第1話:コンビニ弁当と、笑顔はあたたかい
前世の記憶と能力を思い出した大学生に宿るのは、かつて世界を救った英雄だった。ある日、彼の前にかつて共に戦った聖女に似た女性を見かける。現世の舞い降りた英雄は、現代の彼女をひっそりと守る事を決意する。伝説の勇者が送る黒子ライフはいかに。
「お弁当、温めますか?」
その言葉は、現代日本という極めて安全で、極めて退屈な世界における、最も優しい呪文のひとつだ。 俺はぼんやりと、レジカウンターの向こうで気だるげに髪をいじる店員を見つめながら、緩慢に頷いた。
「……あ、はい。お願いします」
店員が業務用の高出力電子レンジに「チキン南蛮弁当」を放り込み、ボタンを乱暴に押す。ブーン、という低い駆動音が店内に響き始めた。俺はこの音が好きだ。
かつて俺が生き抜いた世界
――剣と魔法が支配し、空が常に鉛色に淀んでいた「あの場所」には、こんな音はなかった。あるのは、魔獣が骨を噛み砕く音。剣戟が火花を散らす金属音。そして、誰かが最期に漏らす嗚咽だけ。
俺の今の名は、月岡 蓮。都内の二流大学に通う、二十歳の学生だ。だが、その魂には八十年に及ぶ「前世」の記憶が、脂っこい汚れのようにこびり付いている。生まれ故郷シャン・グディアを救った伝説の勇者、アノレス。数万の魔族を葬り、魔王の心臓をその手で抉り出した英雄。それが俺の正体だ。
「お待たせしましたー」
手渡された弁当は、掌にじんわりと熱を伝えてくる。 500円玉一枚と少しで、温かい食事が手に入る。魔法使いがマナを削って火を起こす必要もない。俺は小さく会釈をして、コンビニの自動ドアをくぐった。
夜の八時過ぎ。東京の夜は、狂ったように明るい。街灯、車のヘッドライト、ビルの窓明かり、巨大なデジタルサイネージ。影を生み出すことを拒絶するかのような、暴力的な光の洪水だ。前世の俺なら、この明るさに嘔吐していただろう。闇に紛れることができない場所は、すなわち死地だったからだ。明るい場所にいるということは、いつどこから弓矢や魔法で狙撃されるか分からないということと同義だった。
俺は無意識に、建物の屋上や路地の暗がりに視線を走らせる。敵影、なし。魔力反応、なし。殺気、なし。……当たり前だ。ここにはゴブリンもいなければ、復讐に燃える闇ギルドの暗殺者もいない。ただ、酔っ払ったサラリーマンと、塾帰りの子供がいるだけだ。
平和だ。 平和すぎて、時々、水の中にいるように息が詰まりそうになる。
ポケットの中のスマートフォンを取り出し、天気予報アプリを開く。『明日は晴れ、降水確率0%』 便利すぎる。あまりにもイージーモードだ。かつて俺は、風に含まれるわずかな土の匂いと、鳥の飛び方の変化だけで天候を読み、数千人の軍の進軍ルートを決めていた。その国宝級のサバイバル能力は、今や「傘を持っていくか判断する」程度にしか役に立たない。俺の研ぎ澄まされた感覚は、この国では完全にオーバースペックなのだ。
赤信号で交差点の端に足を止めた。向こう側から、賑やかな笑い声が波のように押し寄せてくる。女子高生の集団だ。五、六人ほどだろうか。制服のスカートを限界まで短くし、手には色とりどりのクレープやタピオカドリンクを持っている。
「ねー、マジでその動画ウケるんだけど!」
「待って、それな! わかりみが深い!」
「やばーい、明日テストじゃん、終わったわー」
テスト。動画。流行りのスイーツ。なんて平和な悩みだろう。明日、村が焼き討ちに遭うかもしれないという恐怖ではなく、明日の数学のテストを憂うことができる贅沢。 彼女たちの悩みは、かつての俺たちが喉から手が出るほど欲しかった平和そのものだ。
俺は目を細め、祖父が孫を見るような温かい気持ちで彼女たちを眺め――そして、凍りついた。
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。世界から音が消え、時が止まった錯覚に陥る。
集団の中の一人。長い黒髪を夜風になびかせ、クリームがついた口元を指で無造作に拭った少女。 左目の下にある、小さな泣きぼくろ。笑うと三日月のように細められる、優しげな瞳。
……サティア?
記憶の彼方にある映像が、脳裏でフラッシュバックする。焼けた鉄を押し付けられたように鮮烈に。 瓦礫の山となった王都。空を覆う黒煙。血に濡れた純白の鎧。魔力が枯渇し、透き通るように白くなった肌。俺の腕の中で、彼女の命の灯火が消えていく感触。
『アノレス、泣かないで。世界は……あなたが救ったのよ』
『私、あなたの戦う背中が……好きだった』
そう言い残して息絶えた、俺の相棒。聖女。彼女が、そこにいた。鉄錆と血の臭いではなく、甘いバニラの香りを漂わせて。重い鎧ではなく、安っぽいポリエステルの制服を着て。
俺の足が、脳の指令を無視して一歩踏み出していた。喉まで出かかった言葉がある。サティア。俺だ、アノレスだ。お前が命を賭して目指した平和な世界で、俺たちはまた会えたんだぞ。お前の自己犠牲は無駄じゃなかったはず。見ろ、現代にはこんな平和な世界があるんだぞ、と。
「あはは! ほんとバカじゃないの? 最高なんだけど!」
その彼女の鈴を転がすような笑い声が夜空に響いた。その屈託のない、爆発しそうな笑顔を見た瞬間。 俺の足は、見えない鎖でアスファルトに縫い付けられたように動かなくなった。
……なんて顔で笑うんだ。前世の彼女は、いつも慈愛に満ちてはいたが、どこか悲しげだった。いつ誰が死ぬかわからない極限状態で、彼女は常に誰かの死を悼み、祈っていたからだ。こんな風に、腹を抱えて、涙が出るほど笑う顔なんて、俺は一度も見たことがなかった。
彼女は、笑っている。魔王も、呪いも、飢餓も知らないこの世界で。俺のことなど、これっぽっちも知らずに。
(ああ……そうか)
俺は悟った。冷水を浴びせられたように冷静になった。声をかけては、いけない。
もし俺が声をかけ、万が一にも彼女が前世の記憶を思い出してしまったら? あの地獄のような戦いの日々を。仲間が魔獣に食いちぎられて死んでいった絶望を。彼女自身の、痛みに満ちた最期を。そのすべてを、彼女のこの平穏な脳内に蘇らせることになる。それは、この世界で最も残酷な行為だ。テロリズムにも等しい暴挙だ。
彼女は今、幸せな「普通の女の子」なのだ。俺という、血塗られた世界の遺物が触れていい存在じゃない。彼女の笑顔を守るためには、俺は他人でいなければならない。
「……よかった」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。信号が青に変わる。ピヨピヨ、という誘導音が虚しく響く。俺たちはすれ違う。彼女の肩が俺の腕をかすめた。ほんの一瞬、彼女が「ん?」という顔でこちらを見た気がしたが、俺は顔を伏せ、猫背になり、ただの疲れた大学生を演じて通り過ぎた。
振り返りたい衝動を、必死に殺す。二度と振り返らない。それが、かつて勇者だった男が、愛した聖女に捧げられる唯一の誠意だった。
築三十年のボロアパート。その二階にある自室に戻り、蛍光灯の紐を引く。カチッという音と共に、見慣れた殺風景な六畳間が照らし出された。俺は座布団の上に座り、冷めかけたコンビニ弁当の蓋を開ける。割り箸を割り、チキン南蛮を一切れ、口に放り込んだ。
「……しょっぱいな」
味付けのせいなのか、それとも別の理由なのか。俺はゆっくりと咀嚼する。彼女が生きていた。幸せそうに笑っていた。それだけで十分だ。俺の人生二回分の報酬として、これ以上のものはない。
窓の外では、遠くでパトカーのサイレンの音が聞こえていた。 戦いのない、退屈で、愛おしい夜が、今日も更けていく。
かつての戦友に似た女性。月岡が平和を嚙み締めた夜。そこに忍び寄る影...
お読みいただきありがとうございます。titorと申します。記念すべき初投稿です。
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