真名喰いの狐と名を奪われた少女〜それでも私はあなたを選ぶ〜
山裾に霧が降りていた。
夕暮れの光を呑みながら立ちこめる白い靄は、まるで生きているかのようにゆっくりと形を変え、風のないはずの林を揺らしている。
葵は、竹籠を抱えたまま立ち止まった。
村へ戻る道は、もう薄闇に沈みはじめている。
こんな時間に山に残るのはよくない──幼い頃から何度も聞かされてきた掟が、胸の奥で小さく脈打つ。
だが足はなぜか動かなかった。
白い霧の奥で、誰かがこちらを見ている気がしたのだ。
「……誰?」
返事はない。
ただ、霧がふっとほどけるように揺れ──その向こうに、ひとりの存在が立っていた。
白銀の髪。
夕陽の色をした瞳。
人の姿をしているのに、どこか人ではない“揺らぎ”を身に纏った男。
男は微笑み、まるで風が囁くような声で言った。
「名を、呼んでみせよ。お前の名前を」
葵は息を呑んだ。
──呼んでみせよ。それだけで?
だが、胸の奥が警告する。
この男は、山に生きるものたちとは違う。
昔話に出てくる妖の匂いがする。
「名は、簡単には告げないものだと……言われているわ」
そう答えると、男は目を細めた。
獣のそれに近い、鋭く静かな光。
「正しい。名は魂の根。奪われれば人は人でなくなる」
その言葉に、背筋が震えた。
──知っているのか。
まるで“名を奪う側”の者みたいに。
「なら、どうして私の名を?」
男は答えなかった。
だが歩み寄る足取りは、霧を踏む音すらないのに、確かにこちらへ近づいてきていた。
その動きは、人ではなかった。
「お前の名は、美しい匂いがする。
久しく味わっていない、澄んだ味だ」
葵の指が、竹籠の持ち手を無意識に強く握る。
「待って……あなた、名を喰らうの?」
男は柔らかに笑った。
人を安心させる笑みなのに、不思議と心臓だけが恐れを覚える。
「名を喰らうのが私の本性。
だが、お前の名は喰らわぬ」
「……どういうこと?」
すれ違う風のような声で、男は囁いた。
「お前が“呼んでくれぬ”からだ」
次の瞬間、冷たいものが葵の喉元に触れた。
それは風でも、水でもない。
目に見えぬはずの“存在の手”のようで、葵の声を、魂ごと掬い上げるかのように喉の奥を撫でていく。
「……っ」
叫ぼうとしても声が出ない。
呼吸すら奪われていく。
男の指先が、葵の胸元──心臓の上にそっと触れた。
そして、囁く。
「私は燈狐。
名を奪い、名を与えるもの。
……お前の名を、寄越せ」
葵の意識がさらわれる。
喉から漏れた声は、自分のものではなかった。
「……あ……おい……」
その一言が、すべてだった。
瞬間、胸の奥が熱く燃え、すうっと冷えていく。
身体の芯から“なにか”が引き抜かれるような痛みに、葵は崩れ落ちた。
視界が白に染まる。
音も、感覚も、言葉も──自分が自分ではなくなる。
奪われた。
名を。
葵である証を。
遠くで、燈狐の声がした。
「安心せよ。死なせはしない。
代わりに“生きる名”を授けよう」
落ちていく意識の底で、葵は微かに問いかけた。
──私の名は……?
返ってきた声は、優しく残酷だった。
「今日よりお前は──雪葉だ」
白い霧のなか、葵は静かに眠り落ちた。
その眠りが、二度と“葵”として覚めることのない眠りであることを、まだ知らぬまま。
目を開けた瞬間、世界が白かった。
雪が降っているわけでも、霧が立ちこめているわけでもないのに、視界の端に薄い光の膜が揺れている。
呼吸をすると、胸の奥がかすかに疼いた。
──私は……だれ?
名前を呼ぼうとすると、喉が空を掴むように震えた。
音が出ないわけではない。ただ、何を呼べばいいのか思い出せない。
「目が覚めたか、雪葉」
柔らかく、しかしどこか遠い響きをもつ声。
振り向くと、白銀の毛並みをもつ狐が、焚火の明かりを背に座っていた。
赤い瞳は夜の底に灯る炎のようで、そこだけがはっきりと確かな温度を持っている。
狐──燈狐。
その名だけは、胸の奥で不思議と温かく脈打った。
けれど。
「……雪葉?」
自分の耳に触れたその呼び名に、心臓が微かに跳ねた。
違う。
それは私の名前じゃない。そんな気がする。
「お前がその名を嫌うのは、当然だ」
燈狐は焚火に目を落とし、淡く揺れる炎を見つめたまま続けた。
「真名を失えば、心の形も揺らぐ。自分が誰であったかという影を、まだ追っているのだろう」
「……私には、本当の名前が……?」
声が震えたのは、寒さのせいではない。
燈狐が静かに頷いた。
「ある。だが、それを呼べば、お前は死ぬ。真名は魂の核……失われたまま呼び戻せば、器が壊れてしまう」
「死ぬ……?」
その言葉の重みが、心に沈んだ。
じゃあ。
私はもう、あの名前を持つことはできないんだ。
胸が、苦しくなった。
涙がにじみそうになり、慌てて目を伏せると、燈狐のしっぽがそっと揺れた。
「雪葉は──生きるための名だ」
「……でも」
「嫌いか?」
すぐに答えられなかった。
嫌い、ではない。
けれど、それを“自分の名です”と胸を張って言えるほど、軽くもない。
雪葉と呼ばれるたびに、胸の奥がぎゅっと掴まれる。
「私は誰だろう」という問いが、鎖のようにまとわりつく。
「……わからないの。雪葉って呼ばれると、何かが違うって思ってしまう」
自分でも驚くほど弱い声が漏れた。
燈狐は目を細め、少しだけ近づいてきた。
焚火の熱と、燈狐自身の柔らかな温もりが同時に広がる。
「名は、育つものだ。
お前が嫌なら私は呼ばぬ」
赤い瞳が真っ直ぐに向けられた。
「だが……生きたいと思うのなら、その名に頼ればいい。お前のために、私が与えた名だ」
与えられた名。
奪われた真名。
その二つが胸の中でぶつかり合う。
私は、誰?
「……もう少しだけ、考えさせて」
絞るような声で言うと、燈狐はしずかに頷いた。
「いい。急ぐな」
低く落ちついた声が、冬の夜気を溶かすように響く。
「お前が“雪葉”を拒むなら、それもいい。
しかしいつか、その名に救われる日が来ると……私は思っている」
その言葉に、胸の奥がわずかに温くなる。
受け入れたくない。
でも捨てられない。
新しい名と、私を見つめる赤い瞳。
どちらも怖くて、どちらも失いたくなかった。
焚火がぱち、と小さく弾けた。
雪のように静かな夜の中、
私は自分の名前を探していた。
“葵”という影と──
“雪葉”という未来のあいだで揺れながら。
「雪葉。」
その名を呼ばれるたび、胸の奥がひとつ跳ねる。
それは、まだ慣れない響きなのに──なぜか、温かい。
燈狐は、あいかわらず静かだった。
どこか寂しげな金色の瞳で、雪葉を見つめる。
その視線に触れるたび、胸がきゅうと締めつけられる。
でも。
その名は、本当は“私のものではない”はずなのに。
「……呼ばないで」と言えれば、どれほど楽だろう。
喉の奥まで何度も言葉は上ってくるのに、燈狐の前に立つとどうしても言えなくなる。
“本当の名”で呼ばれた記憶は、たしかにある。
誰かが大事そうに呼んでくれた声、息遣い、手の温かさ。
そのすべてが霧の向こうに遠ざかり、輪郭を失いかけている。
雪葉、と呼ばれるたびに。
“本当の名“の記憶が世界から少しずつ剥がれていく。
忘れたくないのに。
でも、呼ばれると嬉しい。
その矛盾が、胸を苦しくした。
***
ある夜、縁側に座る雪葉の隣へ、燈狐がふわりと現れた。
狐火のような光が彼の袖の端で揺れている。
「眠れぬのか。」
「……少し、考えごとをしていました。」
「名のことか。」
雪葉は視線を落とした。
言い当てられて、胸がちり、と痛む。
燈狐の声は不思議だ。
静かで、遠くの山鳴りのような深さがあるのに……雪葉にだけは、どこか優しい。
「お前は、嫌がっているだろう?
“雪葉”と呼ばれることを。」
「……嫌、というわけでは。」
本当は嫌だ。
本当は“本当の名”で呼ばれたい。
なのに。
「あなたに呼ばれるのは……嫌じゃありません。」
そう口にしてしまった瞬間、頬が熱くなる。
燈狐の金色の目が微かに揺れた。
驚いたような、喜んだような、どう言えばいいか分からない翳りがその瞳に走った。
「……そうか。」
小さく落ちる言葉が、雪葉の胸をまた締めつける。
その沈黙が苦しくて、雪葉は思わず袖をつまんだ。
「ねえ、燈狐。
私は……誰なんでしょう。」
本当の名前を失った少女の問いはあまりにも幼くて。
自分で言っておきながら、情けないと思った。
燈狐は、すぐには答えなかった。
夜風が二人のあいだをすり抜けていく。
やがて。
「雪葉は……雪葉だ。
私が与えた名。お前がいま、生きている名だ。」
胸に深く落ちていく声だった。
優しさと同時に、どうしようもない“距離”を含んでいる。
雪葉がその名を拒めば、燈狐はきっと悲しむ。
けれど受け入れれば、“本当の名”を失うことになる。
恋を知りかけた心は揺らぎ、雪葉はただ膝を抱えた。
燈狐がそっと指先を伸ばし、雪葉の髪に触れた。
雪のように冷たく、火のように優しい指先。
「……無理に受け入れろとは言わぬ。
だが、私はお前を雪葉と呼ぶ。
それしか……呼べぬのだ。」
胸が、切なくほどに波立った。
この妖狐は、自分を奪ったはずなのに──
なぜこんなに誰より優しい顔をするのだろう。
雪葉は、触れられた髪にそっと手を重ねた。
そのぬくもりが離れていくのが怖くて。
「……燈狐。」
揺れる声で呼ぶ。
「私……あなたに呼ばれる“雪葉”は、きらいじゃないんです。」
燈狐の目に、かすかな光が宿る。
それが胸に沁みて、涙がこぼれそうになる。
雪葉はまだ、自分の名がわからない。
恋に似た想いが、どこに向かっているのかもわからない。
でも。
呼ばれたい。
この人に、雪葉と呼ばれたい。
そう思ってしまう自分が、確かにここにいた。
夜は静かだった。
外の風も、山のざわめきも、燈狐の住まう古い社を遠くから見守るだけで、近くには寄ってこない。
ここは妖の領域──人の記憶さえ霞む、境界の場所。
そして、その薄い闇の奥で、雪葉はひたすら眠りに沈んでいた。
眠っているはずなのに、その呼吸は不規則で、細い指が布団を握りしめていた。
額ににじむ汗。
苦しげに震える唇。
「……いや……やめて……
……名前……名前が……」
掠れた声が落ちる。
燈狐はその傍に静かに腰を下ろしていた。
手を触れれば壊れてしまいそうなほど、雪葉は小さく見えた。
「……まだ、呼ばれているのだな。
失われた名の方から」
彼女がかつて持っていた真名──葵。
忘れてしまったはずのその名が、悪夢の中だけで叫ばれる。
雪葉は、雪葉という名を与えられ、この世界に縫い留められている。
本来なら、真名を奪われた時点で消えていた命だ。
だからこそ燈狐は、命を繋ぎとめるために新しい名を与えた。
――その名を返せば、雪葉は救われる。
けれど。それは、彼女が私を忘れるということ。
燈狐は目を細めた。
雪葉は苦しげに呻いている。
その姿を見るだけで、胸がゆっくりと軋んだ。
「……雪葉」
そっと名前を呼ぶ。
雪葉の呼吸が、わずかに落ち着く。
悪夢の中でも、この名前は雪葉を護る鎖になっていた。
だが、それが同時に、彼女を縛っているのではないか。
燈狐は雪葉の頬に手を伸ばした。
触れられそうで触れられない人の肌。
だが、指先が近づくだけで雪葉の眉がふっと緩む。
「……こんなに苦しむのなら。名を返した方がいいのかもしれぬ」
囁きは自嘲のように沈む。
雪葉は夜ごと、名前を失う夢を見る。
自分が誰だったか思い出せない恐怖と、呼ばれる声のない暗闇に落ちていく悪夢。
その原因は、私だ。
燈狐は知っている。
彼女の命を救ったのは自分だ。
だが、彼女の記憶を奪ったのも自分だ。
返せば、すべて終わる。
葵としての記憶を取り戻し、普通の人として戻れる。
けれど──
「名を返せば、お前は私を忘れてしまう」
言葉にした途端、胸の奥がひどく痛んだ。
妖である自分が、そんな人間らしい痛みを覚えるとは思わなかった。
彼女の笑顔。
燈狐を呼ぶ声。
怯えながらも懸命に生きようとする姿。
それらのすべてが、雪葉のものだった。
名を返せば、雪葉は燈狐を知らない少女に戻る。
葵という、別の人生へと帰ってしまう。
「……それでも、苦しんでほしくはない」
指先が、雪葉の髪に触れそうな距離を漂った。
雪葉がまたうなされる。
身じろぎし、涙を浮かべ、名を求める。
「……こわい……だれ……?
……わたしは……」
燈狐の胸に、ひどい焦りが生まれた。
雪葉が消えてしまうような錯覚に襲われる。
思わず、手を伸ばす。
名前を呼びながら。
「雪葉。ここにいる。お前はここだ。私の名の庇護の中にいる」
その声に呼び寄せられたように、雪葉の苦しげな呼吸が落ち着きはじめた。
ゆっくりと、落ち着く。
そのたびに燈狐の心臓はひどく揺れる。
もし、この安堵を知らなければ……私はもっと早く名を返せたのかもしれない。
雪葉は静かに眠りへ戻っていく。
燈狐はその様を、目を逸らさずに見守り続けた。
名を返すべきか。
返せば雪葉は救われる。
しかし、雪葉は燈狐を失う。
「……どうすればいいのだ、雪葉」
妖である燈狐が、初めて答えを見失っていた。
雪葉を守りたい。
けれど、忘れられるのが怖い。
その狭間で揺れながら、燈狐はただ静かに、雪葉の名前を呼び続けた。
「眠れ。雪葉……」
朝。
障子越しに差し込む光は、春のように柔らかかった。
雪葉は目を瞬いて、まだ眠気の残る胸の奥に、得体の知れない不安が渦巻いているのを感じた。
──胸がざわつく。
理由はわからない。
悪夢を見たわけではない。
けれど、何か大切なものを手放す直前のような、そんな冷たさが指先に残っていた。
そのとき、すう……と簾が揺れた。
「起きたか、雪葉」
燈狐が、いつものように微笑んでいた。
白い髪が光の中でゆらぎ、金の瞳は春の陽だまりのようだった。
──どうして、こんなに優しいの。
その優しさが、雪葉の胸のざわめきをさらに強める。
「朝餉を用意した。今日は……お前と、ゆっくり過ごしたい」
「ゆっくり……?」
燈狐は、雪葉の問いにただ微笑むだけだった。
その笑みに、わずかな影が差す。
雪葉は見逃さなかった。
──何かが、変わる。
恐ろしくて、胸が痛むほどの予感。
けれど、燈狐は静かに雪葉の手を取った。
「怖い顔をするな。それでは、美しい雪が曇ってしまう」
雪葉は頬が熱くなるのを感じた。
名前を呼ばれるたび、胸がざわつく。
“雪葉”という呼び名に心が応え、同時に得体のしれない痛みも伴って混ざる。
今日はその痛みが、いつもより深い。
けれど、燈狐は気づかぬふりをしているように、いつも通りの穏やかさで雪葉を外へ誘った。
庭の桜は満開に近かった。
燈狐は枝を手で払って、舞い落ちる花びらを雪葉の手のひらに乗せる。
「ほら、似合う」
「……どうして?」
「お前が好きだからだ」
あまりにも自然に言うものだから、雪葉は息が詰まりそうになった。
燈狐は今日、やけに距離が近い。
いつも優しいけれど、今日はその優しさに、どこか“別れの気配”が混じっている。
雪葉は胸の奥がひどく冷えるのを感じた。
「燈狐さま……何か、隠してますよね」
「隠しごとなど、していない」
そう言いながら、燈狐の指先は雪葉の頬をすくうように触れた。
その触れ方が、まるで「これが最後」のようで、胸が締めつけられる。
「ただ……今日は、お前と一緒にいたい。それだけだ」
雪葉は言葉を飲み込む。
──どうしよう。
──この人の笑顔が、怖い。
昼餉は、燈狐が自ら用意したものだった。
山菜のおひたし、炊きたての飯、味噌汁。どれも温かい香りがした。
「どうだ?」
「……美味しいです」
「そうか。よかった」
燈狐は本当に嬉しそうに笑った。
まるで雪葉の喜びだけを糧にしているような、そんな笑み。
食後には、燈狐が作った甘い干菓子まで出てきた。
「今日は特別だ。なんでも好きなだけ食べろ」
「……今日だけ、なんて言わないでください」
雪葉の言葉に、燈狐は一瞬だけ顔を伏せた。
その沈黙が、雪葉の不安を確信に変える。
──やっぱり。何かが起きる。
──この人は、なにか……決めている。
夕焼けに染まる庭を眺めながら、二人は縁側に並んで座った。
風が花の香りを運ぶ。
燈狐は静かに、雪葉の手を握った。
「雪葉。私は……お前に多くを奪ってしまった」
雪葉ははっとして、横顔を見る。
燈狐の金の瞳は、沈む陽よりもずっと深い色をしていた。
「名を奪い、記憶を曇らせ……お前を苦しませた」
「……っ、それは……」
「本来なら、お前の名は返されるべきだ」
胸が、ぎゅう、と痛くなる。
そうだ。
燈狐は本来、名前を奪う妖であり、その名を返す者だ。
返された者は、燈狐の記憶を失う。
雪葉は自分の心臓が早鐘のように脈打つのを感じた。
──そうだ。
──名が返されたら、私は……燈狐さまを忘れる。
燈狐は雪葉の手を優しく包んだ。
「……私は、それでも、お前が幸せであってほしい」
雪葉は息が止まるほどの痛みを覚えた。
「だから……最後に、今日だけは……お前と過ごしたかった」
やっぱり。
この一日は、別れのための一日だったのだ。
雪葉はそっと手を握り返した。
「燈狐さま……」
声が震える。
涙があふれそうになる。
燈狐は寂しげに微笑んだ。
「泣くな。雪葉。お前の名は、返してやる。
明日には……お前は私を忘れて、新しい人生を歩めるだろう」
胸が張り裂ける。
雪葉は、小さく首を横に振った。
──嫌だ。
燈狐の指先が、雪葉の額へと触れようとしていた。
白い光が集まりかけている。
名を返す力――それは、雪葉が本来の「葵」に戻る術。
けれどその力が降りる直前、
雪葉の手が、燈狐の手首を強く掴んだ。
「……やめて」
細い声なのに、驚くほど強い力だった。
燈狐は一瞬きょとんとしたように目を見開き、それから苦しげに眉を寄せた。
「雪葉。返さねば、お前は……本来の名を失ったままだ。
その痛みに、いつまでも怯え続けることになる」
「違う。……そうじゃないの」
雪葉は首を振る。
肩が震えているのに、手だけは離れなかった。
「あなたは分かってない……っ!」
声が震え、涙がこぼれる。
「私が……どれほど、あなたを好きかなんて……
どうして気づいてくれないの……?」
燈狐の表情が、ふっと揺れた。
雪葉はそのまま、必死に言葉を絞り出す。
「この名前で生きるのは、怖かった。
私が誰なのかも、どこに帰ればいいのかも、全部わからなくて……
眠るたびに悪夢を見るたびに、本当は泣きたくてたまらなかった」
涙を袖で拭いながら、雪葉は燈狐に一歩近づいた。
「でもね……それでも、私……
あなたがそばにいてくれたから、生きてこられたの」
燈狐の胸元に、雪葉の額が触れた。
呼吸が触れ合うほど近い。
「“本当の名”より……あなたが大切なの。
あなたが、私の全部を支えてくれてたの。
そのあなたを、名を返されたせいで忘れるなんて……耐えられない」
掴んだ手に力がこもった。
「だから……いいの。私は、もう決めたの」
雪葉は顔を上げ、燈狐を真正面から見つめる。
「――“雪葉”として生きていく。
この名前で生きる。それで、あなたと一緒にいられるのなら。」
燈狐の喉が、かすかに震えた。
声にならない呼吸が胸の奥からあふれる。
雪葉は震えながら、最後の言葉を押し出した。
「……どうか、一人にしないで。
私を……あなたのそばに置いて。」
その瞬間、燈狐の背中にしなるような尾がふわりと広がり、
雪葉を包み込むように、強く抱きしめた。
「……お前という人間は。
どうして……こんなにも愛しい……」
燈狐は額を雪葉の肩に埋める。
掠れるほどの声で、ゆっくりと呟いた。
夜明けの山は、やわらかな靄に包まれていた。
木々の葉先に朝露が光り、清らかな空気の奥で、小さな鳥たちが声をひそめて鳴きかわす。
雪葉は、燈狐の隣に立っていた。
“葵”として過ごしたはずの時間は、もうぼんやりとした幻のように遠い。
けれど、不思議な孤独はなかった。
その隙間を、燈狐がそっと埋めてくれている。
「……寒くはないか、雪葉」
肩へ落ちてきた赤い布の羽織。
燈狐はゆるく彼女を包み込むように、温度を分け与える。
「うん。あなたがいるから」
雪葉が微笑むと、燈狐の金の瞳がやわらかく綻んだ。
妖狐のその瞳は、本来なら人の身には畏れを抱かせるものなのに、今はただ、心の奥を静かに満たす。
名を返されたなら、彼を忘れてしまうはずだった。
だから、選んだのだ。
“本当の名”ではなく、雪葉として生きる未来を。
彼のそばにある時間を。
風が吹き、雪葉の髪をやさしく揺らした。
燈狐はその一本一本まで守るように手を添える。
「これから、どうなるのかな……私たち」
雪葉が小さくつぶやく。
人と妖――交わることの少ない二つの在り方。
行く先のすべてを知ることはできない。
けれど、燈狐は彼女の手を取った。
あの夜、名を返そうとした手とは違う。
奪うためでも、別れのためでもない。
選んでくれた彼女を、これから支えるための手。
「未来など、どうとでもなる。
お前が雪葉でいるなら、私がそばにいる。
それで充分だ」
「……うん」
ふたりは並んで歩き出す。
山道の先に続く朝の光は、まだ淡い。
けれど確かに、彼らの足元を照らしていた。
雪葉はふと、手を握り返す。
小さな力でも、燈狐の指はしっかりと応える。
たとえ世界がどう揺れようとも、
名を失っても、
過去を手放しても、
――彼がいれば、きっと迷わない。
雪葉はゆっくりと息を吸い込み、朝の匂いを胸いっぱいに抱いた。
新しい名で生きる道の先に、
彼と共に育つ未来がある。
その未来に寄り添いながら、雪葉は微笑んだ。
「燈狐さま……これからも、よろしくね」
隣の妖狐は、彼女だけに向けた穏やかな笑みで応えた。
「ああ……雪葉。
ずっと、お前と共に」
光の中、ふたりの影が寄り添うように伸びていく。
──その道がどこへ続くかは、まだ誰も知らない。
けれど確かに、ふたりは同じ方へと進んでいく。それだけは、確かだった。
この小説はAIとの共作です。お読みいただきありがとうございます。




