或る恋の話
母に呼ばれたのは、昼食が終わってすぐのことだった。
「すぐに応接間へいらっしゃい」
普段は穏やかな母が、やけにきっぱりとした声でそう言ったのが、妙に引っかかった。
応接間の扉を開けた途端、空気が変わった。
彼女は、そこにいた。
窓辺の陽光を受けながら、真っ直ぐな背筋を保ち、静かにこちらを見据えていた。
「紹介しておくわ。こちら、公爵家よりお預かりすることになった方よ。しばらく、我が家に滞在なさるの」
私が何かを言うより早く、彼女は一歩前へ進み、落ち着いた口調で言った。
「このたびは、ご厚意に感謝いたします」
声に迷いはなく、気高く、どこか張りつめたものがあった。
微笑まない。媚びない。けれど失礼の一切ない、完璧な礼。
気圧されるような気高さだった。
まるでこの場の主が彼女であるかのような錯覚さえ覚えた。
私はただ、立ち尽くしていた。
彼女が伯爵家の息子と恋に落ち、そのことで彼女の父が激怒なさったため、やむなく我が家に預けられたと知ったのは、それからしばらく経ってからのことだった。
最初はただの客人だったはずの彼女の存在が、いつの間にか日常の一部となり、戸惑いながらも私は少しずつ慣れていった。
その気高さと凛とした姿は変わらず、しかし、どこか揺らぎを帯びた彼女の横顔に、私はいつしか心を奪われていたのだ。
彼女は、わが家の図書室を殊のほか気に入ったようだった。わが国でも随一と称される蔵書の数を誇るその場所は、静謐と知性が満ちていた。
私はしばしば、図書室の奥まった隅で彼女が一心に本を読む姿を見かけた。光が差し込む窓辺の席に腰掛け、指先で頁をめくるその所作は、まるで古の貴婦人のように凛としていた。
彼女にとって、ここはひとときの安らぎの場だったのだろう。
その静かな時間が、私にとっても日常の安寧をもたらしていた。
彼女が図書室で過ごす時間が増えるにつれ、私も自然とそのそばで本を手に取ることが増えた。
静かな空間でページを繰る音だけが響き、言葉は交わさずとも、そこに確かな距離の近さを感じていた。
互いの呼吸を感じながら、それでも互いに干渉しすぎることなく、ただ静かに時を共有する――そんな日々が、少しずつ私の心を満たしていった。
ある日の午後、図書室の奥で彼女がひとり静かに眠っているのを見つけた。長い睫毛の下でゆっくりと呼吸をしている。私は邪魔をしないようにそっと隣に腰を下ろし、本を読み始めた。
しばらくして、彼女が目を覚ました。
ふと私に気づくと、少し慌てたように目をぱちぱちさせて、ぽつりと言った。
「あ、ごめん……寝ちゃってたみたい」
その素直な声に、思わず微笑んでしまった。
その日から、わたしたちの仲は、確かに少しずつ深まっていったように感じた。
ある日、私は彼女を屋敷の庭へ案内した。
季節の花々が咲き乱れ、風が葉を揺らす静かな場所。
「こちらの薔薇は、そろそろ見頃です」
私はぎこちなく声をかける。彼女はゆっくりと花を見つめ、ほんの少しだけ微笑んだ。
「とても美しいですね」
沈黙が訪れ、私たちは少し戸惑いながらも並んで歩いた。彼女の気配が近くて、しかし手を伸ばすには遠く感じられた。
それでも、言葉が少なくとも、空気は柔らかく満たされていた。
少しずつ、確かに距離は縮まっているのだと、私は感じていた。
ある日の夕刻、私は父の執務室に呼ばれた。
母も静かに控えていて、二人の表情にはわずかな警戒が漂っていた。
「最近、図書室に頻繁に顔を出しているみたいね?」
母が穏やかな声で尋ねる。
「ええ、ここしばらくは特によく通っています。彼女とも互いに礼を尽くしながら、静かに過ごしていますよ」
私は落ち着いて答えた。
その言葉に、父の視線がわずかに鋭くなった。
「公爵家のご令嬢とは、必要以上に親しくならぬよう気をつけなさい」
低く、しかし断定するような口調だった。
私は少し驚きながらも、まっすぐに答えた。
「もちろん節度は保っています。あの方は礼儀正しくて、会話も落ち着いていますし、むしろ貴族として見習う点が多い方です」
母がわずかにため息をついた。
「あなたが敬意を持って接しているのはわかるわ。でも、あの方は今、特別な事情でこちらに滞在されているだけ。いずれご実家にお戻りになる身ですし、そういった方に誤解を与えるようなことがあってはいけないの」
私は首を傾げた。
誤解、という言葉に引っかかりはしたが、特に何か問題があったとも思えない。
「……あの方も、軽はずみな振る舞いをされる方ではありません。お互いに心得て接しているつもりです」
父が椅子に背を預けながら、重い声で言った。
「よその家のお嬢さんだ。それも、公爵家の。」
母も続けた。
「あなたがまだ若いのはわかっているわ。けれど、立場と距離感というものを、間違えてはいけないのよ」
母の言葉に頷き、言葉を続ける。
「彼女のような方と、自然に考えを交わせる時間を持てることは、将来のためにも……そう、貴族としての心構えとしても、大変貴重なことかと」
父は少し眉を動かしたが、特に何も言わなかった。
何かを言いかけたようだったが、結局、父は静かに椅子にもたれたまま、それ以上は口を開かなかった。
それからというもの、私は以前にも増して図書室に足を運ぶようになった。
節度を守っている――そう、自分でも確信を持っていた。あくまでも静かな読書の時間を共に過ごしているだけで、余計な会話はほとんど交わしていない。
けれど、それでも彼女の隣にいることが、私にはどこか特別なことのように思えた。
彼女は変わらず、図書室の奥の窓際に席を取り、本を読んでいた。
私が同じ時間にそこへ行けば、彼女は軽く頷くだけで、また本に視線を戻す。
彼女は、私に話しかけてくることはなかった。
けれど私は、それを冷たさとは感じなかった。
むしろ、それこそが彼女の慎ましさなのだと思った。
隣に座る私を拒まないという事実。それだけで十分だった。彼女の空気を乱さぬよう、私は静かにページをめくる。そうした時間が、心のどこかで愛おしく思えていた。
ある日、彼女が本棚の前で、上段の本に手を伸ばしているのを見かけた。
その指先はわずかに届かず、肩に力が入りすぎているのが遠目にも分かった。
「お手伝いしましょうか」
そう声をかけると、彼女は一瞬動きを止めた。
そして、ほんの少し遅れて振り返った。
「……ありがとうございます。でも、自分でできます」
きっぱりとした声だった。
けれど私には、それがどこか遠慮深い断りのように聞こえた。
「どうぞ、気になさらず」
私は棚の前に歩み寄り、黙って彼女の目当ての本を取って手渡した。
彼女は私の手元を見つめたあと、目を伏せたままそれを受け取った。
ほんの一瞬、指が私の手に触れたように思えた。
彼女は何も言わず、すぐに席へと戻っていった。
私は、その背中をしばらく目で追っていた。
音もなく歩いていくその姿が、なぜかひどく綺麗に思えた。
何かが、始まっているのではないか
そんな淡い期待が、胸の奥で、静かに広がっていくのを感じていた。
あの日以来、私は以前にも増して図書室へ足を運んだ。
棚と棚の間、陽の差し込む窓辺の机。
彼女はそこに座り、黙々と頁をめくっている。
声をかければ、短い返事が返ってくる。
それでも、以前より距離は近づいた――そう思っていた。
椅子の脚が触れるほどの距離で、同じ本を覗き込み、時おり視線が合えば彼女は小さく笑う。
それが照れ笑いなのかどうか、確かめたことはない。
数日後、母に呼び止められた。
廊下を歩く私の前に立ち、あまり表情を動かさずに口を開く。
「……あなた。あまり図書室に入り浸るのは、おやめなさい」
「入り浸る、なんて」
思わず笑ってしまった。
「ただ、本を読んでいるだけですよ」
「それは承知しています。ですが――」
母は一拍置き、扇を閉じた。
「お預かりしている間は、くれぐれも誤解を招くようなことはなさいませんように」
妙に言葉を選ぶその調子に、私は心の中で肩をすくめた。
またその話か。
きっと両親は、節度を守って交流を続けよと言いたいのだろう。
わざわざ遠回しに釘を刺すとは、まったく照れ屋な人たちだ。
その日の夕刻、父の執務室へ呼ばれた。
分厚いカーテンが半ばまで引かれた部屋は薄暗く、机の上には開封された手紙が置かれている。
その封筒には、公爵家の紋章がくっきりと浮かんでいた。
心臓が、ひとつ跳ねる。
――まさか、何か良い知らせだろうか。
私に関わる話であってほしい、そんな期待が喉元までこみ上げる。
「お前にも知らせておく」
父は低く言い、視線を封筒に落としたまま続けた。
「例の公爵家の令嬢だが……以前噂になった伯爵家の倅と、正式に婚約が決まったそうだ」
言葉が頭に落ちる音だけはしたが、中身は霧の中に消えていった。
「……婚約?」
父は頷き、さらに淡々と告げる。
「向こうの父君も承知の上だ。式までは我が家で過ごすが……秋には向こうへ戻ることになる」
――秋。
わずか数か月後の季節が、はっきりとした形で目前に置かれた瞬間、胸の奥で何かが鈍く沈んだ。
机の縁の彫刻を指先でなぞる。
さっきまで温かかった期待は、指先から冷たく流れ落ちていく。
彼女が去る――それまでの間に、どれだけ時間が残されている?
その時間で、自分は何をできる?
答えは出ないまま、部屋を出た廊下は、いつもより長く、足音だけがやけに響いていた。
ふと、何気なく窓の外を見やると、庭に彼女の姿があった。
隣には背の高い青年が立っている。
よく見ると、彼女はその青年が近づくたびに身体を少し離し、まるで距離を取りたがっているように見えた。
その光景に胸が締めつけられ、思わず慌てて庭へと駆け出していた。
駆け寄ると、青年の手が彼女の手を強く握っているのが見えた。
彼女の頬には、夕陽に照らされてキラリと光る涙が伝っていた。
「……!」
私に気づくと、青年は慌てて彼女の手を離した。
その視線は名残惜しさと、どこか後ろめたさを含んでいるように見えた。
言葉少なに背を向け、ゆっくりと庭から立ち去っていった。
慌てて彼女の元へ駆け寄ると、彼女は強がるように微笑んだ。
「何でもないわ」
だが、その潤んだ瞳は嘘をついていた。
私は彼女が私に遠慮して涙を見せまいとしているのだと信じて疑わなかった。
「大丈夫か?」
問いかけると、彼女は首を振り、強い声で言った。
「本当に大丈夫よ」
私はその言葉に少し戸惑いながらも、あえて深くは尋ねなかった。
彼女の表情には、何か言い出せない遠慮が漂っていたからだ。
本当は何かあるのだろう。
それを知りたいと思う気持ちと、彼女の意志を尊重しなければならないという理性がせめぎ合った。
結局、私は黙って彼女を部屋まで送り届けた。
彼女は照れ隠しのように少しだけ笑い、手を振って部屋に入った。
その触れ合いに胸が熱くなりながらも、どこか言葉にならないもどかしさが胸に残った。
彼女は、私にだけ見せる弱さを抱えつつも、それを隠そうと必死だったのだろう。
その後、執事から聞かされた話は私にとってあまりにも重く、受け入れがたいものだった。
あの青年こそが、彼女の婚約者であり、正式に婚約の許可が下りたものだというのだ。
けれど、あの日の彼女の涙を思い返すと――
それは、喜びの涙などでは到底なかった。
あの瞳の奥に映っていたのは、言葉にならない苦悩と悲しみ。
どうして彼女があんなにも震え、私から離れようとしていたのか。
それは、婚約という重圧に押し潰されそうになっていたからに違いない。
私の心は騒ぎ立てた。
「彼女は、あの男との結婚を望んでいない」——そう確信せずにはいられなかった。
守らねば、私が――。
この想いは、もはや後戻りできないほど強くなっていた。
その夜、夕食のあとも落ち着かず、私は厨房に行き湯を沸かして彼女のためにハーブティーを淹れた。
母が時折眠れぬ夜に用いるハーブティーだった。
強い鎮静作用はあるが、副作用はほとんどない。眠れば余計なことを考えずに済むだろう。
私は茶を淹れ、盆に載せて彼女の部屋を訪れた。
「遅くにすまない。昼間は色々あったろうから、少しでも休めるといい」
扉の前に立つ護衛にそう告げると、彼は中へ取り次いでくれた。
ほどなくして中から「どうぞ」という控えめな声が返る。
彼女は椅子に腰掛けて本を読んでいた。
「眠れないときにいいらしい」
そう言って湯気の立つカップを差し出すと、彼女は柔らかく微笑み、「ありがとうございます」と受け取った。
私はそれ以上は話さず、「ゆっくり休め」とだけ言って部屋を後にした。
静かな夜の帳のなか、胸の奥を焦燥が駆け抜ける。
屋敷の裏手にひっそりと佇む納屋へと足を運ぶ。
誰にも気づかれぬよう、闇に紛れて手早く油を撒き、火を灯す。
ぱちりと小さく火が揺れ、すぐに煙がゆるやかに立ち上りはじめた。
遠く離れた部屋の窓から、ゆらめく火の光がかすかに見える。
すぐに屋敷中が騒然となり、慌てた声が廊下に響き渡る。
護衛たちは消火と警戒に奔走し、かつて彼女の部屋を固く守っていた者たちの姿は消えた。
私はそれを見届け、心の奥底で緊張が走るのを感じながら、静かに廊下を歩む。
扉の前に護衛がいないことを確かめると、息を殺して部屋の中へ。
月明かりの下で眠る彼女の顔を見つめる。
揺れる火の音に混じって、何も知らぬ安らかな寝息が聞こえた。
この一刻が、彼女を守るための唯一のチャンスなのだと、
私は心の中で何度も繰り返した。
――よし、これでいい。
彼女は深く眠っており、少し乱れた服の裾が肌を覗かせている。
軽く指先でその乱れを広げてみると、胸の鼓動が微かに伝わってきた。
「こんなにも無防備で、儚くて……」
胸が締め付けられるような思いに駆られ、私は静かに隣に身を滑り込ませた。
彼女の不安や戸惑いは、私が感じている以上に深いのかもしれない。
ならば――私も一緒に眠ろう。
隣にいることで、少しでも彼女の安心に繋がるならば、それでいい。
そう決めて、懐から睡眠薬を取り出す。
それは彼女のためではなく、私自身のためのものでもあった。
共に眠り、同じ時間を共有するための覚悟の証。
薬を口に含み、ゆっくりと喉へと落とす。
じわりと体の力が抜けていき、まぶたが重くなっていくのを感じる。
眠りに落ちる寸前、私は揺るぎない思いを胸に抱いていた。
彼女と共に過ごしたこの一夜が、ただの夜では終わらないことを。
貴族の世界において、一晩を共にしたならば、もう結婚する以外に道はないのだ。
だから、この夜が私たちの新たな始まりになる。
あの泣くほど嫌がっていた伯爵令息との婚約は、この瞬間に終わりを告げる。
彼女はきっと安堵し、喜びに満ち溢れるはずだと確信していた。
私たちの未来は、今ここから動き出すのだ――。
まだ夜明け前の薄暗い時間帯、深い眠りの中にいた私の耳に、不意に響き渡る激しい声が割り込んだ。
薄暗い寝室の扉が乱暴に開かれ、父が慌てふためいた声で怒鳴った。
「お前、何をしたのかわかっているのか!」
目が覚めると、扉が乱暴に開け放たれ、父の慌てた姿がぼんやりと目に入った。
しかし、昨夜服用した睡眠薬のせいで頭は重く、思考はまとまらず、身体もだるくて動かせなかった。
「か、父上……?」
声を出そうとするが、口がうまく動かない。
父は怒りと焦燥に満ちた表情で、私の肩を掴み、強く揺さぶった。
父の声は鋭く、震えていた。
「彼女は――もう戻らないんだぞ!お前のせいで、彼女は――!」
私はその言葉の意味をうまく飲み込めず、ただ口ごもった。
ぼんやりとした意識の中で、父の言葉はどこか遠くの雑音のように響いていた。
しかし、心の奥底では、彼女がどれほどあの縁談を嫌がっているかを知っているつもりだった。
「彼女は、あの伯爵令息との結婚を望んでなどいません」
私は自信満々に告げた。
「私が彼女を救ったのです。あの人との結婚を拒む強い意志を彼女は持っている」
「それに、これで我が家は公爵家と縁続きになれるのです。これ以上の幸運はありません」
私は胸を張り、まるで英雄のように振る舞った。
「皆にとって、メリットしかないのだ。未来は明るい」
しかし、その言葉が父に届くことはなく、彼の表情は怒りと悲しみで歪んでいた。
父は怒りのあまり顔を真っ赤にし、拳を机に打ちつけた。
「お前の言う正当性、そんなものは通用しない!」
「ただの身勝手な思い込みだ!」
だが私は聞く耳を持たず、興奮気味に自分の正当性を繰り返した。
「これは皆のためになることです!未来は明るいのですから!」
その言葉が部屋の空気をさらに重くし、父の怒りは収まる気配を見せなかった。
私はまだ気づいていなかった。
真実は、私が想像する以上に遠く、私の理解の届かないところにあることを。
言い争いが続く中、ふと視線を隣の寝床に向けた。
そこに、昨夜一緒にいたはずの彼女の姿はなかった。
「……あの、彼女は?」
ぼんやりとした頭で、私は不安げに問いかける。
父は言葉を詰まらせ、重い沈黙のあと、震える声で答えた。
「……彼女はもう、いない」
「どういうことですか?」
混乱した私はさらに食い下がる。
父はゆっくりと、しかし痛ましい事実を告げた。
「昨夜、彼女は自ら命を絶った。遺書も残して――」
その言葉が頭の中で繰り返され、重くのしかかった。
その言葉が頭の中で何度も反響し、現実の重みが体を締めつける。
一瞬、何も理解できずに目の前が真っ白になった。
「そんな、嘘だ……」
口から漏れた言葉は、震えと共にこぼれ落ちた。
頭の中に、かすかな希望が芽生える。
《母上なら、母上ならきっとわかってくれるはず……》
しかし、父の表情は冷たく、静かに現実を突きつけた。
「お前の母上は……事情を公爵家に説明し、責任を取るために、その場で命を絶ったのだ。もう、二度と会うことはない」
その言葉は、私の胸に容赦なく打ち込まれ、希望の糸を完全に断ち切った。
世界が音もなく崩れ落ちるような虚無感が体を覆い、膝から力が抜け、床に崩れ落ちた。
――母も彼女も、もう戻らない。取り返しのつかない現実だけが、冷たく胸を締めつけていた。
父の低い声が耳に刺さる。
「お前は、あの娘が何を思っていたか、すべて勘違いしているのだ……」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。胸の奥で何かが引き裂かれるように痛み、呼吸が詰まる。心臓の鼓動が耳の奥で爆ぜ、手も足も思うように動かない。膝を抱え込み、床に沈み込む。目の前の光景が揺れ、壁も机も、距離感も、すべて歪んで見える。
血の気が引くように震えた。理解も整理もつかず、ただ恐怖だけが身体を支配する。
父はゆっくりと告げる。
「彼女は、伯爵家の子息との縁を心から喜んでいた。公爵も当初から許すつもりであった。しかし、怒った手前、示しがつかぬゆえ、一時的に我が家で預からせてもらったに過ぎぬ」
その言葉の意味が理解できず、頭の中で言葉だけがぐるぐると反響する。耳鳴りのように聞こえる父の声と、廊下の遠い足音、風のざわめきが混ざり、現実感が溶けていく。あの夜、彼女の笑顔、涙、微笑み――すべてが私の幻想だったという事実が、圧倒的な重みで押し寄せてくる。
体は膝の上で震え、手は握りしめたまま痙攣する。声を出そうとしても嗚咽だけが漏れる。目の前の父の顔も、声も、光も、何もかもが歪み、逃げ場のない迷路に閉じ込められたようだ。
――私の目に映っていたのは、すべて幻だったのか。
あの夜、彼女を救おうと信じて行った行為も、涙も、喜びも、すべて無意味だったのか――
手の震えが止まらず、頭の中では過去の記憶が断片的に流れ続ける。図書室の明かり、ページをめくる音、微笑む彼女――すべてが私の幻想。現実の感触は、ただ冷たい床と震える体だけ。
胸の奥で重く広がる不安と恐怖。何が現実で、何が夢なのか、何もわからない。頭が割れるように痛み、視界がちらつき、声にならない叫びが喉の奥で止まる。
私はただ、頭を抱え、震え、もがき、暗闇の中で出口のない不安に押し潰され続けた。
「母上も、父上も、最初から全て知っていたのですか……?」
声が震え、喉が詰まる。止めようとしても止まらず、つづけずにはいられない。
「全て、わたしの一人芝居だったのですか……?」
声に出した瞬間、廊下の空気が重く震えるように感じた。耳の奥で心臓が爆ぜ、全身に血の気が引く。膝を抱え、床に沈み込むしかない自分がいる。視界は霞み、父の怒声も、朝の光も、壁や天井も歪んで迫ってくる。
「お前は……その、あの娘の気持ちを……」
父の言葉は聞こえるが、意味が頭に入らず、ただ胸に突き刺さる痛みだけがある。膝の上で震える手を握りしめ、嗚咽が喉から溢れる。
私は必死に頭を振り、現実を理解しようとする。しかし、思考は断片となり、過去の光景が錯綜する――図書室で微笑む彼女、ページをめくる音、手を伸ばしたあの瞬間、全てが夢だったのか、幻だったのか。
「違う、違うはずだ……!」
声を上げるたびに胸の奥で何かが崩れ落ち、体は膝に沈んだまま震え続ける。床の冷たさだけが、私に現実を教えてくれる。
頭の中では、夜の出来事を必死に肯定する自分がいる。彼女は喜んでいた、私は救世主だった、これで我が家も公爵家と縁続きになれる――すべて完璧だ、と思い込もうとする。しかし、言葉は頭をよぎるだけで、理性はぼろぼろに崩れ去り、錯乱の渦に飲み込まれる。
膝に顔を埋め、呼吸も乱れ、全身が震え続ける。もう何が現実で、何が夢なのかもわからない。声に出しても、空気に響くのはただの震えだけ。
私はそこで、出口のない闇に押し潰されるしかなかった。
気がつくと、白すぎる病室の中にいた。
目の前に彼女が座っていて、私を見つめている。
「しっかりして……ほら、もう大丈夫……」
その声に、私は手を伸ばす。震える指先が触れる――触れる温もり。
ああ、やっぱり夢じゃない、いや、でも現実でもない――混乱で頭がぐるぐる回る。
胸が押し潰されるように苦しく、息が吸えない。
手を握り返すと、温かさが胸に染みる。だが次の瞬間、手はふわりと消えた。
視界の端で白い光が刺すように輝き、心臓が跳ねる。
「……!」
嗚咽と叫びが混ざり、声は喉の奥で裂ける。
あの夜の記憶、嗚咽、絶望――すべてが押し寄せ、頭が爆発しそうだ。
「しっかりして……ほら、もう大丈夫……」
幻の声が再び耳に届く。私は手を伸ばす、掴もうとする、でも消える。
安堵の一瞬が、残酷な虚無にすぐ置き換わる。
白い病室の冷たさ、無機質な光、指先に残る何もない空気――
胸の奥で、彼女の温もりと笑顔が引き裂かれる感覚。
「どこだ、どこにいるんだ……!」
嗚咽は止まらず、体は震え、膝から崩れ落ちる。
夢か現か、光か闇か、わからない。
ただ、胸の奥に押し込まれる絶望だけが、確かに、ずしりと重く、逃げ場を失ったまま私を締めつける。
幻の彼女の微笑みも声も、もはや届かない。
現実は冷たく残酷で、安堵の感覚だけを引き剥がし、私の全てを叩きのめす――
私は震えながら、声にならない叫びを白い天井に向けて放つ。
「ああああああ……!」