第一章
『花の丘 〜刹那〜』という短編小説と対になるお話です。先にそちらをお読みになることをお勧めいたします。思ったより長くなってしまったので連載形式とさせていただきました。
シリーズ化しましたので、題名上のリンクからお読みいただけます。
青ノ民。この世の全てを見透かすが如く深い深い青の瞳を持つ民。それはかつて人々に化け物と恐れられ、迫害され、冷たい海の底へと追いやられた一族。
彼らは人間離れした強靭な肉体と極めて高い身体能力を持つ。心臓を刀でひとつきされたとしても決して死なず、その傷は瞬く間に消えると言う。
青ノ民は水中に溶けたわずかな酸素でも生きられる。そのため彼らは相入れぬ人間たちと暮らすことを早々に諦め、水底に引きこもったのだった。
今となってはその言い伝えを知る人も数少なくなった。いつかは人々の記憶から消え失せるだろう。しかし彼らは確かにそこに存在した。これは彼らの、愛の証である。
愛は呪いだ。少なくとも、届かぬ思いを抱き続ける者にとっては。
一度抱いてしまえば、決して消えることはない。たとえ愛が何かの拍子に別のものに、例えば憎しみに変わってしまったとしても、それは消失ではなく変容。その人を愛したという事実は、永遠に消えない。
それは、色褪せた子と呼ばれた娘にとってもまた…
巴は荒屋の戸を勢いよく開け放った。家主の了解も得ぬままに、ずかずかと上がりこむ。
部屋の奥で横になっていた青年が来客に気づき、気怠げに起き上がった。
「何をしに来た、巴」
「あら、お客様に向かって随分なご挨拶ね」
巴の無遠慮な態度に、青年は苦虫を噛み潰したかのような顔をした。
「招いた覚えはない」
あからさまな拒絶。しかし巴は怯まない。
鈍い動きで逃れようとする青年の襟首を掴むと、引きずり寄せた。その顔を覗き込むようにして自分の顔を近づける。
「有、あなたまた何も食べていないでしょう」
青年の顔は、今にも倒れそうなほど青白かった。
案の定、巴が手を放すと有は力なく崩れ落ちた。
「あのねぇ、いくら死なないって言ってもね、食べなくていいわけじゃないのよ?」
「…」
巴は溜息を吐いて言う。
「そんなんじゃあなた、そのうち本物の化け物に成り下がるわよ」
巴と有は青ノ民と呼ばれる不老長寿の一族の生まれだ。青ノ民は空腹などでは死なない。しかし、人並みに痛覚はある。只人ならとっくに死んでいるような苦痛を味わっても、青ノ民は死ぬことができない。できるとしたら、我を失うことくらいだ。
また、青ノ民には桁外れの身体能力を持つという特徴もある。それが理性を失って暴れまわりでもしたら、一体どうなることやら。
巴は唇を釣り上げ、せせら嗤って見せた。
「日がな一日何もせず、物も食べず。こんな姿、もしあの子が見たら何て言うか」
あの子と聞いた瞬間、無気力だった有の額に青筋が浮かんだ。本能に目覚めた獣のように、巴に飛びかかる。
しかし、巴はいとも簡単に青年をねじ伏せてしまった。
普通の人間の男に巴が負けることはないが、青ノ民である有は別だ。本来、女である巴が男の有に力でかなうはずはなかった。
それでも、今の弱った有は巴がほんの少し力を込めただけで難なく抑え込むことができた。
「ああ、情けないわ。あの子が好きだった強くて優しい有さんは、一体何処へ行ってしまったのかしら」
巴が揶揄すると、有は奥歯を噛みしめた。巴はクスクスと笑う。
「そんなんだから振られるんじゃない」
有の抵抗する手に力がこもる。その喉の奥から、怨嗟に満ちた唸り声が絞り出された。
「…誰のせいだと思っている」
「あら、まさか私のせいだとでも言うつもり?」
巴は有の頬を愛おしげに撫でた。その行為とは裏腹に、言葉では彼の神経を逆なでするようなことを言う。
「可哀相な有。呪うなら、私の言葉一つであなたを捨てた愚かな人間を。それが嫌なら、そんな愚か者に騙された自分を呪うのね」
「あやめを悪く言うな!」
有は、自分が愛した人間の少女に触れられることを何よりも嫌がる。それを知っていてなお巴は執拗に、傷口を抉るように、少女について悪し様に言うのだった。
「いつまであんな小娘に囚われているつもり?」
巴は哀れむような視線をつくり、有を見下ろした。
「あの子が死んで、もう百年も経つというのに」
有がギリリと奥歯を鳴らす。
「…帰れ」
巴は表情を消し、乱暴に有を突き放した。すると、有はよろけながらも自らの足で立ち上がり、もう一度言った。
「帰れ」
巴はスカートについた塵を払うと踵を返した。
「今日のところは帰ってあげる。悔しかったら私に抵抗するくらいの力はつけなさい」
そう言い捨て、後ろ手にひらりと手を振った。
二度と来るなの声に、また来るわと返して、巴は荒屋の戸を閉めた。
その戸口に、そっと籠を置く。パンと果物の詰まった籠を。
次に来る時、その籠が空になっていることを、巴は知っている。
巴はこうして一月に数度、人里離れたところに独り引きこもる有を訪ねていた。
彼の元恋人である人間の少女あやめが死んで、もう百年が経とうとしていた。しかし、まだ有の心はあの日に囚われたままだった。
(こんな有が見たかったんじゃない)
弱り果てた有を思い、巴は溜息を吐いた。
青ノ民である有を愛していると言い切った少女。巴はそれを刹那の恋などと言い捨てたけれど、彼女はちゃんと有を愛していた。
(それでも、ずっと一緒にはいられない)
有は気づいていたか知らないが、あやめはなかなかのお嬢様だった。着ているものは派手ではないがしっかりした布地を使っていた。教養もあり、女学院にも通っていた。あの時代、学校に通える子供は多くない。
彼女には初めから然るべき相手が決められていたことだろう。素性の知れぬ男と結ばれることは、駆け落ちでもしなければ不可能だった。
たとえ駆け落ちに成功したとしても、いつかあやめは有の寿命に気づくだろう。
有は、自分の寿命のことをあやめに打ち明けられなかった。
(あの子と、離れたくなかったからかしらね…)
寿命を知ったあやめが、自分では彼を幸せにできないと離れて行くことを危惧していたのか、はたまた自分が目を逸らしたかっただけなのか。
(あの子は有を捨ててなんかいないわ)
先程はあのような言い方をしたが、あやめは愛しているからこそ有を手放したのだ。
まだ間に合う。離れるなら早い方がいい。巴はそう思ったからあやめに接触した。あやめもまた同じように思っていたことだろう。
もし彼らが共にいることを選んだなら、有が青ノ民だとばれぬよう人里を転々とするか、人との交わりを一切立たねばならぬ。あやめはそれでも彼に付いて行っただろう。
しかし、彼女が友人一人作れず、この世に何も残せずに死んだ時、彼は何を思うだろうか。
少なからず嫌な思いをさせられてきたはずなのに、有は人間そのものを愛していた。人の善意を信じていたのだ。彼自身のその優しさ故に。
それなのに、特別な愛情を抱く人間一人と一緒にいるために、他の人間を避けねばならない。そこまでしても、人間の少女はすぐに死んでしまう。
その時、彼は限りある彼女の時間を奪ってしまったと考えはしないだろうか、幸せにできなかったと後悔しはしないだろうか。身を引き裂かれるような苦しみに苛まれるのではなかろうか。それでも彼は死ねない身体を引きずって、長い時を生きねばならぬのだった。
(私は、彼が壊れてしまうと思った…)
そうしないためなら、自分は悪役になっても構わない。あの時巴はそう思った。
今だってそうだ。怒りや憎しみもまた、人の活力になる。彼を助けるためならば…
(私は嫌われたっていい)
巴は今日も自分の心の奥底があげる悲鳴に、そっと蓋をした。