奇遇
慧海がネパール国境に近いセゴーリ駅に滞在した翌日、チベット服を着た40がらみの紳士と50余りの老僧、その下僕が2人、駅に降りた。一緒にチベットまで行けるのではと、慧海が話しかけると、彼らはネパールに行くということだった。
どこから来たのかと聞かれ、慧海は「中国の陸の方から来た」と答えた。陸の方とはチベットから来たという意味だ。この頃は、海を渡ってきた中国人はチベットに入国することができないからだ。
そんな話をしながら、一行は慧海が泊まるあばら屋へ一緒に着いてきた。この地にホテルなど気の利いたものはなく、宿は竹の柱にかやぶき屋根の粗末な家だ。家賃は不要だが、まき代と食料代が必要だった。
しばらくすると紳士と老僧が部屋に尋ねて来て、「あなたが中国人なら中国語を話せるだろう」と言ってきた。紳士が中国語で語り始めるが、慧海は「私は福州から来たので北京語は分からない」と言ってごまかした。
漢字は分かるので筆談しようとしても紳士のほうに分からない文字があり話せない。そこでチベット語で話をすることにした。
紳士は「チベットのどこから来たのか」と聞くので「ラサ府のセラ寺におり、ダージリンを経てブッダガヤへ参詣に来た」と話した。あまり聞かれるとぼろが出るので、慧海がシャブズン師から聞いたとっておきの話をすると、紳士はすっかり慧海をチベットから来たと信じてしまった。
紳士が「ネパールには誰を訪ねていくのか」と聞くので、慧海はマハーボーダ大塔のラマあてに紹介状をもらったと告げた。すると偶然にもこの紳士が、マハーボーダ大塔のラマその人だった。そこでネパールまで同行することになった。
そんな中、紳士の下僕が真っ青になって「大変です、泥棒が入りました」と駆けつけた。衣類と350ルピーほど入っていた鞄を一つ盗られたという。聞けば泥棒は最初、慧海の荷物を狙っていたそうだ。紳士には気の毒だが、ここでも仏に助けられた。
紳士の名はブッダ・バッザラ(覚金剛)、老僧はラサ府レブン大寺の博士でマーヤル(継子)という。25日の早朝から出発し、平原を北に進んだ。翌日、ネパール国境の最初の関所、ビールガンジで、慧海は「チベットにいる中国人」という身分で通行券を得た。
その翌日、ヒマラヤの玄関口というべき村に泊まり、その翌28日にシムラという村を過ぎ、15キロほどの大林を一直線に横切って、ビチャゴリという山川の岸にある村に泊まった。夜、窓から外を眺めると、月がかかり、大地が震えるような声を聞いた。なんでも虎のうなり声だという。慧海はこれで「月清し おどろにうそぶく虎の音に ビチャゴリ川の 水はよどめる」と詠んだ。
その後2日間、溪流、林、山間を経てビンビテーという駅に着いた。ここからは歩きで、朝4時から急坂を3キロほど上ると、チスパニーという関所に到着した。取り調べを受けた後、チスガリーという峰の頂上で、壮観なヒマラヤの大山脈を目の当たりにした。
夜はマルクー駅に落ち着き、翌2月1日早朝にチャンドラ・ギリー、すなわち「月の峰」に上り、少し下ると、ネパール国の首府カトマンズが見下ろせた。
急坂を下り終わると同行した紳士、ブッダ・バッザラ師の出迎えが来ていた。セゴーリからここまでおよそ200キロの旅だった。