第三章
翌朝、巴は荒屋の前に立っていた。二日続けて訪れたのは、ここ百年で今日限りである。
コンコンコンと、扉を軽く叩いた。
「有、いるんでしょう?」
声を荒げたり、無遠慮に戸を開けたりはしない。
耳を澄ますと、荒屋の中から人の身じろぐ音が聞こえてきた。
「…巴?」
いつもと違う態度のせいか、有の声には警戒の中に戸惑いが滲んでいた。
しかし、この態度こそが本来の巴が持つものだった。
「そう、私よ」
あくまで礼儀正しく上品に。
「話をしに来たの。これまでのこと、これからのこと、それから…」
閉じられたままの戸の奥で、有の気配がかすかに近づくのを感じる。
「そのままでいいわ、開けなくていい。あなたは私の顔なんて見たくないはずだから。でもお願い。少しだけ、話をきいて」
巴はそっと掌で戸に触れた。この奥に、この一枚の薄い壁を隔てて、彼がいる。
(もう、嘘はつかない)
彼にも、自分にも…。
「ねえ、有。考えたことがあるかしら。私たちにも訪れる、終わりの話を」
「…終わり?」
「私ね、忘れてしまっていたの。あまりに長く生きすぎて、あまりにも見送りすぎて。簡単で、単純で、当たり前のことなのに」
巴は瞳を伏せて言った。しかし、その口元は穏やかだ。
「ある人が私に言ったわ。青ノ民も人間だって。それで私は思い出せたの。私たちにだって終わりはある。生は永遠なんかじゃない。今日明日ではないかもしれない。でも私たちが生きてきた年月を思えば、そう遠くない未来に、必ず終わりは来る」
「……死が救済だとでも?」
「いいえ」
巴は首を横に振った。
(確かにそう考えていた時もあったわ…)
決して手に入らないものを望むときのように、死がどうしようもなく甘美な果実に思えた。長い年月を生きる中、自決を試みたことも…。
どうしたって死ねない自分の身体を何度も呪った。そしていつの日か、死ぬ事すらも諦めてしまった。
しかし、今彼女が終わりに望むのは諦めではない。
「私はね、終わりが怖いの。ちょっと前までは待ち望んでいたのにね」
おかしいでしょう、と巴は笑う。
「今はあなたとこのまま、すれ違ったままで終わることが怖いのよ」
ねえ、有。
巴はそっと扉に額を押し当てた。
「私たち、こんな風じゃなかったわ。こんなの違うの、嫌なの…」
うまく言えなくても。
伝われ。
つまらない建前はもういらない。嘘も気取るのも。
ねえ、有。
(初めて出会ったのは、何百年前かしら?)
青い花が咲き乱れる、あの丘で。
空が瑠璃色から藍に変わる。そんな夕暮れ時。天も地も青に染まっていた。
細かい年月なんて覚えていないけれど、あの情景だけはしっかりと覚えている。
奇跡だと思った。初めて出会った、自分と同じ存在。同じ時間を生きられる人。誰と別れようとも、彼だけは決して巴の前から居なくならない。
(あなたがいたから、私は…)
「その人間はね、私にこうも言ったわ。私はもう、自分のために生きていいのですって。私がずっとあなたのために生きてきたから。私もね、あなたのためならなんだってできると思っていたわ。悪役にだってなってみせる。でもね、それは違うの」
霧原は間違っている。彼は巴にとって心地良い言葉をくれた。でも…
「あなたのためだなんて嘘。私はただ、私があなたを失いたくなかっただけなのよ」
有のためだと言いながら、彼が愛する少女を勝手に遠ざけた。有のためだと言いながら、たくさん彼を傷つけた。
巴は、有に彼自身の気持ちを尋ねたことはなかった。巴がしてきた行動に、有の意思は一つもない。そのことに、やっと気がついたのだった。
「ごめんなさい…」
もっと早くに、こうして向かい合うべきだった。
「ねえ、有。あなたの本当の気持ちを教えて?」
ここで、もう二度と会えぬ少女を思って独り朽ちるのが、彼にとっての幸せならば。巴にできることが、本当に何もないのなら。
(私は消えるから…)
彼の前から、永遠に。その覚悟はもうできている。
自分の願いではない。今はただ、有の願いを叶えてあげたかった。
「明日、待ってる…」
青い花のあの丘で。
巴は結局、有と一度も顔を合わせぬまま、荒屋を後にした。
来訪者の足音が遠ざかった、ほんのすぐ後のことだった。微かに軋む音がして、荒屋の扉がすっと開いた。青白い顔色の青年が一人、戸をくぐる。彼が外に足を踏み出すのは、いったい何十年ぶりだろうか。
青年は、朝日の眩しさに目を細めた。その視線の先にはもう、誰もいない。
つい先ほどまで薄い扉一枚を隔てて、それさえなければ触れられるほどの距離で、青年が巴の話を聞いていたということを、彼女が知ることはなかった。
バー『kanon』の鈴を鳴らした巴は、驚いてこちらを振り返るカウンター席の男を見つけた。
「巴?」
名を呼ばれた巴も、霧原の手元にある物を見て目を見張る。微かに泡を立てる、透き通った薄桃色の液体。
キールロワイヤル。
彼がウィスキー以外を飲むのを見るのは初めてだった。
霧原は巴の視線に気づき、少々気まずそうにシャンパン・グラスを置いた。
「驚いたな。もう、来ないかと思っていたよ」
「何故よ?」
男は、隣に座る巴を見て唇の両端を吊り上げた。
「まあ、なんとなく?」
巴はハッと鼻を鳴らした。
「よく言うわよ」
この男はたぶん、何もかもわかっている。その上で何も言わず、尋ねない。それが彼なりの優しさなのか、元からの性格なのか。どちらにせよ、巴にとっては都合がいい。
「あなたの言う通り、もう来ないわ。でも…」
霧原はきっと、巴がこのまま姿を消しても探さない。研究に明け暮れ、たまにこうしてひとり酒を嗜む。そんな生活にただ淡々と戻るだけ。
だから今日ここに来たのは、巴の我儘なのだ。感謝を伝えたかったのと、最後になんとなく榛色の瞳に会いたくなったのと、本当は折れそうな心にほんの少しの勇気をもらいたかったのと…。
霧原が、いつのまにか注文していたシャンパン・グラスを巴に差し出した。
「じゃあこれが、僕からの最後の一杯だ」
数刻後。
穏やかな時は流れ、やがて終わりが来る。
巴はまだ、最後の一口を飲み干せずにいた。
「ねえ、霧原」
「うん?」
「私、あなたに会えて良かったと思うわ」
丸眼鏡の奥、榛色の瞳が一瞬クッと見開かれた。すぐにまたいつもの胡散臭い笑みに戻ってしまったけれど。
「いつになく素直じゃないか。最後だから?」
それとも、不安だからか。そんなこと、彼は口に出さない。
だから巴も笑顔で答えた。
「そうね、最後だから」
「感謝してる?」
「感謝してる」
「それはどうも」
そう言って霧原は自分のグラスを空にした。
軽々しく僕もなどとは言ってくれない。でも、今彼の手元にあるのはいつものタンブラーではなく、シャンパン・グラスだった。ちょっと意外で、結構嬉しい。
巴が自分のグラスを弄んでいると、霧原が唐突に言った。
「大丈夫だよ」
俯きがちな巴の顔を姿勢を低くして、見上げる。
霧原がそっと手を伸ばした。
(え?)
大きな掌が、そっと巴の頭部に乗せられた。そのまま下へ滑り落ちて、巴の長い髪を一房梳った。艶やかな髪は、絡め取られることなく、彼の指から溢れ落ちる。
霧原が、もう一度言った。
「君は、大丈夫だ」
「……うん」
俯いていた巴は顔を上げ、シャンパン・グラスの残りを一気に呷った。
空のグラスを置いて、立ち上がる。
「エスコートは必要ないね」
「ええ」
巴は鮮やかな笑みを残して、バー『kanon』を出て行った。






