途中の苦心
慧海はタズン寺に逗留し、宝物や仏像を拝観した。ここは以前暮らしたロー州のツァーラン村から、ちょうど100キロほど北にあり、村の人も商いに訪れる。帰り道、知人に出くわしてしまった。
それは大酒飲みの博徒のような男で、慧海を英国の官吏であるなどと言いふらした人間だ。それでも慧海が家の病人に薬などをやったので悪口も言わないようになったが、このまま放っておけば政府に告げ口しかねない。
慧海は一計を案じ「久々に出会ったので酒を差し上げたい」と男を宿に招き、宿主によい酒を持ってこさせて相手をした。男は酔い潰れて寝てしまったので、慧海は宿主に金を渡して、翌日も酒を飲ませるように言いつけた。そしてツァーランに向かうと言って宿を出て、実際にはラサの方に向かって公道を進んだ。
慧海は、男がタズンの官吏に告げ口しないか心配になった。もし官吏が馬で追いかけてきたらすぐに捕まるだろう。ポーターか馬が欲しかったが、ここでは無理だ。
すると後ろから一大商隊が近づいてくるのが見えた。馬が80匹に人が16人はいる。
慧海は一行に、お金を出すので荷物を運んでくれないかと頼んだが、「今は承諾できない。向こうの山のほうに泊まるから、急いでついてきてほしい」と告げられた。
慧海がテントにたどり着いたのは午後8時頃で、一行の大将はラマだった。僧侶の商隊だったようである。
茶と肉をくれたが、慧海が肉は食わないと断ると、ラマは感心した様子で、「お前はどこの者か」と尋ねた。中国の僧侶だと言うと、中国語で話しかけてきたが北京語は分からないと逃げた。漢字を読んでくれと言われたので、その意味を解説して初めて信じてくれた。
彼らはルトウという国のフンツブ・チョェテン寺のラマだという。主はロブサン・ゲンズ、2番手はロブサン・ヤンベルという。残りは彼らの商売を引き受ける商将と、僧侶、使用人たちだ。
カシミールで取れる乾桃や干しぶどう、絹や毛織物をラサに持っていき、茶や仏像などを買う旅行をしているという。
慧海はどうか荷物をラサまで、せめてチャンタンの草原を抜けるまで、一緒に持って行ってくれないかと頼んだ。
主のラマは、慧海に「あなたはどんな仏法を学んだのか」とチベット式の仏法で質問してきた。だが慧海はツァーランでチベット仏教を学んでいたいので、難なく説明できたばかりか、彼らの知らないことまで解説してやった。
ラマは文法についてかなり質問をしてきたが、科学的な分類もなしに調べている人に文法が分かるはずもない。ついに慧海に「一緒に着いてきて文法の講釈をしてもらいたい、旅行中の食事の世話もしてやる」と言ってきた。願ってもない提案に、慧海はすぐに承諾した。