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真名喰いの狐と名を奪われた少女〜それでも私はあなたを選ぶ〜

作者: 絹ごし春雨
掲載日:2025/12/04


  山裾に霧が降りていた。

 夕暮れの光を呑みながら立ちこめる白い靄は、まるで生きているかのようにゆっくりと形を変え、風のないはずの林を揺らしている。


  あおいは、竹籠を抱えたまま立ち止まった。

 村へ戻る道は、もう薄闇に沈みはじめている。

 こんな時間に山に残るのはよくない──幼い頃から何度も聞かされてきた掟が、胸の奥で小さく脈打つ。


 だが足はなぜか動かなかった。


 白い霧の奥で、誰かがこちらを見ている気がしたのだ。


 「……誰?」


 返事はない。

 ただ、霧がふっとほどけるように揺れ──その向こうに、ひとりの存在が立っていた。


 白銀の髪。

 夕陽の色をした瞳。

 人の姿をしているのに、どこか人ではない“揺らぎ”を身に纏った男。


 男は微笑み、まるで風が囁くような声で言った。


 「名を、呼んでみせよ。お前の名前を」


 葵は息を呑んだ。


 ──呼んでみせよ。それだけで?


 だが、胸の奥が警告する。

 この男は、山に生きるものたちとは違う。

 昔話に出てくる妖の匂いがする。


 「名は、簡単には告げないものだと……言われているわ」


 そう答えると、男は目を細めた。

 獣のそれに近い、鋭く静かな光。


 「正しい。名は魂の根。奪われれば人は人でなくなる」


 その言葉に、背筋が震えた。


 ──知っているのか。

 まるで“名を奪う側”の者みたいに。


 「なら、どうして私の名を?」


 男は答えなかった。

 だが歩み寄る足取りは、霧を踏む音すらないのに、確かにこちらへ近づいてきていた。


 その動きは、人ではなかった。


 「お前の名は、美しい匂いがする。

  久しく味わっていない、澄んだ味だ」


 葵の指が、竹籠の持ち手を無意識に強く握る。


 「待って……あなた、名を喰らうの?」


 男は柔らかに笑った。

 人を安心させる笑みなのに、不思議と心臓だけが恐れを覚える。


 「名を喰らうのが私の本性。

  だが、お前の名は喰らわぬ」


 「……どういうこと?」


 すれ違う風のような声で、男は囁いた。


 「お前が“呼んでくれぬ”からだ」


 次の瞬間、冷たいものが葵の喉元に触れた。


 それは風でも、水でもない。

 目に見えぬはずの“存在の手”のようで、葵の声を、魂ごと掬い上げるかのように喉の奥を撫でていく。


 「……っ」


 叫ぼうとしても声が出ない。

 呼吸すら奪われていく。


 男の指先が、葵の胸元──心臓の上にそっと触れた。


 そして、囁く。


 「私は燈狐とうこ

  名を奪い、名を与えるもの。

  ……お前の名を、寄越せ」


 葵の意識がさらわれる。


 喉から漏れた声は、自分のものではなかった。


 「……あ……おい……」


 その一言が、すべてだった。


 瞬間、胸の奥が熱く燃え、すうっと冷えていく。

 身体の芯から“なにか”が引き抜かれるような痛みに、葵は崩れ落ちた。


 視界が白に染まる。


 音も、感覚も、言葉も──自分が自分ではなくなる。


 奪われた。


 名を。

 葵である証を。


 遠くで、燈狐の声がした。


 「安心せよ。死なせはしない。

  代わりに“生きる名”を授けよう」


 落ちていく意識の底で、葵は微かに問いかけた。


 ──私の名は……?


 返ってきた声は、優しく残酷だった。


 「今日よりお前は──雪葉ゆきはだ」


 白い霧のなか、葵は静かに眠り落ちた。


 その眠りが、二度と“葵”として覚めることのない眠りであることを、まだ知らぬまま。






  目を開けた瞬間、世界が白かった。

 雪が降っているわけでも、霧が立ちこめているわけでもないのに、視界の端に薄い光の膜が揺れている。


 呼吸をすると、胸の奥がかすかに疼いた。


 ──私は……だれ?


 名前を呼ぼうとすると、喉が空を掴むように震えた。

 音が出ないわけではない。ただ、何を呼べばいいのか思い出せない。


 「目が覚めたか、雪葉ゆきは


 柔らかく、しかしどこか遠い響きをもつ声。

 振り向くと、白銀の毛並みをもつ狐が、焚火の明かりを背に座っていた。

 赤い瞳は夜の底に灯る炎のようで、そこだけがはっきりと確かな温度を持っている。


 狐──燈狐とうこ

 その名だけは、胸の奥で不思議と温かく脈打った。


 けれど。


 「……雪葉?」

 自分の耳に触れたその呼び名に、心臓が微かに跳ねた。

 違う。

 それは私の名前じゃない。そんな気がする。


 「お前がその名を嫌うのは、当然だ」

 燈狐は焚火に目を落とし、淡く揺れる炎を見つめたまま続けた。

 「真名を失えば、心の形も揺らぐ。自分が誰であったかという影を、まだ追っているのだろう」


 「……私には、本当の名前が……?」

 声が震えたのは、寒さのせいではない。


 燈狐が静かに頷いた。

 「ある。だが、それを呼べば、お前は死ぬ。真名は魂の核……失われたまま呼び戻せば、器が壊れてしまう」


 「死ぬ……?」

 その言葉の重みが、心に沈んだ。


 じゃあ。

 私はもう、あの名前を持つことはできないんだ。


 胸が、苦しくなった。

 涙がにじみそうになり、慌てて目を伏せると、燈狐のしっぽがそっと揺れた。


 「雪葉は──生きるための名だ」

 「……でも」

 「嫌いか?」


 すぐに答えられなかった。


 嫌い、ではない。

 けれど、それを“自分の名です”と胸を張って言えるほど、軽くもない。


 雪葉と呼ばれるたびに、胸の奥がぎゅっと掴まれる。

 「私は誰だろう」という問いが、鎖のようにまとわりつく。


 「……わからないの。雪葉って呼ばれると、何かが違うって思ってしまう」

 自分でも驚くほど弱い声が漏れた。


 燈狐は目を細め、少しだけ近づいてきた。

 焚火の熱と、燈狐自身の柔らかな温もりが同時に広がる。


 「名は、育つものだ。

  お前が嫌なら私は呼ばぬ」

 赤い瞳が真っ直ぐに向けられた。

 「だが……生きたいと思うのなら、その名に頼ればいい。お前のために、私が与えた名だ」


 与えられた名。

 奪われた真名。

 その二つが胸の中でぶつかり合う。


 私は、誰?


 「……もう少しだけ、考えさせて」

 絞るような声で言うと、燈狐はしずかに頷いた。


 「いい。急ぐな」

 低く落ちついた声が、冬の夜気を溶かすように響く。

 「お前が“雪葉”を拒むなら、それもいい。

  しかしいつか、その名に救われる日が来ると……私は思っている」


 その言葉に、胸の奥がわずかに温くなる。


 受け入れたくない。

 でも捨てられない。


 新しい名と、私を見つめる赤い瞳。

 どちらも怖くて、どちらも失いたくなかった。


 焚火がぱち、と小さく弾けた。


  雪のように静かな夜の中、

 私は自分の名前を探していた。


 “葵”という影と──

 “雪葉”という未来のあいだで揺れながら。







 「雪葉。」


 その名を呼ばれるたび、胸の奥がひとつ跳ねる。

 それは、まだ慣れない響きなのに──なぜか、温かい。


 燈狐は、あいかわらず静かだった。

 どこか寂しげな金色の瞳で、雪葉を見つめる。

 その視線に触れるたび、胸がきゅうと締めつけられる。


 でも。


 その名は、本当は“私のものではない”はずなのに。


 「……呼ばないで」と言えれば、どれほど楽だろう。

 喉の奥まで何度も言葉は上ってくるのに、燈狐の前に立つとどうしても言えなくなる。


 “本当の名”で呼ばれた記憶は、たしかにある。

 誰かが大事そうに呼んでくれた声、息遣い、手の温かさ。

 そのすべてが霧の向こうに遠ざかり、輪郭を失いかけている。


 雪葉、と呼ばれるたびに。

 “本当の名“の記憶が世界から少しずつ剥がれていく。


 忘れたくないのに。

 でも、呼ばれると嬉しい。


 その矛盾が、胸を苦しくした。


***


  ある夜、縁側に座る雪葉の隣へ、燈狐がふわりと現れた。

 狐火のような光が彼の袖の端で揺れている。


 「眠れぬのか。」


 「……少し、考えごとをしていました。」


 「名のことか。」


 雪葉は視線を落とした。

 言い当てられて、胸がちり、と痛む。


 燈狐の声は不思議だ。

 静かで、遠くの山鳴りのような深さがあるのに……雪葉にだけは、どこか優しい。


 「お前は、嫌がっているだろう?

  “雪葉”と呼ばれることを。」


 「……嫌、というわけでは。」


 本当は嫌だ。

 本当は“本当の名”で呼ばれたい。


 なのに。


 「あなたに呼ばれるのは……嫌じゃありません。」


 そう口にしてしまった瞬間、頬が熱くなる。

 燈狐の金色の目が微かに揺れた。

 驚いたような、喜んだような、どう言えばいいか分からない翳りがその瞳に走った。


 「……そうか。」


 小さく落ちる言葉が、雪葉の胸をまた締めつける。


 その沈黙が苦しくて、雪葉は思わず袖をつまんだ。


 「ねえ、燈狐。

  私は……誰なんでしょう。」


 本当の名前を失った少女の問いはあまりにも幼くて。

 自分で言っておきながら、情けないと思った。


 燈狐は、すぐには答えなかった。

 夜風が二人のあいだをすり抜けていく。


 やがて。


 「雪葉は……雪葉だ。

  私が与えた名。お前がいま、生きている名だ。」


 胸に深く落ちていく声だった。


 優しさと同時に、どうしようもない“距離”を含んでいる。

 雪葉がその名を拒めば、燈狐はきっと悲しむ。

 けれど受け入れれば、“本当の名”を失うことになる。


 恋を知りかけた心は揺らぎ、雪葉はただ膝を抱えた。


 燈狐がそっと指先を伸ばし、雪葉の髪に触れた。

 雪のように冷たく、火のように優しい指先。


 「……無理に受け入れろとは言わぬ。

  だが、私はお前を雪葉と呼ぶ。

  それしか……呼べぬのだ。」


 胸が、切なくほどに波立った。


 この妖狐は、自分を奪ったはずなのに──

 なぜこんなに誰より優しい顔をするのだろう。


 雪葉は、触れられた髪にそっと手を重ねた。

 そのぬくもりが離れていくのが怖くて。


 「……燈狐。」


 揺れる声で呼ぶ。


 「私……あなたに呼ばれる“雪葉”は、きらいじゃないんです。」


 燈狐の目に、かすかな光が宿る。

 それが胸に沁みて、涙がこぼれそうになる。


 雪葉はまだ、自分の名がわからない。

 恋に似た想いが、どこに向かっているのかもわからない。


 でも。


 呼ばれたい。

 この人に、雪葉と呼ばれたい。


 そう思ってしまう自分が、確かにここにいた。







  夜は静かだった。

 外の風も、山のざわめきも、燈狐の住まう古い社を遠くから見守るだけで、近くには寄ってこない。

 ここは妖の領域──人の記憶さえ霞む、境界の場所。


 そして、その薄い闇の奥で、雪葉はひたすら眠りに沈んでいた。


 眠っているはずなのに、その呼吸は不規則で、細い指が布団を握りしめていた。

 額ににじむ汗。

 苦しげに震える唇。


 「……いや……やめて……

  ……名前……名前が……」


 掠れた声が落ちる。


  燈狐はその傍に静かに腰を下ろしていた。

 手を触れれば壊れてしまいそうなほど、雪葉は小さく見えた。


 「……まだ、呼ばれているのだな。

  失われた名の方から」


 彼女がかつて持っていた真名──葵。

 忘れてしまったはずのその名が、悪夢の中だけで叫ばれる。


 雪葉は、雪葉という名を与えられ、この世界に縫い留められている。

 本来なら、真名を奪われた時点で消えていた命だ。

 だからこそ燈狐は、命を繋ぎとめるために新しい名を与えた。


 ――その名を返せば、雪葉は救われる。

  けれど。それは、彼女が私を忘れるということ。


 燈狐は目を細めた。

 雪葉は苦しげに呻いている。

 その姿を見るだけで、胸がゆっくりと軋んだ。


 「……雪葉」


 そっと名前を呼ぶ。


 雪葉の呼吸が、わずかに落ち着く。

 悪夢の中でも、この名前は雪葉を護る鎖になっていた。


 だが、それが同時に、彼女を縛っているのではないか。


 燈狐は雪葉の頬に手を伸ばした。

 触れられそうで触れられない人の肌。

 だが、指先が近づくだけで雪葉の眉がふっと緩む。


 「……こんなに苦しむのなら。名を返した方がいいのかもしれぬ」


 囁きは自嘲のように沈む。


 雪葉は夜ごと、名前を失う夢を見る。

 自分が誰だったか思い出せない恐怖と、呼ばれる声のない暗闇に落ちていく悪夢。


 その原因は、私だ。


 燈狐は知っている。

 彼女の命を救ったのは自分だ。

 だが、彼女の記憶を奪ったのも自分だ。


 返せば、すべて終わる。

 葵としての記憶を取り戻し、普通の人として戻れる。

 けれど──


 「名を返せば、お前は私を忘れてしまう」


 言葉にした途端、胸の奥がひどく痛んだ。


 妖である自分が、そんな人間らしい痛みを覚えるとは思わなかった。

 彼女の笑顔。

 燈狐を呼ぶ声。

 怯えながらも懸命に生きようとする姿。


 それらのすべてが、雪葉のものだった。


 名を返せば、雪葉は燈狐を知らない少女に戻る。

 葵という、別の人生へと帰ってしまう。


 「……それでも、苦しんでほしくはない」


 指先が、雪葉の髪に触れそうな距離を漂った。


 雪葉がまたうなされる。

 身じろぎし、涙を浮かべ、名を求める。


 「……こわい……だれ……?

  ……わたしは……」


 燈狐の胸に、ひどい焦りが生まれた。

 雪葉が消えてしまうような錯覚に襲われる。


 思わず、手を伸ばす。

 名前を呼びながら。


 「雪葉。ここにいる。お前はここだ。私の名の庇護の中にいる」


 その声に呼び寄せられたように、雪葉の苦しげな呼吸が落ち着きはじめた。

 ゆっくりと、落ち着く。

 そのたびに燈狐の心臓はひどく揺れる。


 もし、この安堵を知らなければ……私はもっと早く名を返せたのかもしれない。


 雪葉は静かに眠りへ戻っていく。

 燈狐はその様を、目を逸らさずに見守り続けた。


 名を返すべきか。

 返せば雪葉は救われる。

 しかし、雪葉は燈狐を失う。


 「……どうすればいいのだ、雪葉」


 妖である燈狐が、初めて答えを見失っていた。


 雪葉を守りたい。

 けれど、忘れられるのが怖い。


 その狭間で揺れながら、燈狐はただ静かに、雪葉の名前を呼び続けた。


 「眠れ。雪葉……」






  朝。

 障子越しに差し込む光は、春のように柔らかかった。

 雪葉は目を瞬いて、まだ眠気の残る胸の奥に、得体の知れない不安が渦巻いているのを感じた。


 ──胸がざわつく。


 理由はわからない。

 悪夢を見たわけではない。

 けれど、何か大切なものを手放す直前のような、そんな冷たさが指先に残っていた。


 そのとき、すう……と簾が揺れた。


「起きたか、雪葉」


 燈狐が、いつものように微笑んでいた。

 白い髪が光の中でゆらぎ、金の瞳は春の陽だまりのようだった。


 ──どうして、こんなに優しいの。


 その優しさが、雪葉の胸のざわめきをさらに強める。


「朝餉を用意した。今日は……お前と、ゆっくり過ごしたい」


「ゆっくり……?」


 燈狐は、雪葉の問いにただ微笑むだけだった。

 その笑みに、わずかな影が差す。

 雪葉は見逃さなかった。


 ──何かが、変わる。


 恐ろしくて、胸が痛むほどの予感。

 けれど、燈狐は静かに雪葉の手を取った。


「怖い顔をするな。それでは、美しい雪が曇ってしまう」


 雪葉は頬が熱くなるのを感じた。


 名前を呼ばれるたび、胸がざわつく。

 “雪葉”という呼び名に心が応え、同時に得体のしれない痛みも伴って混ざる。


 今日はその痛みが、いつもより深い。


 けれど、燈狐は気づかぬふりをしているように、いつも通りの穏やかさで雪葉を外へ誘った。


 




  庭の桜は満開に近かった。

 燈狐は枝を手で払って、舞い落ちる花びらを雪葉の手のひらに乗せる。


「ほら、似合う」


「……どうして?」


「お前が好きだからだ」


 あまりにも自然に言うものだから、雪葉は息が詰まりそうになった。

 燈狐は今日、やけに距離が近い。

 いつも優しいけれど、今日はその優しさに、どこか“別れの気配”が混じっている。


 雪葉は胸の奥がひどく冷えるのを感じた。


「燈狐さま……何か、隠してますよね」


「隠しごとなど、していない」


 そう言いながら、燈狐の指先は雪葉の頬をすくうように触れた。

 その触れ方が、まるで「これが最後」のようで、胸が締めつけられる。


「ただ……今日は、お前と一緒にいたい。それだけだ」


 雪葉は言葉を飲み込む。


 ──どうしよう。


 ──この人の笑顔が、怖い。


 




  昼餉は、燈狐が自ら用意したものだった。

 山菜のおひたし、炊きたての飯、味噌汁。どれも温かい香りがした。


「どうだ?」


「……美味しいです」


「そうか。よかった」


 燈狐は本当に嬉しそうに笑った。

 まるで雪葉の喜びだけを糧にしているような、そんな笑み。


 食後には、燈狐が作った甘い干菓子まで出てきた。


「今日は特別だ。なんでも好きなだけ食べろ」


「……今日だけ、なんて言わないでください」


 雪葉の言葉に、燈狐は一瞬だけ顔を伏せた。


 その沈黙が、雪葉の不安を確信に変える。


 ──やっぱり。何かが起きる。


 ──この人は、なにか……決めている。


 




 夕焼けに染まる庭を眺めながら、二人は縁側に並んで座った。

 風が花の香りを運ぶ。


 燈狐は静かに、雪葉の手を握った。


「雪葉。私は……お前に多くを奪ってしまった」


 雪葉ははっとして、横顔を見る。


 燈狐の金の瞳は、沈む陽よりもずっと深い色をしていた。


「名を奪い、記憶を曇らせ……お前を苦しませた」


「……っ、それは……」


「本来なら、お前の名は返されるべきだ」


 胸が、ぎゅう、と痛くなる。


 そうだ。

 燈狐は本来、名前を奪う妖であり、その名を返す者だ。

 返された者は、燈狐の記憶を失う。


 雪葉は自分の心臓が早鐘のように脈打つのを感じた。


 ──そうだ。

 ──名が返されたら、私は……燈狐さまを忘れる。


 燈狐は雪葉の手を優しく包んだ。


「……私は、それでも、お前が幸せであってほしい」


 雪葉は息が止まるほどの痛みを覚えた。


「だから……最後に、今日だけは……お前と過ごしたかった」


 やっぱり。

 この一日は、別れのための一日だったのだ。


 雪葉はそっと手を握り返した。


「燈狐さま……」


 声が震える。

 涙があふれそうになる。


 燈狐は寂しげに微笑んだ。


「泣くな。雪葉。お前の名は、返してやる。

 明日には……お前は私を忘れて、新しい人生を歩めるだろう」


 胸が張り裂ける。


 雪葉は、小さく首を横に振った。


 ──嫌だ。






 燈狐の指先が、雪葉の額へと触れようとしていた。

 白い光が集まりかけている。

 名を返す力――それは、雪葉が本来の「葵」に戻る術。


 けれどその力が降りる直前、

 雪葉の手が、燈狐の手首を強く掴んだ。


「……やめて」


 細い声なのに、驚くほど強い力だった。


 燈狐は一瞬きょとんとしたように目を見開き、それから苦しげに眉を寄せた。


「雪葉。返さねば、お前は……本来の名を失ったままだ。

 その痛みに、いつまでも怯え続けることになる」


「違う。……そうじゃないの」


 雪葉は首を振る。

 肩が震えているのに、手だけは離れなかった。


「あなたは分かってない……っ!」


 声が震え、涙がこぼれる。


「私が……どれほど、あなたを好きかなんて……

 どうして気づいてくれないの……?」


 燈狐の表情が、ふっと揺れた。


 雪葉はそのまま、必死に言葉を絞り出す。


「この名前で生きるのは、怖かった。

 私が誰なのかも、どこに帰ればいいのかも、全部わからなくて……

 眠るたびに悪夢を見るたびに、本当は泣きたくてたまらなかった」


 涙を袖で拭いながら、雪葉は燈狐に一歩近づいた。


「でもね……それでも、私……

 あなたがそばにいてくれたから、生きてこられたの」


 燈狐の胸元に、雪葉の額が触れた。

 呼吸が触れ合うほど近い。


「“本当の名”より……あなたが大切なの。

 あなたが、私の全部を支えてくれてたの。

 そのあなたを、名を返されたせいで忘れるなんて……耐えられない」


 掴んだ手に力がこもった。


「だから……いいの。私は、もう決めたの」


 雪葉は顔を上げ、燈狐を真正面から見つめる。


「――“雪葉”として生きていく。

 この名前で生きる。それで、あなたと一緒にいられるのなら。」


 燈狐の喉が、かすかに震えた。

 声にならない呼吸が胸の奥からあふれる。


 雪葉は震えながら、最後の言葉を押し出した。


「……どうか、一人にしないで。

 私を……あなたのそばに置いて。」


 その瞬間、燈狐の背中にしなるような尾がふわりと広がり、

 雪葉を包み込むように、強く抱きしめた。


「……お前という人間は。

 どうして……こんなにも愛しい……」


 燈狐は額を雪葉の肩に埋める。

 掠れるほどの声で、ゆっくりと呟いた。




  夜明けの山は、やわらかな靄に包まれていた。

 木々の葉先に朝露が光り、清らかな空気の奥で、小さな鳥たちが声をひそめて鳴きかわす。


 雪葉は、燈狐の隣に立っていた。

 “葵”として過ごしたはずの時間は、もうぼんやりとした幻のように遠い。

 けれど、不思議な孤独はなかった。

 その隙間を、燈狐がそっと埋めてくれている。


「……寒くはないか、雪葉」


 肩へ落ちてきた赤い布の羽織。

 燈狐はゆるく彼女を包み込むように、温度を分け与える。


「うん。あなたがいるから」


 雪葉が微笑むと、燈狐の金の瞳がやわらかく綻んだ。

 妖狐のその瞳は、本来なら人の身には畏れを抱かせるものなのに、今はただ、心の奥を静かに満たす。


 名を返されたなら、彼を忘れてしまうはずだった。

 だから、選んだのだ。

 “本当の名”ではなく、雪葉として生きる未来を。

 彼のそばにある時間を。


 風が吹き、雪葉の髪をやさしく揺らした。

 燈狐はその一本一本まで守るように手を添える。


「これから、どうなるのかな……私たち」


 雪葉が小さくつぶやく。

 人と妖――交わることの少ない二つの在り方。

 行く先のすべてを知ることはできない。


 けれど、燈狐は彼女の手を取った。

 あの夜、名を返そうとした手とは違う。

 奪うためでも、別れのためでもない。


 選んでくれた彼女を、これから支えるための手。


「未来など、どうとでもなる。

 お前が雪葉でいるなら、私がそばにいる。

 それで充分だ」


「……うん」


 ふたりは並んで歩き出す。

 山道の先に続く朝の光は、まだ淡い。

 けれど確かに、彼らの足元を照らしていた。


 雪葉はふと、手を握り返す。

 小さな力でも、燈狐の指はしっかりと応える。


 たとえ世界がどう揺れようとも、

 名を失っても、

 過去を手放しても、


 ――彼がいれば、きっと迷わない。


 雪葉はゆっくりと息を吸い込み、朝の匂いを胸いっぱいに抱いた。


 新しい名で生きる道の先に、

 彼と共に育つ未来がある。

 その未来に寄り添いながら、雪葉は微笑んだ。


「燈狐さま……これからも、よろしくね」


 隣の妖狐は、彼女だけに向けた穏やかな笑みで応えた。


「ああ……雪葉。

 ずっと、お前と共に」


 光の中、ふたりの影が寄り添うように伸びていく。


 ──その道がどこへ続くかは、まだ誰も知らない。

 けれど確かに、ふたりは同じ方へと進んでいく。それだけは、確かだった。

この小説はAIとの共作です。お読みいただきありがとうございます。

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