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超訳 河口慧海「チベット旅行記」  作者: Penda
一章 出国からラサまで
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大ラマ、文典学者


 慧海はある日、寺の主、パンチェン・リンボチェの侍従教師である老僧を訪ねた。老僧は文法と修辞学ではこの寺で一番の学者だという。

 慧海(えかい)は質問をしてみたが、老僧には「ラサに行く途中のエンゴンで医師をしている人が居るからそこに行け」とすげなく言われた。

 チベットにはインドの5つの科学である言語学、医学、論理学、工学、哲学に通じる人はほぼいない。文法は政府の文章を書くような人がちょっと知っているくらいで、それもごく初歩だ。仏教の哲理などはまず無理だ。歴史や科学を知らない博士もいる。


 もうここに長く逗留する必要はない。そう思って慧海が寺を出ようとしたその日、パンチェン・リンボチェが離宮から戻るというので拝観に出かけた。

 道の脇には香を焚く台がいくつもあり、人々が大ラマのお出ましを平伏して待ち受けている。すると雅楽のような演奏と共に、馬300騎を従え、金襴の布で装われた立派な籠がやってきた。武装している人はおらず、仏具を持つ者が行列をなしており、見事だった。


 その夜、慧海は僧舎で十善法戒の説法をしてやった。僧侶たちは仏法をこれほど分かりやすく説いてくれる人はないと喜んだ。

 この寺の僧侶は厳格だが酒をたしなむ。あるとき法王が、この寺の大ラマに、自坊の僧侶が煙草をたくさんやって困ると話すと、大ラマはうちは酒だと応じた。それで酒と煙草はどちらが罪深いかという話になったそうだ。

 ちなみに飲酒を防止するため、僧侶が町から帰ってくる時は、警護の者が酒の臭いがしないか確かめているのだが、僧侶は酒と一緒にニンニクをたくさん食べて酒の臭いを消してしまうそうな。


 12月15日に寺を出発し、シカチェの町を横切って4キロほどいくとサンバ・シャル(東の橋)に着いた。橋は長さ300メートルほどあり、川の中に石の土手を築いて渡している。

 ツァンチュという川を渡って北に行くとまたブラマプトラ川の岸に至り、川沿いに20キロほど行った先にあるペー村の貧しい農家に泊めてもらった。

 そこでは火をおこすのにヤクの糞ではなく芝草の根を使う。火のそばで12歳くらいの子供が黒板のようなものを使って手習いをしていて、聞けば字を知らないと地主に小作料を納める時にごまかされてしまうという。貧しい人で読み書きを学ぶのは、この地くらいだろう。


 翌日、また川沿いに進むと広いところに出て、右手の山の上に寺が見えた。老僧が教えてくれた、文法学者のいるエンゴン寺である。慧海はその学者、医者アムド・カーサンを訪ねた。

 ところがこの人はングルチュという人の不完全なチベット文法にのっとり、チベットの母音の数を4字とするか5字とするかの初歩の議論も知らない。この程度でチベット文法の大学者というのは実に、鳥なき里の蝙蝠である。

 エンゴン寺の僧舎に戻ると、主僧が「あの医師はツァン州唯一の学者で、文法を学びたければここに2、3年とどまって勉強されたらいい。私はそばで始終聞いているが何も分からない」と面白いことを言うので、慧海はこらえきれずに噴き出してしまった。

 翌18日、ブラマプトラ川に出て広原を東に向かうと古派のポンボ・リーウチ寺が見えた。すると突然、慧海を呼び止める者がいた。


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