チベット国境に入る
慧海は苦しくてたまらず雪の上に寝てしまいたくなったが、それをすると死ぬというのでポーターに引っ張られて進んだ。このつらさはあとから思えば、ダウラギリを越えるのに比べればまだましだった。
山肌の一部には、雪崩によって、雪と岩が持って行かれたところがある。砂にあおられ谷に落ちないようストックを使って渡った。
平坦な岩場に出たところで、もうそこで倒れてしまいたくなった。もう少し下ると水場があるという。が、もう動けない。ポーターが水を汲んで持ってきてくれ、ようやく気分が晴れたので、星と雪明かりを頼りに5キロほど崖のような坂道を降り、サンダー村に着いた。
この村は一年のうち9カ月は雪に閉ざされ行き来ができない。この村ではターウという蕎麦よりひどいものを年に一度だけ食べる。こんなところによく人が住むものだ。慧海は疲れているのに、精神の高ぶりを抑え切れなかった。
村から西北に4キロほど進むとまた砂地の坂となった。ここは昨年も巡礼者が滑落死したという。坂を過ぎ、だるまが座禅するような雪峰を通り、谷間に降りると、ヒノキの古木が美しかった。そして川沿いに西南に登ると昼に、ターシータンという美しい渓谷に着いた。
猛獣の住む山も、落ちれば死ぬ谷も越えたが、道に迷うことはなかった。谷間には高山植物や薬草もあり、ジャコウジカも住んでいた。その夜は雪山の洞窟に泊まり、ターシンラという大きな雪山の坂に至った。
が、さすがに寒くて耐えられない。苦しくて荷物を背負えぬほどになった。
ただ景色は良い。辺りにそびえる雪峰は宇宙の真美を現わし、その東南に泰然としてそびえるのはダウラギリであった。峰はまるで毘盧遮那仏が虚空にいらっしゃるような形で、周囲の峰々は菩薩のようだ。
慧海が雄大な景色に見とれていると、やはりポーターが「長くここにいると死ぬので早くおりましょう」と手を引く。15キロほど山を下り、この日も洞窟に泊まったが寒い。「ヒマラヤの 雪の岩間に宿りては やまとに上る月をしぞ思ふ」と詠む。
6月20日、また恐ろしい山に登った。この辺には灰色の斑紋のある「ナー」という鹿がおり、200,300匹も群がっている。山の中へ進むと山ヤク、雪豹とか山犬もいた。動物の骨や凍え死んだ人の死骸もあるが、頭の皿と足の骨だけはない。これはチベットの仏具にするため人が骨を持ち去るからだ。慧海も、己がいつこうして果てるか分からないと、先人を弔うのだった。
慧海は23日、トルボ村に着いた。ここは古代チベットのポン教を信仰する村だ。それから山の中を1週間ほど進んだ。食料も少なくなってきたのでポーターをここで帰すことにした。
慧海は、これからダウラギリ山中の桃源郷へ行くと告げると、ポーターは「あんな所へは仏様か菩薩でなければ行けやしません」と引き留め、それが聞き入れられないと分かると涙ながらに立ち去った。30キロの荷物はこれから慧海自身が運ばなくてはならない。
ポーターを見送った慧海はもちろん桃源郷には行かず、ただ磁石を頼りに北へ北へと山中を進んだ。ポーターと別れてから3日、ダウラギリ北方の雪峰を踏破した。
そして、いよいよチベットとネパールの国境である雪山の頂上を踏んだ。慧海は石の上に荷物を下ろし、一服した。
南にはダウラギリの高雪峰が虚空にそびえ、北はチベット高原の山々が波を打ったように見えた。慧海はブッダガヤの霊場で誓いを立て、国境に無事に着いたことを感慨深く思い出した。明治30年6月に日本を出て、ここまでちょうど3年かかったのである。
慧海はここで麦焦がしの粉に雪とバターを加えてこね、塩と唐辛子を付けて食べた。極楽の食べ物もこれには及ぶまいと思う程うまかった。