兄弟喧嘩
翌日は雪のため泊まり込みになり、慧海はその翌9月15日に東の山を越えて頂上に着いた。
巡礼者は「もうここでお別れだ」とマンリー雪峰に礼拝し、慧海もならった。遠く山と海に隔てられたこの地へ、幾多の苦難を犯してやってきた。ここで別れかと思うと慧海は胸を打たれた。
そこからさらに山を越え、ポンリー寺のテントの集落にたどり着き、慧海は偵察がてら乞食をした。
翌日も巡礼者たちは狩猟に出かけた。慧海がテントで法華経を読んでいると、三人兄弟の兄の女房と娘が外で話している。女房は娘に「慧海がお前の婿にならないならば、殺して食い物にする。夫もとても怒っているのだから一緒になれ」と話していた。
慧海は仰天したが、しかし、もしここで殺されるならめでたいことだと決心した。
翌日、山の端につくと建物が見えた。トクチェン・ターサムという駅だ。慧海が駅に乞食に行き、戻ってくるとテントには娘のほかは皆、狩猟に出かけていた。これは今晩にも、料理されるかもしれない。
それでも何かの縁があってこの娘に出会ったのだから、慧海は説法をすることにした。娘は親切にキノコをくれたので、食事を取り、それから法華経を読もうとすると、娘が制して、気の毒そうに慧海殺害の件を打ち明けた。
慧海は「おまえと一緒にならず、兄弟たちに殺されるのは実に結構だ。極楽浄土のかなたからお前たちが安楽に暮らせるように護ってやろう」と返し、娘はいろいろと説得を試みたが慧海に論破された。
4時頃、狩猟から帰ってきた三人兄弟が娘に「こいつめ、男に食らいついていろんなことを話してやがる」と冷やかした。すると、娘の親が怒って「おれの娘がどうしようがお前たちには関係ない」と兄弟喧嘩が始まった。
喧嘩は激しくなり、お前はどこそこで泥棒して人を殺したの、チベット政府の金を盗もうとしたが逃げただの口汚くののしり、しまいには怒った弟が兄をぶんなぐって投石する始末。弟を押さえようとした慧海もげんこつで殴り倒され、娘と女房は泣き出し、大騒ぎになった。




