第3話:黄昏時の帰り道、忍び寄るは影か
秋の陽が落ちるのは早い。大学の正門を出る頃には、空はすでに溶けた鉄のような赤黒い色に染まっていた。 「逢魔が時」――この国ではそう呼ぶらしい。昼と夜の境界線。世界が曖昧になり、人ならざるものが顔を覗かせる時間帯。前世の俺なら、最も警戒レベルを引き上げる時間だ。だが、ここは東京都内の文教地区。出没するのは魔物ではなく、サークルの勧誘か、駅前のキャッチセールスくらいだろう。
……そう、思っていた。
前方を歩く人影を見つけるまでは。三〇メートル先。信号待ちをしている人の中に、彼女――水島 凛がいた。講義を終えた解放感からか、友人と楽しげに談笑している。その背中は無防備で、平和そのものだ。だが、俺の足はピタリと止まった。
(……なんだ、あれは?)
眉間に皺が寄る。彼女の左肩。今日の昼間、俺が完璧なコントロールで浄化したはずの場所。そこに、再び「黒い影」が纏わりついていた。
いや、違う。昼間のそれとは、質がまるで違う。昼間のあれは、漂っていた埃が付着しただけの「不運」だった。だが、今彼女の肩に食い込んでいるのは、コールタールのように粘着質で、明確な「意思」を持って脈動している。影の形が、歪な「茨」のように見えた。
――茨の紋様。記憶の彼方にある、忌まわしい記憶が疼く。かつてシャン・グディアにおいて、魔王軍の諜報部隊が使っていた「魂の追跡術式」に酷似している。だが、妙だ。魔王軍は俺が壊滅させたはず。それに、この術式からは異世界特有の魔力臭だけでなく、どこか無機質な、「人工的な油」のような臭いが混じっている。
(……融合魔法か?)
瞬間、俺の体温が下がった。平和ボケしていた脳味噌が、戦場の冷徹な思考へと切り替わる。誰だ? 誰が、この平和な世界で、あろうことか「聖女」の魂を持つ彼女に、こんな実験的な汚らわしい術式を刻み込んだ? ただのストーカーではない。俺たちと同じ、「向こう側」の理を知る者が、この街に潜んでいる。
信号が青に変わる。彼女たちが歩き出す。黒い茨は、彼女の影に同化するように長く伸び、まるで獲物を品定めするように明滅した。殺気が漏れそうになるのを、俺は奥歯を噛み締めて抑え込む。ここで俺が殺気を放てば、あの茨が防衛機能を作動させ、彼女の精神を汚染する可能性がある。
(……処理する。そして、尻尾を掴む)
俺はポケットに手を突っ込み、財布を探った。指先に触れたのは、冷たい硬貨の感触。十円玉。素材は青銅。銅は魔力の伝導率が高い。即席の魔道具には十分だ。
俺は人混みに紛れながら、彼女との距離を一定に保つ。周囲には帰宅ラッシュのサラリーマンや学生たち。この喧騒が、俺の詠唱を隠すカモフラージュになる。
十円玉を親指と中指で挟む。そこに、ドス黒い怒りと共に、解析用の魔力を流し込む。昼間の「浄化」とはわけが違う。あれが「掃除」なら、これは「駆除」であり「逆探知」だ。術式を解体し、さらにその回線を逆流して、術者の網膜に俺の警告を焼き付ける。
「(……追跡せよ、そして灼き尽くせ)」
声には出さず、唇だけで紡ぐ。俺は歩きながら、何気ない動作で十円玉を空中に弾いた。キンッ、と硬質な音が鳴る。
回転する十円玉から、不可視の斬撃が放たれた。それは夕闇を切り裂き、周囲の雑踏をすり抜け、正確無比に彼女の背後へ殺到する。
ギャァァァッ!
彼女の肩に憑いていた影が、断末魔を上げた。もちろん、普通の人間には聞こえない、霊的な周波数の悲鳴だ。影は瞬時に蒸発し、焼け焦げた臭い――術者がダメージを負った証拠――を残して消滅した。
十円玉が、俺の手のひらにチャリ、と戻ってくる。熱を帯びたコインを握りしめ、俺はハッとした。
コインの表面、平等院鳳凰堂の刻印の上に、「紫色のシミ」がこびり付いていたのだ。ただの煤ではない。これは「魔力残滓」。それも、生物の体内から抽出したような、生々しい反応がある。
(……やはり、ただの魔法じゃない。何かの『触媒』を使っているな)
俺の読み通りなら、敵は相当にタチの悪い研究をしている。十円玉をポケットにしまい込む。これは貴重な証拠品だ。
「……あれ?」
前方を歩いていた彼女が、ふと足を止めて後ろを振り返った。寒気がしたのか、自分の二の腕をさすっている。俺はとっさに近くの電柱の影に身を隠した。
彼女は、何もいない空間をじっと見つめている。その表情は、恐怖というより、何かを思い出そうとするような、困惑の色を浮かべていた。そして、無意識なのだろう。彼女の手が、自分の胸元――前世で、俺が贈った「守護神のアミュレット」を下げていた場所――をぎゅっと握りしめた。
(……サティア)
彼女の中に、前世の防衛本能が残っているのか?だとしたら、敵の接近が彼女の記憶の蓋を開けてしまうかもしれない。彼女がアミュレットを探すような仕草をするたびに、俺の胸は締め付けられる。駆け寄って、「大丈夫か」と声をかけたい。「俺がそばにいる」と伝えて安心させたい。かつてシャン・グディアでそうしていたように、彼女の隣に立って、その手を握りたい。
だが、それは許されない。
今の俺は勇者アノレスではない。ただの大学生、月岡蓮だ。そして彼女も、戦場に立つ聖女サティアではなく、平和な日本に生きる水島凛だ。俺が関われば、彼女はこの平和な日常から引き剥がされ、再び血なまぐさい戦いの因果に巻き込まれることになる。
彼女が振り返り、友人と共に再び歩き出すのを見送る。その背中が、夕闇に溶けていく。
俺は電柱の影から一歩も動かず、自分に言い聞かせた。 ――俺は、彼女の「隣」にはいかない。光の当たる場所は、彼女だけでいい。
だが、彼女の影に潜む悪意は、すべて俺が喰らい尽くす。どんな些細な呪いも、どんな強大な敵も、彼女の視界に入る前に、闇の中で処理する。 彼女が生涯、俺の存在に気づくことがなかったとしても。 「平和な人生だった」と笑って死ねるなら、それが俺にとってのハッピーエンドだ。
俺はポケットの中で、汚れた十円玉を強く握りしめた。金属が肌に食い込む痛みだけが、現実だ。
「……引退させてはくれないらしいな」
独り言は、夜の雑踏に吸い込まれて消えた。俺の目はもう、優しい大学生のそれではない。かつて勇者アノレスとして、魔の一族から「殺戮の勇者」と恐れられた狩人の目だった。
俺の「二度目の戦争」が、今ここから始まる。黒子として誰にも知られず、誰にも賞賛されない、孤独な防衛戦だ。




