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サンドライトの想い

作者: 蒼空花

 

 一つの小さな石の前に、白色の布が静かに広がっている。聖職者のような衣装を纏ったその人は、祈るように手を組んだ。まるで、過去の思い出を手繰り寄せるかのように。

「君は、本当にずるい……」

 その人は、消え入りそうな儚い声で、そう呟く。光に透き通るその白銀の髪が、寂しそうに揺れる。伏せられた碧緑の瞳が、ゆっくりと石に刻まれた文字をなぞる。

 自分から花を供えるなんて、柄ではないけれど。今日ぐらいは……許されるだろう。

 ──そう、今日は。

「今日は君の命日です──アレク君」

 悲しそうにそう呟いた後、その人は静かに立ち去った。気付けば、綺麗に磨かれた石の前には、数本のスターチスが添えられている。

 これは二人しか知らない、唯一の真実を抱いた物語。



「ふぁ……」

 少し癖っ毛の金髪の青年が、小さくあくびをした。それを噛み殺すように口を閉じ、再び二人の間には沈黙が流れる。碧眼が眠たそうに揺蕩っているが、果たしてそれで良いのだろうか。

 ふと視線を逸らすと、青年の隣には神官か、もしくは聖職者と思わしき人がいる。きっとその人の護衛か助手なのだろう。だったら尚更、しっかりしているべきなのでは。

 また小さくあくびをした青年は恨みがましそうに、隣を涼しい顔で歩く人へ、ついにこう言った。

「ねぇディヴァンさん?何でこんなに朝早くから出発するんです?」

「仕方ないでしょう、頼まれたんですから……もしかして朝が弱い子羊君には無理ですか?」

「そんな事は……!」

 ない、と言いかけて口ごもる。どうやら思い当たる節が彼にはあったようだ。

 金髪の青年とは打って変わって、柔らかな白銀の髪を持つ──ディヴァンと呼ばれたその人は、朝に強いのかしっかりとした足取りで歩いていく。

「ほら、早く行きますよ?早く出発した意味が無いじゃないですか」

「えぇー……」

 渋々といった様子で後ろを着いて行く彼は、それでも何処か楽しそうな雰囲気を纏っていた。それもそのはず、彼はディヴァンと共に出掛ける事が唯一の楽しみだったのだから。

 まぁその彼も、こんなに朝早いとは思っていなかったのだが。

「それで、今日は何処に行くんですか?また孤児院を巡って紙芝居ですか?」

「君、私がそれしかしてないと思ってるの?」

「いや……まぁ少しは」

「正直ですね。それが子羊君っぽいんですけど」

 ふふ、と少し微笑んだディヴァンは、今日はですね、と青年に話を切り出す。また今日も、二人だけの小さく楽しい旅が始まった。



「調査……ですか」

「ええ、今回は上官直々に依頼が。まぁ、なので……少々厄介かと」

「へぇー、ディヴァンさんの依頼って何でも結構厄介だと思うんですけど」

「言うようになりましたねアレク君。では置いていきましょうか、不満なようなので」

「違いますよ!?え、あ、待って下さいっ!」

 すたすたと静かに、それでもなかなかに速く、ディヴァンさんは歩いていく。まさか置いて行かれる事は想定していなかったので、慌てて立て掛けていた剣を左手で掴んだ。

 半ば小走りでディヴァンさんに追いつくと、少し悪戯っぽく笑われてしまう。その笑顔に、僕は何だか少しだけ悪態を吐きたくなった。

「……だって、貴方が置いてくから」

「君は変わりませんね。昔から、ずっと」

「身長は越しましたけどね、頭一つ分」

「身長だけ、ね?」

 上手い事言いくるめられて、思わず口を閉じる。駄目だ、いつまで経っても勝てない。いやまぁ、七歳も上なら勝てない、よな?……そう思いたい。

 むくれつつ歩いていると、小さな村が見えてきた。もしかして、あれが今回の目標、なのだろうか。ちら、と横を盗み見る。いつもと変わらない、表情が分かりにくいディヴァンさんの顔。うん、全く分からない。

「……着きましたよ子羊君、ここが今回の村です」

「平和そうに見えますけど……」

「人というものは、最初だけは外面が良いんですよ」

「また身も蓋もない事を言って……また変なのに襲われますよ?」

「おや、その時はアレク君が護ってくれるんでしょう?」

「い、や……まぁ、そのつもりですけどね」

 またもや上手いこと丸め込まれる。しかも、これで無意識なのが余計にたちが悪い。

 それでも、渋々従ってしまう僕も僕、か。

 はは…と小さく自分で苦笑いしていると、ディヴァンさんはいつの間にか、村の子供達が集まる広場のようなところに向かっていて。再び慌てて追いかけようとした、その時。突然刺すような視線がして、思わず振り返る。しかし、後ろには村の警備隊しか居らず、首を傾げながらもディヴァンさんの方へ向かった。

「しんかんさま?」

「なにかお話し、してくれる?」

「ええ、してあげますよ。そこのお兄ちゃんが」

 幼い視線が一斉に集まる。違う意味できらきらした瞳が、容赦なく僕に突き刺さった。それ本当に言ってますかディヴァンさん……?

 この前試しに、と渡されて。戸惑いながらやったら、終わった後すぐ無言で取り上げられたのに。

「良いんですか?僕なんかで」

「君用にやりやすいのわざわざ作ったんです。練習ですよ」

「実践の間違いでは?」

 しかしながら、僕の抗議程度ではディヴァンさんには届かない。さぁ、と背を押されて、子供達の輪に加えられた。仕方がないので、その中心に腰を下ろす。そっと手渡されたディヴァンさんお手製の紙芝居を受け取って、軽く読んだ。

 その時、あれ?と思う。

 前のものよりも、簡単になってる……?

 しかも一拍待つ、や、少し早めに、など、コツもびっしりと書き込まれていて。言わばお手本のような、解答を見ているような、そんな感じがした。

 でも、これなら、僕だって。

『 昔々、ある所に。八人の旅人がいました。生まれも、職業も。全て違った彼らは、それでも長い旅を続けました。

 ある者は華々しい踊り子になる為に。またある者は無くした記憶を取り戻す為に。他にも国を追われた王子や、世界を幸せにしようとした者。自由を手にする為、親殺しを成そうとした者。唯一の真実を暴く為に旅をする者や、故郷を守る為に各地を奔走する者。家族を奪われた憎しみを晴らそうとした者。八人は協力し、時に少し喧嘩もしながら、各々の目的を果たす為に、旅を続けました。

 しかし、彼らの旅も気付けば終わりを迎えて。

 最後に彼らは、こう言いました。

「───また、会う日まで」

 何もかも違った彼らは、最後の時に、同じ言葉を告げました。

 不思議な縁で結ばれた八人は、きっと今も何処かで暮らしているのでしょう。

 再び全員が揃う、その日まで…… 』

 無事に読み終わり、顔を上げる。前よりは良かったんじゃないか。そう思ってディヴァンさんの方を見ると、そこには全く僕には目もくれず、住民たちから情報収集をしている姿があった。流石に酷くないか。

 そう思っていると、子供達が僕の膝に突撃してきて、思わずよろける。

「え、っと……どうしたの?」

「すてきなお話しだった!ねぇ、もうないの?」

「あー……ごめんね、もう無いんだ。だから次を楽しみにしててくれるかな?」

「うん、わかった!ありがとお兄ちゃん!」

 満面の笑みを見せた後、子供たちは揃って何処かへ走って行ってしまった。元気なのは良いことなのだけれど、こうも思い切りが良いと、少しだけ悲しくなる気がする。

 ふう、と一つ息を吐いて、伸びをした。慣れない事をすると疲れるのは、誰だってそうだろう。

「おや、もうお疲れですか子羊君」

「ディヴァンさん……僕を置いてったくせに、よく言いますね」

「君はもう、保護者が必要な年じゃ無いでしょう」

「それはそう、ですけど」

 でも、何も言わずに置いていくのは酷くないですか?とは思った。ものの、言えなかった。言ってもまた言い包められるだけだから……。

 少しだけ悲しくなっていると、アレク君、と呼ばれて、反射的に顔を上げた。すると、碧緑の瞳が悩ましげに視線を彷徨わせていて、思わず首を傾げる。

「どうかしたんですか?」

「……いえ、やはり何でもありません。杞憂というものでしょう」

 気になる。普通に。でも、きっと僕が聞こうとしても、絶対言ってくれないだろう。だってそれがディヴァンさんなんだもの。

 その後、今日は早めに寝ましょう、とディヴァンさんは何事も無かったかのように切り上げた。貴方が何も無いって言うなら、僕はそれに従うだけだけど。

 ……けれど、何かあるなら言って欲しい、なんて。

 少し、思ってしまった。

 


 ──アレク君には言わなかったけれど。今回の調査は、殺人事件が絡んでいる。

 ただ、そうそう犯人と鉢合わせする事は無いとは思ってはいる。だとしても、用心するに越した事は無い。だから護衛にアレク君を選んだ。

 彼は強い。ああ見えて、騎士団長に及ぶまでの強さを持っている。

 なのに──何故私の近くにいるのか、謎なんですけどね。

「……無明の果てで夢を喰らうな」

 今日話をした村人が、少し前。それも殺人事件が起こる前に訪ねてきた旅人が、よくこの言葉を言っていたと教えてくれた。ならばこれの意味は何か。何を意味しているのか。

 ……すぐには分からない、が。それでも嫌な予感だけは、私に纏わりついていた。

「──記憶さえ、眠ることを選ぶ」

 何かの宗教の一文か?それにしては、曖昧にも程がある。

 そう思案していると、遠くの方で朝日が昇ってきていた。考えているうちに、いつの間にか夜が明けていたらしい。

 ふと、眠そうなアレク君の顔を思い出す。ただでさえ絡まりやすい金糸を、これでもかというほど絡ませて、私に対して少しだけ悪態をつく。でも、ちゃんと着いてくるのだ。

 ふふ、と小さく微笑む。

 殺伐とした空気が、ゆっくりと緩んだような気がした。



「眠い……」

 まだ朝日が顔を出したぐらいなのに、ディヴァンさんはもう出発する、と言っていて。先程僕は叩き起こされた。ディヴァンさんに。

 なかなか人使いが荒い。あぁでも、今に始まったことでも無いか。

 思い返してみれば、出会った時からこの人は変わっていない。冷静で落ち着いていて、涼しい顔で人をこき使うんだ。

「何か失礼な事を考えてませんか、アレク君?」

「なっ、何でも無い、ですよ?」

「怪しいですね……心なしか、目も合わせてくれませんし」

「き、気のせいじゃないでしょうか…」

 危ない。下手にこの人の前で考え事が出来ない。こんなのすぐ、僕の考えを暴かれてしまう。そう、内心冷や汗をかきながら歩いていると、突然ディヴァンさんはふふ、と笑みを溢した。

「…どうかしましたか?」

「……いえ、ね?別に私は、君を取って食べたりしませんよ?アレク君の緊張具合が、出荷前の子羊のようで」

「それは……失礼しました」

「おや、今の言葉はどっちに対してなのかな?」

「うぅ、ディヴァンさんがいじめてくる〜……!」

 発する言葉全てに突っついてくるので、思わずそう言うと、ディヴァンさんは大して悪びれる事なく微笑んで、先へと進んでしまった。一人で。

 危ないから着いてこいって言ったの、ディヴァンさんなのに……!

 思いはしたが、言わなかった。怖いので。

 そうこうしているうちに、大きな遺跡に着いた。蔦が張り、あちこちがひび割れているその遺跡は、かなり昔からあるものに違いない。

「落月の遺跡、という場所らしいです。大昔の民族が、祭事に使っていたのだとか」

「へぇ……凄く広いですね」

「それはまぁ、少数民族では無かったようなので」

「あ……」

 無知を晒した気恥ずかしさが、心に灯った。まるで小さな子供を見守るかのようなディヴァンさんの視線に、どことないくすぐったさを抱く。

 そんな恥ずかしさを誤魔化すように、さぁ、早く行きましょう!と言って、ディヴァンさんの手を引いた。

 


 なかなか強引な子羊です。でも、嫌いじゃありません。

 ちら、と彼の方を見る。ふわふわな金糸から覗く真っ赤に染まった耳に、思わず笑ってしまった。大人になったようで、その芯は変わっていないらしい。

 ……まぁ、とは言え。

「アレク君?先に進むのも良いですが、今回の目的は調査です。そろそろ手を、離して頂けませんか?」

「えっ……あ!すみません!」

「ふふ、子羊君は意外と肉食のようです」

「うぐ…」

 そう、からかって遊んでいると、何処か遠くから、絹を裂くような魔物の鳴き声が聞こえてきて。けれど、遺跡内の反響から考えて、まだそう近くないと思っていると、突然アレク君が私の前に立った。

 ───瞬間、襲いかかる狼型の魔物。

 それを間髪入れず、アレク君は一太刀で切り捨てた。

「……流石です。やはり私の見込んだ通りでしたね」

「だから、あんまり先に行かないで……って」

 背中しか見えないので表情は分からないが、焦ったような声が聞こえ、アレク君の視線の先を追う。すると、大小様々な魔物がたくさんこちらに向かってきていた。

「これ、は……」

「おや、無理ですか?あれだけ私に大見得切ったのに?」

「〜〜〜っ、やりますよ!やれば良いんでしょう!」

「流石、私の騎士です」

 半ばヤケのような感じもするが、アレク君はそう言った。

 強いのだから、もう少し自分に自信を持っていい。まぁ、控えめな所が、彼の美点でもあるのですが。

 その後、頼りない返答とは裏目に、アレク君は数分も掛からず魔物を全て倒した。息切れ一つないのは、彼の日頃の鍛錬の賜物だろう。

「ディヴァンさん!お怪我はありませんでしたか?」

「えぇ、私はね。……君は?」

「えっ、僕ですか?僕は大丈夫です、何一つ怪我してません」

「そうですか、それなら良かった」

 君が怪我をしていなければそれで良い──なんて。

 絶対言ってやりませんけどね。



 折角あれだけの魔物を倒したのに、褒めてもくれなかった……。

 ちょっと、いやかなり落ち込んでいると、突然隣を歩いていたディヴァンさんが歩みを止めた。どうかしたんですか、と問う前に思考の海に沈んでしまい、声をかけても返答一つ返してくれなくなった。

「……本当に、この間に襲われたらどうするつもりなんだろ……」

 それだけ僕を信頼してくれている、のだろうが。それでも心配はある。ただでさえ綺麗なんだから、油断して欲しくないんだけど。

 でも、絶対聞いてくれない。きっと笑って受け流されるんだ。

「んー……どうしよ」

 どうやったら、どれだけディヴァンさんが綺麗で可愛いって、伝えれるんだろう。しばしの間、寝不足で若干おかしくなった頭で考える。

 言って伝わらないなら、行動?いやでも……ディヴァンさん細いから、壊しちゃいそうなんだよな……。

「って、何考えてるんだ僕……!」

「……ちょっと、子羊君?私の護衛なのに、なにぼーっとしてるの?」

「え、あ、わぁぁっ!?ご、ごめんなさい!」

「まぁ良いですけど。怪我したら全部、アレク君のせいにします」

「それだけは勘弁して下さい……」

 何かが気に食わなかった……というか、理由は一つだけど。少しだけディヴァンさんは怒りながら、足早に歩いて行った。でも、歩幅は僕の方が大きいから、すぐに追いつける。

「本当に、変な所で大人の余裕を発揮するの、やめてくれません?」

「え?何がです?」

 言われたことが良く分からなかったからそう返すと、大きなため息が返ってきた。

 うーん……考えても分からない。

「えっと……?どういう意味で?」

「知りません。自分で考えて下さい」

「えぇー……?」

 ちょっとは考えたけど、結局分からなかったので、考える事自体をやめてしまった。

 多分、いつかは教えてくれる……よね?



 私は少し焦っていた。アレク君に心配をかけたくはないから、先程もいつものように軽口を叩いた、が。

 ──落月の遺跡。ここは罠だ。

 思い返してみれば、何故『不審な旅人』を聞いただけなのに、祭事に使われるはずのこの場所が出る?普通は向かった方向や、見た目を思い出して教えるだろう。

 それなのに、住人たちの口から出たのは『落月の遺跡』と謎の文章だけ。

 ……まさか、『無明の果てで夢を喰らうな』というのは。

「アレク君、私たちの周囲に人は居ますか?」

「え?……いえ、誰も居ません。でも、強いて言うなら……そうですね。ずっと地響きのようなものが聞こえます」

「───っ!」

 大量に現れた魔物。それに継続的な地響き。

 嫌なピースがはまってしまった。これは、間違いなく。

「……逃げますよ」

 私の予想が正しければ、ここはもうすぐ崩れる。

 成程、わざと真実に気付かせた上で殺す。いかにも変な宗教が考えそうな事ですね。

 しかし…次の文章の意味は分からない。『記憶さえ、眠る事を選ぶ』とは、何を意味しているのか。

 そう考えつつも、私はアレク君の手を引いて、出口へと走り出した。

 一刻も早く、外へ。

「ディヴァンさんっ、僕走れますから!手、繋がなくても……!」

「おや、さっきは私にした癖に、されるのは嫌なんです?」

「うぐ……だって、それは……」

 ──そう。この表情を、アレク君を守るためにも。

 ここで死んでしまうわけにはいかなかった。



 引かれる手に戸惑いながら、それでも僕は、ディヴァンさんの背中を追っていた。何かに気づいたらしいディヴァンさんは、いつもの余裕を脱ぎ捨てるようにして、迷いのない足取りで出口へと向かっている。

 右手が塞がれている僕にできることは少ないけれど、それでもせめて、周囲の警戒だけは怠らないように目を配っていた。 その時──落ちてくる気配があって。

 見上げた瞬間、黒い影が視界に飛び込む。獣のような歪んだ魔物が、僕たち目掛けて落下してきていた。

「っ、ディヴァンさん!一瞬だけ、手を離して下さい!」

 言い終える前に、繋がれていた手がスッと離れる。それだけで、ディヴァンさんがどれほど僕を信じてくれているか分かって、少し嬉しくなった。

 解放された右手で、素早く剣を抜き、迷いなく───一閃。

 金属音すら鳴らない、確実な一太刀。魔物の体が空中で崩れ落ち、砕けた音が後ろへと消えていった。すると、安堵の息をつく暇もなく、また手を引かれる。

「え、えぇー!? 自分で走れますってば!」

 それでも、何も返ってこなかった。貴方はまるで、何かを振り払うように走り続けている。 ……いや、違う。僕が迷わないようにしているみたいだ。

 この手が、ただの手綱みたいで悲しくて。ほんの少しだけ、胸の奥が痛んだ。

 ──それでも、走った。息を合わせて、共に。

 数分が永遠のように過ぎて、ようやく──出口の光が見えた。

 あと少し。あと、数歩。……その時だった。

 異音が頭上から響く。瞬間、天井が大きく軋みを上げた。嫌な音が、全身を貫く。

「──ディヴァンさん……っ!」

 視界の端が揺れた。音が消えたように感じた刹那、世界が傾いた。白い粉塵と共に、瓦礫が重力に引かれて落ちてくる。

 僕は、咄嗟に手を振り払った。 そして、何の躊躇もなく──ディヴァンさんの背を、強く突き飛ばす。

 逃げ道など、最初から存在していなかった。どちらかしか生き残れない。

 ──だったら、やる事は一つだ。

「っ……!」

 言葉にならない声が喉の奥に消えて、岩が崩れる音が迫ってくる。

 ──間に合ってくれ。例え、僕がここで潰されても。 ……貴方だけは。必ず、救いたいんだ。


 ぼんやりと意識が浮かぶ。酷くうるさい耳鳴りの中に、微かに、僕の愛した声が聞こえる。透き通っていて、いつもは落ち着いているその声が、今は焦りを孕んでいた。

 ……あぁ。珍しいな、なんて。

 場違いすぎる想いを、思い描いた。

「………君、しっ…………い!」

「ディヴァン、さん……?なん、で、そんなに慌てて…?」

「………いで、……ぐ、……けま………」

 霞がかった視界に、ゆっくりとディヴァンさんの背が浮かび上がる。僕が体を起こそうとしても、起き上がれない。重いはずの背が、何故か今はとても軽かった。

 すると、助けを求めるためか、ディヴァンさんはここから離れようとして。体と共に翻った法衣の端を、僕は力無く掴んだ。

 ……自分の事だ。一番、分かっている。

 ディヴァンさんは、僕が法衣を掴んだ事に気付いたのか、音もなく近寄ってきて。そっと、目の前に美しい翠緑が現れる。はらりと、銀髪が揺れた。

 僕は、最期の力を、振り絞って。ディヴァンさんの耳元まで、顔を上げた。

「─────、ディヴァンさん」

 ……意識が遠のく。ちゃんと言えたかどうかも、定かではない。けれど、見開かれた翠緑が、溢れそうな涙が。

 ──どうしようもなく、愛おしかった。

 


「待っ……!」

 その声は、届く前にかき消えた。囁きにも等しいその言葉。それは君と私が、一生封印し続けてきた言葉。

「なんで、今言うの……?」

 握った手の温もりが、だんだん消えていく。息を吐くように、命の灯火が消えていった。

 私はそっと、くすんだ金糸を撫でる。けれど、今はまだ、悲しんではいられない。

 ここで起こった事を報告して、それから……

「何だ、生き残っていたのか。しぶとい奴め」

 は、と顔を上げる。このタイミングでこの言葉。間違いなく味方ではない。そう思いつつも振り返って、顔を見た。

 すると、その人は。

 ──アレク君が所属する、聖光騎士団の団長だった。

 ……成程、全ての合点がいった。今回の調査依頼自体、この団長から受け取ったもの。殺人事件、或いは村人に至るまで。全て、こいつが仕組んだものか。

 底知れない怒りが湧き上がって来る。しかし、私では勝ち目は無いだろう。だったらせめて、少しでも証言を吐かせるまで。

「……何の御用でしょう?ここには貴方が来るまでの事は無かったはずですが」

「ふん、分かっている癖によく言う。あいつは笑って俺の下に居ればよかったんだよ。それを、出過ぎた真似をしやがって……」

 思わず舌打ちしたくなる。つまりこいつは、団長の座を奪われかねないから、アレク君を殺したと?

 勝手な自己満足で人の明日を閉ざすな、外道が。

 と、まで考えて、一度深呼吸をした。きっと彼は、復讐を望まない。それに、私は仮にも神官。彼の知っている私のまま、生きていかなければ。

「では……私はこれで。貴方ほど、暇でも無いのでね」

 チクリ、とせめてもの棘を刺して、私はその場を離れた。どれほど愚かな人間であっても、神官をその手で殺せば終身刑である事は知っている。

 ──いつかこの真実を、光の下に曝け出す。その日まで、私の歩みは止まらない。

 君が信じたこの手で、必ず全てを終わらせてみせますから。


 …………………………


 紅葉が、はらはらと舞い降りる。 いつからだろう、一人でこの季節を迎えるようになったのは。それすらも、今では何の感情も湧かなくなった。

 ──あれから、どれだけの時が過ぎたのだろう。

 結局、騎士団長の座は思ったよりも手強く、ただの神官である私の証言ひとつで、あの人の主張を覆すことはできなくて。 アレク君は『聖光騎士団を裏切った者』として処分された事になった。つまりは、濡れ衣着せられたのだ。

 私は、彼に合わせる顔がなかった。 なにもできなかった自分が、ただ情けなくて、悔しくて。

 それでも、時間は残酷に過ぎていく。


 そして彼が亡くなって、いくつかの年が経ったある日──私の所属する神殿に、新たな騎士が配属されることになった。その準備をしている間、心にぽっかりと空いた穴の存在には、意識的に目を逸らしていた。 もう、慣れてしまった痛み。思い出すほどの熱も、もうないはずだったのに。

 ゆっくりと、扉が開く音がする。 迎えに行こうと思って立ち上がった、その瞬間──

「初めまして。本日ここに配属されました。これからよろしくお願いします!」

 明るく、よく通る声。そして、その顔を見たとき──時が止まった。

『初めまして!本日ここに配属されたアレクです。よろしくお願いします!』

 まったく同じ言葉。まったく同じ笑顔。 ほんの一瞬で、胸の奥底までえぐられるような痛みに襲われた。

 彼の面影が、そこにあった。

 ……耐えきれなかった。

 あの日抱いた後悔が、胸の奥からぶわっと溢れ出す。そしてその想いに、私はやっと、名前をつけてしまった。

 ──どうして、君は。私の隣に、居ないんですか。

 ずっと、ずっと、しつこいほどに居たくせに。

 一緒に旅をして、笑って、泣いて。 何度も口論して、それでもまた、隣にいてくれた君。

 ……もう、できない。 あの日、救えなかったことが、今も心に根を張って離れない。

「……私の、可愛い子羊君」

 君がいれば、それだけで良かったのに。 それなのに──君は。

 そしてその日は、何もできないまま。何も言えないまま、静かに終わっていった。


 静かに、それでも確かに。何処かで何かが、壊れていくような感覚がする。

 何気なく出した紅茶に、角砂糖を入れてしまう。

 子供達の笑い声を聞くと、無意識に目線を逸らしてしまう。

 いつも右手に、杖を持ってしまう。

 ──全て、君が居ると、思ってしまうから。

「君は、本当にずるい……」

 石に降り積もった石を、そっと払う。人は声から忘れるとは言うが、今となっては何も思い出せない。

 声も、笑顔も、温もりも、何もかも。

 忘れたくないのに、それでも失ってしまうその記憶が、辛くて、悲しかった。

 そっと、石の前にスターチスを供える。

 ──そう、今日は。

「今日は君の、五十八回目の命日です──アレク君」






 降り積もった雪の中に、二つの石が寄り添うように並んでいる。

 まだ真新しい石に刻まれた名は、ディヴァン・エフィメロ。

 生涯をアレク・サンドライトに捧げた神官だ。

 

 

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― 新着の感想 ―
神官ディヴァンが騎士アレクを「子羊君」と呼ぶシチュエーションが、二人の関係を的確に表していたと思います。 やがて間接的な描写だけでなく、アレクの心情が露わに描かれていました。 よく練られた構成になって…
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