間道の穿鑿
ブッダ・バッザラ師はカッサパの大塔を囲むように広がる大塔村「マハーボーダ」の長であり、大塔の主人でもある。
師は住民から「中国の上人」と呼ばれる。師の父は中国人で、ネパールへ来て細君をもらい、この大塔のラマになったためだ。師は中国人と名乗る慧海を同郷のよしみをもって世話してくれた。
村の大塔は「カトマンズの大塔」と呼ばれているが、その本当の名はチャー・ルン・カーショル・チョェテン・チェンボという。直訳すると「(王が)成すことを許すと命じ終えた大塔」という意味だ。
大塔の歴史をひもとくと、ある時、老婆が四人の子と共にカッサパ仏の遺骨を納める大塔を建てることを願い出て、王に許可を受けた。老婆と子は力を尽くして大塔の台を築いた。
すると時の大臣や長者は驚いた「あの貧しい老婆がこれほどの大塔を建てるとなれば、我らは大山のようなものを築かなければ釣り合いがとれない」。大臣は老婆を止めようとしたが、王は「私はあの老婆に大塔を建てることを許可した。王に二言はない」と退けた。こうして塔はこの名になった。
塔には毎年9月中頃から2月中頃までチベット、モンゴル、中国やネパールからたくさんの参詣者が訪れる。参詣者の中で最も多いのがチベットの巡礼乞食で、彼らは冬にこの大塔に来て、夏になるとチベットの方へ流れる。
慧海はこの巡礼乞食にチベットまでの道を聞くことができた。施しを余計にしてやると、乞食たちに知られるようになり、関所を通らない抜け道をいくつも聞き出せた。
だがネパールからチベットに行くためにはどうしても一つか二つ、街道の関所を通らねばならなかった。そして抜け道はいずれも険しい。
そうこうするうち、慧海は一つの道を見いだした。ネパールの首都から北東へ進み、ネパール国境に出て、チベットの西北原に入り、そこからチベット首都に入るルートだ。これはネパールからチベットへ行く一般的なルートとは真逆で、かなりの遠回りをしなくてはならない。けれども慧海はこれが自ら進む道だと信じた。