第5話:聖域の遠心力、滴るは赤
深夜一時。路地裏にひっそりと佇む無人のコインランドリー『アライグマ』。ここは、勇者にとっての休息地ではなく、貧乏学生・月岡蓮にとっての生活の場だ。湿った空気と、柔軟剤の甘い香り。そして、十数台の洗濯機が一斉に回る、ゴーッという低い駆動音。この単調なリズムと読みかけの文庫だけが、過敏になった俺の神経を少しだけ鎮めてくれる。
俺はベンチの端に浅く腰掛け、文庫本に視線を落としていた。目の前のドラムの中で回っているのは、俺の黒いパーカーや黒いパンツ。闇に溶け込むための、色気のない衣服たちだ。洗濯終了まで、あと十五分。このまま、ただ回転を眺めて終わる。それが俺の望む平穏だった。
ウィーン。自動ドアが開き、湿った夜風と共に一人の客が入ってきた。
「……あ」
その声に、俺はページをめくる手を止めた。顔を上げるまでもない。その声色だけで誰だか分かる。 水島凛だ。風呂上がりなのだろうか。髪は少し湿って艶を帯び、ラフな部屋着に、大きめのカーディガンを羽織っている。あまりに無防備なその姿は、この無機質な空間には眩しすぎた。
俺は本を閉じ、あくまで「偶然居合わせた顔見知り」として、短く視線を向けた。
「……あ、もしかして、こんばんは」
「……ああ。どうも」
俺は短く、低めの声で答えた。肯定も否定もしない、最低限の相槌。だが、内心では警鐘が鳴り響いていた。ここは路地裏だ。『アクロマ』の監視区域に近い。なぜこんな時間に、彼女が一人で出歩いている?
俺の視線に含まれた「咎めるような色」を感じ取ったのか、彼女は苦笑して、手にした重そうなランドリーバッグを掲げてみせた。
「すみません、驚かせちゃって。……あの、実は家の洗濯機が急に壊れちゃって」
「……壊れた?」
「はい。脱水の途中で『ガガガッ』てすごい音がして、止まっちゃったんです。明日着ていく服もないし、慌てて来たんですけど……」
彼女は肩をすくめ、「ついてないなぁ」と呟いた。なるほど、濡れた洗濯物を抱えて途方に暮れ、深夜に駆け込んだわけか。……だとしても、不用心すぎる。説教したい衝動を飲み込み、俺は「それは災難だったね」と他人行儀に返した。
彼女は「えへへ」と力なく笑うと、空いている大型の乾燥機に、濡れた洗濯物を放り込み始めた。その瞬間。俺の目は、彼女の手元にある濡れた布の塊に釘付けになった。――好機だ。いや、誤解するな。俺は思春期の男子学生のような劣情を抱いているわけではない。『アクロマ』の連中は、ターゲットの衣服に微細な「発信機」や「遅効性の呪毒」を染み込ませることがある。肌に直接触れる衣服こそ、最も警戒すべき媒体なのだ。
俺は文庫本の陰から、鋭い視線を彼女の洗濯物に走らせた。「(……構造解析・開始)」
目を瞑り、眼球に魔力を集中させる。スキャンした世界の色彩が反転し、世界が情報の羅列へと変わる。俺は脳内のフィルタリング設定を書き換えた。『形状』や『デザイン』というノイズ情報は遮断せよ。レースの装飾も、パステルカラーの色味も、布地の面積の小ささも、すべて無視だ。 見るべきは、繊維の奥に潜む「異質な魔力波長」のみ。
彼女がバスタオルを広げる。――クリア。ただの綿だ。ブラウス。――クリア。柔軟剤の成分のみ。そして、その下にある、よりプライベートな衣服たち。
俺は奥歯を噛み締め、プロフェッショナルな精神を維持した。これは検問だ。空港の荷物検査と同じだ。恥じることはない。……いや、やっぱり罪悪感がすごい。かつての聖女の、その、慎ましい下着を、元勇者が魔眼で凝視しているという事実は、俺の精神を削る。魔力のブレか、目頭辺りが熱くなるのを感じながら解析を進める。
(……見つかるな。何もあってくれるなよ)
俺は祈るような気持ちで繊維を透視する。幸い、怪しい反応はゼロだ。「白い」組織の手は、まだ彼女のクローゼットまでは伸びていないらしい。
俺は解析を解除し、深く息を吐いて視線を本に戻した。 額にうっすらと脂汗が滲んでいた。世界を救うより、今の数秒間の方が精神力を消費した気がする。
彼女は硬貨を投入し、ボタンを押した。ゴウン、と乾燥機が回り始める。彼女は「ふぅ」と息を吐き、俺から一つ席を空けたベンチに座った。
距離、約一メートル。彼女から漂うフローラル系のシャンプーの香りが、俺の領域を侵食してくる。 居心地が悪い。俺は再び文庫本を開いたが、文字はただの記号にしか見えない。
「……深夜のコインランドリーって、なんか不思議ですよね」
沈黙に耐えかねたのか、彼女が独り言のように呟いた。彼女の視線は、回転する洗濯物に向けられている。
「世界中が眠っているのに、ここだけ明るくて、ぐるぐる回ってて。……まるで、地球の回転から取り残された場所みたい」
詩的な表現だ。前世の彼女も、よく星空を見上げてはそんなことを言っていた。俺は本から目を離さずに答える。
「……遠心力で、余計なものが振り落とされてるだけかもな」
「あ、それ面白いですね。悩み事とかも、脱水できたらいいのに」
彼女がクスリと笑う。その何気ない会話が、妙に心地よくて――俺は微かに眉をひそめた。いけない。気を許すな。黒子は舞台上で役者と談笑してはいけないのだ。
ガコン。突然、自販機の方で大きな音がした。彼女が買おうとしたジュースが出てこないらしい。彼女は困ったように小銭返却レバーをカチャカチャと動かしている。……洗濯機に続き、自販機まで。今日はとことん機械運がないらしい。
「あれぇ……詰まっちゃったかな」
俺は小さく溜息をつき、本を置いて立ち上がった。無視する方が不自然だ。さっさと解決して、元の静寂に戻そう。
「……ちょっといい?」
「えっ、あ、すみません」
俺は彼女の横に立ち、無言で自販機の筐体を見下ろした。「構造透視」など使うまでもない。この古い機種の癖は知っている。俺は筐体の右側面、コイン投入口の少し下あたりを、掌底でドン、と叩いた。
ガラガラッ。缶ジュースと共に、釣り銭が落ちてきた。
「わあ! すごい! 魔法使いみたいですね!」
彼女が無邪気に手を叩く。その「魔法使い」という言葉に、俺の古傷のような記憶が疼いたが、表情には出さない。
「……ただの接触不良だ。叩けば直る」
「ふふ、昔のテレビみたい。ありがとうございます、先輩」
彼女は温かいココアの缶を両手で包み込み、俺を見上げた。その瞳に映る俺は、ただの「親切で無愛想な先輩」だ。それでいい。それ以上であってはいけない。俺は「どういたしまして」とボソリと言い捨て、自分の席に戻った。
ピーッ、ピーッ。終了のブザーが鳴った。俺の洗濯が終わったのだ。潮時だ。この空間は、俺には居心地が良すぎる。
俺は乾いた服を雑にカゴに放り込み、立ち上がった。ふと外を見ると、いつの間にか激しい雨が降っていた。アスファルトを叩きつける雨音が、店内にまで響いている。
「うわ、雨……。最悪、傘持ってきてないや」
凛が窓際で絶望的な声を上げる。洗濯機の故障に、自販機のトラブル、そしてゲリラ豪雨。今日の彼女はとことんツイていない。乾燥させたばかりの洗濯物を濡らして帰るのは、あまりに忍びない。天気予報は欠かさない俺の手には、ビニール傘が一本。
どうする。「入っていきますか?」と聞けば、送っていくことになる。それはNGだ。「貸します」と言えば、返すためにまた会う口実ができてしまう。それもNG。
俺は自動ドアを開けた。湿った冷気と雨音が流れ込む。俺は彼女の方を見ずに、傘を開かぬまま、入り口の傘立てにガチャンと突き刺した。
「え、あの……傘、忘れてますよ...あとはn...」
呼び止める声に、俺は立ち止まることなく、背中越しに淡々と告げた。
「……骨が折れてるんだ、それ。捨てるつもりだったから、置いていく」
もちろん大嘘だ。昨日買ったばかりの新品だ。だが、「ゴミ」を押し付けられたのなら、彼女に借りは生まれない。これなら、彼女も気兼ねなく使える。
「えっ? でも……」
「邪魔ならそのままに。じゃあ」
俺はそれだけ言い捨てて、フードを深く被り、雨の中へと足を踏み出した。背後でカバンを触る気配がしたが、振り返らない。俺は全身に極薄の魔力膜を展開し、雨粒を弾きながら闇の中を歩く。
冷たい雨が、俺と彼女の世界を分断するカーテンになる。これでいい。濡れるのは、汚れ役である俺だけでいい。
路地を曲がる直前、俺は一度だけ、気配察知で店内の様子を探った。彼女は、俺が置いていった傘を広げている。当然、どこも壊れていない綺麗な傘だ。彼女はしばらく傘を見つめ、それからふわりと、店の外――俺が消えた闇の方向にしばらく眺めていた。
……その気配を感じ取れただけで、数百円の出費など安いものだ。
俺は口元だけで微かに自嘲し、雨足の強まる夜の街へと消えた。誰にも気づかれず、恩も売らず、ただ平穏を守る。それが黒子の流儀だ。
――先輩、鼻血...
呟きと、握られた真っ白なポケットティッシュは届かない。




