七話
「メイ!!!!」
今にもその翼竜に飛び掛かろうとするウィルを、エールが片手で静止する。その華奢な体からは想像もつかない程の強い力だった。無言のまま向けられる強いまなざしに、ウィルはぐ、と唇を噛んで両の手を下げた。途端に彼女の瞳がふっと緩む。
「大丈夫。落ち着いて」
その声色は優しげなものだったが、もう一度前に向き直る横顔には緊張の色を湛えている。ウィルは何も言えないまま頷くと、横目で壊れた馬車を見る。
状況はこうだ。草の深い平地の上に壊れた馬車が横たわり、隣には負傷した馬が倒れている。彼らはもう走れそうにない。その付近に、おのおの腕や足を押さえてうずくまる乗客が、一、二、……七人。全員大事に至る怪我はしていないようだ。そしてその乗客達、とりわけ小さな子供を守る様に槍を構えている牡丹と、ウィルの隣でまっすぐ前を見据えているエール。__彼女の視線の先には、黒々とした鱗の隙間から鈍い銀色の角を生やした竜。その黒い羽の中に捕えられているメイ。
竜はメイを連れて飛び去ろうとはしないのか、他の獲物に目を付けたのか、空中でゆったりと羽ばたいたままこちらを窺っている。充血した白目の中にぎょろりと浮かぶ大きな赤い目。背筋を悪寒が走るのが分かる。
「エールさん! 乗っていた旅客は全員無事ですわ!」
「……よかった。牡丹ちゃんは?」
「無論。」
槍を携えたまま牡丹が駆け寄り、エールの肩に手を置く。
しかしその悠長な様子に、ウィルは焦りを苛立ちを覚えていた。人の妹が魔物に捕えられているというのに、こののんびりとした態度は一体何なんだ? 今にも怒鳴りたいのを堪えてぎゅっと拳を握る。
ここで自分が何かを言ったところで何も出来ないことはよく理解していた。こんな平和慣れした体では、剣一つもまともにふるえないのだ。
「ぅ、ひっく、おにいちゃあん……!」
「……っ、メイ!!」
長い爪に体をがっしりと捕えられたメイが苦しそうにあえぐ。
握った掌に爪が食い込んで痛みが走る。
もう限界だった。
「お前!! 武器持ってるんだろ!? 助けろよ!! あんな小さい子供が今にも食われそうになってるんだぞ!?」
ウィルは牡丹の肩を鷲掴み、半ば喚く様に怒鳴り散らした。血の滲んだ掌が布と擦れて痛い。両目からはぽろぽろと涙が零れて、地面に吸い込まれていく。それでも牡丹は微動だにせず前を見据えていた。いい加減にしろともう一度彼が言おうとしたところで、突然ぐい、と腕が引かれウィルは地面に倒れ込んだ。
と、空を切り裂くような音が頭上を駆ける。情けなく尻餅をつき、訳が分からないまま上空を見上げた少年の前には、更に目を疑うような光景が広がっていた。
眩い光を放つ黄金色の翼の鳥、そしてその上に乗る__エールの姿。先程の轟音は、あの巨鳥の起こした風であった。牡丹はそれを予期していたかのように彼の腕を引き、伏せさせたのだ。
「あれは……“スパルナ”? は、初めて見た……超希少種の魔物じゃないか」
「良く御存知ね……そう。彼女は“召喚士”」
「しょうかん、し?」
召喚士という言葉には覚えがあった。確か村で読んだ本にそんな言葉が載っていたはずだ。彼等は魔物と心を通わせ、コミュニケーションをとることが出来る。また、絆を結んだ魔物と契約を交わし、必要な時に呼び出すことも出来る。召喚士と契約した魔物のことを特別に「召喚獣」と呼び、彼等は召喚士の声に呼応して駆けつける。ゲートと呼ばれる門から口寄せる事もあれば、直接飛んでくる事もあるという……。
どちらにせよ、エールがあのスパルナ__氷の山の頂上にしか住まないと言われる幻の魔物、とウィルが読んだ本には書いてあった__を呼び出したことに間違いはなかった。
メイを抱えた翼竜は予期せぬ敵の襲来に戸惑いを隠せない様子で、グルルル、と低い唸り声をあげる。
「通常、あの種の竜が人を襲う事は滅多にありません。そんな彼等が馬車を__妹さんを襲ったと言うことは相当の興奮状態にある筈。その状態で我々が下手に刺激を与えたらどうなりますか?」
「……。」
「食われる、とまでは言わなくても、妹さんの安全は保証できませんでしたね。彼女は召喚士の知識と能力を生かして、翼竜が平静を取り戻すタイミングをじっと待っていた」
ウィルの背中に手を添えて立たせながら、牡丹は淡々と言葉を紡いでいく。
もしあの時、自分が飛び出していたら。考えるだけで、彼の心臓はドクンと大きく音を鳴らした。自分はもちろん、メイの命だって危なかったかもしれない。
しかし、じっと待っていれば竜は飛び立ってしまうかもしれないし、新たに他の人を襲うかもしれない。そんな状況であれが落ち着きを取り戻すのを待つというのは相当な賭けだったはずだ。それを後押ししたのは、召喚士としての彼女の経験と自信であろう。
ウィルは鼓動の高まるのと共に、感心と申し訳無さが同時に押し寄せてくるのを感じた。
「とにかく! エールさんがあれの注意を惹きつけ、私が後衛に回ります。あなたはメイさんを!」
「え、え、お、俺!?」
言うや否や、牡丹が地面を蹴って走り出す。重そうな槍を片手に構えているとは思えないスピード。
数秒と経たぬ間に辿り着き、槍をその巨体の足の間に立てかけ、動けぬ様にとがっちり押さえこむ。
見惚れている暇はなかった。大きく空を旋回したスパルナは、一度静止すると、エールを乗せたまま真っ直ぐに翼竜に向かって突っ込んでいく。
冷静を取り戻したとはいえ敵の出現で怒りを覚えた翼竜は歯をギリギリと鳴らし目を血走らせてスパルナを睨みつけ、吠える。空気がびりびりと震え、立っている事すら困難だ。耳を押さえて立った姿勢を保つのが精一杯で、前に進めない。牡丹からああは言われたが、何をすればいいのか分からない上にこのままでは動けそうにもない。
「きゃあああ!!!!」
思い切り揺さぶられてメイが悲鳴を上げる。目の前に視線を寄越せば、牡丹も槍で体を支えるのがやっとのようだった。しかし一人、彼女だけは。
スパルナに乗って翼竜の方へと真っ直ぐに飛び込み、手を伸ばせば触れられそうな位置で、恐怖や焦りの色を一切感じさせないその横顔。彼女はそっと両の手を差し伸べ、鼻先に顔を寄せる。
__食われる!
自殺行為としか思えないその姿に、思わずウィルは目を逸らした。
「少し大人しくしてもらえる?」
鼓膜が破れそうな程の轟音の中、その声は何故かよく響き渡った。
どれくらいの時間が流れたのだろうか。いや、時が止まっているようにも思えた。
まるでその声は子守歌の様に辺りに響き、先程まで暴れていた翼竜はしゅう、と体からは力が抜け、倒れ込んだ。途端に、支えの無くなった羽から少女が落とされる。
「きゃあああああ!?!?!」
「わ、め、メイっ!!」
そうなればもう無我夢中だった。ウィルは土を勢いよく蹴って飛び出し、メイが地面に触れようかというそのぎりぎりに滑り込んだ。涙をいっぱいに湛えて赤くなった瞳の少女がすっぽりと、その腕の中に収まる。ほっとしたのだろう、堰を切ったように泣きじゃくる妹をウィルは強く抱きしめた。
ありがとう。同じように潤んだ瞳を拭ってウィルはそう言おうと顔をあげた____の、だが。
「うわぁあああああああぁぁぁっ!?!?!?」
「牡丹ちゃんごめん! パス!」
重力に任せて、翼竜の体がぐらりと傾き物凄い勢いでこちらへ落ちてくるのだった。このままでは確実に間に合わない。ウィルは情けない叫び声を上げ妹の頭を抱え込み自分も小さく体を丸める。状況の割に能天気なエールの声が響いたかと思うと、呆れるような苛立ったようなため息が聞こえて、__次の瞬間。
ヒュンッ。快い音が数度響き渡り、静寂が訪れ__風が吹いた。
頭を抱えたまま、恐る恐る顔を上げる半泣きの少年。見れば、頭上で八つ裂きになった翼竜が青い光になって消えていく。まさか、と振り返ってみると、そこには槍を片手に裾の埃をパンパンと払う牡丹の姿。ぞわり。助かった安堵より先に寒気が背中を走った。
仏頂面の彼女は二人をちらりと一瞥し無事を確認して、スパルナに乗ってゆっくりと下降するエールを睨みつける。草の上にぴょんと飛び降り、ピンチを救ってくれた相棒に頬を摺り寄せてからゲートへと帰還させる、そのタイミングを待ち構えて牡丹は大袈裟な咳ばらいをした。
「ちょっと、エールさん」
「ありがとうスパルナ、ゆっくり休んでね」
「話を聞きなさい!」
「んえ?」
「あの場で眠らせる事を選んだのは賢明な判断です、でも一歩間違えたらウィルさんたちがぺしゃんこだったでしょう! 気を付けて下さい!」
「えっへへー……でもみんな無事でよかったよねえ。ね、メイちゃん?」
あくまでマイペースな少女の額を軽く小突いて牡丹が説教を始める。
その様子に、腕の中のメイがぷっと吹き出した。あれだけ怖い思いをしたというのに、こいつも随分タフな奴だな。ああもう、寿命三年くらい縮んだわ! はああ、と零すため息は重たいくせして、この短くもリアルなドラマに早くなった鼓動が鳴り止まないことに、本人は気付いていたのか、いなかったのか。
**
「あー……どうする? 馬車粉々だねえ」
「それでしたら徒歩で行ける距離に宿屋があります。そこで街に連絡いたしましょう」
壊れた馬車の残骸を見て呟くエールに、御者が答える。彼の腕に巻かれた包帯は先程メイと牡丹が施したものだ。乗客全員の無事が確認されたため、全員で歩いてその宿屋まで行く事になった。
勿論、次こそは魔物に襲われないよう、牡丹とエールの二人は戦闘態勢にいつでも入れるようにしている。
メイの手をしっかりと握り、二人に挟まれるようにして歩きながら、ウィルは心の中で思った。
(この人達、普通の女の子とは思えないくらい強いけど……一体、何者なんだろう)
しかしそんな疑問はすぐに吹き飛ぶことになる。
それよりも、さっきの小さな冒険の所為かやけに御腹が空いている。早く宿屋に行って夕食にありつきたい、そればかりが頭の中を巡っていた。
「……夜ご飯なんだろうなあ」
「お兄ちゃんもうそんな話? 食い意地はってるね!」
「私はビーフシチューがいいな。野菜もたっぷりいれて。」
「こら、ちゃんと前を向いて歩きなさい。……私は甘いものが食べたいです」
「牡丹ちゃんけっこう可愛いよね」
「お黙りなさい」
(まあ、そんなことどうでもいいか!)
頭に浮かび、消えていった問いを、少年はいずれ思い出すことになる。それこそ今はまだ考えなくともいい、ずっとずっと、__先の話だ。