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第二章

 カランカラン

 扉の鈴が鳴った。

「やあ巴。今日も今日とて浮かない顔だね」

 入って来た男は、巴がいる一角へ向かう。

「マスター、僕にはウィスキー。彼女には、そうだな…」

 男は巴の顔色を窺い、注文する。

「キールロワイヤルを」

 巴は当然のように隣に陣取った丸眼鏡の青年を睨め付けた。男はいつも通り、ニコニコと胡散臭い笑みを浮かべる。

「霧原」

「ご機嫌麗しゅう、とはいかないみたいだね」

「別に、いつも通りよ」

「そうそう、いつも通り。月に何度か、不機嫌になる日だね」

 言い当てられた巴はそっぽを向いて、受け取ったシャンパン・グラスを傾けた。

 その爽やかな味わいが巴の好みにぴったりなのがまた、癪に触る。


 ここは最近巴が行きつけにしているバー『Kanon』。青年はそこで知り合った大学院生、霧原瑆司だ。

 近年は、目に見えない非科学的なものを信じない人が多い。青ノ民(パラ・サラム)の伝説も単なるファンタジーに位置付けられ、忘れられつつある。

 法整備もしっかりして治安もよく、巴が一人でも出歩きやすい世の中となっていた。

 かつて巴は面倒ごとを避けるために人間とは不必要に関わらないようにしていたが、何も人間を毛嫌いしているわけではない。利用できるなら利用する、それが巴の考えだ。

 今の世では、長く一つのところにとどまっていない限り、青ノ民(パラ・サラム)と疑われることはない。しかし、戸籍がない巴にとっては昔と比べて食べ物や金を得るのに苦労する世の中でもあった。

 そこで、行く先々で取り入りやすそうな人間を見つけては貢がせるだけ貢がせて、飽きたらふらりと姿を消す。そんな生活を続けていた。巴の容姿はどうも現代人、特に男性に人気があるらしかった。ただ黙って佇んでいるだけで、寄ってくる男は多かったのだ。

 しかし、最近つるむようになった霧原瑆司という青年は、今まで出会った人間とは少し毛色が違っていた。巴はだいたい適当な偽名を使っていたが、なんとなくこの男には本名を名乗っている。

 霧原は、巴に求めるものが他の人と違っていたのだ。


 巴は霧原に一枚の茶封筒を放った。

「まいど」

 受け取った霧原はそれを懐にしまう。

「確認しなくていいわけ?」

「大丈夫、君の訳しはいつも完璧だ」

 茶封筒の中身は古文書の写しとその現代語訳だった。

 霧原は大学で民俗学を研究している。巴はこうして、時折彼の研究の手助けをしていたのだった。

 巴が古典文学を難なく読み書きできることに気づいた霧原からの依頼だ。そして巴は相応の報酬を受け取る。謂わば、彼は巴が初めて対等な関係を結んだ人間なのだっだ。

 巴が何故古文訳が得意なのか、その理由を話すことはないが、霧原は別に追求してきたりしない。彼は不用意に踏み込んでくることもなければ、巴に執着することもない。彼にとって大切なのは研究だけで、それが彼の全てなのだった。

 しかし、彼は巴に全く興味がないと見せかけて、時折鋭い洞察力を働かせたりもする。見ていないようで、人をよく観察しているのだ。

 霧原という男の飄々とした態度は人を引きつけすぎもせず、拒絶しもしない。その眼鏡の奥で実際には何を考えているのか、巴にはわからなかったし、特に知りたいとも思わない。

 霧原がクイと眼鏡を上げた。

「さて、君と僕が出会ってからそろそろ一年が経つのだが、君が定期的に不機嫌になるのはずっと変わらなかったね」

「よく見てるわね、興味もないくせに」

「たしかに、僕は君が抱えている問題に興味はないよ。でもね…」

 霧原は自分のグラスを見つめた。涼しげな音色を立て、ロック氷が溶けていく。

「落ち込んでいる友の力になりたくない訳でもない、という訳さ」

 巴は驚いて青年を見つめた。

「…友?」

「違ったなら聞き流してくれ、僕は気にしないから」

 巴は首を振った。

「ううん、ありがと」

 グラスを呷る霧原の口許に浮かぶいつもの胡散臭い笑みが、一瞬だけ本物に見えた。

「まあ、僕に話せとは言わないが、誰かに話すのも手じゃないかと。それが言いたかっただけさ」

「そこは自分に話せって言うところじゃないの?」

 そう言わないのが、いかにも彼らしいのだが。

「僕?お勧めはしないなぁ」

「何故よ」

「僕の知識は偏ってるからね、いいアドバイスはできないだろうよ。ああでも、口は堅いよ。まあぶっちゃけ僕が雑談できるのは君くらいなもんだから、漏らす相手もいないんだけど」

「それその顔で言うことなの?」

 笑顔を変えずに言う霧原に、巴は不覚にも笑ってしまった。

 気負わない霧原の横は、居心地が良かった。自分のことを飾らない。だから人のことも偏った主観なしで見てくれる。そんな彼だからこそ、巴はぽろりと漏らした。

「ねえ、霧原…」

「うん?」

青ノ民(パラ・サラム)って、知ってる?」

 青年が向き直った。

「…古い伝承・伝説の類だね」

 丸眼鏡の奥の榛色の瞳が、きらりと光る。唇を舌で舐めとると、言った。

「僕の大好物さ」


 これはあくまで御伽噺、巴はそう前置きして霧原に語った。

 かつて恋に落ちた青ノ民(パラ・サラム)の青年と、人間の少女。それから、青年に恋する青ノ民(パラ・サラム)の女の話。


「馬鹿よね、青ノ民(パラ・サラム)の女。何をしたってただの悪者、ただの横恋慕」

「…」

 黙って話を聞いていた霧原だったが、巴がそう締め括ったのを見て取り、口を開いた。

「一つ、質問しても?」

 巴は目線を上げることで肯定を示す。

「君の言う青ノ民(パラ・サラム)とは、色褪せた子(アデューン・アイ)のことだろうか?」

 グラスを傾ける巴の動きがピタリと止まった。

「…その言葉、何処で?」

「古い文献にいくつか。青ノ民(パラ・サラム)について研究していた時期もあったからね」

 巴は驚いた。正直、霧原がここまで青ノ民(パラ・サラム)に詳しいとは思っていなかった。それに、人間の口から色褪せた子(アデューン・アイ)という言葉が出るなど予想もしていなかった。

 色褪せた子(アデューン・アイ)とは、青ノ民(パラ・サラム)でありながら青くない瞳を持って生まれた子供のことである。彼らは水の中で生きられないため、生まれ落ちた瞬間、地上に放り出されるのだった。

「ふうん、流石に詳しいのね。そうよ、人に混ざって暮らす青ノ民(パラ・サラム)は、ほぼね。彼らもまた半端者の色褪せた子(アデューン・アイ)

「随分と否定的だね。特に女の青ノ民(パラ・サラム)に関して。君は彼女が嫌いなのかい?」

「…好きになれる要素がある?その女のしたことは結局誰も幸せにしない。このままじゃいけないとわかっているのに何もできない、何も変えられない。時間だけは嫌という程あるのに」

「それは違うよ、巴」

 軽々しく言い切る霧原を、巴は横目で睨んだ。

「あなたに何がわかるというの」

「簡単なことさ」

 そう言うと、霧原は芝居掛かった様子で語り出した。

「女はちゃんと青ノ民(パラ・サラム)の男を救っている。実際、彼女のおかげで男は人としての自分を保っていられるんだろう。彼女の行動は全て彼を思ってのものだ。それくらい僕でもわかる」

 そして断言する。

「彼女は間違っていない」

 もしも彼らが色褪せた子(アデューン・アイ)でなかったら。自分で選択して、人と生きる道を選んだ青ノ民(パラ・サラム)だったのなら、まだ他の道を選べたかもしれない。しかし、彼らに水底に逃げる事は許されていない。女は少ない選択肢の中から、男の心が壊れない道を選び取ったのだった。自分の心を犠牲にして。

 それが霧原の言い分だった。

「僕はね、その女を馬鹿だなんて思わない。彼女はよく頑張った。途方も無い程長い時を、たった一人で」

 巴はハッと顔を上げた。その瞳に、榛色の瞳が映り込む。その曖昧な色彩に吸い込まれるような、溶かされていくような、不思議な感覚にとらわれる。

 溶かされたのは、グラスに浮かぶ氷か、暗闇に浮かぶ心か。

 結露したグラスを伝った雫が、コースターに滲んでいた。

「…もう、行くわ」

 巴は一度瞳を閉じ、青年の視線を断ち切った。

 随分と時間を使ってしまった。彼の時間は有限なのだ。巴と違って。

 立ち上がった巴は不意に違和感を感じて、眉を顰めた。

(え?)

 ハイヒールの靴音がやけに遠く感じる。まるで雲を踏んでいるように、足元がおぼつかない。

「巴?」

 一瞬の浮遊感の後、巴は青年の腕に抱きとめられていた。

 至近距離で、再び目が合った。青年は丸眼鏡の奥で、糸目を見開いていた。

「ご、ごめんなさい」

 巴は慌てて身を離す。

「別に構わないが、大丈夫?珍しいじゃないか、君が酔うなんて」

 巴も訝しげに首を振った。あの違和感はすでに消え去っている。気のせいだったと思えるほどに。

「酔うほど飲んでないわよ」

「じゃあ体調が優れないとか…?」

「ありえないわよ」

 青ノ民(パラ・サラム)にとってあまりに縁遠い言葉に、巴は鼻で笑いそうになるのをこらえた。

 彼らは病にかからない。正確には、かかったとしても発症する前に完治するということだ。巴は生まれてこのかた体調不良を感じたことは一度もない。だがそれを只人の霧原に言っても仕方ないだろう。

「そうか…」

 霧原は親指を下唇に当て、何事かを考え込む。

「何よ?」

 体調不良をありえないと一蹴した巴に、何か不信感でも持ったのだろうか。

「ねえ、巴」

 霧原は唐突に尋ねた。

「もしも君の言う青ノ民(パラ・サラム)の男女が今も実在していたら、いったいいくつくらいだと思う?」

「はあ?」

 少し身構えていた巴は、霧原の何の脈絡もない質問に拍子抜けする。

(私、今いくつだっけ)

 少し考えて、やめた。

「…とっくの昔に、歳なんて数えるの、やめちゃってるんじゃない?だって、意味がないもの」

 巴は自分の年齢を、三百くらいまで数えて虚しくなってやめた。数えていたのが何年前かも、もう覚えていない。

「そうか」

「…もう、いいかしら」

 巴は踵を返した。

「待って、もう少しだけ」

 霧原が、扉に向かう巴を追いかけてきた。

青ノ民(パラ・サラム)は長寿とはいえ寿命はある。違うかい?」

「え…?」

 寿命。それは巴が無意識のうちに考えないようにしてきたものだった。

「彼女たちは百年前の時点でもうかなりの歳月を生きていた。僕が思うに、彼女たちの寿命は、とっくに折り返し地点を過ぎているのではないか?」

 巴は足を止めた。考えたこともなかった。自分の寿命の終わりのことなど。

「彼らは長い時を生き過ぎて、余りに多くの人を見送り過ぎて、自分の時間にも限りがあることを忘れている。でも、青ノ民(パラ・サラム)も人間だ。僕らと同じなんだ。生があれば死もある。いつか必ず、終わりは来る」

(人間、同じ、終わり…)

 諦めて、考えないようにしていた言葉。けれどもそれは、人間にとっては考えなくても当たり前のものなのだった。

「巴、僕が言いたいのは一つだけさ」

 榛色の瞳が、巴を射抜く。

「君はもう、自分のために生きていい」

 霧原は、笑っていなかった。彼がここまで真剣な表情を巴に見せたのは、初めてのことかもしれない。

「きり、はら…」

「と、まあそんなことを、もし彼女に会えたら言ってやりたいよ。柄にもなく、ね」

「本当、似合ってないわよ」

 軽口を言って巴は笑った。笑っていないと、涙が滲みそうだったから。

 不意に、霧原は巴の右手を取った。

「な、何よ?」

「出口まで送るよ」

「もう一人で歩けるわ」

 とはいっても狭いバーの中。結局、巴は扉まで霧原の手を振り払うことはできなかった。

 霧原が扉を開けてくれる。

「あるんでしょ?行かなきゃいけないところ」

「そうね」

 巴は霧原の手を離した。自分から。

 顔を上げ、前を見据える。ヒールを響かせ、歩き出した。

 ずっと変わらない、変えられないと思っていた、永遠に似た世界。

(もし変えられるのなら、私は…)


 長い髪をたなびかせ、徐々に小さくなっていく巴の姿を、青年はじっと見つめていた。

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