第8話:昼下がりのキャンパス、あるいは隠蔽された魔盾
昼休みの大学キャンパスは、平和という概念を煮詰めたような場所だ。
芝生でランチを広げるサークル連中、講義の愚痴をこぼす学生たち。
俺、月岡蓮は、その喧騒の端っこ――中庭のベンチの隅に座り、コンビニのおにぎりを頬張っていた。
ここなら誰の視界にも入らない。まさに「背景」にふさわしい特等席だ。
……はずだった。
「あ! 見つけた!」
その声が、俺が展開していた「対人拒絶の結界」を軽々と貫通してきた。
水島凛だ。
彼女は講義の資料を抱え、小走りで近づいてくる。その手には、先日俺が押し付けた透明なビニール傘が握られていた。
(……チッ、返却に来たか)
俺は逃走ルートを一瞬で計算したが、既に捕捉されている。逃げれば余計に目立つ。
俺は諦めて、無愛想に海苔を噛み切った。
「……何の用だ」
「もう、探しましたよ先輩! 先日のコインランドリーのお礼と、この傘をお返ししようと思って」
彼女はベンチの前に立ち、少し息を弾ませて傘を差し出した。
やはり、捨ててはいなかったか。
「……言ったはずだ。それは壊れてるから捨ててくれと」
「嘘ですよ。家でじっくり確認しましたけど、骨も折れてないし、穴も空いてません。新品じゃないですか」
彼女がむっとした顔で詰め寄る。
バレていたか。だが、ここで「実は君のために」などと白状するわけにはいかない。
俺はため息をつきつつ、彼女が差し出した傘の「持ち手」の部分を、盗み見るように一瞥した。
プラスチックの柄には、俺が渡す直前に爪で刻み込んだ、無数の微細な傷がある。
凛にとっては「ただの製造傷」か「汚れ」にしか見えないだろう。
だが、俺の魔眼には、その傷が淡く脈動しているのが見えた。
――術式、正常稼働。
古代魔術言語で記述した「対魔術障壁」の回路だ。
この傘を持っているだけで、半径一メートル以内の呪いや精神干渉を無効化する。
五〇〇円のビニール傘を、国宝級の魔盾に改造しておいたのだ。
彼女がこれを持ち歩いてくれれば、俺の負担もだいぶ減る。だからこそ、返却されるわけにはいかない。
「……俺にとってはゴミなんだ。一度手放したものをまた使う気はない」
「そんな、もったいないです」
「必要ない。貸し借りはなしだ」
俺が頑なに拒絶すると、彼女は困ったように眉を下げた。
よし、このまま押し切れそうだ。
その時。
俺の「敵意感知」が、微かな、しかし鋭利な殺気を感じ取った。
方向は、三〇メートル後方の校舎三階。
物理的な銃弾ではない。風の魔力を極限まで圧縮した、不可視の「狙撃弾」だ。
(……『アクロマ』か!)
白昼堂々、キャンパス内で狙撃とは。
狙いは、凛の顔面。殺傷力は低いが、頬を切り裂く程度の威力はある。
凛は気づいていない。
彼女の手にある傘(魔盾)なら、この程度の魔法は自動で防げる。
――だが、まずい。
今、傘の自動防御が作動すれば、衝撃を相殺する際に、柄のルーン文字が「カッ!」と青白く発光してしまう。
そんなものが目の前で光れば、彼女に「魔法」の存在がバレる。
せっかく隠蔽した「仕掛け」が台無しだ。
――傘を使わせるな。俺が手動で処理する。
日常を維持したまま、コンマ一秒の「非日常」を闇に葬る。
「……まったく、しつこいな」
俺はため息をつき、ベンチの上に置いてあった講義のプリント(A4用紙)を一枚、無造作に手に取った。
風の弾丸が、彼女の横顔に迫る。
距離、あと二メートル。
俺は、彼女の顔の横に飛んでいる「小さな羽虫」を追い払うような、ごく自然な仕草で、そのプリントをパタパタと振った。
その瞬間。
俺の指先から、紙の繊維一本一本に鋼鉄の硬度を与える強化魔力が走る。
ヒュッ。
凛の視界の端で、俺が振ったプリントの縁が、空気を切り裂く音がした。
それは単なる風切り音ではない。
迫りくる不可視の「風の弾丸」を、紙の縁が正確に「両断」した音だ。
パァン。
乾いた破裂音と共に弾丸は霧散し、その余波で微かなつむじ風が巻き起こる。
ふわり、と凛の前髪が揺れた。
「……へ?」
凛がきょとんとして、自分の髪を押さえた。
傘は沈黙したままだ。発光もしていない。
彼女の認識では、俺が暑そうに紙を振った風が、たまたま顔に当たっただけだ。
目の前で、魔術的な狙撃が迎撃されたことなど知る由もない。
「……ハエがいた」
俺は短く言い訳をして、手元のプリントを見た。
紙の中央が、鋭利な刃物で切られたように裂けている。魔力弾と衝突した痕跡だ。
俺は自然な動作でその紙をくしゃりと丸め、おにぎりのゴミと一緒にコンビニ袋へ放り込んだ。
証拠隠滅、完了。
「ハエ?」
「しつこいハエだ。……白くて、目障りなな」
俺は校舎の三階を一瞥する。
窓の向こうで、白衣の影が慌ててカーテンを閉めるのが見えた。
俺はゴミをまとめて立ち上がった。
これ以上ここにいるのは危険だ。また狙撃が来れば、次は庇いきれないかもしれない。
「とにかく、その傘は俺の所有物じゃない。お前が使わないなら、そこのゴミ箱に捨ててくれ」
「えっ、そんなことできません!」
「なら持っておけ。……じゃあな」
俺は一方的に会話を打ち切り、彼女に背を向けた。
背後で「あ、待ってください先輩!」という声が聞こえたが、振り返らない。
これでいい。
彼女は気づかずに最強の盾を持ち歩くことになる。
俺が見ていない時でも、あの傘があればある程度の危機は凌げるはずだ。
すれ違う学生たちの笑い声。
その日常の中に、彼女は無傷で立っている。
俺は丸めた紙屑をゴミ箱に投げ入れた。
黒子の仕事は、観客の目の前で行われても、決して見えてはいけない。
今の俺は、最高にいい仕事をしたはずだ。
「……胃が痛い」
誰にも聞こえない声でぼやき、俺は午後の講義へと向かった。
かつての英雄の背中は、心なしか少し猫背になっていた。




