語られない震災 -もう、毎年同じ悲しみだけを流さなくてもいい-
※震災当時に目撃した死や津波について触れています。また、震災報道や「被害者」という立場について、厳しい意見を含みます。
震災から十五年が過ぎた。
また今年も、お盆が近づけば流れるのだろう。
津波の映像。墓前で手を合わせる家族。震災で家族を亡くした方達の「家族を返してほしい」という言葉。
その映像が悪いと言いたいのではない。
あの日、何が起きたのか。
どれほど多くの命が失われたのか。
その事実を忘れたいとは思わない。
知らない世代へ伝えていくことも必要だと思っている。
けれど、震災の記録を残すことと、毎年同じ人に同じ悲しみを語らせることは違う。
家族を失った悲しみは、十五年経っても消えないだろう。
忘れる必要もない。
命日やお盆に思い出し、会いたい、返してほしいと願うことを、誰にも止める権利はない。
それでも私は思う。
もう、いつまでも被害者でいるのはやめてほしい。
冷酷な物言いだと思われるかもしれない。
「自分の子供を亡くしていないから、そんなことが言えるのだ」
そう言われれば、そうかもしれない。私には、子供を亡くした親と全く同じ痛みは分からない。分かるなどと言うつもりもない。
ただ、私はあの日を安全な場所から眺めていたわけではない。
自分自身も流されて電柱に掴まった。
目の前を、ベビーカーが流されていった。
手を伸ばし、届いた人は引き上げた。
電柱につかまらせ、屋根へ上げることができた人もいた。
けれど、すべての手には届かなかった。
助けたくても助けられない。
あと少し手が届けば、あと10cm届けば。引っ張ることができたかもしれない。
それでも、どうにもならなかった。
あれは地獄だった。
震災の翌日、私は家を目指した。
道路も交通機関も、まともに機能していなかった。帰る途中には、津波に流され、亡くなったまま引っかかっている人もいた。その姿を見ながら歩いた。
テレビでは津波の映像が繰り返し流される。
しかし、映像として残っているものは、安全な場所から撮影できた人か、撮影したあとに逃げることができた人が残したものだ。
撮影した人を責めたいのではない。
その映像もまた、あの日の事実だ。
ただ、本当に逃げるしかなかった人は撮っていない。
誰かへ手を伸ばしていた人も、何かにつかまっていた人も、目の前で命が流されるのを見ていた人も、携帯を構える余裕などなかった。
最も切迫した場所ほど記録は残らない。
そして、そこにいた人ほど語らない。
語らないのではなく、語れなかったのかもしれない。
地獄だったから。
■ 帰る道をつないだ人たち
あの日、警察も消防も手が回らない道路で、交通整理をしていた人たちがいた。
いわゆる、ヤクザと呼ばれる人たちだった。
片側三車線の幹線道路。
その真ん中に立ち交通整理をしながら、行き交う車を止めていた。
彼らは歩いている人に行き先を尋ね、同じ方向へ向かう車を探した。
車を止め、見知らぬ運転手へ頭を下げ、乗せてもらえないかと頼んでくれた。
私も、そうして何台もの車を乗り継いだ。車が見つからない区間は歩き、翌日になって、ようやく家へ帰ることができた。
彼らが普段何をしていたのかを美化するつもりはない。
しかし、あの日、あの場所で彼らがしたことは、確かに人を助けた。
その事実まで、肩書だけで消してよいとは思わない。
私を家へ帰してくれたのは、行政の制度ではなかった。
意援金でもなかった。
六車線の道路へ出て、自分の体で車を止めていた人たちだった。
けれど、彼らの姿にスポットが当たることはない。
感謝状も、きれいな美談も、公式の記録もない。
報道されるのは、いつも同じ種類の悲しみばかりだ。
家へ着くと、建物は流されていなかった。
壊れてもいなかった。
それを知った人から、こう言われた。
「おまえはいいよな」
家が残った。
ただ、その一つだけを見て言われた。
私が帰り道で何を見たのか。
誰の手をつかみ、誰の手には届かなかったのか。
どうやって家まで戻ったのか。
そんなことは見ようともされなかった。
家が残ったことと、傷つかなかったことは同じではない。
身体に大きな怪我がなかったことと、何も失わなかったことも同じではない。
その後、私たちの地域は陸の孤島になった。
支援が来たのは一番最後だった。
それでも私たちは、毛布も米も服も、自分たちがその時に必要な分だけ残して放出した。
ほかに必要としている人がいると思ったからだ。
自分たちも被災者だった。
それでも、持っているものを分けた。
だから、別の被災地で災害が起きるたび、ネットに並ぶ言葉を見て腹が立つ。
「ボランティアが来ても役に立たない」
「中途半端にするなら来なくていい」
「必要な物資だけ送ってほしい」
何様なのだろうと思う。
もちろん、発災直後に道路や受け入れ態勢が整っておらず、個人が無秩序に押しかければ、救援活動を妨げることもある。自分の食料も寝る場所も用意せず、被災地へ負担をかける人まで歓迎しろとは思わない。
けれど、一時的な安全対策としての「今は来ないでほしい」と、善意で動こうとする人そのものを「役に立たない」と切り捨てることは違う。
ボランティアは、被災者のために用意された無料の従業員ではない。
自分の暮らしがあり、仕事があり、家族がいる。
それでも時間と金を使い、何かできないかと考えて来てくれる、一人の人間だ。
完璧な支援はできなくても、車を一台止めてくれる人がいる。
行けるところまで乗せてくれる人がいる。
混乱した道を整理し、帰る道をつないでくれる人がいる。
その小さな助けをつないで、私は家へ帰った。
■ 義援金には見えないもの
能登半島地震では、発災直後、個人ボランティアの現地入りを控えるよう呼びかけられ、義援金による支援が案内された。
道路が寸断され、余震も続く中、二次被害を防ぐ必要があったことは分かる。
けれど、その呼びかけは、いつしか別の言葉へ変わっていった。
「現地へ行くな」
「素人は迷惑だ」
「支援したければ、金だけ送ればいい」
もちろん、金は必要だ。失った家を建て直し、暮らしを取り戻すには、善意だけではどうにもならない。
しかし、義援金が拾い上げられるのは、制度が確認できる被害が中心になる。
亡くなった人。
行方不明者。
怪我をした人。
壊れた家。
罹災証明に記された数字。
公平に配るためには基準が必要だ。それ自体を否定するつもりはない。
けれど、家が残った者の目に焼き付いたものは、そこには書かれない。
手を伸ばしても届かなかった命も、遺体の脇を歩いて帰った道も、支援が来るまで孤立していた時間も、証明書にはならない。
義援金でしかできない支援がある。
人にしかできない支援もある。
お金は、道路で立ち尽くす人のために車を止めてはくれない。
見知らぬ運転手へ頭を下げ、家へ帰る道をつないではくれない。
なぜ私たちは、後者を「役に立たない」の一言で切り捨ててしまったのだろう。
被災したことは、他人の善意を当然のものとして受け取ってよい理由にはならない。
「やってもらって当たり前」と思い、差し出されたものを値踏みし、足りないと責める。
それはもう、助けを求めることとは違う。
他人の善意への甘えだと、私は思う。
■ 語られなかった悲しみ
ある町の一家は、あの日、二人を亡くした。
父親は会社を経営していた。
地震のあと、社員たちへ避難するよう指示し、自分は最後まで残った。社員は全員無事だった。社長は帰らなかった。
娘は、恋人と出かけていた。
恋人は消防士だった。震災が起きれば、すぐに仕事へ戻らなければならない。
自分が戻らなければならない。
そうして救助する側へ戻ったあと、娘は津波に流されて亡くなった。
一つの家から、父と娘がいなくなった。
近くの郵便局でも、局長が最後まで残った。郵便局は建物ごと津波に流された。
彼らは死ぬために残ったのではない。
社長は社員を逃がそうとした。消防士は誰かを助けるために職務へ戻った。郵便局長にも、その場を最後に離れなければならないと思う理由があったのだろう。
それぞれが、その瞬間に果たすべきことを選んだ。
結果は、あまりにも残酷だった。
亡くなった人の家族だけが苦しんだのではない。
先に避難させてもらった社員たちも、自分たちを逃がして亡くなった社長のことを抱えて生きている。
職務へ戻った消防士も、自分の判断が間違っていなかったとしても、大切な人のそばを離れたあの日を何度も思い返しただろう。
郵便局から先に避難した人にも、最後まで残った局長への思いがある。
誰かを助けた人が、別の誰かを助けられなかった。
誰かに救われた人が、救ってくれた人を失った。
震災は、人を被害者と加害者へきれいに分けてはくれない。
あの日には、多くの死があった。
その一つ一つの周りに、さらに多くの悲しみがあった。
家族の悲しみ。
助けられなかった人の悲しみ。
先に逃がされた人の悲しみ。
職務へ戻った人の悲しみ。
生き残った人の悲しみ。
けれど、多くの人は語らなかった。
語れなかった人もいる。
語りたくなかった人もいる。
自分より辛い人がいると思い、口を閉ざした人もいる。
話したところで伝わらないと知っていた人もいる。
そもそも、マスコミから尋ねられなかった人もいる。
語らない人に、悲しみがなかったわけではない。
■ 被害者であることは、免罪符ではない
子供を亡くした親が辛いことは分かる。
それでも、災害時の判断を振り返る報道や議論の中で、現場にいた教師個人へ責任を集中させる言葉に触れるたびに思う。
目の前で子供を助けられなかった教師もまた、何も感じずにその後を生きてきたわけではないはずだ。
助けたくても助けられず、あの日の光景を抱えてきた人もいるのではないだろうか。
地震と津波は、紛れもない天災だった。
避難計画や指揮系統に問題があったのなら、検証しなければならない。教育委員会や運営組織の備えが足りなかったなら、責任を問い、次の災害へ向けて改める必要がある。
子供を亡くした親が「あのとき別の判断をしていれば助かった。これは人災だ」と考える気持ちも分かる。
けれど、防げた可能性を検証することと、現場にいた一人の人間を加害者にすることは違う。
結果を知っている今なら、正しい避難経路も、判断の遅れも指摘できる。
しかし、あの瞬間にいた人には、津波がどこまで来るのか、どの道が安全なのか、あと何分残されているのか分からなかった。
組織の問題を、目の前で子供を救えなかった現場の個人へ背負わせることは違う。
検証は、次の命を救うために行うものだ。
誰か一人を悪人にし、怒りを受け止めさせるために行うものではない。
大きな組織は、言葉を選び、手続きを重ね、簡単には姿を見せない。
その間、遺族の怒りを直接受けるのは、いつも顔の見える現場の人間だ。
教師や職員が矢面に立ち、責められ、心をすり減らしていく。やがて持ちこたえられなくなれば、組織から切り離される。
責任を負うべき上の仕組みは残り、一番下で判断し、動き、同じ災害を経験した人だけがいなくなる。
問題に決着がつき、当事者がそれぞれ前へ進み始めたとしても、それまでに現場へ向けられた言葉まで消えるわけではない。
その間に傷ついた人の心も、失われた時間も、決着によって元へ戻るわけではない。
責められて壊れ、最後に切られるのは、いつも下にいる人ではないか。
私は、そこにも目を向けてほしい。
親は、子供を亡くした出来事において、紛れもなく被害者だ。その事実は変わらない。
しかし、被害者は、その後に何をしても許される存在ではない。
悲しみや怒りを理由に、助けられなかった現場の人を責め、その人の心や人生を壊せば、別の出来事では自分が加害する側になり得る。
被災したことを理由に、ボランティアの善意を当然のように要求し、差し出した相手を罵れば、その瞬間には自分が誰かを傷つけている。
過去に受けた被害は消えない。
だからといって、現在の加害が免除されるわけではない。
自分たちが理不尽に傷つけられたからこそ、別の誰かを同じように理不尽な目へ遭わせてはいけないのではないか。
「私たちは被害者だ」と言い続けている間に、自分たちの言葉が誰を追い詰めているのか。
一度、立ち止まって見てほしい。
責めている自分たちもまた、誰かにとっての加害者になってはいないか。
■ もう、毎年同じ悲しみだけを流さなくてもいい
震災で亡くなった命も、交通事故で突然奪われた命も、急な病気で失われた命も、残された人にとっては一つしかない命だ。
遺体が戻らない苦しみも、震災だけに存在するものではない。
私自身、幼い頃にそれを経験している。
それなのに、震災で失われた命だけが、毎年「特別な悲劇」として流され続ける。
交通事故で子供を失った家族を、十五年間、毎年訪ね続けるだろうか。
突然の病気で家族を亡くした人に、同じ言葉を何度も求めるだろうか。
おそらく、しない。
震災には日付があり、映像があり、大勢の人が同時に亡くなった。
番組にしやすく、多くの人の感情を動かしやすい。
しかし、悲しみは番組のためにあるのではない。
毎年カメラを向け、同じ言葉を求め続ければ、その人は再び「震災で家族を失った人」になる。
その人にも、震災のあとを生きた十五年があったはずなのに、カメラが求めるのは、あの日から動かない姿ばかりだ。
マスコミやネットが、その人をいつまでも被害者の場所へ留めているのではないか。
正式に取材される側もまた、周囲から特別な被害者として扱われ続けるうちに、その場所から降りにくくなってはいないか。
悲しみ続けることと、被害者であり続けることは同じではない。
悲しみは、その人の中にあっていい。亡くなった人を、いつまでも思っていていい。
けれど、「自分は被害者だから」という言葉に、他人を付き合わせ続けないでほしい。
助けられなかった人を、いつまでも責めないでほしい。
差し出された善意を、当然のものだと思わないでほしい。
自分の悲しみだけが、特別に深いと思わないでほしい。
辛いのは、あなただけではない。
あの日、声を上げなかった人にも、言葉にできない地獄があった。
もう、毎年同じ映像と、同じ遺族の涙だけを「震災の記憶」として流さなくてもいい。
忘れろと言っているのではない。
語るなら、カメラの前で語れる人の悲しみだけを、震災のすべてにしないでほしい。
片側三車線の幹線道路に立ち、見知らぬ人を帰そうとした人たちがいた。
自分も被災しながら、米や毛布や服を差し出した人たちがいた。
誰かを先に逃がし、最後まで残った人たちがいた。
誰かを助けるために職務へ戻り、大切な人を失った人がいた。
助けられた命と、助けられなかった命の両方を抱え、何も語らず生きてきた人たちがいた。
その人たちも、同じ震災を生きた。
語らない人にも、語れない地獄があった。
語られなかった人の中にも、誰かを救った手があった。
私が残したいのは、そのことだ。




