吟遊詩人と皇女
この世界には五つの大陸と七つの海がある。そして二百の国が存在するという。世界は丸い形をしており、果てしなく続く海を進み続けると、また元のところに戻ってくるのだ。それは太古の昔に神がそのようにこの世界を創りたもうたから。この国に伝わる神話にはそう描かれている。
けれどそれを確かめた事のある人間はいない。なぜならこれまで海の果てまで旅した事のある人間がいないからだ。だから私はそれを確かめるため旅に出ようと思う。
「白蓮、そなた本当に行ってしまうのか」
「公主、またこちらへいらっしゃったのですか」
私が見聞録を認めていると、公主がやって来られた。公主は現皇帝、炎帝の皇女であらせられる。本来ならば私の様な吟遊詩人が気軽にお声をかけられる相手ではない。私は慌てて叩頭した。
「白蓮、やめろ。そなたは私の琴の師だ。私がそういうのを好かないのを知っているだろう」
「しかし・・・今は稽古の時間ではございません」
「私がやめろと言っているんだ。面をあげよ」
公主の言葉に私は頭を上げる。このように強い言葉を話される公主に逆らう事などできない。
この国では身分の高い貴人が、下の者に自ら声をかけるということは無い。それは品格を下げる行為だからだ。
ましてや公主ともあられる身分の高い女性が気軽に男に声をかけるというのは、通常あり得ない事である。
ここより東の国では身分の高い女性は男性に顔を見せるのも禁忌とされる、らしい。そのために彼らは御簾越しに会話をするとか。この国ではそこまで男女の間に厳しいわけではないが、しかしながら公主の様に供も付けず、高貴な女性が男の部屋にやって来るのは異例のことであった。
「公主、この度は如何様な御用で」
「なんだ、私が用もなくここに来たら駄目なのか」
「いえ、そういうわけではございません」
「それなら良いであろう。それよりそなたの詩を聞かせろ」
「はい・・・。ではこの皇都よりもっと西の、砂漠の民の話でございます・・・」
私が炎帝に仕えるようになったのは今より八年も前の事である。私は当時二十歳にも満たなかった。
吟遊詩人は流浪の民でもある。物心ついた時より私は旅芸人の一座の中で生まれ育った。実の両親の記憶は無いが、しかしながら彼らと共に本当の家族のように育てられた。その後、吟遊詩人として身を立て、旅芸人の時代に経験した物事を詩とした。それが御上の目に触れ、召し上げられる事となったのだ。
その時私に任じられたのは詩人としての任と、そしてその当時、若干十を数える公主の琴の師であった。
公主は今年十八となる。私が師となってより八年。彼女は昔馴染みからか、年頃の女性となってもなお無邪気に私の部屋へ訪れては、私が各地を旅して作り上げた詩を聞きたがるのだ。
「白蓮、そなたはいつ旅立つのだ」
「は。早ければ明日にもお暇を頂きます」
「そうか・・・。
なぁ白蓮よ。私はそなたが私の琴の師になった頃が懐かしい」
「と、言いますと」
「あの頃はそなたも私に対してそのような口ぶりではなかった。真実、そなたは私の琴の師であった」
「恐れながら、今も公主は私の大事な生徒でございます。昔と今となんら変わりはございません」
「そうだろうか・・・。なぁ白蓮覚えておるか。あれは梅の花が満開となる時期であった」
覚えている。あれは私が公主の琴の師となって一年の事であった。琴の稽古に飽きてしまった公主を私は宮廷の庭に連れ出したのだ。
「私はあれほど見事な梅の花をあれ以来見た事はない。それは何故だと思う」
「それは・・・」
「私はあの日、白蓮、そなたに名を聞いたのだ」
この国では人の名前には、姓・名、そして字の三種類が存在する。姓は親から受け継ぎ、名は生まれた際に与えられる。字は成人になった際つける名前で、通り名として他人から呼ばれるものである。成人前は、その個人の特徴に因んだ通り名を親や後見人より与えられる。
私の場合、白蓮というのは字である。しかし、名は字とは違う。特別なものだ。名を教えるのは真実自分の心を許せる相手、即ち親兄弟、そして伴侶に限られるのだ。
あの日、公主を庭に連れ出した折、公主は私に名を教えるよう強請った。その時は子供の戯れと思っていた。
「そなたは戯れと思ったのであろう。最後まで名を教えてはくれなかった」
「・・・」
「なぁ白蓮、今私がそなたに名を教えて欲しいと言ったらどうする」
それは・・・。その意味も分からぬほど、私は馬鹿では無い。
しかしながら、私と公主では身分が違いすぎる。
公主が私に好意を抱いている事は気付いていた。公主は幼い頃は真実、師として私を慕ってくれていた。けれど、その眼差しは段々と違う色を帯び始めた。
それくらい分かっている。何故なら私も同じだけ公主の事を見て来たのだから・・・。
公主の私への想いは、まるで雛が親鳥を追いかけるようなものだ。閉鎖的な宮廷で、公主が出会う若い男は私だけであったであろう。公主がそのように勘違いするのも仕方がないことだ。けれどそれは私が公主に抱いている想いとは違う。身分も憚らず、八つも年下の少女に対して私が抱いている想いとは。
「公主、このお話はやめにしましょう。私は何も聞いていません」
ついつい昔の様に気安い態度で公主に話しかけてしまう。私にはもうあまり余裕がない。公主のその様な言葉を聞いて平然としていられるほどの・・・。
「白蓮、そなたが旅に出る前に付き合って欲しいところがある」
「はい、なんなりと」
公主に連れて行かれたのは宮廷の奥であった。そこはやんごとなき身分の方でしか立ち入る事も許されない。本来ならば私の様な身分の者が入るのは許された事ではない。しかしながら公主は、その様な私の非難をまたいつもの様に封じ込めた。
「白蓮、そなたが旅に出ればしばらく会えなくなる。それとも私の命令が聞けないのか」
「いえ・・・」
着いた場所は宮廷の一角にある小さな庭であった。そこには艶やかに紫に染まる花が咲き誇っていた。紫はその染料の希少性から高貴な色とされている。その紫が庭一面に群生しているのだ。そこはまるでこの世の極楽の様な景色であった。
「公主、これは・・・」
「そなたにこれをやる」
そう言って公主に渡されたのは四枚の花弁の連なる紫の花を押した、栞であった。
「それはここ一面に咲き誇っている花を押したものだ。
この花は私が生まれた際、東の国より友好の証にもらった株から育てられたものだ」
なるほど、今まで見たことのない花であると思ったのはそういう理由であったのか。
「父はこの花の美しさに感動した。そしてその花の名を私につけた」
「そうなのですね」
「白蓮、その花の名を知りたいか。その花の名は・・・」
「公主、それ以上は言ってはなりません。公主は陛下がこの花の名を公主につけたと仰いました。花の名を私に教える事は・・・」
許されることではない、そう言いかけた私の口を公主が塞いだ。唖然とする私の目を見つめる公主の瞳は酷く近い。それが意味することは・・・
公主はゆっくりと私から唇を離した。
「その花は紫陽花という。それは私だ。そなたはこれから遠く旅に出ると言う。私はこの宮廷を出る事は叶わない。
・・・どうかその栞を一緒にそなたの旅に連れて行っておくれ」
それが公主と話した最後であった。
翌日、私は旅に出かけた。
それから三年、私は旅を続けている。公主はその後、東の国の皇太子に嫁いだと聞いた。私と最後に話した日には、もう既に婚儀は決まっていたらしい。
私はあれから道中、色々な事があった。世界を旅するというのは苦労も多く、騙されたり、命の危機にあった事もある。けれど紫陽花の栞だけは決して手放した事はない。