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超訳 河口慧海「チベット旅行記」  作者: Penda
第一章 出国からラサまで
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チベット第二の府に到る


 荷物を背負ったまま30キロほども歩き、二軒家に泊まった。慧海(えかい)は、よほど体が丈夫になったと実感する。

 翌日は降雪にあい、その辺の家に泊まり、翌11月30日はロバを率いる運送業者に出会ったので荷物を託し、川沿いに進んで村の外れに宿った。運送屋はやはり村には泊まらず、畑で荷物を積み立てて囲いを作って野宿した。

 12月1日、川沿いに進み、とても険しい赤壁巌に着いた。野宿して翌日、石壁の間の急坂を越えて、カンチャン大寺の南の草原で野宿した。


 その翌日、チベット政府が建設している寺があった。寺の下には泉があるという。

 チベットの修験者が「泉が破裂すれば国中が海になる、それを防ぐには寺で塞がなくてはならない」と言ったのだそうだ。

 その頃、ちょうど中国から予言書がもたらされた。予言書には世界が滅亡するとか大飢饉があるとか、それを嘘だと思ったら血を吐いて死ぬなどと書かれていた。

 チベット人はこれを信じて翻訳し、国中に広めた。慧海はそれを読んで嘘だと思ったが、幸いにも血は吐かなかった。政府がこうした迷信を信じて莫大な費用を使って寺を建てるとはあまりにも馬鹿らしい。


 寺を過ぎて少し行くと、山の端に禿鷲がいた。この辺りでは死骸にありつけないので、タシ・ルフンプー寺が餌をやっているそうな。

 それを過ぎてニュン・ネー・ハーカン(持斎堂)で慧海は泊まり、運送業者はシカチェ府の方へ行った。持斎堂とは、僧侶らが戒律を守るために行をする場所だ。

 翌日、ナルタン寺に参詣し、宝物であるチベットの一切蔵経の版木を見せてもらった。ラマたちの語録集の版木もあり、版木がいっぱい詰まった堂があった。

 この寺の僧侶はいわば版刷職人である。慧海はタシ・ルフンプー寺から派遣されているこの寺の大教師に会い、終日仏教の話をして楽しんだ。


 翌12月5日、岩山の下に豪華な御殿の屋根が見え、その横に白い僧舎がたくさんあった。朱塗の殿堂もあり、実に壮大で美麗だ。これがチベット第二の府シカチェのタシ・ルフンプー大寺である。

 タシは栄光、ルフンプーは塊という意味で、寺の山が須弥山のようであると開山のゲンズン・ツブが名付けた。

 寺には3300人の僧侶がおり、寺の格式は法王の寺と同等である。寺の向こうに市街地があり、3500戸に僧侶と住民が2万人ほど住むというが、チベットの数字は全く当てにならない。


 慧海は寺に行き、ラマが泊まるピーツク・カムツァンという僧舎を尋ね、寺に逗留して教えを受けたいと願い出た。

 この寺の主は政治権力はないが、いわばチベット第二の法王だ。法王が亡くなり、生まれ代わって法王の地位に就くまでは、この寺の主が代理になることもある。ちなみに中国の皇帝から与えられている位は、法王よりも上である。

 この寺の主はパンチェン・リンボチェと呼ばれ、今その地位にいるのはキャプコン・チェンボ・チョェキ・ニマという人だ。18歳で、阿弥陀如来の化身と言われている。慧海が訪れた時は離宮に行っており、会えなかった。それから慧海はラマや学者を尋ね、質問三昧の日々を送った。


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