ほほえみの廃妃
ほほえみの廃妃
貴婦人を描いた一枚の肖像画がある。
庭をのぞむ窓辺に立つひとりの貴婦人。屋外は明るく、白い薔薇の花の咲き乱れた美しい庭園だ。だがその反対に、日陰になった屋内は対照的な薄暗い色調で表現される。
人物の身体は横向きだが、顔だけは振り返り、絵の鑑賞者へとその視線を投げかけるという、いわゆる「見返り美人」の構図。
そして絵のモデルとなっているのは、まだ若く、容貌もたいへん美しい女性だ。古典的なドレスは豪奢で身につけた宝飾品はなお見事、おそらく非常に高い身分の貴婦人の姿を写し取った物なのだろうと推察される。
しかし――その貴婦人の表情は、なんとも言えずもの哀しい。
こちらに向けられた黒い色の瞳は、悲しく陰り。
細い両眉は抱えた苦悩によってひそめられ。
薔薇の花びらのごとく色付いた唇は美しいが、かすかに開き、今にも淋しげな溜息をつかんばかり。
こらえきれない悲しみをたたえたような、何か大切なものを諦めたような、その憂いの表情。ある高名な画家に手によるこの絵は、彼の技巧の冴えもあってか、長年に渡り多くの鑑賞者の心を奪ってきた。
そしてこの肖像画は、こう呼ばれる。
「ほほえみの廃妃」、と。
*
その国の王妃は「廃妃」と呼ばれていた。
*
二十代後半と思われる一人の青年が、いかめしい黒いドレス姿の女官に先導されて廊下を行く。不安そうに左右を見回す青年は、腕に革装の鞄をひとつ、大事そうに抱えていた。まるでその箱型の鞄が、彼の命綱であるかのごとく。
そして事実、青年は心底おびえていた。
(怖い)
身分高い貴人の住まいに相応しく、豪華な内装と調度品であふれかえる館。周囲には森と畑以外何もないド田舎にあるとはいえ、広さも充分で、平民である青年ならば「ここに住んでもいいよ」と言われたらそれだけで目を回してひっくり返る。
だが。
(まさか王妃様に召し出されようとは)
ここは王家の離宮だ。そして王宮の女主人として君臨するはずの御方が、そこを離れ、田舎の館にお住まいになられている。
屈辱以外のなにものでもないだろう、と、この青年――将来の「ある高名な画家」にも理解できた。
どれだけ贅を尽くした住まいだろうとも、庶民ならば一生目にすることのない宝物、美術品に囲まれようとも。
王妃――国王の妻にとって、王宮を追放された現在が、屈辱でないはずがない。
伝え聞いた話では、王妃をこの館へと閉じ込めるように追いやったのは国王自身であるという。
愛妾にのめり込んだあげく、それに意見した王妃を追放した。さらに夫妻の一人息子である王太子は王宮に留め置かれ、母子は引き離されてしまった。王宮では、王妃を追い出すことに成功した愛妾が国王の寵愛をほしいままとし、わが世の春を楽しんでいるともっぱらの噂。そして、王妃が王宮に戻ることは金輪際ない、というのがそこの主だった者の意見である。
そんな王宮でささやかれているのが、「廃妃」という王妃に対する呼び名。
王妃としての位を廃された、という揶揄だ。国王の愛とともに、妻の座も失ったと。
だから、王妃の命で召し出された画家はおびえていた。屈辱にもだえているだろう高貴な女性に、どんな無理難題をつきつけられるのかわかったものではないから。
「こちらでしばしお待ち下さいませ」
妙に無表情な女官が画家を招じ入れたのは、応接間らしき部屋。ここだけで画家の家族が全員寝泊まりできそうなほど広い。その広い部屋に置かれた家具もいちいち高級品で、絹糸で見事な刺繍をされている椅子の座面に、画家は座る勇気を持てなかった。
座れない画家が、確かに彼の命綱、正確には飯の種である仕事道具を下ろすこともできずにただひたすら部屋の中央でぽつねんと立ち尽くすこと十数分。
ドアを通して話し声が聞こえてきた。若々しい女性のものと、低い男性のもの。
「だからゲオルグ。あの学校への寄付は紐つきにしておきましょうとわたくしは言ったのよ。運営陣に不安がありましたもの」
「学長はしっかりしていますよ、あれは理事連が悪いのです」
「そうね、もっと他に適任する者がいないのか、市長に手紙を出しましょう、今日中に」
と、画家のいた部屋のドアが突然開いた。
「ですからそろそろ退散して下さるかしら、ゲオルグ? わたくしにも母としての」
やわらかく、ゆっくりしたしゃべり方。画家に向けられた黒い瞳が驚きによって一瞬見開かれる。
そして。
開いたドアの向こうに立つ貴婦人は、一瞬の驚きが過ぎたあとで、その目を鋭く細めた。
が、その表情もわずかな間にかき消える。貴婦人は微笑んだ。親しみを浮かべて。
「ようこそ、緑陰館へ。歓迎しましてよ」
「は……」
反応しきれない画家に対して、貴婦人のためにドアを開けていた軍服姿の男が尋ねる。
「お前が画家だな?」
「は、はい」
「こちらは王妃殿下でいらっしゃる。ご用命に勤めよ。私は殿下の護衛だ、お前の仕事の監視も行うので、そのつもりで」
「ゲオルグ、外してくれないつもりね」
「当然です」
「そう。――ねえ、あなた」
護衛の武官に溜息をついた王妃は、画家へと笑いかけた。
「さっそくだけど、わたくしの依頼は絵を描いていただくことよ。肖像画を」
「か、かかしこまりました」
「わたくしの絵を描いて。息子に贈るのよ、知っているでしょう、あの子のことは」
王太子殿下のことだ、とすぐにわかる。離れて暮らす息子に絵姿を贈るのか、と画家は合点した。
「かか、かしこまりました! 精いっぱいつとめまずっ」
焦り過ぎた画家が舌を噛み、それに王妃は吹き出した。そうしてほがらかに付け加える。
「まずはあなたに緊張を解いていただくほうが先決ね。ファラン夫人、お茶でも持ってこさせてちょうだい」
と、後ろに控えていた女官に命じた。その態度は大変気安く、かつ、細やかだ。
(お優しいかたなのだな)
どんな恐ろしい人なのかと内心で震えていた画家は、想像と違った王妃の人柄にほっと胸を撫で下ろした。だが。
もう一度、遠慮がちな視線を王妃に送った。武官と、「どの部屋で描いてもらおうかしら」と相談している貴婦人に。
美しい人だ。金色の巻き毛は周囲にも光を投げかけるようで、いるだけではっと注目を集めるだろう。浮かべる表情は温かく、つむぐ言葉も耳に快い。他人に悪印象など、とうてい与えそうにない女性に見えた。
それでも。どうしてか、画家の不安はかすかに残る。
人の本音は微細な表情の変化の中にこそ現れるという。不意をつかれた時、その一瞬の中にだけ、心のうちにある感情がふっと現れる。取り繕う間もなかった感情が、一瞬だけ。
画家が見た、さきほどの王妃の顔。陰りのある表情。それはまるで、恋人から贈られたプレゼントが気に入らないのに、むりやり喜ばなくてはいけない女のようだった。
*
画家の仕事は、緑陰館と呼ばれる離宮の中でもひときわ豪華な内装を誇る部屋で行われることとなった。
「――ええ、聞いているわ。先日の嵐で何軒も押し流されたとか。橋も落ちて、不便な思いをしている者が大勢いると」
「そうね。とりあえず緊急の備蓄を開けさせなくては。軍を送る? だめよ……ううん、そうしたほうがよいでしょう。指揮官はなるべく冷静な者を。そうだわ、ハウエルと彼の連隊を送って。彼なら適正に判断するでしょう」
「あら、今度はあなた? 外交庁まで何を尋ねにきたのかしらね」
画家としてはなるべく静かな環境で描きたい。できればモデルと一対一で。
そうして初めて、相手のうわべの容貌だけではなく、性格や人柄、人生そのものがにじみ出るような、真に迫った肖像画が描ける。というのが画家の意見だった。本当はそうしたいのだが、相手が相手なので画家は注文をつけられない。
彼が文句を言わないせいかどうかはわからないが、王妃の生活はいつも客人の訪問でいっぱいだった。入れ替わり立ち替わり、様々な者が彼女の館を訪れ、何がしかの相談をして、そして満足して帰って行く。
画家が作業をしている現在も、王妃の周囲は人でいっぱいだ。高位の貴族らしき者、官吏らしき平民、書状を届けにきた誰かの侍従。
どんな者に対しても、笑顔で、ほがらかで、おだやかで。王妃の態度はいつもそう。
やわらかくゆっくり話し、少し考えるそぶりを見せたあと、指示や助言を与える。それがこの王妃の常態だった。
よくもまあ、あれだけの人数を相手に、笑顔で応対し続けられるものだと画家は感心していた。そのたびに王妃が動いてしゃべるせいか、肖像画のほうはいっこうにはかどらないのだが。
「いったいいつまでかかるんだ? 何日作業しているのか、お前はわかっているのか」
「は、はい。わ、私といたしましても、力を尽くして取りかからせていただいております! 本当です」
ある日、王妃の護衛の男に呼び止められた。画家はおびえながらも一生懸命答えた。初日から顔を合わせているこの武官は、見た目こそ無骨で厳しいが職務に真面目で、画家に対して無意味にきつく接するわけではなかったから。今日までは。
「わわ、わかっています、時間がかかり過ぎているのは。ですが王妃様があれほどお忙しくされていなければ、こんなには。やはりあれほどモデルが動くとなると、そのたびに集中が途切れて」
「殿下の責任だと言いたいのか? 貴様」
「ゲオルグ?」
顔色を変えた武官を止めたのは、王妃本人だった。通りがかった王妃が、彼らの様子を見とがめてやって来る。
「どうしたのかしら」
「は。殿下、この者の仕事が遅いので少しばかり注意を」
「あら」
「絵など、下描きだけ描いて、後は別の場所で描けばよいでしょう。そう、スケッチとか言うのでしたか。それをこの男は、だらだらと何日も殿下のお時間を割かせて」
忠実すぎる武官の言葉は、もっと長く続いたはずだ。だが。
「ゲオルグ」
格別やわらかく、甘い声だった。
顔に浮かべた微笑みもまた、極上のものだった。優しく細められた目、引き上げられた頬や口の形。輝くばかりの笑顔、と呼ぶのにふさわしい。そして美しい。だが。
「……! で、ですぎたことを申しました!」
「へ?」
「どうかお許しを」
画家は目をまたたかせる。武官が、くどくど続けようとした苦言を一転、土下座せんばかりの謝罪に変えたからだ。
(え? 何が起こった)
画家は意味がわからない。武官が平謝りをはじめた理由が。
武官に謝られている王妃は、ただ彼の名前を呼んだだけだ。それも笑って。特に皮肉がこめられているようでもなければ、不快感をにじませた様子もない。それなのに。
「私はただ、殿下の」
「ええ、わかっているわ」
気取った仕草で人差し指を己の唇にあてた王妃は、同じ指を武官の口元へも持って行く。
「でもゲオルグ。画家は芸術家なのよ」
「はい」
「それぞれにやり方をお持ちなのだから、頭ごなしに決めつけてはだめだわ。それともあなたが描く?」
「いえ、とてもではありませんが、絵筆など」
「そう。なら」
しばし思案してから視線を画家にやり、
「そうね、ゲオルグもこう言っていることだし。そろそろ期限を決めましょうか?」
「は……はい」
王妃は命令した。今日からひと月後に、完成した絵を見せなさい、と。
*
刻々と変わる人間の表情、その一瞬だけを切り取って描いた、何枚ものスケッチ。王妃の表情を追ったそれらは、どれも笑顔だ。明るいもの、優しいもの、満足げなもの。笑顔だけのスケッチ集ができそうなほど。
「……」
しかし。それらを広いテーブルに並べ、腕を組んで考え込む画家は難しい顔をしていた。彼のやり方は、対象を何日間かひたすら見つめ続け、その本質をえぐり、魂の中へと迫っていこう、というもの。
そういう肖像画を描くという評判があるからこそ、自分に王妃の依頼が来たのだと画家は思っている。ならば、彼女のために描くのは、王妃の本質までをキャンバスに写し出した絵でなくてはならない。
だが、悩む画家には見えなかった。王妃の本質が。何日見つめ続けても、彼女の魂に触れられていない気がする。
(……完成しないかもしれない)
期限までに完成させられるか心もとない。このままでは用命を果たせず、罰せられてしまう。いや、あの優しい貴婦人がそれだけで画家を厳しく罰するとも思えないが、失望させてしまうのは確実。それは画家の矜持が許さない。
悩んでいた。深く。
「どうかなさったのかね? お疲れのようだが」
「えっ……あ、ロック卿。失礼いたしました、お出でだったとは」
声をかけた初老の男性は、王妃の陪臣の一人であるロック卿だ。
労わるような言葉に、画家はつい、ロック卿に悩みをもらしてしまう。そうして尋ねた。
「失礼でなければお伺いしたいのですが。その、ロック卿からご覧になって、王妃様はどのようなおかたですか?」
「そうですな……」
しばし考えたあと、ロック卿は答えた。
「得難い、おかたです」
「はい?」
「なくてはならない方だ、本当に。我々は多くのものをあの方に負っているのです」
そう言うと、王妃の陪臣はにやりと笑った。意味を測りかねて、困る画家に。
「いやはや、あの方が王妃様でなければ、この国はとっくに」
とっくにどうなったのか。ロック卿はそこまでは語らなかった。
画家が次に尋ねたのは、武官だった。
「王妃様の人となり? それを私ごときに語れと言うか。なんと畏れ多い、貴様、無礼も大概に」
「ま、お待ち下さい、どうか冷静に。その、あなたから見た王妃様のお姿を知りたいのです! あなたの前での王妃様は、どのような方ですか?」
「私から見た、だと? そうだな」
怒りを収めた武官は、やはりしばらく時間を置いたあと、こう言った。
「素晴らしいかただ。それに尽きる」
「はあ……」
ほとんど何も表現していないに等しい。それだけでは。
この人はあまり自分でものを考えないのだろうなあ、と失礼な思いを画家が抱いたとは知らない武官には、まだ言いたいことがあった。
「それとだ。何といっても、私はあの方に恩がある。一生返せぬ恩が」
「そうだったのですか?」
「あの方がいなければ、この国もどうなっていることか。お前もそれを心に置いて、ご用命に励めよ」
「はあ」
離宮にいる誰もが褒めそやす、優しく慈悲深い人柄。画家が得た王妃の人物評はどれもそれに尽きた。そして、尋ねた誰もが最後にいう言葉。「王妃様がいなければ、どうなっていたか」。
王宮を追放されたにも関わらず、ここまで頼りにされているとはどういうことか。そんな疑問を持っていた画家が、この時同じ質問をしたのは、ファラン夫人だった。妙に無表情な女官の。
「――王妃様の」
「はい。ファラン夫人からご覧になって、王妃様はどのような?」
「……」
これまで尋ねた誰よりも長い時間をかけたあと、ファラン夫人は言った。
「お気の毒なかた、といえるのではないでしょうか。少なくとも、ご当人にしてみれば」
「お気の毒……ですか」
画家は内心で驚いた。
確かに気の毒は気の毒だろう。離宮でどれだけ慕われていようとも、王宮を追放され、夫である国王自身にはうとまれ、息子とも離ればなれにされてしまっているのだから。
だが、それをきっぱり言葉にする者がいようとは、画家は思っていなかった。なんといっても王族である。臣下風情が憐れんでよい相手ではない。
「ご本人とてよくおわかりなのです。ご自分の性質を。むしろそれを利用しておられます」
「性質?」
「生まれつきそういう方なのか、お育ちに原因があるのか。わたくしは嫁いでいらしてからのお姿しか拝見しておりませんので、わかりかねますが」
「はあ……」
何の話をしているのか。画家は要領をつかめない。そして。
ファラン夫人もまた、この言葉で締めくくろうとする。
「なんにとりましても、王妃様がこの国にとってなくてはならぬ方なのは歴然たる事実」
「あの。どなたもそうおっしゃいますが、具体的にどういうことなのでしょうか? 王妃様は何をなさっておいでなのです?」
「……」
無言でにらまれ、画家は後悔した。
「毎日見ているのに。
……見てわからぬならば、何を語ってもそなたには理解しえぬのでしょう。忘れなさい」
ただ、つぶやくようにそう言った。
画家にもわかった。なんとなく、馬鹿にされたことが。最後にもうひとつだけ尋ねた。
「武官殿のことをお訊きしたいのですが。ゲオルグ殿の」
「ゲオルグ? ああ、ウォード准将のことですか」
「……。ウォード准将だったのですか!? あの人、いやあのかたは」
ウォード准将とは、この国で最も有名な軍人である。
先ごろ終結した蛮族との戦において多大なる功績を上げ、国の英雄と称えられている。その名はほとんど、「勇者」と同意義の単語として語られる。
「そんなすごい人が。どうしてまた」
追放された王妃の護衛なのか。はっきり口にできないが、国の英雄なら、もっと違う職務があるのではないかと画家は思った。
「英雄色を好む。そういうことです」
「はい?」
「どんな英雄にも欠点があるものです。……あのかたのは、少々変わっておられますが。王妃様にかばっていただかなくては、とんだことになっていたでしょう。そろそろよろしいですか?」
と、ファラン夫人は画家の前から去って行った。一貫して無表情だった。
ひとり残されて、ぽつねんと立つ画家。
「……」
最初の問題は何も解決していない。ますます王妃の人柄に対する謎が増えただけだった。
*
その頃、王妃のいなくなった王宮では、邪魔な正妻を追い出した国王と愛妾が、取り巻きたちに囲まれて、甘い蜜月を過ごしていた。
宝石のような輝きを放つ硝子の酒杯を手に、あだな美貌を誇る愛妾は尋ねた。
「陛下、お聞きおよびになりまして? 離宮に逃げ込まれたあのかたのことですけれど、最近、画家を召し出しておられるそうですわ」
「画家を? なんのために」
愛妾の肩を抱き、彼女と同じくらいしたたかに酔っぱらった国王が尋ね返す。
周囲では同様に、顔を赤く染めた身なりの良い者たち――その多くが高位の貴族の称号を持つ――が二人の会話に耳を傾けていた。少なくとも半分は。もう半分は酔って夢うつつにいるか、またはお気に入りの女官に誘いをかけているか、または寝ている。
「さあ、わたくしにはさっぱり。でもやっぱり、あのかたも女だった、そういうことだと思っているのですけれど」
「どういうことだい?」
「もう、おわかりにならないのね。陛下に忘れ去られてしまうのが、嫌なのではないですか? ご自分の絵を陛下のもとに送って、『忘れないで下さい』とでもおっしゃりたいんだと思いますわ」
「まさか」
愛妾の考えを一笑に付し、国王は彼女の頬を指先で優しく撫でた。
「万が一、そうだったとしても愚かなあがきに過ぎん。今さらあの女に用などないのだから、私は」
そう言って、頬を撫でる指先を、少しずつ下にずらしながら。
「私にはそなたがいればそれで充分だ……私の最も大事な宝、そなたがいれば」
「まあ。嬉しい、わたくしも幸せですわ、陛下の愛さえあれば」
「あんな女、あの薄暗い田舎の離宮に一生閉じ込めておけばいいのだから。もう死んだも同然だろう? 私たちにとっては。
この国は王である私の物だ。領地も民もすべて。そう、そなたはその中でも、最も素晴らしい宝物だ」
愛撫に陶然とする愛妾を抱く国王の生活は、甘ったるい夢で満たされている。
夢だけで。
*
夜、離宮の一室。暖炉の火だけが光源で、室内は暗い。
「けっこうよ。ではサヴァラン軍の動向を報告なさい。新しい兵団を密かに結成させたというのは本当なの?」
「事実です。人里離れた地に職にあぶれた者を集め、訓練を行っているとか」
「そう……状況的に考えて、我が国の同盟ブリア国の次期王位継承に難癖つけて戦を仕掛けるつもりでしょう」
「はい」
「けん制しておかないと。ブリアとの定期連絡の頻度を増やして」
うすぐらい王妃の私室で、部屋の主に語るのは平凡な商人の服装の男だ。王妃がひそかに、国内はもちろん諸外国へと放っている密偵で、その長となっている者。
隣国に関する剣呑な報告を終えた密偵は、今度は比較的おだやかな内容、だが王妃本人にとっては不愉快であろう一件を告げた。
「また愛妾に宝石を? あの小娘、どれだけ欲深なのかしら」
「どうしたしましょうか」
「……仕方がないわ。これ以上王宮の連中に予算は割けない。あなたの提案を採用します。贈ったという宝石類、贋物とすり替えを」
「かしこまりました」
「飽きた物からお願いね。どうせ忘れているに違いないし、見てもわからないでしょう」
宝石にドレスに、毛皮に馬車。愛妾にねだられるまま何でも与えてしまう国王に、心底あきれ果てた、と溜息をつく王妃。だが、不快な思いを抱いているはずの時でさえ、彼女の笑みは消えない。
疲労の色濃い王妃を見守っている女官、ファラン夫人は知っている。
田舎の離宮、緑陰館は来客が山のように訪れる。それは王妃が、外交政策はもちろん無能な国王の散財へ対処するため密かに動いているだけではなく、その他重要な国内行政の官までもが、彼女を頼って相談――いや、指示を受けに訪れるからだ。
国官はみな、国王に裁可を仰ぐべき問題はすべて王妃のところへ持って行く。そのあと形だけ国王のところへ持って行き、暗愚な国王はそれを碌に見ないまま是を下す。それがこの国の現状だ。
ファラン夫人は知っている。
現在、王宮は名ばかりの場所だと。愛妾に贅沢を許し、取り巻きを侍らせ、臣下に君主と仰がれることが王の務めだと思っている国王が、ただいるだけの場所。わかっていないのは王とその周囲にいる者と、王宮内部を知らない一般の民。
この国の中枢は離宮にある。王妃の下に。
そして。
「殿下。もうお休みになられては」
「そうね……」
一日中、常に王妃の顔に浮かんでいた微笑み。すでに密偵は下がり、王妃にとって最も身近な臣下だけが残っている。そんなファラン夫人の前で、王妃の表情はどうなるのか。
「それにしてもひどいわね。わたくしがいなくなったら、もう少し国王としての自覚が芽生えるかと思ったけれど。よけいひどくなったではないの。呆れたわ」
「ええ……」
「よかったわ、別居して。これ以上あの人と夫婦としてセットで見られるのは迷惑ですもの。わたくしまで愚か者だと思われてしまう」
親しい者の前でだけ見せる、それが王妃の本音だった。
しかしそれを語る王妃の顔は。
「……」
無表情なファラン夫人と対照的な、先ほどよりももっと、輝きに満ちた笑みが浮かんでいる。不機嫌なのは声の響きだけ。王妃の麗しい顔は、口角が引き上げられ、目は細められ、極上の優しい微笑みに彩られていた。
「心配なのは息子だわ。王宮に残すしかなかったけれど、わたくしの子があの連中の色に染まったらと思うと心配でたまらない。というより屈辱よ」
「……」
「監視を強化しないと。わたくしの息のかかった家臣だけで周りを固めておきたいわ。ねえファラン夫人、過保護と思う?」
「いいえ」
「そう? あなたの目は確かだから、やはりそれだけ連中がひどいということなんでしょうね」
一人息子である王太子を案じる様子は一人の母親だが、心配げな言葉を吐く時の王妃は、勝ち誇ったような笑みだった。
こういう人だ、とファラン夫人は腹の底で思う。
素の表情を出すとこういうことになる。
嬉しい時楽しい時は悲しい顔をし、悲しい時、不満のある時は嬉しい顔をする。
怒った時は笑い、おかしい時は怒った顔。
心のうちの感情と一致しない、ちぐはぐな表情が顔に現れてしまう。
王妃はそういう人だった。
本人も自覚しているらしく、笑うほうが相応しい場面では作り笑いを浮かべるように気をつけている。例えば初めて画家に会った時は、反射的に浮かべそうになった不満げな表情を抑え、きちんと微笑んでみせた。本心から歓迎しているのだから、それを誤解させないために。
高い政治能力と、この性質。そして本当は、穏やかというより癇癪もちだ。
複雑だ。王妃の人となりは複雑過ぎる。
会ってまだ何日かしか経たない画家に、掴めるはずがないとファラン夫人は思う。同時に、気の毒な人だとも。結果的に、王妃はいつも微笑んでいることになる。
国王の散財やら、持ち込まれる内政問題やら、きな臭い隣国のことやら。
それらに激怒している時でさえ、輝くばかりの笑みを浮かべてしまうのだから。
*
再び王宮の一角。王太子に与えられた部屋で、ひとりの少年が机に向かっていた。
「王太子殿下。どうかなさったのですか」
少年、勉強中の王太子は落ちつかなさそうに、後ろを振り返った。そこには王太子付きの家庭教師が立っていた。
「何をぼんやりなさっているのです?」
「だって……あの絵が気になって」
「絵? ああ、妃殿下の」
王太子の勉強部屋には、先日王妃から贈られたばかりの肖像画が掛っていた。
モデルの本質になかなか触れられずに悩んでいた画家が、やっと完成させた絵だ。
悩んだ末、画家は最初の依頼内容に立ち戻った。「母親が息子に贈る絵」だということ。よって画家は、王妃の麗しい顔を慈母の微笑みで彩った。優しく見守る母の顔に。
しかし。
「母上が一番怒ってる時の顔なんだけど、これ」
「……」
「怖いんだけど」
王妃側に立つ人物である家庭教師もまた、珍しいその性質を知っている。だからこう助言した。
「……王太子殿下の勉学がはかどるよう、見張っておられるのです」
「えー」
「集中なされませ。お母上が見張っておられます、しっかりやりなさい、と。素晴らしい贈り物を下さったものです」
*
一枚目の肖像画を完成させた後も、画家は何度も何度も王妃の下を訪ねた。そのたびに新しい肖像画が描かれて、王太子へと贈られた。それらは大切に保管され、一連の「廃妃」シリーズとして後世の時代に知られることとなる。王侯貴族の肖像画にしては珍しく、そのどれもが優しく笑った表情を描いているため、よって、彼女は「ほほえみの廃妃」と呼ばれる人物として歴史に記憶された。
そうして、画家が最後に描いたのが、例の「ほほえみの廃妃」だ。はっきり「ほほえみの」とつきながらも、笑顔以外の表情をしている唯一の物。画家自身は己の最高傑作としていたが、晩年まで大事に自分の手元で隠していたため、王妃本人は見ていない。
「ほほえみの廃妃」には、同時代を生きて、王妃の人となりを知っている者しかわからない真実がある。画家はとうとう彼女の真髄を掴んだ。
なんとも言えずもの哀しい表情は、実は笑っている。
瞳は悲しく陰っているのではなく、実は明るく輝いている。
苦悩によってひそめられた眉は、実は誇らしげに高々と上がっている。
今にも淋しげな溜息をつかんばかりの唇は、実は今にも何かを宣言しようとしている。
こらえきれない悲しみをたたえたような、何か大切なものを諦めたような、その憂いの表情は。
――無能な国王を押しのけ王国の中枢に立ち、勝ち誇って笑う王妃の姿を描いたものだった。
つまり「ほほえみの廃妃」は、力強く君臨した、ひとりの「王」の絵姿である。
*
「……あああ! あの画家、いったい何枚描くつもりなんだ! どこ行っても母上に見張られているみたいじゃないか。うう、さぼれない……」
画家が描いた絵はみな王太子の下へ贈られる。王宮の各部屋に一枚ずつ母の絵を飾られ、さぼらず勉学に励んだお陰で、王妃の息子である王太子は、英明な君主として歴史に名を残したという。