山中の艱難
7月7日、慧海は岩窟の主に習って靴を修理し、翌8日、ゲロン・リンボチェ尊者からもらった食料で35キロほどになった荷物を担いで旅立った。
昼食を取ってから、川を渡ることにした。靴を脱ぎ、着物の裾を上げて川に入るが、水が信じられないほど冷たい。150メートルもあるこの川を渡るのは危険だと考えているそばから冷たさが体に回ってくる。これは死ぬ。
そこでいったん岸に戻り、チョウジ油を全身にぬってマッサージして体を温め、それから杖2本を頼りになんとか川を渡り切った。
川はかなりの急流で、深さは腰くらいまであり、向こう岸に渡った時は彼岸にたどり着いたような気さえした。
ようやく体が温まり、立ち上がったものの、足がだるくて前に進めなかった。寒いのに脇汗をかく。荷物も重くて苦しいので、二つに分けて杖にくくりつけ、天秤棒のようにしたが、今度は肩が痛い。あれこれやりながら、ようやく800メートルほど山を登り、2キロほど下って川のほとりに着いた。
慧海はもう一歩も動けず、ここで野宿することにした。荷物を置いて、チベット服の裾を袋状にしてヤクや野馬の糞を集め、石を並べた周りを塀のように囲む。そこに、乾燥した糞を粉にして真ん中に置き、火打ち石を使って火をおこした。
火が付いたら水を汲みに行き、湯を沸かす。沸騰してから茶を入れ、天然の炭酸水を入れて2時間ほど煮る。その中にバターと塩を入れて飲んだ。
それから火は砂を掛けて埋め火にした。火をたき続けるとスノー・レオパルド(シク)などの猛獣よけになるが、夜盗に狙われやすくなるからだ。翌日まで火があれば、凍えて眠れないということもない。
寒天に輝く月が川面に映っている。せせらぎと獣の声に慰められ「チベットの高峰ヶ原に出る月は 天津御国の君とこそ思へ」と詠んで横になった。 が、寒くてやはり寝られない。
そんな時、慧海は座禅をする。
そのうち夜が明け、凍っている川から水を汲み、残り火で温め、ぬるま湯と干しぶどうを食べて出発した。
さて、ルートは川に沿って、上るのだったか、下るのだったかと慧海は頭をひねる。見れば登りは実に高い山だ。下りだろうと思って慧海は進むが、どれだけ行っても次の目印の、仏が彫ってある大岩は見つからなかった。
見つかるはずはないのだ。登りが正解だったのだから。