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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蹴り飛ばせ理性

作者: Rainy

 結婚する、と告げた時、吉岡は驚くほど冷静だった。そう、と呟いて、おめでとうと言って、そうして、グラスに残っていたに残っていたビールだかカシスオレンジだかを飲んだ。息を呑むくらい綺麗な笑顔で、おめでとうと言ったのだ。俺が何も言えないでいるうちに、吉岡は昨日見たテレビの話を始めた。俺の話なんて無かったみたいに。

 俺は、いつも笑顔を絶やさない吉岡の顔が曇ることを覚悟していた。他でもない俺のせいで、彼はとても傷つくのだろうと。でも違った。だから、一気にわからなくなってしまった。何もかもが。

 安っぽい居酒屋で、俺が決死の宣言をした日からずっと、吉岡は何事もないかのように俺と接していた。朝、会社で会えばいつも通りに俺に笑いかけるし、普通に会話もするし、仕事終わりに俺を飲みに誘ってくることさえあった。どうしていいのかわからなくて、吉岡からの飲みの誘いは片っ端から断った。そのたびにあいつは、何でもない顔をしながら、「また今度な」、と言うのだ。

 怖かった。だって俺は、吉岡を、裏切ったのだから。責められて、恨まれて、無視されるくらいがちょうどいいのに。あいつが何を思っているのかわからない。子供の頃から何年もずっと一緒にいたのに、こんなに吉岡のことがわからないのは初めてだった。どうして、どうしてあいつは、俺のことを責めないのだろう。やけに味気ない昼飯を食べながら、妻になる彼女と、吉岡の顔を、交互に思い浮かべた。人で溢れた社食はこんなにも騒がしいのに、何も聞こえないような気がした。

 ぽん、と肩を叩かれた。振り返ると、さっきまで俺の頭に浮かんでいた顔が、食べ終わったらしいトレイを持ってにっこり笑っていた。

「片桐」

「ああ、うん。どうした?」

「今日さ、飲み行かない?」

「あー、えっと、今日は」

「今日も、駄目?最近ずっとそうじゃん、たまには行こうよ」

 何一つ変わらない笑顔で吉岡はそう言った。俺にはもう、頷くしか選択肢が無かった。ゆっくり頷くと、じゃあ仕事終わったらな!と吉岡はトレイの返却口へ行ってしまった。残された俺は、やっぱりどうしていいのかわからなくて、少しだけコップに残っていた水をちびちびと飲んで、あいつの姿が見えなくなるのを待っていた。

 吉岡の姿が見えなくなって、やっとのことで息をつく。周りの喧騒がどっと耳に入り込んできた。昼休みはもうすぐ終わる。空になった皿を見て、ああそうか、片づけなきゃいけないんだっけ、と当たり前のことに気が付く。トレイを手に立ち上がると、毎日持っているはずのトレイがやけに重かった。……どうやら相当、まいっているらしい。

 幼馴染とか、親友とか、同僚とか、俺と吉岡のことを知っている人間は、いろいろな名前で俺たちを呼ぶ。そのどれもが間違っていないけれど、どれもが、正解ではない。だからといって誰が悪いわけでもなくて、たぶん間違っているのは俺たちで。

 いや、そうじゃ、ない。間違っているのは、俺だけなんだろう。吉岡は、いつだって真っ直ぐで、強い。俺には、間違いを抱えきるだけの覚悟がないんだ。だから、だから。



◇◆◇



「お姉さん、ビール二つね。あと、もやしナムルと、揚げだし豆腐と、あと……」

 吉岡が店員に注文しているのを見ながら、彼の顔にいつもと違う表情を探した。でもどこにもなくて、俺はいちいち落ち込むしかなかった。吉岡は、どこまでも、いつも通りなのだ。

 吉岡が俺を責めない理由を、あの日からずっと考えていた。そうして導き出した結論は、吉岡にとって俺は、最初からその程度の存在だったということ、だ。

 幼馴染で、親友で、同僚で。そのどれも正しい。でもそれだけじゃない。少なくとも、俺はそう思ってる。

 俺たちは、確かに、恋人だったはずなんだ。

「片桐さ、揚げだし豆腐好きだよな」

「……うん」

「頼んどいた」

「ありがとう……」

 頬杖をついた吉岡がこっちを見ている。子供の頃も、学生の頃も、今も変わらない笑顔のままで笑っている。そうして俺は、またわからなくなる。吉岡の笑顔がどんな意味を持つのかわからなくなって、無性に逃げ出したくなる。

 俺はとっくに逃げたはずなのに、と思ったら、笑えた。何笑ってんの、と吉岡が聞くから、何でもないよと答えた。俺にはそう答えるしかなかった。

 やがて頼んだビールとつまみが何品か運ばれてきて、とりあえず、と乾杯をする。少しだけ口を付けるけれど、どんな味かよくわからない。もう俺には、わからないことだらけだ。

「なあ、片桐」

「何?」

「おまえさ、俺のこと、ずっと避けてるだろ」

 気が付くと、彼は、もう笑ってはいなかった。至極真面目な顔で、俺を見ていた。何も言えない。さっきビールを飲んだはずなのに、俺の口の中はカラカラに乾いていた。

 何を言ったらいい。避けていたのは事実だ。だって、怖かったから。吉岡が怖かったから。片桐、と俺のことをなんでもない声で呼ぶのが怖かったから。このまま避け続けたらどうにかなるかもしれない、なんて、淡い期待をして距離を置こうとしていた。結果的には、失敗したのだけれど。

 ねえ片桐、と吉岡は俺を呼ぶ。彼はまた笑顔に戻っていた。

「俺、何番目でもいいよ」

「はっ……?」

「ねえ、彼女の名前なんていうの?結婚する相手」

「……美里」

 そう、と吉岡は呟く。ビールを飲んで、つまみのナムルを食べている。吉岡は、居酒屋に来るたびにもやしナムルを食べていた。少し辛くて、味が濃いのがいいんだと前に言っていた。何から何まで、いつも通りだ。俺が結婚すると告げたあの日の前も後も一緒なのだ。得体の知れない寒気が背中を駆け上がって手が震える。どうして吉岡は何も変わらないんだ。どうして、どうして。

 何を言えばいいのかと必死に頭を働かせていると、タイミングよく店員が現れて、揚げだし豆腐を置いていった。とにかくやることが欲しくて、割り箸を割る。別に食べたいわけでもない揚げだし豆腐を口に入れて飲み込むことだけに集中した。

「俺、そのミサトさんの次でいいよ。おまえのそばにいられるなら何番目でも」

「……吉岡、何言ってんの」

「ん?何が?」

「…………」

 黙った俺をどう思ったのか、吉岡は空のジョッキを手に店員を呼んで、追加のビールを頼んでいた。とても、自然だった。

 結婚を決めたのは、吉岡のためでもあった。自分勝手なのはわかっているけれど、それでも。俺とずっと一緒にいて、何も生み出せない関係を続けるよりはいいだろうと思ったのだ。だから結婚した。吉岡にも、素敵な女性と一緒に、あたたかい家庭を作ってほしいと思ったから。俺のことなんて忘れて、そうじゃなくてもせめて、ただの友達に戻って、普通の生活を送れたらと、そう願ったのだ。そのためなら、責められてもいいと思った。吉岡に嫌われて憎まれても、それでいいと。

 なのにどうして、吉岡はそんなことを言うのだろう。俺とこのままいたって、俺たちの関係ではどこにも行けないのに。周りから祝福されるわけでも、堂々と公言できるような関係でもないのに。どうしてこうなってしまうのだろう。俺は吉岡に、幸せになってほしい。それは本当だ。

「……吉岡」

「どうしたの、そんな顔すんなよ片桐」

 吉岡は困ったように笑った。そんな顔ってどんな顔だろう。わからないけれど、俺は今、すごく大事なことを言おうとしているのは確かなんだ。ゆっくり息を吸って、吐き出す。なのに出てきたのは、やけに幼稚な言葉だけだった。

「あの、ごめん、な」

「なんで謝るんだよー、俺、怒ったりしてないよ?」

「だって俺は!俺は……おまえを、裏切った」

 きょとんとした吉岡の顔が見える。心底不思議そうで、俺が何を言っているかわからない、とでも言いたげだ。俺は確かに事実を言った。俺と吉岡は、本当に、好き合って一緒にいたはずなんだ。周囲に関係を隠していたから、それを証明してくれる人は俺たちのほかにいないけれど。俺は間違いなく、吉岡を裏切った。それなのに、吉岡のこの反応は、どういうことなのだろう。吉岡が俺を嫌いになってくれなくちゃ、意味が無いのに。そうじゃないと、吉岡は幸せになれないのに。

 いや、本当はきっと、こんなのは後付けの理由に過ぎないのだ。吉岡が普通の幸せを得られるようになんて、そんなの。俺は怖かったんだ。こうやって世間からこそこそ隠れ続けるのが怖くて、ずっと吉岡を好きでいる自信も、吉岡が俺をずっと好きでいてくれる自信もなかった。だから結婚を利用しただけ。世間の言う『普通』の中に入りたかっただけ。そんな俺が、吉岡にどうこう言えるような立場じゃないのはわかっている。

 でも、でもどうしても、吉岡が怖い。

 追加で頼んだビールを飲み、ナムルを食べながら、吉岡は俺を見た。目が合った瞬間、体が動かなくなった。何も言えない。俺は、この真っ直ぐな目に対する言葉を知らない。

「片桐さ、何か勘違いしてない?」

「……え?」

「俺、片桐の一番になりたいとは思ってないよ。そりゃあ一番になれたらいいけど、でもそれはどうでもいいんだ。片桐のそばにいられたらそれでいい。片桐の中に俺じゃない誰かがいたっていい。だって俺の一番は片桐だから」

 そう言って吉岡は、俺が今まで見た中で一番の笑顔を見せた。この場所に、そして俺には、不釣り合いなほど美しい笑顔だった。

 駄目だ、俺は、手を伸ばしてはいけない。もう無理なんだ。これ以上吉岡のそばにいてはいけないんだ。俺たちが不幸になる前に、早く距離を作らなきゃいけないんだ。

 それなのにどうして、吉岡の笑顔はこんなにも美しいのだろう。

「俺は、吉岡に幸せになってもらいたかった、から……ちゃんと、人に祝福されるような幸せ、そういう幸せを手に入れてほしいと思ったから!だから――」

「片桐、俺はね、幸せになりたいとは言ってないよ」

 吉岡は笑っていた。それなのに、今にも泣きそうだった。泣かないで、と言いそうになったけれど飲み込んだ。もう、終わりにしなきゃいけないから。駄目なんだ。俺はもう、吉岡に触れちゃいけない。吉岡が泣いたとしても、その涙を拭ってはいけない。だって、そんなことをしたら、俺は。きっとまた吉岡の手を取りたくなってしまう。それじゃ駄目なんだ。

 でも、吉岡は泣かなかった。その代わりに、綺麗な笑顔が少し歪んだ。かたぎり、と、小さくて消えそうな声が聞こえる。

「そんな奴と幸せになるより、俺と一緒に不幸になって?」

 やっぱり俺は何も言えなかった。俺の首が勝手に頷かないようにビールを飲もうと思ったのに、俺のジョッキは空だった。揚げだし豆腐がのっていたはずの皿も、もう空っぽだった。行き場を失った手がふらふらと彷徨ってしまう。

 左手に指輪、目の前に吉岡。家に帰れば、俺が欲しかったはずの幸せがあるのに。どうして目の前の男はこんなに綺麗に笑うのだろう。どうしてそんなに澄んだ声で俺を呼ぶのだろう。

 片桐のジョッキ空じゃん、という声を聞いて、ふと我に返る。いつのまにか吉岡が店員を呼んでいて、何を頼むか俺に聞くでもなく、スクリュードライバーを二つ頼んでいた。それから、もやしナムルと揚げだし豆腐も。

「ねえ片桐、この後、二軒目行こうよ」

「えっ?」

「ね、行こう」

 にっこり笑う吉岡に、俺は頷いてしまった。よかった、と呟く吉岡はやっぱり綺麗で、たまらなくて、切なかった。


「そんな奴と幸せになるより、一緒に不幸になろう」という台詞が浮かんだので使ってみました。この台詞を言わせるためだけの小説といっても過言ではない。

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