終章
同じ頃、もう一人の男が宵闇の空を見上げていた。もうすぐ藍を通り越した紫紺の闇が、夜を連れてやって来る。
丸眼鏡の男こと、霧原瑆司は肩についた青い花びらを摘んだ。
あの二人は満足のいく答えを出せたのだろうか。
(まあ、僕にはもう関係ないけれど…)
やるべきことはやったのだから。
霧原は青ノ民の青年とのやり取りを思い起こした。ほんの今朝方のことだ。
『やあ、いい天気だね』
大の字になり、青い花に埋もれていた青年に、霧原はそう声をかけた。
サッと起き上がった青年は警戒心も顕に
『……お前、誰だ?』
と言った。
それが巴には内緒の、男二人の短い邂逅の始まりだった。
「やあ、いい天気だね」
「……お前、誰だ?」
有は、丸眼鏡でにこにこと胡散臭い笑みを浮かべる男を睨んだ。
「やだなあ、そんなに警戒しないでよ」
男はそう言って敵意がないことを表すようにひらひらと両手を振った。
「僕はちょっと君に話があるだけなんだよ」
「…おれはお前を知らない」
花の丘は人里から遠く離れた場所にある。美しい場所ではあるが、入り組んだ森の中を抜けねばならないので、人間にはあまり知られていないはずだった。
そんな場所に、朝っぱらからジャケットとパンツという軽装備で一人訪れる人間がまともなはずはない。警戒するなと言う方が無理である。
有の視線に気づいたのか、男が言った。
「こんな時間にこんな所にいるのは君も同じだよ。あと、服装のことは言わないのが身のためだ」
確かに、ジャケット姿の男と袴姿の男では、今時浮くのは後者であろう。
「うるさい、用がないなら去れ。ここは只人が来る場所ではない」
「用ならあるよ」
「おれにはない」
「…僕が巴の友だと言ったら、興味を持ってくれるかな?」
有は男の口から出た思わぬ名に驚いて、相手を見つめた。
霧原瑆司と名乗った男は榛色の瞳を細め、にっこりと笑みを形作る。
しかし、有はますますその警戒心を強めた。
「嘘を吐くな。巴は人間を嫌っている」
有が知る限り、巴は人と距離を置いていた。有が人間と近づくことすら良しとしなかったのだ。彼女が自分と愛する少女にした仕打ちを忘れるつもりはなかった。
霧原はふっと小さく息を吐いた。
「わかってないな、君は。いったい何年彼女を見てきたんだい?」
「…何?」
「巴は別に人間嫌いなんかじゃないよ。彼女には青ノ民も只人も関係ないんだ。その人が危険か、利用できるか、煩わしいか、都合がいいか。ただそれだけ。今までは彼女のお眼鏡に適う人間がいなかっただけなんだよ」
「お前は適うと言いたいのか」
霧原はその質問には答えなかった。
この男はおそらく、青ノ民がどういう存在か知っている。自分の脆弱な命が有の前で全くの無力であることも。
対峙して、背の高い有に見下ろされてなお、彼は少しも怯まない。
「昨日彼女は君に何と言いに来た?君の気持ちを尋ねてくれたんじゃないか?」
有の沈黙を、霧原は肯定と捉える。
「優しいね、巴は。そして君はその優しさに甘えて、彼女の言葉を額面通りに受け取ったわけか。そして悩んでいる。彼女を許して受け入れるか、拒絶するか」
「…何が言いたい?」
「君は思い違いをしている。君が彼女を選ぶんじゃない。選ぶ権利は彼女にあるんだ」
逆光の中、笑みを消した霧原は、有無を言わさぬ凄みを帯びていた。
「巴はずっと君に尽くしてきた。本当は気づいているはずだ。彼女がいない世界を一度でも想像してみたことがあるか?無いなら今ここでやってみろ!」
一喝され、さらに畳み掛けられる。
「君を愛し、決して裏切らず、そばで支え続けた彼女の存在がなかったら、君は人間を愛せたのか。それとも彼女が君にしてくれたことは、愛されている者が当然受けるべきものだとでも?」
「……っ」
有は何も言えなかった。霧原に圧倒されたからではない。本当に何も、何一つ言えなかったのだ。
巴が自分の元を去る。その可能性を今の今まで、一度も考えたことがなかった。
巴が去る…
急に足元の地盤が揺れて、崩れ落ちてしまったかのような心地がした。
霧原の口調が静かなものへと戻る。
「今でも君は、彼女に選ばれる自信があるかい?」
「おれ、は……」
「即答できないんだね。でも大丈夫、君はもう思い悩む必要はない」
硝子のレンズがキラリと反射し、霧原の目元を隠した。吊り上がった唇から発せられた次の言葉に、有は凍りついた。
「彼女は僕がもらう」
「…な、に……?」
「僕は彼女の価値を知っている。とても美しく、貴重だ。世界中の男が彼女を欲しがっても不思議じゃない」
霧原は両手を広げ、演説者のように語る。有は本能的に危険を感じた。この男は、危険だ。
「巴は渡さない!」
有はとっさに叫んでいた。
霧原はすっと腕を下げ、有を見つめる。その哀れみすら想起させる目付きのせいか、逆に見下ろされているように感じた。
「だからさっきから言っているが、それを選ぶのは君じゃない。彼女は君の物じゃないんだ。まだわからないの?」
「…只人に何が出来る」
所詮は巴をおいてすぐに死んでしまう人間だ。有の苦し紛れの反論に、霧原はまた一人熱弁を振るい始めた。
「それは僕も考えているんだ。人間を舐めてもらっては困るよ。安心して。僕は彼女を見世物にしたりはしない。彼女の価値がわからぬ者の目に触れぬよう、大事に大事に閉じ込めて、しまい込もう。繊細な宝玉に触れるように、毎日世話をして。そうだ、彼女だけの美しい庭園を築こう。彼女が欲しいものならなんでもあげるんだ」
「……めろ」
男は一人、喋り続ける。
「僕が死んだ後も、世話をする人を雇おう。彼女が決して独りにならぬよう。僕はそれが出来るだけの財も力も持っている」
「やめろ!」
有はついに、狂気を孕む男の言を遮った。
「貴様に彼女は渡さない」
もう一度言うと、霧原は呆れたように溜息を吐く。
「だから、君の物ではないと何度言えばわかるんだ…?」
「それでも、渡さない」
有は低く唸った。
もしも巴がこの男を選ぶなら、有は全力で止めに行く。たとえ自分が憎まれたとしても。かつて、有が何の覚悟もなく人間の少女を選ぼうとした時に、巴がしてくれたように。
両者一歩も引かぬ睨み合いが続いたが、先に折れたのは霧原の方であった。
「はああー…」
緊張感を解きほぐすように長く息を吐き出しながら、霧原は地面に座り込んだ。
「疲れた。得意じゃないんだよ、熱く語るのは。キャラじゃないし」
「ど、どういうつもりだ?」
有は霧原の豹変ぶりに困惑する。そこにいるのは狂気も迫力も感じさせない、ただの若者だった。
「嘘だよ」
「……は?」
「だから、嘘なんだって」
呆気にとられた有は、ぽかんと口を開けた。
霧原は、自分はただの大学院生で権力も財力も人並みで、巴とも別にそういう関係ではないと言うのだ。
「なら何故そんなことを…?」
尋ねると、霧原はジャケットの内ポケットから折りたたまれた懐紙を取り出した。丁寧に開いて、中身を見せてくれる。
そこには、一本の細長い糸のようなものがあった。赤みがかった、艶のあるそれが何かに思い当たった瞬間、有はぎょっとして後退った。
「か、髪⁉︎」
「巴にもらったんだ」
笑顔のまま頷く霧原に、有はさらに狼狽してしまう。
「巴は何でそんなものを…」
「やだなあ」
霧原は、ハハハと声をあげて笑った。
「僕だって、女性に面と向かって髪の毛をくださいなんて言ったら気味悪がられることくらいわかっているよ。これはこっそり頂いたんだ。だから…」
人差し指を立て、片目だけを開けて、囁く。
「巴には内密に、ね…?」
有は、先ほどこの男に感じた凄みとはまた違う意味の悪寒が背筋に走るのを感じた。
「そんなもの、いったいどうするつもりなんだ。呪いの人形でも作るのか…?」
「あはは、古風だねえ」
霧原は首を横に振る。
「これは情報さ。この中にはその人を構成する情報がたくさん詰まっている。DNAって知ってる?」
「で、でぃえぬ…?」
「今はそれを鑑定する技術があるんだ。まあ僕は研究者ではあるけど科学者じゃないから、よくわかってないんだけどね」
霧原が再び髪の毛を包んでおもむろに懐にしまおうとしたので、有は慌てて止めた。
「それでお前は得をするのか?巴に何かする気じゃないのか?」
もし彼がそれを持つことで巴に害があるのなら、見過ごすことはできない。
腕を掴まれた霧原であったが、懐紙を手放すことはしなかった。有を見上げてくすりと笑う。
「君は君なりに彼女を大切に思っていることがわかって、良かったよ。大丈夫、これは僕の個人的な興味だから。もし何かがわかったとしても公表したりしない。君たちに害が及ぶことはないよ」
最後に、約束すると言うと、霧原は瞳を伏せた。
「それに、もう僕が彼女に会うことはないだろうから」
もう巴に関わることはない、去っていく彼女を探すことはしないなどと言う。
有が何か言いかける前に、彼はパッと顔を上げた。
「君が自分の本音に整理をつけるのを手伝えば彼女のためにもなると思ったんだ。どうだろう、髪の毛一本分のお礼にはなっただろうか?」
有はそっと、霧原の腕を解放する。
「お前はそのためにここへ来たのか…」
霧原は大事そうに、懐紙をポケットに入れた。用事は終わったとばかりに背を向ける。
有はその背中に、躊躇いがちに声をかけた。
「お前は、それでいいのか…?」
足を止めた霧原は、顔だけを僅かにこちらに傾けた。
「さっきはあんなことを言ったけど、安心していいよ。彼女は今更君以外を選ぶなんてことはしない」
それから再び背を向けて歩き出す。左手を上げて、ひらりと振った。
「そして僕もまた彼女を選ばない、それだけのことさ」
その言葉を最後に、男は花の丘を去った。
これが、霧原瑆司と青ノ民の青年との間にあった事の顛末だった。
霧原はジャケットの上から内ポケットの中にある懐紙の縁を、指の腹でなぞった。
ぽつりと呟く。
「僕がもし、愛を知る人間だったら、あるいは…」
あるはずのない別の未来を想像しかけて、やめた。
(やっぱり、僕には似合わないな)
男はいつもの飄々とした笑みを浮かべ、夜の街の中、外界の喧騒の中へと姿を消した。
それ以降、青ノ民を見たと言う人間は一人もいない。
これにて完結です。お読みくださりありがとうございました。
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