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見つめてブルームーン

作者: 雨森 夜宵

 左隣に座ってきた男は私のグラスを見ると、同じものを、と言った。調子は軽かったけれど、落ち着きのある、少しかさついた声だった。さりげなく視線を向ける。でも、見覚えのある顔じゃない。という以前に、まあにっこり笑った顔の造形は悪くないようだったけど、落ち着いた店内の照明とはあまりにそぐわない、嘘みたいに大きなサングラスをかけていた。おかげで年もよく分からない。私は自分のカクテルを飲み干した。美しい青紫色の液体が淡く喉を焼きながら消えた。

「同じものを」

 ええ、とバーテンダーが言った。

「彼女の、先に出してあげてよ」

 サングラス男の言葉に、バーテンダーは曖昧な笑みを浮かべた。まるで聞こえていないようにも見えた。ステアグラスへ手早く注がれていく、ドライジン、バイオレットリキュール、レモンジュース。ゆっくりと変化していく色について書き記そうとペンのキャップを外しかけたものの、そういえばインクは切れていたのだと、もう何度目か分からない気付きに溜め息が出る。

 あれっ、と隣の男が声を上げた。

「それ、インク切れてるんだ?」

 あくまでも話しかけるつもりらしい。なんで分かったのだろうと思いながら、ええ、と答えた。

「あらら。じゃあ、何にも書けないわけだ」

 そりゃ大変、と男は呟いた。カウンターに両肘をついて、バーテンダーがシェイカーを振るのをのんびりと眺めている。僅かにこちらへ顔を向けたのは、どうやらこちらの様子を伺っていたものらしい。一通りこちらを眺め終えたのか、ふっと視線をバーテンダーに戻した。

「んー。でも、作家志望ってわけでもなさそうじゃない。何書いてるの?」

 何を、と思う。これから何を書こうというのだろう。

「……何も」

 正直なところを口にしてみてから、つまらない答えだな、と自分でも思った。本当はこのカクテルの美しさを主題に小説をひとつ書きたいと思ってここへ来たのだ。けれども、こうして二杯目を飲み干したところで、ストーリーらしきものはひとつも浮かんでこない。おまけにペンのインクは切れている。こんな状況で書けるものなどない。だから何も書いていない。

「何もって。インクが切れてるから?」

「そう」

「ふうん」

 男の態度は興味があるのかないのかはっきりとしなかった。ちらりと表情を伺うと、にこりと口元が笑んだ。何となく、さっきよりも幾分好ましく見える。とはいえ、相変わらずサングラスを外す素振りはない。バーテンダーがグラスを差し出す。

「ブルームーンです」

「ありがとう」

「ごゆっくりどうぞ」

 一礼したバーテンダーは品のいい笑みを浮かべたままどこかへ去っていった。既に淡く結露し始めたグラスの中で、やはりその色は美しかった。青とも紫ともつかない、夜の一歩手前のような色をしている。

「へえ、綺麗なお酒じゃない」

 相変わらずサングラスをかけたままの男が言った。

「何だっけ、ブルームーンだっけ。どの辺がムーンかは分かんないけど」

「……サングラス」

「ん?」

「サングラス。外して見てみたらいいのよ」

 人差し指の腹で結露を拭いながら言うと、男は少し笑った。

「あー。残念ながらこれは取れないの。都合上ね……それに、まあ個人的な意見だけど、男はミステリアスな方がいいと思うな」

 そう思わない、と男は問う。私は小さく首を横に振った。グラスに口をつける私を眺めながら、あら、と残念そうな顔をしてみせる。それもすぐに引っ込めてしまって、今度はまた楽しげな笑顔に戻った。随分ころころと表情が変わる。

「でも、俺はそう思うわけ。だってわくわくするじゃない? 中身がよく分からないものの方が興味深いと思う。……例えば、何が入ってるのか分からないけど綺麗なカクテルとか、どんなインクが入ってるのか分からないけどお洒落なペンとか……あ、入ってたか。正確には」

 そう言われて手元を見下ろす。淡くピンクを帯びたパールカラーのボディ。緩く曲線を描くフォルムは使い始めからしっくりと手に馴染んだけれど、これは元々、私のものではなかった。

「それ、万年筆?」

「いいえ」

「じゃあ、ボールペン?」

「いいえ」

「……そのフォルムで万年筆でもボールペンでもないペンって、俺初めて見たなあ。ますます気になっちゃう」

 男の視線を感じながら、私は自分でもこのペンが何という名前のものなのか分からないということに気付いた。ペンとしての種別も知らないし、商品名も知らない。貰い物のペンだから仕方ないとは思いつつも、本当なら受け取る前に聞いておきたかったと思う。

「曾々祖父の形見なの」

「ひいひいおじいちゃん?」

「そう」

「ふうん。……えっ、随分長生きだったんだね?」

「いや、会ったことはないの。曾々祖父が最期に使っていたペンを、順々に私まで」

「へえ、なるほどね。じゃあそれだけ大事に手入れしてきたんだ」

「ええ」

「でもインクは切れてる」

「……そう」

 前に交換したのがいつなのか、正直記憶になかった。でも、比較的最近のはずだ。結構な長さのタンクが付いていたものだから、そうそう使い切りはしないだろうと予備を買っておかなかった。だというのに、その直後から何かを書きたくて堪らなくて、無闇にペンを走らせた結果がこの有様だ。

「なるほどね」

 うんうん、と男は細かく頷いた。視界の端で男の頭が揺れる。手元のノートは白紙のまま、上の余白にぐるぐると円を描いた痕跡だけが残っていた。ペン先を見る限り、いくらぐるぐると紙面に擦りつけて息を吐きかけたところで改善されないのは分かっていた。それでも未練がましくやっていた跡だ。インクは出ない。既に切れてしまっている。リフィルを買わない限り、私は何も書けない。

 ストリングスのよく響くジャズが流れている。じっと私の手元を見つめた後で、いいじゃない、と男は呟いた。

「いいペンだよ」

「ええ。いいペンだけど」

「うん。あのー、そのペンでさ、何か書けないの?」

「……え?」

 さも当然のように男は言う。思わず聞き返すと、男は全く同じ台詞を繰り返した。サングラスの向こうの視線は伺い知ることができない。その言葉が真剣なのかどうかも。

「いや、だから、インク切れてるんだって」

「いーのいーの。その『インク切れてる』ってところがいいんじゃない。その、お洒落なインク切れのペンでさ。何が書けると思う?」

「書けないよ」

「そう? 書けると思うけどな」

 ふむ、と呟いた男はジャケットの内ポケットからペンを取り出して、鼻と上唇の間に挟み込んだ。よく見ればそれは私のペンと色まで同じものだった。

「んー」

 小さく唸ったきり男は考え続けている。男が頑なにサングラスを取ろうとしない理由を推測しながら、ゆっくりとカクテルで唇を湿した。甘くも爽やかな香りが広がる。ドライジンのボタニカルに、レモンジュースの香味と、パルフェタムールという名のバイオレットリキュール。菫の香りは濃厚で、どことなく官能的なものがある。完全な愛という名を冠するバイオレットリキュールなのに、このカクテルは誘いを断る時にも使うらしい。そんな二面性と、この淡い色合いが気に入っている。だからこそ小説のテーマにしたかった、わけだけど。飲んでも眺めても、一向にアイディアは浮かんでこない。結局のところ、私には才能がないのかもしれない。

 暫くしてから、男はもう一度、今度は少し明るいものを滲ませて小さく唸った。

「あのさ」

 鼻の下のペンを外すと、まるで指揮棒か何かのようにひょいと振る。

「このペンは、人間の生き血しか吸わない吸血ペンなわけ」

「……急に何?」

 何の冗談かと思えば、至極真剣な顔つきで男は言う。

「吸血ペン。普段は、まあ自分の血か、もしくは誰かの血を吸わせてるわけ。でも、君は今日、何らかの理由で血を吸わせることをしなかった。だからインク切れを起こして、することもなく退屈しのぎにお酒なんか飲んでると。……ってことはもしかしたら、俺を酔わせてへろへろになったところで血を吸わせるつもりかも……!」

 男はぶるりと身を震わせてみせた。かと思えば、今度はさも得意げに胸を張る。

「なーんて感じでさ。インク切れのペンでひとつ書けちゃったわけ」

 ああそういうことか、と思う。文字を書くんじゃなくて、物語を作るという意味での『書く』か。だったらできるかもしれない、と思う私を置き去りに、今度はペンを掌に打ち付ける。

「あとほら、血じゃなくても、凄く貴重なインクしか受け付けない、とかってのもどうよ。そうね……純粋なラピスラズリの結晶と、満月の夜にだけ現れる湖の水だけから作ったインクしか入れられないとかさ。それで、この前の満月の夜は雨だったから、切らしてた湖の水が手に入らなくて、予備のインクも底をついちゃって、こんな感じ、とか」

 男の言葉を聞きながら、深い森の奥にひっそりと現れる湖のことを思った。満月の光を受けてまろく光る湖面。水底には様々な色の水晶が転がって、澄み切った水をきらきらと透かすのかもしれない。

「どう、当たってる?」

 随分と無邪気に問うてくるのに思わず目を背けて、またカクテルを口に含んだ。

「……ただ使い切っただけよ」

 やっぱりつまらない返事だ、と思う。面白みも何もない、無味乾燥な事実だけの言葉。分かってる。才能がないんだ。男が出した案は簡単なものだけど、どれだけこのペンを見つめたって、私にはほんの小さなものでさえ何も思い浮かんでこなかった。罫線だけの惹かれた真っ白な紙が目に滲みるようだった。

 小説なんて、書いたことがない。

 俺は使わないから、とこのペンを父から受け取って、何かを書かなきゃいけないと思った。曾々祖父が詩を書くのに使っていたペンだから。深い菫色のインクが入ったカードリッジをいくつも引き出しに溜め込んで、何をおいてもそれだけは決して切らさなかったという曾々祖父。写真も残っていないし顔も知らない、でもお前はきっと気が合っただろうと祖父が言う人。その人の書いた詩は全て失われてしまったけれど、この優美な姿をしたペンの中にはその欠片が残っているような気がした。

 小説を読むのは好きだった。だから、このペンがあれば書けるような気がした。


 でも。

 間違いだったのだろうか。


「……ねえ」

「ん?」

 男は相変わらずサングラスの向こうからこちらを見つめている。

「こういうの、好きなの」

「うん、まあまあ好きかな。綺麗なカクテルと綺麗なペンを持った綺麗なひとくらいには好きだね、ミステリアスで」

 ふふん、と男は笑う。

「……まさか、口説いてるつもり?」

「ううん。俺はそういうことしないの。都合上ね……というか第一、口説こうとしてる男は『まあまあ好き』とか言わない」

「まあ、確かに」

 それもそうかと少し笑うと、やっと笑った、と男は安心したように言った。それからまた何か思いついたのか、ペンの先を軽く掌に打ち付ける。

「ね。ひいひいおじいちゃんのペンだって言った?」

「ええ。言った」

「じゃあ、俺がひいひいおじいちゃんかもってのどう?」

 くるくると男がペンを弄ぶ。

「そのペンで何か書こうとしてんのにインク切れな孫……じゃないな、なんだっけ」

「玄孫」

「それそれ。玄孫のことを心配してさ、うっかりそのペンを使ってた頃の姿で出てきちゃった、なんてのもありじゃない」

 ありじゃない、という男の言葉が、とんと背中を押した気がした。

「――ペンの付喪神かも」

 ぽろ、と零れ落ちた言葉に一番驚いたのは自分だった。ペンの動きを止めた男がちらりと私を見遣る。

「……ペンの付喪神?」

 そう、と言いかけて、飲み込む。こんなくだらない話でいいんだろうか。それどころか馬鹿馬鹿しいんじゃないか、こんなの。

 だって。そもそもこの男は――。

「いーいじゃない!」

 呆気にとられる私を前に、男は心から嬉しそうにそう言った。

「俺がこのペンの付喪神だったら、全く同じものを持ってるのも何となく説明がつきそうだしさ」

 そうだ。男の持っているペンは、私の持っているものと少しも違わなかった。色の剥げ具合も、ムラも、小さな傷のひとつひとつに至るまで同じだ。

「だから、本当はインクが切れてるんじゃなくて」

 口に出してみると、なんだかそれらしいような気がしてくる。

「つまり、このペンには魂がないの。ペンが、ペンであるために必要な何か。だから、もしかするとインク自体はまだあるのかもしれない……ただ、ペンがペンでいることができないから、インクを適切に落として何かを記すということが、できないだけ」

「おー、難しくなってきた」

 でも言いたいことは分かる、と男は顎を撫でながら言った。それから、ほんの少しサングラスを押し上げた。男が初めてサングラスに触ったような気がした。

「……じゃあ、俺はそのうち君のペンの中に戻るの?」

「そうなるんじゃない」

「あら寂しい。もうちょっと君と話してたいような気がするけどな」

 んふふ、と男が笑う。相変わらず店内にはストリングスのよく響くジャズがかかっていた。バーテンダーは私たちからかなり離れたところで静かに佇んでいる。何の気なしに目の前のグラスを見下ろす。紫とも青ともつかない色合いの液体がグラスの表面を曇らせている。その表面に指先を触れさせると、一点に集まった水滴は指先を伝って掌へ流れ落ちた。その冷たい感触を握りこむ。この液体がそのままインクになればいいのにと思いながら、喉を焼くアルコールの感覚を追う。

「でも、そろそろ俺がいなくてもいい感じじゃない?」

 開いた掌にペンを転がしながら、男は静かに微笑んだ。私は何も言えなかった。その言葉は確かにその通りであるような気がした。じゃあさ、とペンを握った男が囁く。

「もう一つ聞かせて。君の、インク切れのペンにまつわる物語」

 覚えておくからさ、とキャップの先で顳かみをつつく。

「できるかしら」

「ん、できるよ。間違いなく」

 そう言われても、頭の中に浮かぶ物語は立ち上がったそばから崩れていく。付喪神だなんてストーリーも今や私の中では成立しなかった。彼は、付喪神なんかじゃないからだ。

 無意識に伸ばした手が、ペンを持ち上げた。ぱち、と音を立ててキャップを開ける。丸みを帯びたペン先を戯れに滑らせても、真っ白な紙の上には何も残らない。紛れもなくインク切れだ。ただそれだけに過ぎない。けど。隣に座った男は相変わらず楽しそうに私を見ている。サングラスの向こうから視線が向けられているのが分かる。

 その瞳を想像した時。


 ――ぱち、と、全てのピースが嵌ったような気がした。


「……あのね」

 深々と息を吸い込めば、脳裏のストーリーが溢れ出してくる。

「バーカウンターでカクテルを飲んでいる人間がいて、その人は小説を書きたいと思っている。でも、そのためのペンはインク切れを起こしている。……これまでに沢山の原稿を書いて、完結させられなくて捨てて、また書いてを、繰り返していたから」

「いっぱい書いてたわけだ」

「そう。その人は孤独だった。自分ひとりでたくさんのアイディアを出していたけど、書きながら、こんなものを一体誰が読むんだろうと思って、耐えられなくなって。どれもその先が書けなかった。気分転換にと普段来ないようなバーへ出てきて、大好きなカクテルを頼んだ。でも、それを前にして浮かんだアイディアを、結局片っ端からなかったことにした。つまらない、面白くない、って。その人は疲れていて……そして、突然思いついた。隣に座ってくれた人が、少しだけ自分の支えになってくれたらいいのに、って」

 ん、と頷いて男が先を促す。

「例えば、とその人は考えた。隣に座ってきた男が、同じものを、と注文をする。男は嘘みたいに大きなサングラスをかけている。彼はなんだかふざけたようなことを言いながら、それとなくその人のネタ出しを手助けする」

「えっ、俺ふざけたようなこと言ってた?」

「ミステリアスがどうこう、ってところ」

「ああ。なるほどね」

 ごめんごめん、と男は苦笑し、ペンをジャケットの内ポケットへ戻した。

「それで?」

「……そのミステリアスな男は、その人のペンの生贄かもしれないし、ペンの持ち主だった曾々祖父の霊か何かかもしれないし、ペンの付喪神かもしれなかった。でも実際には、そのどれでもあるかもしれないし、どれでもないかもしれない。……あなたは、私が隣に座ってほしいと空想した、ただの『キャラクター』だから」

「ん。そうだね」

 あっさりと男は言った。彼が注文したブルームーンが運ばれてくることはない。その『落ち着きのある、少しかさついた声』は、私だけが聞くことができる。いや、本当は聞けてもいない。私は、そう空想しているだけだ。

 残り少なくなったカクテルを見下ろす。ストーリーは既にクライマックスに近い。

「さ。残りの伏線も回収して」

 おどけて言った男に私は頷いた。

「男の存在を定義したその人は――つまり私は、あなたと私の二人をテーマにストーリーを練り上げた。あとはそれを言葉にするだけ。でも、やはりペンのインクは切れている。切れているけど、インクがあれば書けるじゃない、とあなたは言う。それから」

 男が、私の思い描いた通りに笑んだ。

「『じゃあ、頑張って書いてね』」

「あなたはそう言う。私は頷く。するとあなたは、あ、と思い出したように言って悪戯っぽく笑う」

「『文字にしてくれるならさ、俺も飲みたいな。その綺麗なカクテル』」

「ブルームーン」

「そう。それ」

「私は随分迷うけど、考えておく、とだけ言う。けれど、男がブルームーンを口にするシーンを書くつもりはない。だから、こう続ける」

 ひゅ、と吸い込んだ息が鳴る。

「『今のうちに、見ておけば。このカクテルの本当の色』」

 男は、私の台詞を知っていたはずなのに、少し迷っていた。私は結露に曇ったカクテルグラスを見つめる。男の迷いは私自身の迷いだった。男がサングラスを外せば物語は終わる。でも、この物語の終わることが、寂しかった。それに、この物語の終わりが私の描いたものでいいのか、分からない。こんなのでいいんだろうか。こんなストーリーでも、面白いだろうか。

 ふ、と男は静かに笑った。

「――面白いよ」

 私はぎくりと男を見遣った。私のストーリーにそんな台詞は『ない』。

「君の書くものは面白い」

 それでも男は、小さく、私だけに聞こえるように囁いた。それはきっと、彼自身の言葉だった。彼自身の言葉ということは、私自身の言葉だ。それはストーリーのためではなく、私のための、私自身の言葉だった。

「……ありがとう」

 ほとんど独り言のようにそう返すと、男は小さく頷いた。それから、わざとらしく大きな伸びをして、首の後ろを少し揉みほぐした。

「『じゃあ、味の方は続編に期待かあ』」

 そう言って、ゆっくりとサングラスを外す。男は目を閉じている。見たことのあるようなないような顔はその輪郭をはっきりとさせないまま、ただ『親しげな微笑を浮かべている』とだけ描写される。

「まあ何にせよ」

 畳まれたサングラスが胸ポケットに引っ掛けられる。

「そのペン、普通にインクを足せば書けるようになると思うな」

「……知ってる」

「だよね、俺も知ってる。俺は少なからず君なわけだし――」

 薄く開けられた瞼の下から現れた瞳は。

「――ってことは、最初からミステリアスも何もなかったわけだけど」

 青とも紫ともつかない、夜の一歩手前のような色をしている。その瞳が私のグラスの中身を見つめ、柔らかく、柔らかく微笑む。

「うん。やっぱり綺麗じゃない」

 ね、と上げられた視線が私のそれに重なる。その瞬間脳裏に、小さな、静電気の弾けるような音を聞いた。


「……っ!」


 瞳の色はいつの間にか水面の色に変化していて、私はひとり、バーカウンターでカクテルグラスを見下ろしていた。最早誰の気配もなかった。

「……ええ。綺麗よ」

 思わずそう呟いた。水面はまろく光っていた。手の中のペンは、なんだか重く感じられた。早回しでストーリーを再生する脳内はひどく静かで、相変わらず、ストリングスはよく響いている。わざわざ視線を向けなくても左隣が空席だということは分かっていた。最初からあのサングラスの男は私の中にしかいなかった。今や私に出来ることは、ただ『彼』を書いてやることだけだ。残りのブルームーンを一気に呷った。もう必要なかった。描こうとしたあの色は、既に私の頭の中にある。

 『彼』の瞳の色だ。

 夜の一歩手前の色。ミステリアスな月の色。今や私の中に満ちている、インクの色。

 支払いを済ませて店を出た。文房具店はもう閉まっているけれど、引き出しの隅々まで見ればカードリッジのひとつくらいは見つけられるかもしれない。そうすれば、このペンでもう一度『彼』に会える。不意に浮かんだ書き出しの一文を忘れないように何度も繰り返しながら、月光の下、私は家路を急ぐ。


『左隣に座ってきた男は私のグラスを見ると、同じものを、と言った。』

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