語学の研究
サラット居士の立派な別荘は、アッサムで起きた大地震の被害を受けて工事中だった。
別荘に泊まった慧海は翌日、サラット居士とモンゴルの老僧を訪ねた。年は78歳、名はセーラブ・ギャムツォ(慧海)といい、彼は同じ名の慧海を喜んで迎えた。慧海はそこで初めてチベット語のアルファベットを教わり、それから1カ月、15キロほどの道を歩いてチベット語を学びに通った。
サラット居士は慧海に「ここでもチベット語は十分学べるのだからチベット行きはもうよしなさい」とすすめた。「サラット居士は行かれたではないですか」と慧海が返すと、居士は「今は鎖国が完全になり事情が違う。今はとても通行券を得られない」という。
慧海には考えがあった。チベット語の俗語を学ぶことが、入国には必要不可欠であり、俗語を話せれば現地人として振る舞うこともできる。「俗語を学ぶ世話をしてほしい」と懇願すると、諦めたサラット居士は、ラマ・シャブズン師を紹介してくれた。
シャブズン師は別荘から下った所の二軒家に一家で移り住み、慧海もそこに暮らしてチベットの俗語を教わることになった。さらに、ダージリン官立学校のチベット語の教頭にも学ぶ機会を得た。
学費は自腹だったが、食費などは全てサラット居士が立て替えてくれ、慧海がいくらお礼をするといっても受け取ってもらえなかった。ダージリンに着いた時の慧海の所持金はわずか300円、それでも1年半を過ごすことができた。もし食費を出していたら半年ほどしか過ごせなかっただろう。
昼は学校でチベット語を研究し、夜は家で俗語を学ぶ。翌朝も食事をしながら学ぶ。慧海の語学レベルはみるみる上がった。外国語を学ぶにはその国の人と暮らすべしというのは本当のことだろう。日に数時間、家庭教師を呼んだところでこうはいかない。
男よりも女、女よりも子どもが、よい教師になる。少しでも発音が違えば指摘し、ただしてくれる。慧海が一生懸命に口の開き方や舌の使い方をまねするが、なかなかうまくいかずに笑われる。その経験が発音を磨いてくれた。一通りの言葉が話せるようになるのにわずか6、7カ月で済み、もはや英語よりも話しやすくなった。
言葉が分かればチベットの事情を知りたくなる。話し好きのラマ・シャブズン師は得意になって、自分の苦労話を聞かせてくれた。
師はセンチェン・ドルジェチャン(大獅子尊者)の第一弟子である。尊者はダライラマに次ぐチベット第二の法王パンチェン・ラマの教師をしていた人物だ。
この尊者は、大変学問に優れた人で、サラット居士もチベットでわずかな間、仏教を教わったという。だがサラット居士が英領インド政府の命を受けてチベットを内偵に来ていたことが発覚し、尊者を含め居士に関わった人々は殺されてしまったという。それを聞いて慧海はひどく胸が痛んだ。