美人の本体
テントから出てきた美人が犬を叱ると、犬はちりじりに逃げてしまった。
慧海は美人に一晩泊めてほしいと頼み、主人のラマに許可を取ってテントに入れてもらった。疲れた体には、極楽世界の蓮華に入るよりもすばらしい心地がして、3日も休養した。
道を尋ねると、ここから半日ほど馬で行けばキャンチュという川があり、その川を渡るにはさらに2日後でなければならないということで、また休養した。
出発の前夜、慧海は遊牧民30人ばかりに請われて説教した。チベット仏教のありがたい説話などを語り、三帰五戒を授けると、それぞれが布施をした。ある娘は身に着けていた珊瑚の飾りを差し出したので、慧海はいったん受け取り、志は確かに受けたと言って娘に返した。娘は「それでは何もあげられない」と、首飾りについていた宝石一つをよこすので、受け取ることにした。
翌日、白いテントの主人が干しぶどう、桃、なつめなどを持って、慧海が世話になっているテントに訪れた。ここのテントの主人と品物をやりとりし、羊の毛やバターと交換していった。
白いテントの主人はラタークの商人で、かたことのチベット語を話す熱心な仏教徒だった。慧海にいろいろ質問するので答えてやると、「今日の昼はここで食べずに私の白いテントにおいで下さい」と言い、干しぶどうなどをたくさんくれ、ごちそうしてくれた。商人は明日、川を渡るというので一緒に行く約束をした。
慧海が商人のテントから戻ると、テントから諍いの声が聞こえた。慧海が世話になっているテントの主人は、アルチュ・ツルグーという僧侶だ。新教派なので、肉食妻帯はしないはずだったが、どういう訳か美人を女房にしていた。
ラマは慈悲深く寛大で、財産にも余裕がある。幸せそうで、結構な暮らしぶりのように見えた。だが、慧海がテントの様子を見ると、菩薩のような美人の妻が、真っ赤になってラマの悪口を言っていた。
よその腐れ女がどうとか、あの女にいらぬものをやるとか、自分の親類には何もくれないとか、美人が狂ったように言い立てるので、耳を塞ぎたくなる。温和なラマは黙っているが、慧海に気付いて、美人を殴るまねをして見せた。すると大変、美人は「さあ殺せ」とさらにわめき立てた。
慧海は美人をなだめすかして眠らせた。喧嘩になるのでラマには、商人の白いテントに行ってもらって事なきを得た。
僧侶であっても、女房を持つとこれほどの難儀を味わうのか。慧海は彼らを心底、気の毒に思った。




