三話 嫉妬の餞別
「本当に憎らしい子ね……殺してあげたくなっちゃう」
「……え?」
突如掛けられた凍てつくような声に僕は固まってしまいました。
いつの間にか、すぐ目の前には黒い服に身を包んだ女性が立っていたのです。
突如アリシアは拳を、フレイ兄様は腰に掛けていた剣を握り、声の主に相対しました。
「あらあら、お兄様と彼女はずいぶんと物騒ね?」
「黙れ、お前は一体何なんだ?」
「ソウ、父様を呼んで。こいつ……マズいわ」
「……ど、どうしたんですか二人とも?」
二人の言っている意味が分かりません。
確かにいきなり殺すなどという発言には驚かされましたが、女性は無手で、魔力量自体もさほど多くないように見受けられます。
初対面の方に向かって迷いなく牽制を行う二人に、僕は戸惑いました。
「やっぱり温室育ちのお子様には分からないのね、この場に居る貴族たちもそう。そう考えるとあなた達二人はとても優秀ね」
「黙れと言っているだろう……」
「そんなに怒らなくても良いじゃない。折角のお顔が台無しよ?」
「答えろ、お前は何だ?」
警戒を解くことのない二人。
それに動じることなく応答する女性の姿からは、全く敵意を感じません。
「そういえば自己紹介がまだだったわね?私は、そうね……『嫉妬』の魔人とでも名乗っておくわ」
……ですが、二人の行動と女性が発した言葉で、ようやく僕もこの場の空気を読み取れました。
『嫉妬』…それは古い書物に大罪として記されている罪の一つ。
それをいとも容易く名乗る人物。
そして二人の緊張を隠せない表情。
この人は、本当にこの場で僕を殺そうとしている……?
そう意識した瞬間、魔人から発せられる言葉が、隅から隅まで憎悪に満ちているのが分かりました。
しかもその憎悪の矛先は、常に僕に向けられていたことがわかりました。
先ほどまで僕が何も感じなかったのは、僕の意識が魔人の外にあったから。
意識してしまった今、全身を貫くような悪寒が襲い、僕は恐怖で身動きが取れなくなりました。
「逃げろ、ソウ!」
「早く行って!」
僕が動けなくなってしまったのを察したのか、二人が同時に僕に向かって叫びました。
「は、はい!」
立ち竦んでいた僕は、二人の声でようやく走り出そうとしました。
しかし、
「逃がさないわよ?」
『嫉妬』を名乗った魔人は大広間の扉、さらに窓すらも閉じた上で手から漆黒の霧を放ちました。
まるで悪意や殺意を凝縮したかのような霧は広間を一瞬で覆い、全ての光を喰らうかのよう……
放たれた霧は、この場に居る者全てを巻き込んでいきました。
「な、何だいきなり!」
「何この霧!前が見えないじゃない!」
「何が起こった?おい誰か!騎士団を呼べ!」
「だめだ、出られない!どうなってるんだ!?」
広間に居た人達もいきなり現れた霧で視界を奪われ、更に扉もあかずにパニックに陥りました。
この大広間は完全に出入りを封じられ、助けを呼ぶことすら許されない……
「あぁ、愚かね。自分に向けられた殺意にさえ意識しないと気が付かないなんて……どれだけ生温く育てられたのかしら?羨ましいわ」
霧に覆われ、全く視界を確保出来ない状況。
僕は霧をまともに受けてしまったせいか動けずに居ました。
何も見えない霧の中、目はその役目を果たすことが出来ないはずでした。
……なのに、なのに!
「あら?何故この状況で私の姿が見えるのか、不思議そうね?」
僕の心を見透かすかのように問いかける魔人。
「ソウ!どこだ!クソッ、何も見えない!」
「この霧、あいつの気配をかき消してる!さっきまでそこに居たのに!」
フレイ兄様とアリシアは、黒い霧のせいで魔人の気配をとらえられず、こちらに気が付けません。
しかも霧は感覚を狂わせる力でもあるのか、二人の声は僕と魔人を避けるように動き続けています。
しかし僕は……恐怖で二人に助けを呼ぶことすら出来ない……!
怖い。今、目の前にいる存在が、どうしようもない程に……
「実は私、この霧の中なら自分の姿を見せたい相手だけに見せることが出来るの……とっても便利でしょう?」
とても愉快そうに笑う魔人。
僕は何も答えられない……
「あ、良いことを教えてあげる。私とっても楽しいことを思いついちゃったの」
そう言いながらさらに不敵な笑みを深めていきます。
「あなたを殺すのはやめてあげるわ。すぐ殺しちゃってもつまらないしね?」
ジリジリとこちらに距離を詰めてくる魔人……
それなのに、僕は動けない……
「だからその代わりに、あなたのとっても大事な物を奪ってあげる」
「!!」
僕の……大事な物?
「ソウ!どこだ!」
「ソウ!どこに居るの!?返事してっ!」
二人はまだ気付かない、気付いてくれない……
返事をしようにも声を出せない、息を吐きだせない……
苦しい、苦しい……
「あらぁ?そんなに私が怖いの?でも大丈夫。すぐ楽にしてあげるわ……」
嫉妬の魔人が僕の首筋に沿うように指を当てて来ます。
どこまでも白く、どこまでも冷たい指……
どこまでも悍ましく、どこまでも恐ろしい指を、僕は振り払うことさえ叶わない……
「私が望むのは、その唇から漏れる愛おしい囁き……美しい響き……甘美なる旋律……。その全てよ」
魔人は僕に語り掛けながらゆっくり、ゆっくりその指で首をなぞっていきます……
「私があなたから欲しいのはただ一つ……」
恐ろしいほど冷たい指は、僕の顎の下で動きを止めて……
そこまで来て、ようやく魔人が僕から何を欲しがっているのか理解しました。
ですが……既に手遅れでした。
僕に出来る事は……何も残っていなかったのです。
『あなたのその声、私に頂戴?』