サンドライトの想い
一つの小さな石の前に、白色の布が静かに広がっている。聖職者のような衣装を纏ったその人は、祈るように手を組んだ。まるで、過去の思い出を手繰り寄せるかのように。
「君は、本当にずるい……」
その人は、消え入りそうな儚い声で、そう呟く。光に透き通るその白銀の髪が、寂しそうに揺れる。伏せられた碧緑の瞳が、ゆっくりと石に刻まれた文字をなぞる。
自分から花を供えるなんて、柄ではないけれど。今日ぐらいは……許されるだろう。
──そう、今日は。
「今日は君の命日です──アレク君」
悲しそうにそう呟いた後、その人は静かに立ち去った。気付けば、綺麗に磨かれた石の前には、数本のスターチスが添えられている。
これは二人しか知らない、唯一の真実を抱いた物語。
「ふぁ……」
少し癖っ毛の金髪の青年が、小さくあくびをした。それを噛み殺すように口を閉じ、再び二人の間には沈黙が流れる。碧眼が眠たそうに揺蕩っているが、果たしてそれで良いのだろうか。
ふと視線を逸らすと、青年の隣には神官か、もしくは聖職者と思わしき人がいる。きっとその人の護衛か助手なのだろう。だったら尚更、しっかりしているべきなのでは。
また小さくあくびをした青年は恨みがましそうに、隣を涼しい顔で歩く人へ、ついにこう言った。
「ねぇディヴァンさん?何でこんなに朝早くから出発するんです?」
「仕方ないでしょう、頼まれたんですから……もしかして朝が弱い子羊君には無理ですか?」
「そんな事は……!」
ない、と言いかけて口ごもる。どうやら思い当たる節が彼にはあったようだ。
金髪の青年とは打って変わって、柔らかな白銀の髪を持つ──ディヴァンと呼ばれたその人は、朝に強いのかしっかりとした足取りで歩いていく。
「ほら、早く行きますよ?早く出発した意味が無いじゃないですか」
「えぇー……」
渋々といった様子で後ろを着いて行く彼は、それでも何処か楽しそうな雰囲気を纏っていた。それもそのはず、彼はディヴァンと共に出掛ける事が唯一の楽しみだったのだから。
まぁその彼も、こんなに朝早いとは思っていなかったのだが。
「それで、今日は何処に行くんですか?また孤児院を巡って紙芝居ですか?」
「君、私がそれしかしてないと思ってるの?」
「いや……まぁ少しは」
「正直ですね。それが子羊君っぽいんですけど」
ふふ、と少し微笑んだディヴァンは、今日はですね、と青年に話を切り出す。また今日も、二人だけの小さく楽しい旅が始まった。
「調査……ですか」
「ええ、今回は上官直々に依頼が。まぁ、なので……少々厄介かと」
「へぇー、ディヴァンさんの依頼って何でも結構厄介だと思うんですけど」
「言うようになりましたねアレク君。では置いていきましょうか、不満なようなので」
「違いますよ!?え、あ、待って下さいっ!」
すたすたと静かに、それでもなかなかに速く、ディヴァンさんは歩いていく。まさか置いて行かれる事は想定していなかったので、慌てて立て掛けていた剣を左手で掴んだ。
半ば小走りでディヴァンさんに追いつくと、少し悪戯っぽく笑われてしまう。その笑顔に、僕は何だか少しだけ悪態を吐きたくなった。
「……だって、貴方が置いてくから」
「君は変わりませんね。昔から、ずっと」
「身長は越しましたけどね、頭一つ分」
「身長だけ、ね?」
上手い事言いくるめられて、思わず口を閉じる。駄目だ、いつまで経っても勝てない。いやまぁ、七歳も上なら勝てない、よな?……そう思いたい。
むくれつつ歩いていると、小さな村が見えてきた。もしかして、あれが今回の目標、なのだろうか。ちら、と横を盗み見る。いつもと変わらない、表情が分かりにくいディヴァンさんの顔。うん、全く分からない。
「……着きましたよ子羊君、ここが今回の村です」
「平和そうに見えますけど……」
「人というものは、最初だけは外面が良いんですよ」
「また身も蓋もない事を言って……また変なのに襲われますよ?」
「おや、その時はアレク君が護ってくれるんでしょう?」
「い、や……まぁ、そのつもりですけどね」
またもや上手いこと丸め込まれる。しかも、これで無意識なのが余計にたちが悪い。
それでも、渋々従ってしまう僕も僕、か。
はは…と小さく自分で苦笑いしていると、ディヴァンさんはいつの間にか、村の子供達が集まる広場のようなところに向かっていて。再び慌てて追いかけようとした、その時。突然刺すような視線がして、思わず振り返る。しかし、後ろには村の警備隊しか居らず、首を傾げながらもディヴァンさんの方へ向かった。
「しんかんさま?」
「なにかお話し、してくれる?」
「ええ、してあげますよ。そこのお兄ちゃんが」
幼い視線が一斉に集まる。違う意味できらきらした瞳が、容赦なく僕に突き刺さった。それ本当に言ってますかディヴァンさん……?
この前試しに、と渡されて。戸惑いながらやったら、終わった後すぐ無言で取り上げられたのに。
「良いんですか?僕なんかで」
「君用にやりやすいのわざわざ作ったんです。練習ですよ」
「実践の間違いでは?」
しかしながら、僕の抗議程度ではディヴァンさんには届かない。さぁ、と背を押されて、子供達の輪に加えられた。仕方がないので、その中心に腰を下ろす。そっと手渡されたディヴァンさんお手製の紙芝居を受け取って、軽く読んだ。
その時、あれ?と思う。
前のものよりも、簡単になってる……?
しかも一拍待つ、や、少し早めに、など、コツもびっしりと書き込まれていて。言わばお手本のような、解答を見ているような、そんな感じがした。
でも、これなら、僕だって。
『 昔々、ある所に。八人の旅人がいました。生まれも、職業も。全て違った彼らは、それでも長い旅を続けました。
ある者は華々しい踊り子になる為に。またある者は無くした記憶を取り戻す為に。他にも国を追われた王子や、世界を幸せにしようとした者。自由を手にする為、親殺しを成そうとした者。唯一の真実を暴く為に旅をする者や、故郷を守る為に各地を奔走する者。家族を奪われた憎しみを晴らそうとした者。八人は協力し、時に少し喧嘩もしながら、各々の目的を果たす為に、旅を続けました。
しかし、彼らの旅も気付けば終わりを迎えて。
最後に彼らは、こう言いました。
「───また、会う日まで」
何もかも違った彼らは、最後の時に、同じ言葉を告げました。
不思議な縁で結ばれた八人は、きっと今も何処かで暮らしているのでしょう。
再び全員が揃う、その日まで…… 』
無事に読み終わり、顔を上げる。前よりは良かったんじゃないか。そう思ってディヴァンさんの方を見ると、そこには全く僕には目もくれず、住民たちから情報収集をしている姿があった。流石に酷くないか。
そう思っていると、子供達が僕の膝に突撃してきて、思わずよろける。
「え、っと……どうしたの?」
「すてきなお話しだった!ねぇ、もうないの?」
「あー……ごめんね、もう無いんだ。だから次を楽しみにしててくれるかな?」
「うん、わかった!ありがとお兄ちゃん!」
満面の笑みを見せた後、子供たちは揃って何処かへ走って行ってしまった。元気なのは良いことなのだけれど、こうも思い切りが良いと、少しだけ悲しくなる気がする。
ふう、と一つ息を吐いて、伸びをした。慣れない事をすると疲れるのは、誰だってそうだろう。
「おや、もうお疲れですか子羊君」
「ディヴァンさん……僕を置いてったくせに、よく言いますね」
「君はもう、保護者が必要な年じゃ無いでしょう」
「それはそう、ですけど」
でも、何も言わずに置いていくのは酷くないですか?とは思った。ものの、言えなかった。言ってもまた言い包められるだけだから……。
少しだけ悲しくなっていると、アレク君、と呼ばれて、反射的に顔を上げた。すると、碧緑の瞳が悩ましげに視線を彷徨わせていて、思わず首を傾げる。
「どうかしたんですか?」
「……いえ、やはり何でもありません。杞憂というものでしょう」
気になる。普通に。でも、きっと僕が聞こうとしても、絶対言ってくれないだろう。だってそれがディヴァンさんなんだもの。
その後、今日は早めに寝ましょう、とディヴァンさんは何事も無かったかのように切り上げた。貴方が何も無いって言うなら、僕はそれに従うだけだけど。
……けれど、何かあるなら言って欲しい、なんて。
少し、思ってしまった。
──アレク君には言わなかったけれど。今回の調査は、殺人事件が絡んでいる。
ただ、そうそう犯人と鉢合わせする事は無いとは思ってはいる。だとしても、用心するに越した事は無い。だから護衛にアレク君を選んだ。
彼は強い。ああ見えて、騎士団長に及ぶまでの強さを持っている。
なのに──何故私の近くにいるのか、謎なんですけどね。
「……無明の果てで夢を喰らうな」
今日話をした村人が、少し前。それも殺人事件が起こる前に訪ねてきた旅人が、よくこの言葉を言っていたと教えてくれた。ならばこれの意味は何か。何を意味しているのか。
……すぐには分からない、が。それでも嫌な予感だけは、私に纏わりついていた。
「──記憶さえ、眠ることを選ぶ」
何かの宗教の一文か?それにしては、曖昧にも程がある。
そう思案していると、遠くの方で朝日が昇ってきていた。考えているうちに、いつの間にか夜が明けていたらしい。
ふと、眠そうなアレク君の顔を思い出す。ただでさえ絡まりやすい金糸を、これでもかというほど絡ませて、私に対して少しだけ悪態をつく。でも、ちゃんと着いてくるのだ。
ふふ、と小さく微笑む。
殺伐とした空気が、ゆっくりと緩んだような気がした。
「眠い……」
まだ朝日が顔を出したぐらいなのに、ディヴァンさんはもう出発する、と言っていて。先程僕は叩き起こされた。ディヴァンさんに。
なかなか人使いが荒い。あぁでも、今に始まったことでも無いか。
思い返してみれば、出会った時からこの人は変わっていない。冷静で落ち着いていて、涼しい顔で人をこき使うんだ。
「何か失礼な事を考えてませんか、アレク君?」
「なっ、何でも無い、ですよ?」
「怪しいですね……心なしか、目も合わせてくれませんし」
「き、気のせいじゃないでしょうか…」
危ない。下手にこの人の前で考え事が出来ない。こんなのすぐ、僕の考えを暴かれてしまう。そう、内心冷や汗をかきながら歩いていると、突然ディヴァンさんはふふ、と笑みを溢した。
「…どうかしましたか?」
「……いえ、ね?別に私は、君を取って食べたりしませんよ?アレク君の緊張具合が、出荷前の子羊のようで」
「それは……失礼しました」
「おや、今の言葉はどっちに対してなのかな?」
「うぅ、ディヴァンさんがいじめてくる〜……!」
発する言葉全てに突っついてくるので、思わずそう言うと、ディヴァンさんは大して悪びれる事なく微笑んで、先へと進んでしまった。一人で。
危ないから着いてこいって言ったの、ディヴァンさんなのに……!
思いはしたが、言わなかった。怖いので。
そうこうしているうちに、大きな遺跡に着いた。蔦が張り、あちこちがひび割れているその遺跡は、かなり昔からあるものに違いない。
「落月の遺跡、という場所らしいです。大昔の民族が、祭事に使っていたのだとか」
「へぇ……凄く広いですね」
「それはまぁ、少数民族では無かったようなので」
「あ……」
無知を晒した気恥ずかしさが、心に灯った。まるで小さな子供を見守るかのようなディヴァンさんの視線に、どことないくすぐったさを抱く。
そんな恥ずかしさを誤魔化すように、さぁ、早く行きましょう!と言って、ディヴァンさんの手を引いた。
なかなか強引な子羊です。でも、嫌いじゃありません。
ちら、と彼の方を見る。ふわふわな金糸から覗く真っ赤に染まった耳に、思わず笑ってしまった。大人になったようで、その芯は変わっていないらしい。
……まぁ、とは言え。
「アレク君?先に進むのも良いですが、今回の目的は調査です。そろそろ手を、離して頂けませんか?」
「えっ……あ!すみません!」
「ふふ、子羊君は意外と肉食のようです」
「うぐ…」
そう、からかって遊んでいると、何処か遠くから、絹を裂くような魔物の鳴き声が聞こえてきて。けれど、遺跡内の反響から考えて、まだそう近くないと思っていると、突然アレク君が私の前に立った。
───瞬間、襲いかかる狼型の魔物。
それを間髪入れず、アレク君は一太刀で切り捨てた。
「……流石です。やはり私の見込んだ通りでしたね」
「だから、あんまり先に行かないで……って」
背中しか見えないので表情は分からないが、焦ったような声が聞こえ、アレク君の視線の先を追う。すると、大小様々な魔物がたくさんこちらに向かってきていた。
「これ、は……」
「おや、無理ですか?あれだけ私に大見得切ったのに?」
「〜〜〜っ、やりますよ!やれば良いんでしょう!」
「流石、私の騎士です」
半ばヤケのような感じもするが、アレク君はそう言った。
強いのだから、もう少し自分に自信を持っていい。まぁ、控えめな所が、彼の美点でもあるのですが。
その後、頼りない返答とは裏目に、アレク君は数分も掛からず魔物を全て倒した。息切れ一つないのは、彼の日頃の鍛錬の賜物だろう。
「ディヴァンさん!お怪我はありませんでしたか?」
「えぇ、私はね。……君は?」
「えっ、僕ですか?僕は大丈夫です、何一つ怪我してません」
「そうですか、それなら良かった」
君が怪我をしていなければそれで良い──なんて。
絶対言ってやりませんけどね。
折角あれだけの魔物を倒したのに、褒めてもくれなかった……。
ちょっと、いやかなり落ち込んでいると、突然隣を歩いていたディヴァンさんが歩みを止めた。どうかしたんですか、と問う前に思考の海に沈んでしまい、声をかけても返答一つ返してくれなくなった。
「……本当に、この間に襲われたらどうするつもりなんだろ……」
それだけ僕を信頼してくれている、のだろうが。それでも心配はある。ただでさえ綺麗なんだから、油断して欲しくないんだけど。
でも、絶対聞いてくれない。きっと笑って受け流されるんだ。
「んー……どうしよ」
どうやったら、どれだけディヴァンさんが綺麗で可愛いって、伝えれるんだろう。しばしの間、寝不足で若干おかしくなった頭で考える。
言って伝わらないなら、行動?いやでも……ディヴァンさん細いから、壊しちゃいそうなんだよな……。
「って、何考えてるんだ僕……!」
「……ちょっと、子羊君?私の護衛なのに、なにぼーっとしてるの?」
「え、あ、わぁぁっ!?ご、ごめんなさい!」
「まぁ良いですけど。怪我したら全部、アレク君のせいにします」
「それだけは勘弁して下さい……」
何かが気に食わなかった……というか、理由は一つだけど。少しだけディヴァンさんは怒りながら、足早に歩いて行った。でも、歩幅は僕の方が大きいから、すぐに追いつける。
「本当に、変な所で大人の余裕を発揮するの、やめてくれません?」
「え?何がです?」
言われたことが良く分からなかったからそう返すと、大きなため息が返ってきた。
うーん……考えても分からない。
「えっと……?どういう意味で?」
「知りません。自分で考えて下さい」
「えぇー……?」
ちょっとは考えたけど、結局分からなかったので、考える事自体をやめてしまった。
多分、いつかは教えてくれる……よね?
私は少し焦っていた。アレク君に心配をかけたくはないから、先程もいつものように軽口を叩いた、が。
──落月の遺跡。ここは罠だ。
思い返してみれば、何故『不審な旅人』を聞いただけなのに、祭事に使われるはずのこの場所が出る?普通は向かった方向や、見た目を思い出して教えるだろう。
それなのに、住人たちの口から出たのは『落月の遺跡』と謎の文章だけ。
……まさか、『無明の果てで夢を喰らうな』というのは。
「アレク君、私たちの周囲に人は居ますか?」
「え?……いえ、誰も居ません。でも、強いて言うなら……そうですね。ずっと地響きのようなものが聞こえます」
「───っ!」
大量に現れた魔物。それに継続的な地響き。
嫌なピースがはまってしまった。これは、間違いなく。
「……逃げますよ」
私の予想が正しければ、ここはもうすぐ崩れる。
成程、わざと真実に気付かせた上で殺す。いかにも変な宗教が考えそうな事ですね。
しかし…次の文章の意味は分からない。『記憶さえ、眠る事を選ぶ』とは、何を意味しているのか。
そう考えつつも、私はアレク君の手を引いて、出口へと走り出した。
一刻も早く、外へ。
「ディヴァンさんっ、僕走れますから!手、繋がなくても……!」
「おや、さっきは私にした癖に、されるのは嫌なんです?」
「うぐ……だって、それは……」
──そう。この表情を、アレク君を守るためにも。
ここで死んでしまうわけにはいかなかった。
引かれる手に戸惑いながら、それでも僕は、ディヴァンさんの背中を追っていた。何かに気づいたらしいディヴァンさんは、いつもの余裕を脱ぎ捨てるようにして、迷いのない足取りで出口へと向かっている。
右手が塞がれている僕にできることは少ないけれど、それでもせめて、周囲の警戒だけは怠らないように目を配っていた。 その時──落ちてくる気配があって。
見上げた瞬間、黒い影が視界に飛び込む。獣のような歪んだ魔物が、僕たち目掛けて落下してきていた。
「っ、ディヴァンさん!一瞬だけ、手を離して下さい!」
言い終える前に、繋がれていた手がスッと離れる。それだけで、ディヴァンさんがどれほど僕を信じてくれているか分かって、少し嬉しくなった。
解放された右手で、素早く剣を抜き、迷いなく───一閃。
金属音すら鳴らない、確実な一太刀。魔物の体が空中で崩れ落ち、砕けた音が後ろへと消えていった。すると、安堵の息をつく暇もなく、また手を引かれる。
「え、えぇー!? 自分で走れますってば!」
それでも、何も返ってこなかった。貴方はまるで、何かを振り払うように走り続けている。 ……いや、違う。僕が迷わないようにしているみたいだ。
この手が、ただの手綱みたいで悲しくて。ほんの少しだけ、胸の奥が痛んだ。
──それでも、走った。息を合わせて、共に。
数分が永遠のように過ぎて、ようやく──出口の光が見えた。
あと少し。あと、数歩。……その時だった。
異音が頭上から響く。瞬間、天井が大きく軋みを上げた。嫌な音が、全身を貫く。
「──ディヴァンさん……っ!」
視界の端が揺れた。音が消えたように感じた刹那、世界が傾いた。白い粉塵と共に、瓦礫が重力に引かれて落ちてくる。
僕は、咄嗟に手を振り払った。 そして、何の躊躇もなく──ディヴァンさんの背を、強く突き飛ばす。
逃げ道など、最初から存在していなかった。どちらかしか生き残れない。
──だったら、やる事は一つだ。
「っ……!」
言葉にならない声が喉の奥に消えて、岩が崩れる音が迫ってくる。
──間に合ってくれ。例え、僕がここで潰されても。 ……貴方だけは。必ず、救いたいんだ。
ぼんやりと意識が浮かぶ。酷くうるさい耳鳴りの中に、微かに、僕の愛した声が聞こえる。透き通っていて、いつもは落ち着いているその声が、今は焦りを孕んでいた。
……あぁ。珍しいな、なんて。
場違いすぎる想いを、思い描いた。
「………君、しっ…………い!」
「ディヴァン、さん……?なん、で、そんなに慌てて…?」
「………いで、……ぐ、……けま………」
霞がかった視界に、ゆっくりとディヴァンさんの背が浮かび上がる。僕が体を起こそうとしても、起き上がれない。重いはずの背が、何故か今はとても軽かった。
すると、助けを求めるためか、ディヴァンさんはここから離れようとして。体と共に翻った法衣の端を、僕は力無く掴んだ。
……自分の事だ。一番、分かっている。
ディヴァンさんは、僕が法衣を掴んだ事に気付いたのか、音もなく近寄ってきて。そっと、目の前に美しい翠緑が現れる。はらりと、銀髪が揺れた。
僕は、最期の力を、振り絞って。ディヴァンさんの耳元まで、顔を上げた。
「─────、ディヴァンさん」
……意識が遠のく。ちゃんと言えたかどうかも、定かではない。けれど、見開かれた翠緑が、溢れそうな涙が。
──どうしようもなく、愛おしかった。
「待っ……!」
その声は、届く前にかき消えた。囁きにも等しいその言葉。それは君と私が、一生封印し続けてきた言葉。
「なんで、今言うの……?」
握った手の温もりが、だんだん消えていく。息を吐くように、命の灯火が消えていった。
私はそっと、くすんだ金糸を撫でる。けれど、今はまだ、悲しんではいられない。
ここで起こった事を報告して、それから……
「何だ、生き残っていたのか。しぶとい奴め」
は、と顔を上げる。このタイミングでこの言葉。間違いなく味方ではない。そう思いつつも振り返って、顔を見た。
すると、その人は。
──アレク君が所属する、聖光騎士団の団長だった。
……成程、全ての合点がいった。今回の調査依頼自体、この団長から受け取ったもの。殺人事件、或いは村人に至るまで。全て、こいつが仕組んだものか。
底知れない怒りが湧き上がって来る。しかし、私では勝ち目は無いだろう。だったらせめて、少しでも証言を吐かせるまで。
「……何の御用でしょう?ここには貴方が来るまでの事は無かったはずですが」
「ふん、分かっている癖によく言う。あいつは笑って俺の下に居ればよかったんだよ。それを、出過ぎた真似をしやがって……」
思わず舌打ちしたくなる。つまりこいつは、団長の座を奪われかねないから、アレク君を殺したと?
勝手な自己満足で人の明日を閉ざすな、外道が。
と、まで考えて、一度深呼吸をした。きっと彼は、復讐を望まない。それに、私は仮にも神官。彼の知っている私のまま、生きていかなければ。
「では……私はこれで。貴方ほど、暇でも無いのでね」
チクリ、とせめてもの棘を刺して、私はその場を離れた。どれほど愚かな人間であっても、神官をその手で殺せば終身刑である事は知っている。
──いつかこの真実を、光の下に曝け出す。その日まで、私の歩みは止まらない。
君が信じたこの手で、必ず全てを終わらせてみせますから。
…………………………
紅葉が、はらはらと舞い降りる。 いつからだろう、一人でこの季節を迎えるようになったのは。それすらも、今では何の感情も湧かなくなった。
──あれから、どれだけの時が過ぎたのだろう。
結局、騎士団長の座は思ったよりも手強く、ただの神官である私の証言ひとつで、あの人の主張を覆すことはできなくて。 アレク君は『聖光騎士団を裏切った者』として処分された事になった。つまりは、濡れ衣着せられたのだ。
私は、彼に合わせる顔がなかった。 なにもできなかった自分が、ただ情けなくて、悔しくて。
それでも、時間は残酷に過ぎていく。
そして彼が亡くなって、いくつかの年が経ったある日──私の所属する神殿に、新たな騎士が配属されることになった。その準備をしている間、心にぽっかりと空いた穴の存在には、意識的に目を逸らしていた。 もう、慣れてしまった痛み。思い出すほどの熱も、もうないはずだったのに。
ゆっくりと、扉が開く音がする。 迎えに行こうと思って立ち上がった、その瞬間──
「初めまして。本日ここに配属されました。これからよろしくお願いします!」
明るく、よく通る声。そして、その顔を見たとき──時が止まった。
『初めまして!本日ここに配属されたアレクです。よろしくお願いします!』
まったく同じ言葉。まったく同じ笑顔。 ほんの一瞬で、胸の奥底までえぐられるような痛みに襲われた。
彼の面影が、そこにあった。
……耐えきれなかった。
あの日抱いた後悔が、胸の奥からぶわっと溢れ出す。そしてその想いに、私はやっと、名前をつけてしまった。
──どうして、君は。私の隣に、居ないんですか。
ずっと、ずっと、しつこいほどに居たくせに。
一緒に旅をして、笑って、泣いて。 何度も口論して、それでもまた、隣にいてくれた君。
……もう、できない。 あの日、救えなかったことが、今も心に根を張って離れない。
「……私の、可愛い子羊君」
君がいれば、それだけで良かったのに。 それなのに──君は。
そしてその日は、何もできないまま。何も言えないまま、静かに終わっていった。
静かに、それでも確かに。何処かで何かが、壊れていくような感覚がする。
何気なく出した紅茶に、角砂糖を入れてしまう。
子供達の笑い声を聞くと、無意識に目線を逸らしてしまう。
いつも右手に、杖を持ってしまう。
──全て、君が居ると、思ってしまうから。
「君は、本当にずるい……」
石に降り積もった石を、そっと払う。人は声から忘れるとは言うが、今となっては何も思い出せない。
声も、笑顔も、温もりも、何もかも。
忘れたくないのに、それでも失ってしまうその記憶が、辛くて、悲しかった。
そっと、石の前にスターチスを供える。
──そう、今日は。
「今日は君の、五十八回目の命日です──アレク君」
降り積もった雪の中に、二つの石が寄り添うように並んでいる。
まだ真新しい石に刻まれた名は、ディヴァン・エフィメロ。
生涯をアレク・サンドライトに捧げた神官だ。