第2話:剣や魔法より、微積分の方が難しい
現代日本の大学講義における最大の敵は、ドラゴンでも、即死トラップの迷宮でもない。「睡魔」だ。午後一番、食後の気だるさを伴った大講義室。マイクを通した老教授の単調な声は、最高ランクの睡眠魔法よりも凶悪な威力で、俺の意識を刈り取りにかかっていた。
「……えー、したがって、この関数におけるXの変域ですが……」
俺は頬杖をつき、あくびを噛み殺す。黒板には、呪文のような数式が羅列されている。かつて俺は、古代語で書かれた禁忌の魔導書を三日三晩寝ずに解読したことがある。世界の理を書き換えるほどの術式を理解したこの頭脳をもってしても、「微積分」という現代の呪文はさっぱり理解できない。俺の脳は、敵の弱点を見抜くことには特化していても、グラフの滑らかな曲線を予測する機能はついていないらしい。
窓の外を見る。秋晴れの空を、鳶が一羽、悠々と飛んでいる。いい軌道だ。風の抵抗を最小限に抑えている。あの角度なら、石ころ一つ投げれば撃ち落とせるな。……いけない。俺は今、平和な一般市民だ。野生動物を狩って今日の晩飯にしようなどと考えてはいけない。
退屈すぎて、そんな思考がループし始めた、その時だ。講義室の後方の扉が、遠慮がちに開いた。
「す、すみません……」
空気を裂くような緊張感など皆無の、間の抜けた小声。講義の邪魔にならないよう、腰を低くして入ってきた女がいる。俺の背筋が、条件反射でピンと伸びる。体内の魔力が、主の意思に呼応して僅かに波打つ。振り向かなくてもわかる。この気配。
――昨日の女だ。かつての聖女サティアと瓜二つの彼女だ。
彼女が空席を探して通路を歩くと、周囲の男子学生たちが色めき立つ気配がした。俺は頬杖をついたまま、こっそりと聴覚強化の魔法を発動させる。周囲の雑音を除去し、学生たちのヒソヒソ話を拾う。
「おい見ろよ、文学部の……」
「ああ、水島さんだ。水島 凛」
「マジ可愛いよな。遅刻して焦ってる顔もいいな」
水島凛。俺はその名前を、口の中で音にせずに反芻した。「サティア」という、祈りと大地を意味する響きではなく、この国の湿潤で緑に溢れた地形を表すような、瑞々しい名前。
彼女は周囲にペコペコと頭を下げながら、俺の斜め前、三列ほど離れた空席に滑り込んだ。リュックを下ろし、筆記用具を取り出す。その一挙手一投足を見ているだけで、胸の奥が締め付けられるような懐かしさに襲われる。生きて動いている。それだけで奇跡に感じた。
だが。俺の目は、彼女の背中にある「違和感」を捉えていた。
(……なんだ、あれは?)
彼女の左肩あたりに、黒いヘドロのようなモヤがへばりついている。普通の人間には見えないだろう。霊感のある人間が見ても、「なんか空気が淀んでいるな」程度にしか感じないかもしれない。だが、俺の目は誤魔化せない。あれは「低級の悪霊」の残滓に近いものだ。異世界ほど明確な実体も知能もない、ただの「負の感情の吹き溜まり」。おそらく、通学路で起きた事故か、陰気な路地裏でも通って、不運にも拾ってしまったのだろう。
放置しても、命にまで影響はない。せいぜい「最近なんか肩が凝るな」とか「目覚めが悪いな」と感じる程度で、数日もすれば自然消滅するレベルの雑魚だ。俺がわざわざ介入するまでもない。
しかし。俺の中の「伝説の勇者」としての部分が、激しく拒絶反応を示した。あれは、穢れだ。かつて俺の盾となり、傷つきながらも清廉潔白であり続けた聖女の生まれ変わりに、あんな薄汚いゴミが触れていること自体が、万死に値する不敬。関わりはしないものの、俺の目の届く範囲で彼女が不快な思いをすることは許されない。
(……消すか)
決断に、一秒もかからない。俺はシャーペンを回し、さりげなく周囲の気配を探る。索敵スキル発動。 右隣の男子学生はスマホでゲームに没頭している。左隣の学生は突っ伏して寝ている。教授は黒板に向かって熱心にチョークを走らせている。視線は把握。誰にも見られてはいない。
俺は机の上に落ちていた、米粒ほどの「消しゴムのカス」を指先で摘んだ。武器はこれでいい。指先に神経を集中させる。体内に眠る膨大な魔力を、極限まで薄く、鋭く錬成する。今の俺の魔力量なら、本気を出せばこの校舎ごと彼女を吹き飛ばしてしまう。必要なのは火力ではない。血管一本を縫い合わせるような、神業のコントロールだ。
魔力を物理的な質量を持つ衝撃波へと変換。対象、前方三列目、左肩の黒いモヤ。周囲への被害ゼロ。音も、光も、気配も殺せ。
「(……浄化)」
心の中で短く詠唱し、デコピンの要領で指先を弾く。消しゴムのカスは、音速を超えた。肉眼では絶対に捉えられない速度で空を裂き、一直線に彼女の肩へ飛ぶ。
着弾。黒いモヤの核を正確に貫いた瞬間、消しカスに込められた浄化の魔力が炸裂した。 パチン――まるで静電気が弾けたような微かな音と共に、黒いモヤが光の粒子となって霧散する。
完全消滅。その間、わずか0.1秒。
「ん……?」
彼女が不思議そうに自分の肩をさすった。今まで重くのしかかっていたものが取れたように、首をこてんと傾げ、ぐるぐると肩を回す。そして、ふわりと表情を緩めた。
「……なんか、今日調子いいかも」
彼女の小さな独り言が、聴覚強化された俺の耳にははっきりと届く。その姿を見て、俺は小さく息を吐き、再び頬杖をついた。口元が緩みそうになるのを、必死に堪える。
誰にも気づかれず、誰からも称賛されず、もちろん彼女本人にすら知られることなく、脅威を排除する。悪くない。いや、むしろ最高だ。これこそが、隠居した元勇者の、正しい「徳」の積み方だ。俺は影のように、空気のように、彼女の平和な日常の下支えであればいい。
謎の達成感と満足感に浸りながら、俺は教科書に目を戻した。そこには、先ほどと変わらず、冷酷無比な数式が俺を見ている。
『積分定数Cを求めよ』
……だめだ。 やはりこの世界の敵は強すぎる。魔王軍の幹部クラスだ。消しゴムのカスで世界を救えても、単位を救うことはできそうにない。
俺は静かに教科書を閉じ、諦めて目を瞑ることにした。夢の中なら、きっとこの数式もドラゴンになって襲ってくるはずだ。それなら勝てる。




