、三人は一言も喋らなかった。
半日ほど共に旅をし、私は二人と別れた。
エルマとテハは頭に巻いていた布を私に渡した。それは家族ごとに決められた文様が刻まれた、民族の伝統的な衣装だ。
「先生、これを持って行ってくれないか。俺とテハはもうあの家へ戻る事はできない。この文様は俺たちが家族だったという証だ。だから持って行って欲しい」
「先生、ありがとうございました。そして、どうかお元気で」
二人は家族の証であるこの布を私に託した。それはこれからは二人が兄妹として生きる必要がないからだ。
それと共に二人が私に、確かに二人は兄妹であったのだと、ラキの子供であったのだという事を覚えていて欲しいのかもしれないと、そう思った。
二人は私を振り返る事なく去って行った。